第82話 外縁
塔から離れた日の午後、先頭を歩く案内役が片手を上げた。合図は列の後ろまで順に伝わり、荷を背負った者たちが木陰で足を止める。
少し先で、低い枝が不自然に揺れていた。風は別の方から吹いている。幹の間を覗き込んだノンノより先に、エルディアスが獣の息遣いを聞き取った。
「右に一頭。まだこっちを見てない」
近くにいた護衛へ知らせると、責任者が後ろの荷を下げさせた。森に入ってから魔獣の気配は何度かあったが、これほど近くに姿を見せたのは初めてだった。落ち葉を押し分けて現れたのは鎧猪だ。灰褐色の巨体の頭から背にかけて、厚い板を幾重にも重ねたような外皮が覆っている。顔の前へ湾曲した二本の牙を向け、二つに割れた蹄で土を掻いた。エルディアスは以前、あの外皮に刃も術式も通らなかったことを覚えている。狙うなら首の下か、脚の内側だ。
護衛の二人が前に出る。ノンノも背負い袋を下ろしかけたが、責任者の方を見て手を止めた。
「ニペクを使ってもいいですか。相手を止められるか、試したいです」
「離れた位置からやれるか」
「はい。効かなければすぐに伝えます」
責任者は獣と護衛の間合いを見てから頷いた。隊はすでに戦える者を前へ出し、荷を持つ者を後方へ集めている。ノンノはリュシアの隣で古い魔導書を開き、掌を紙面に添えた。
淡い光から現れたニペクが、肩の近くで翅を開く。ノンノが指した方へ飛んでいった蝶は、枝の陰を使って鎧猪の側面へ回る。頭と背を覆う外皮を避け、露出した首の下を横切ると、陽に紛れるほど細かな虹色の鱗粉がそこへ落ちた。
鎧猪が鼻を鳴らして振り向いた。ニペクを追って駆け出したものの、一度勢いがつくと急には曲がれず、蝶の通った脇をほぼ真っ直ぐに突き抜ける。前にあった細木が頭の外皮に打たれ、鈍い音を立てて折れた。ニペクはすでに枝の高さへ上がっている。
「まだです」
ノンノが告げる。言い終えるより早く、走り抜けた鎧猪が足を止めた。荒い息を吐いているが、次の突進には移らない。割れた蹄が地面を掻き、ニペクの飛ぶ方へゆっくり身体を向けた。
「……入りました。そこで止まって」
鎧猪は二つに割れた蹄で地面を一度掻いたものの、その場を動かなかった。護衛の一人が驚いて剣を下ろしかけるのを、エルディアスが手で制する。使役できたことと、安全になったことは違う。ノンノ自身もそれを分かっているらしく、獣を近くへ呼ぼうとはしなかった。
「少し、離しておきます」
ニペクを介した指示で、鎧猪が隊の進路から外れていく。細い木の間では肩の外皮が幹を擦り、振り向けば姿が見える程度の位置で太い前脚を折った。護衛がその場を監視する間に、一団は安全な方へ少し移動した。
ノンノも歩き出そうとしたところで、魔導書に触れている指を止める。
「どうした?」
「鎧猪も使役できました。でも、岩牙犬の時より、オドがずっと速く減っています」
ノンノは伏せた鎧猪へ目を向けた。魔導書へ流しているオドの量は、使役を始めてから明らかに増えていた。
「獣が大きいからか?」
「大きさのせいかもしれません。岩牙犬と同じつもりで続けたら、すぐにオドが足りなくなりそうです」
「分かった。ここで解いてくれ。効果が切れるまで待つ必要はない」
責任者が応じた。ノンノは一度だけ頷き、獣が伏せている位置と、そこから隊までの距離を確かめる。
「ニペク、戻って。あの子は、もう追わなくていいです」
蝶が戻るのを待って魔導書を閉じる。獣の動きを見ていた護衛が、合図に合わせて仲間と位置を変えた。使役が途切れたあとも獣はしばらく伏せたままだったが、やがて鼻先を上げると、こちらとは反対の林の奥へ歩き去った。
ノンノは肩を落とし、小さく息を吐いた。
「第二層でも、ニペクは効くんですね」
「ああ。ただ、今の大きさでもそれなら、もっと大きい相手に無理はするな」
「はい。戦いの途中で急に切れたら、近くにいる人が危ないですから」
その返事は、昨夜までのノンノなら口にしなかったかもしれない。エルディアスは魔導書をしまうのを見届けてから、再び先頭の方へ目を向けた。
隊が進み始めても、後方の護衛はしばらく鎧猪の去った方を見ていた。頭と背の外皮には、エルディアスたちも以前苦労させられている。使役が切れた直後にこちらへ向き直られれば、荷を抱えた一団では横へ避ける余地が少なかった。
「さっきは止められたけど、次も効くと決めて動くなよ」
エルディアスが言うと、ノンノは魔導書の留め具を確かめながら頷いた。
「分かってます。わたしがニペクを出してる間も、護衛の人たちはずっと鎧猪を見てました」
「そういうことだ。最初から全員で備えるなら、使えた時はその分だけ余裕ができる」
「……エルさんが言うと、役に立てたって言われてるのか、まだ信用されてないのか分かりにくいです」
「両方だ」
ノンノが顔をしかめると、隣を歩くリュシアが笑いを堪えた。エルディアスもそれ以上は言わなかった。
午後には細い流れを越えた。隊の先頭が足を置ける石を探し、荷を背負った者から一人ずつ渡る。早く向こうへ行った者が荷を受け取る間は後列も足を止め、最後の一人が渡った時には陽がかなり傾いていた。水を得られる場所が近くにあると分かり、責任者はそこで一度目の野営を決めた。
ノンノは朝に想像していたほど距離を進めなかったことが気になったらしく、休んでいる間に地図を覗き込んだ。責任者は今日越えた流れを記録へ加え、目印にした木と、荷を持って渡れる場所を線で結ぶ。次に同じ経路を使う者なら、ここで迷わずに済む。
「今日はあまり進んでないように見えましたけど、道は残るんですね」
「そうだな。俺たちが戻る時にも使える」
エルディアスが答えると、ノンノは地図から顔を上げた。遠くへ進むことばかり考えていたらしく、帰りもこの森を通るのだということに、そこで初めて思い至ったようだった。
◇
翌朝、ノンノは最初の戦いのことを話題にしなかった。出発前に荷物を持ち上げて肩紐を締め直し、リュシアに顔色を見られると、昨夜は眠れたと答えた。
進むにつれて、魔獣と出会う回数は増えた。木の根元から現れたのは、樹皮に似た褐色の翅を持つ大きな甲虫だった。落ち葉を押し上げながら列へ寄ってきたが、護衛が槍の柄で進路を塞ぐと、硬い脚で土を掻いて倒木の下へ潜った。昼前には、青黒い毛と長い耳を持つ犬型の魔獣が二頭、横手から走り込んできた。エルディアスが風の術式で進路を塞ぐと、一頭は低く身を伏せ、もう一頭は木の裏を回って荷を持つ者へ向かおうとした。地面の状態が悪く、荷を持った者が踏み外せばそれだけで列が乱れる。リュシアは先頭の剣士が引きつけた一頭の横へ回り込み、振り向くより早く前脚を斬って動きを止めた。残る一頭も護衛が荷から引き離し、短い戦闘で片がついた。
ノンノがニペクを出したのは、午後になって鎧猪が一頭、一団の後ろを追い始めた時だった。昨日の個体と同じように灰褐色の外皮と前へ湾曲した牙を持つが、肩の高さはノンノの腰ほどしかない。餌を探していたのか、鼻先を地面へ寄せながら足跡を辿ってくる。ノンノは距離を保ってニペクを背後から近づけ、鱗粉が届いてからその動きを確かめた。鎧猪が顔を上げ、指示に従って林の横手へ逸れていくまで、護衛も列の後方を離れなかった。
「昨日ほど重くありません」
ノンノが魔導書を閉じて言った。
「大きさで違う、という見方はできそうですね。でも、ほかにも理由があるかもしれません」
リュシアは離れていく獣を見ながら答えた。同じ鎧猪でも個体差や使役した時の状態がある。二頭だけで、体の大きさが原因と決めるのは早い。ノンノも頷き、今の感触を忘れないうちに書き留めた。使役が切れるまでの時間を無理に測ろうとはしなかった。
その日の戦闘はいずれも短く済んだが、足を止めるたびに歩ける距離は減っていく。犬型の魔獣に追われて荷の列が揺れた時には、転びかけた者を別の隊員が支えた。怪我人は出なかったものの、その後は護衛を前後だけでなく荷の脇にもつけ、幅の狭いところでは一団の長さを詰めた。慎重になった分、昨日より歩みは遅い。
日暮れ前、責任者は低い岩が幾つか並ぶ場所で二度目の野営を決めた。林の奥から見通せる方向が限られるよう荷を置き、岩の間に寝る場所を作る。ノンノが薪を集めようとすると、見張りの一人に遠くまで行かないよう声を掛けられた。戻ってきたノンノは拾った枝を置き、見張りに明日の道を尋ねた。
「この先は、もっと歩きにくいですか?」
「木は減ると聞いている。ただ、俺もそこから先を歩いたわけじゃない。明日着いたところを見て決めるさ」
「昨日も今日も、着いてから考えることばかりですね」
「そういう調査だ。道が全部分かっているなら、こんな人数で地図を持って来ない」
ノンノは少し考えてから頷いた。昨日の自分なら、森の外の街へどのくらいで着くかを聞いていたところだろう。今は明日の足場をどう見るかに関心が移っている。
夜の見張りの組を割り振り、灯りを小さくして食事を取る。ノンノは椀を抱えたまま、向かいのエルディアスを見た。
「第一層の討伐より、ずっと歩いてる方が疲れます。戦ってる時間は短いのに」
「荷を背負って二日歩いたからな。明日も同じだけ歩くつもりで食べておけ」
「食べてますよ。さっきから、わたしのお椀ばかり見てません?」
「歩けるかどうか見てるんだ」
「それなら大丈夫です。リュシアさんにもちゃんと言ってます。……最初は、二人と一緒に来られるだけで嬉しかったんですけど、行った先で倒れたら一緒に来た意味がないですから」
エルディアスは返す言葉を探す間、火の向こうにいるリュシアを見た。彼女は話を聞いていたらしく、ノンノの椀へ視線を移してから微笑む。
「なら、明日の水の残りも出発前に確かめましょう。今日は途中で暑くなりましたし、飲む量を昨日のままで考えない方がよさそうです」
「はい。わたしの分は、あとで一緒に見てもらえますか?」
ノンノが自分から頼んだので、リュシアは少しだけ驚いた顔をした。それでもすぐ頷き、食事が終わったら確認しようと答える。
森の奥では、夜になっても虫の声が絶えなかった。遠い枝が折れるたびに見張りがそちらへ顔を向ける。一度だけ、荷の外側で落ち葉を踏む重い音が続き、休んでいた者も身を起こした。見張りが灯りを向けると、木々の間で何かの影が止まる。護衛が二人で位置を変え、寝ている者とその影の間に立った。
エルディアスも杖を取ったが、影はそれ以上近づいてこなかった。やがて足音が遠ざかり、虫の声だけが戻る。どんな魔獣だったかを確かめるために暗い森へ追いかける者はいない。見張りが次の組へ音のした方角を伝え、交代してからもそこを注意していた。夜が明けるまで、野営地に魔獣が入ってくることはなかった。
◇
三日目の昼前、木々の間隔が急に広がった。
上を塞いでいた葉が減り、歩く者の肩へ直接陽が当たる。地面はまだ土で、ところどころに草も残っているが、根の張った湿った道は少なくなった。風が運んでくるのも濡れた葉の匂いではなく、乾いた土と熱を帯びた空気だった。
ノンノは襟元へ指を入れ、肌に触れる布を少し浮かせた。
「暑いですね。森の中なのに」
「もう端に近いんだろう。日陰も減った」
「砂漠だと、もっと暑くなるんでしょうか」
「実際に出てみないと分からない。今いる場所も、まだ砂漠じゃないからな」
答えながら、エルディアスは先の地面を見た。背の低い木がまばらに立ち、その間に乾いた草が広がっている。遠くに高い木々は見えず、かといって砂地が続いているわけでもない。昨日までの森と、その先にあるという土地の間に、幅のある場所が挟まっているようだった。
そのまま進むと、調査班が地面へ打った短い杭が途切れた。先行班がつけた別の印を探すため、責任者は隊を木陰へ待機させ、案内役と護衛を前へ出す。見通しがよい場所ほど、離れた影が動いた時には距離を量りにくい。エルディアスは茂みの少ない地面へ風を流し、戻ってくる音と臭いを確かめた。乾いた草が擦れる音は聞こえるが、近くに魔獣が潜んでいる気配はない。
待っている間にも陽は背中へ当たり続けた。森の深い場所では水を飲む時に立ち止まっていたノンノが、今は歩き出す前に水袋を手に取る。本人も変化に気づいたらしく、一口飲んでから蓋を閉じた。
「さっきから、喉が渇く前に飲みたくなります。中身が減るの、早いですね」
「ここはまだ木があるのに、それですからね。残りは教えてください。足りなければ隊の方とも相談します」
「はい。昨日より多めに残しておいたので、今は大丈夫です」
リュシアが水袋の重さを見て頷いたところで、前へ出ていた護衛から呼び声が届いた。印を見つけたのかと思ったが、先頭の者たちは動かない。代わりに、向こうから人の足音が近づいてきた。
先頭が立ち止まる。倒れた木の陰から二人の男が出てきた。一人は王都の調査班の装いで、もう一人は大きな水袋を肩へ掛けている。責任者が手を上げると、向こうも同じ合図を返した。
「第一陣から連絡だ。迎えに来たのか?」
「こちらへ進むと聞いたので、道を伝えに来ました。ラウル殿たちは先の野営地にいます。ガルム殿とセルマ殿も一緒です」
エルディアスの隣で、リュシアが僅かに足を止めた。二人が今も見つからない以上、ラウルたちが手掛かりを求めて先へ進んでいることは分かっていたが、こうして居場所を聞くのは久しぶりだった。
「全員、無事か?」
「こちらへ来た三人は。昨日の夕方に会っています。魔獣は出ましたが、野営地まで支障なく進めました」
男はそれ以上を勝手に付け足さず、持ってきた地図を開いた。森の中で二手に分かれていた経路が、今いる外縁の近くで合流している。その先の野営地は、ここから少し進んだ草木の少ない場所に印があった。
「向こうの水場は使えますか?」
責任者が尋ねる。
「少量なら。ただ、人数分を一度に汲むには足りません。ここで補給してから来てください。見張りに適した場所は確保していますが、遮る木が少ないので昼間は日差しが強いです」
説明を受けた責任者が、隊に水袋を確認させる。ノンノも自分の残りを報告し、ほかの者が水を汲む間、岩陰に腰を下ろした。
「ラウルさんたちと、もうすぐ会うんですね」
「そうだな」
「前にエルさんが話していた人たちですよね。森の村に残って、仲間を探してるって」
「ああ。会えば、今どこまで分かったか聞ける」
リュシアはエルディアスを見たが、何も言わなかった。ノンノにとっては初めて会う人たちであり、自分たちには、伝えられないことを抱えたまま顔を合わせる相手でもある。エルディアスも視線だけを返し、先に立ち上がった。
水を補い終えると、第一陣から来た二人が道案内のため先頭へ加わった。木々はさらに低く、間隔も広くなっている。三日前に塔を出た時には見えなかった遠さまで、今は地面を見通せた。
砂漠はまだ見えない。まずはラウルたちの待つ野営地へ向かって、一団は乾いた草の間を進んだ。




