第80話 同行
レナートと話してから、三日が過ぎた。
その朝、南の修道院へ着いた時には、厨房からすでに湯気が上がっていた。
裏口の脇には、その日に使う分だけ薪が積まれている。井戸から汲んだ水も大きな桶へ移され、壁際には洗い終えた野菜が籠ごと並べられていた。開け放たれた窓から、煮え始めた豆と野菜の匂いが朝の空気へ流れ出している。
食堂では、年長の子供たちが長机を拭いていた。昨日までは誰かに言われてから動いていた小さな子供も、今日は器を抱えて一つずつ卓へ並べている。
リュシアが厨房へ顔を出しても、作業の手が止まることはなかった。
「おはようございます」
「おはよう。今日は早いね」
鍋を混ぜていたマルタが振り向いた。
リュシアは厨房の中を見回してから、調理台へ近づく。
「何か手伝いますか?」
「いいよ。見ての通り、今日は手が足りてる」
言われて見れば、竈の前にも調理台の前にもすでに人がいる。
マルタが以前話していた昔の仲間らしい女が火加減を見ながら鍋を預かり、反対側では修道女と年長の少女が根菜を切り分けていた。壁際では少年二人が麦を量り終えたところで、袋の口を結び直している。
「なら、今日は様子を見るだけにします」
「そうしな。おかしなことしてたら、その時だけ止めてくれ」
「分かりました」
そう答えたものの、リュシアはすぐには厨房から出なかった。
鍋の中を覗き込み、使われている材料を順に確認する。
「今日は魚を変えたのですか?」
「ああ。いつもの小魚が高かったからね。朝、市場で川魚が安く出てたんだ」
「骨は?」
「取ったよ。あれは煮込んでも残るからね。身は最後に戻す。最初から入れたら崩れて何が何だか分からなくなるだろ」
リュシアが少し驚いたように目を上げた。
「はい。その方がよいと思います」
「豆も昨日のうちから水に入れてある。今日は魚が多いから、麦は少し減らした」
「香りのある野菜は使わないのですか?」
「高かったからやめたよ。代わりに修道院の畑に残ってた葉を少し入れた。味が薄かったら塩を増やすんじゃなくて、魚を煮た汁を足す」
マルタはそう言って、鍋の中を木匙でゆっくりかき混ぜた。
最初にリュシアが教えた料理とは、もう材料も作り方も少しずつ変わっている。だが、その日の市場で安く手に入るものを選び、それを人数分の食事へどう組み立てるかという考え方は残っていた。
決まった料理を覚えさせることより、そちらを伝えたかったのだと、エルディアスにも分かる。
「味を見ますか?」
修道女が小さな木椀を差し出した。
リュシアは受け取り、一口だけ含んだ。すぐには答えず、鍋へもう一度目を向ける。
「このままで大丈夫だと思います。もう少し煮れば豆からも味が出ますし、最後に魚を戻せばまた変わります」
「ほらね」
マルタが隣の女を見る。
「昨日も同じこと言ったんだよ。まだ途中なのに塩を足そうとするからさ」
「少し薄かったんですよ」
「出来上がって薄かったら足せばいい。先に濃くしたら戻せないだろ」
「分かってますって」
「昨日もそう言ってた」
「昨日分かったんです」
二人のやり取りに修道女が笑った。
リュシアも何か言おうとしたが、結局、口を挟まずに椀を返した。
すでに自分たちで考えている。
食材が変われば、前と同じには作れない。その時どうすればよいのかを、誰かが答えを出すのを待つのではなく、自分たちで相談するようになっていた。
年長の子供たちも同じだった。
包丁や火を扱わせるにはまだ早い子供には、水を運ぶ、器を並べる、食後の卓を拭くといった仕事が回されている。最初の頃のように、誰か一人がすべてを指示しているわけではない。
リュシアは食堂まで一度見渡してから、厨房へ戻った。
「明日は、私は来なくても大丈夫そうですね」
「明日どころか、毎日来なくていいよ」
マルタはあっさり言った。
「何か新しいことを教えてもらう時か、こっちでどうにもならなくなった時に来てくれればいい。あたしらも交代で来るようにしてるし、修道院の人たちももうだいぶ分かってきた」
「でも、まだ始めてそれほど経っていません」
「だからだよ」
マルタは鍋から木匙を上げ、縁へ軽く当てて汁を落とした。
「毎日あんたが横にいたら、いつまでもあんたがいるつもりでやっちまう。自分らでやって、失敗するところまでやらないと身につかないよ」
「食べられないほど失敗するのは困ります」
「そこまで行く前には止めるさ」
リュシアが少し笑う。
「では、お願いします」
「任せな」
最初にここへ来た時には、限られた材料で毎日の食事を用意するだけでも手が足りていなかった。
今も食材が豊富になったわけではない。肉や魚が毎日十分に買えるわけでもなく、市場の値段によって使えるものは変わる。
それでも、その日の材料を選ぶ者がいて、調理する者がいて、それを手伝う者がいる。
少なくとも、リュシアが一日来なかっただけで以前の状態へ戻るようなことはなさそうだった。
「では、何かあればギルドへ連絡してください。私たちが街にいれば来ます」
「ああ。その時は遠慮なく呼ぶよ」
マルタが答え、リュシアの後ろにいた二人へ視線を向ける。
「今日はダンジョンかい?」
「はい。第一層です」
「なら、そっちに集中しな。こっちはこっちでやるから」
「分かりました」
三人が厨房を出ようとしたところで、背後からマルタの声が飛んだ。
「そこの麦、量り終わったなら袋を壁際へ戻しな!」
「今やろうと思ってた!」
「思ってるだけじゃ袋は動かないよ!」
食堂から子供たちの笑い声が上がる。
建物の外へ出たところで、ノンノが振り返った。
「マルタさん、すごいですね」
「ええ。私より、ああいう場所には向いているのかもしれません」
「そうか?」
エルディアスが言うと、リュシアがこちらを見る。
「何ですか?」
「お前が始めなかったら、マルタもここには来てないだろ」
「それはそうですけど」
「なら、それでいいんじゃないか」
リュシアは少しだけ考え、修道院をもう一度振り返った。
厨房の窓からは、まだ白い湯気が上がっている。
「……そうですね」
それだけ言って、前を向いた。
「では、ギルドへ行きましょう。ノンノが朝から討伐依頼を見たいと言っていましたから」
「今日はちゃんと討伐にしましょうね」
ノンノがすぐに念を押す。
「依頼を見てからだ」
「またそれ言うんですか」
「見る前に決める方がおかしいだろ」
「三日前も同じこと言いました」
「三日前も正しい」
ノンノが不満そうに耳を横へ倒した。
「リュシアさん」
「今回は私もノンノの味方です。第一層で無理のない依頼があれば、討伐にしましょう」
「二対一です」
「多数決で依頼を決めるな」
三人はそのまま北へ向かった。
◇
結局、その日はノンノの希望通り、第一層の討伐依頼を受けることになった。
対象は岩牙犬だった。
狼より一回り小さい程度の四足獣で、肩から背にかけて硬い灰色の毛が生えている。口元から覗く牙は名前の通り石のように太く、単体であれば第一層の魔物として特別に強い相手ではないものの、三頭以上で動く時は互いの位置を見ながら獲物を囲もうとする。
今回の依頼では、第一層の比較的浅い区画に五頭ほどが居着き、採取に入った冒険者を追うようになったらしい。
第一層へ入った直後、ノンノはいつものように少しだけ足を止めた。
壁際へ寄り、ゆっくり息を吸ってから水筒へ口をつける。
「大丈夫か」
「はい。少しだけ待ってください」
声に無理はない。
初めて第一層へ入った時には、顔色が変わり、その場にしゃがみ込むほどだった。それに比べれば、今は自分で変化に気づき、ひどくなる前に身体を休ませられるようになっている。
リュシアも急かさず隣で待った。
「今日は前より早そうですね」
「たぶん、もう大丈夫です」
「たぶん、ではなくて?」
「……もう少しだけ待ちます」
「はい」
ノンノは素直に壁へ背を預けたまま、もう一度深く息を吐いた。
以前なら、大丈夫だと言い張っていたところだ。
しばらくしてから自分で身体を起こし、足元を確かめるように二歩歩く。
「今度は本当に大丈夫です」
「なら行くぞ」
エルディアスが先へ進んだ。
依頼書に記された場所へ近づくにつれ、石床に残る爪痕が増えていった。壁際には灰色の硬い毛も引っ掛かっており、同じ場所を何度も通っていることが分かる。
通路は少し先で左右へ分かれていた。
右は比較的広く、そのまま奥へ続いている。左は幅が狭く、二人並べば互いの肩がぶつかりそうなほどだった。
エルディアスは足を止め、風の術式を薄く流す。
流した空気が右側の奥へ入り込み、獣の臭いを運んで戻ってきた。
「いるな」
リュシアが右手を鞘へ添える。
「何頭ですか?」
「四……いや、五頭」
エルディアスが答えると、ノンノは分岐の形を見回した。
以前なら、ここでどうするべきかを尋ねていたはずだった。
今は背負い袋を下ろし、自分から古い魔導書を取り出す。
「ニペクで一頭取ります」
エルディアスは口を挟まず続きを待った。
「一頭だけこっちまで出せれば、その子に残りを追わせます。広い方で囲まれるより、左の狭い通路へ入れた方が戦いやすいですよね?」
「ああ」
「じゃあ、それでやってみます」
留め具を外し、必要な頁を開く。
何度も繰り返した動作には、もう迷いがなかった。
ノンノが手のひらから魔力を流すと、紙面に淡い光が滲み、その光の中から蝶の姿をした精霊が浮かび上がる。
「ニペク。お願い」
ニペクはノンノの肩の近くを一度だけ回ると、右側の通路へ低く飛んでいった。
奥へは入りすぎない。
以前、一度だけ獲物へ正面から近づきすぎ、鱗粉を落とす前に叩き落とされたことがある。それ以来、ノンノは魔物の種類だけでなく、相手がニペクへどう反応するかも見るようになっていた。
しばらく待つ。
石床を爪が掻く音が聞こえた。
一頭の岩牙犬が姿を現す。
まだ三人には気づいていない。鼻を床へ近づけ、何かの臭いを追いながら群れから離れてきている。
ノンノはニペクを動かさなかった。
岩牙犬が分岐を越え、奥にいる仲間から十分に距離を取るまで待つ。
そこで初めて、ニペクを低く回り込ませた。
岩牙犬が羽音に気づき、顔を上げる。
視線がニペクを追った。
飛びかかろうと前脚へ力を入れるより早く、ニペクが頭上を横切る。
羽から細かな鱗粉が落ちた。
岩牙犬が頭を振る。
一度は牙を剥いたものの、数歩進んだところで動きが変わった。
警戒する仕草は残っている。
だが、ニペクへ向けていた敵意は薄れていた。
「入りました」
ノンノは短く告げた。
それだけで終わらない。
視線をニペクへ向け、使役した岩牙犬へ指示を送る。
「奥へ戻って。残りをこっちへ追って」
ニペクが岩牙犬の頭上を一度回った。
岩牙犬は、元来た通路へ戻っていく。
その間に、ノンノ自身は何も言われずに後ろへ下がった。
ニペクへ意識を向けたまま前へ残り、戦闘へ巻き込まれるようなこともなくなっている。
「左へ入れるんだったな」
エルディアスが確認する。
「はい。右側を通りにくくできますか?」
「それくらいなら」
杖の先を床へ向ける。
土の術式を走らせ、分岐の右側だけを僅かに隆起させた。完全に塞ぐ必要はない。走り込んできた獣が、無意識に通りやすい左側を選ぶ程度で十分だった。
奥から低い唸り声が響いた。
次いで、激しく爪が石を叩く。
「来ます」
リュシアが右手で鞘を押さえる。
一頭目が分岐へ飛び込んできた。
その後ろから二頭。
使役された仲間に追われ、三頭の岩牙犬がほとんど重なるように駆けてくる。
先頭の一頭がエルディアスたちへ気づき、身体を捻った。
だが、右には隆起した石床がある。
そのまま左の狭い通路へ入った。
リュシアの左手が動く。
鞘から抜けた刃が短く光り、跳びかかる寸前だった一頭目の首元を斜めに走った。
後ろにいた二頭目が倒れた仲間を避けようと壁際へ寄る。
狭い。
横へ回り込む余裕がない。
エルディアスが風を叩きつけると、岩牙犬の前脚が床から浮いた。
体勢を崩したところへリュシアが踏み込む。
二頭目が倒れる。
三頭目はそこで足を止め、後ろへ退こうとした。
しかし、背後には使役された岩牙犬がいた。
前へ出るか、後ろへ戻るか。
獣が迷った一瞬に、リュシアが間合いへ入る。
剣が走った。
三頭目が石床へ崩れる。
「もう一頭います」
ノンノの声が飛んだ。
右奥から、残っていた最後の一頭が姿を見せる。
仲間たちの臭いと血に気づいたのか、分岐の手前で足を止めた。低い姿勢のまま喉を鳴らし、こちらとの距離を詰めてこない。
「エルさん、右から回れますか?」
「行ける」
「じゃあ、この子を前へ出します」
使役した岩牙犬が前へ出た。
最後の一頭が戸惑ったように耳を伏せる。
同じ群れの仲間が自分へ向かってくる。
その注意が使役個体へ集中した間に、エルディアスは壁沿いに右へ回り込んだ。
最後の一頭がこちらへ気づく。
だが、向きを変えるより先に杖を振った。
足元の石床が崩れ、後脚が沈む。
体勢を失ったところへ使役個体が飛びかかり、首元へ噛みついた。
エルディアスはそこへ短い風刃を撃ち込んだ。
獣の身体から力が抜ける。
通路が静かになった。
残っているのは、ノンノが使役している一頭だけだった。
「終わりか?」
エルディアスが尋ねる。
ノンノはすぐには頷かなかった。
使役した岩牙犬へ目を向ける。
「この群れ、ここでずっと待ってたわけじゃないですよね」
「たぶんな」
「巣の場所、分かるかもしれません」
ノンノはニペクを介して指示を送る。
「戻って」
岩牙犬が歩き始めた。
三人でその後を追うと、分岐からそれほど離れていない岩壁の窪みに、獣の毛と小動物の骨、食べ残しが集まっている場所があった。
新しい足跡は五頭分。
依頼書に記載された数とも一致する。
ノンノは周囲を確認してから、ようやく使役している岩牙犬へ目を戻した。
「……これで全部みたいです」
依頼は群れの討伐だった。
鱗粉の効果が切れれば、この一頭も元へ戻る。
「お願いします」
リュシアが頷き、左手で剣を抜いた。
それで依頼は終わった。
帰路についてしばらくしたところで、エルディアスはノンノへ声を掛けた。
「今の、誰にも聞かなかったな」
「何がです?」
「一頭取って追わせるのも、最後に巣を探させるのも」
ノンノが少し得意そうに耳を立てた。
「毎回エルさんに聞いてたら、いつまで経っても自分で使えないでしょう?」
「そうだな」
「……それだけですか?」
「何が」
「ほかに何かないんですか」
エルディアスは少し考えた。
「ちゃんと使えてた」
ノンノの両耳が、はっきりと立った。
「最初からそう言ってください」
「聞かれたから言ったんだろ」
「そういうことじゃないです」
「どういうことだ」
「エルは褒めるのが下手なんですよ」
横を歩いていたリュシアが笑う。
「別に褒める必要はないだろ」
「ほら」
「ほら、って何だよ」
ノンノは満足したのか、それ以上は追及しなかった。
第一層へ入った直後に出ていた軽い不調も、帰りにはほとんど残っていない。歩調も二人に遅れず、ニペクをどう動かせば戦いやすくなるのかも自分で考えられるようになっている。
少なくとも、第一層で三人一緒に動くことには、すっかり慣れていた。
◇
冒険者ギルドへ着いた頃には、外は夕方になっていた。
西へ傾いた光が通りの建物を赤く染め、仕事を終えた者と、これから夜の仕事へ向かう者が入口を行き交っている。朝よりも広間の声は大きく、依頼を終えた冒険者が報酬を受け取ると、そのまま酒場側へ流れていく姿も多かった。
三人は討伐証明を提出し、受付の前で精算を待った。
「今日はちゃんと討伐でした」
ノンノが満足そうに言う。
「受ける前から決まってただろ」
「エルさんが採取を選ばなければ、です」
「条件のいい依頼があったら採取にしてた」
「やっぱり」
「でも、今日はこれでよかったと思いますよ」
リュシアが言った。
「ニペクの扱いも、もうだいぶ慣れましたし」
ノンノの耳が僅かに立つ。
「リュシアさんはちゃんと褒めてくれます」
「別に張り合ってないぞ」
「張り合ってください」
「何でだよ」
そんな話をしていると、受付の向こうで書類を整理していたミュリカが顔を上げた。
三人を見てから、一度手元の紙を確認する。
「エルさん、リュシアさん。精算が終わったら、少しお時間ありますか?」
「何かあった?」
「王都側の調査隊から、お二人に連絡が来ています」
三日前のレナートとの話が頭に浮かんだ。
リュシアも同じことを考えたのか、エルディアスを見る。
ノンノだけが事情を知らず、二人の顔を交互に見た。
精算を終えたあと、三人は受付脇にある相談用の卓へ移った。
ミュリカが持ってきたのは、王都側から届いた報告書の写しと一枚の地図だった。
地図には見覚えがある。
第二層の塔を基準に、森の中を通って村へ至る経路が引かれている。三日前にレナートが見せたものよりも書き込みが増え、村の先へ伸びた測量線も、森が途切れる場所まで明確になっていた。
「今日の昼頃、第二層から連絡員が戻りました」
ミュリカが言う。
「村で新しい動きがあったそうです」
「新しい動き?」
「これまで村にいなかった旅人が現れました」
エルディアスは地図から顔を上げた。
「どこから来た?」
「森の先からです」
ミュリカが地図の端を指す。
村からさらに伸びた線。その先に記された、森の終端。
「その旅人の話では、この先には砂漠が広がっているそうです」
「砂漠?」
ノンノが聞き返した。
「はい。森を抜けると、ほとんど木のない広い砂地になると。それから、さらに先へ進めば街があるそうです」
リュシアが地図へ少し身を寄せた。
「その旅人は、その街から来たのですか?」
「そう話しています。砂漠側の街を出て、森を越えて村まで来たそうです」
「何のために?」
「行商に近い旅をしているようですが、こちらへ届いた報告には詳しく書かれていません。ただ、少なくとも村人とは違って、森の外にも土地が続いていることを当然のように話しているそうです」
エルディアスは地図を見る。
三日前まで、測量線は森の終わりで止まっていた。
その先に何があるのか分からなかったからだ。
今、その空白に初めて具体的な情報が入った。
「旅人の話だけ?」
「今のところは。ただ、旅人が村へ来た方角と、調査班が確認していた森の終端は一致しています。それに、本人が実際にそこを通ってきていますから、王都側も確認する必要があると判断したようです」
「第三層だと?」
「そこまでは判断していません」
ミュリカは首を横へ振った。
「第二層が森の外まで続いているのか、どこかで階層が変わるのか、それとも全く別の仕組みなのか。今のところは分かっていないそうです」
その答えは、三日前にレナートが話していたことと変わらない。
分からないものを、先に決めない。
「ラウルたちは?」
エルディアスが尋ねる。
「すでに向かっています」
リュシアも顔を上げた。
「もうですか?」
「はい。ラウルさんたちは第二層に残っていましたから。旅人の話を確認したあと、王都の調査班の一部と一緒に先行したそうです。ガルムさんとセルマさんも同行しています」
当然と言えば当然だった。
三人は今も、ニルスとクラリスを探している。これまで確認できていなかった土地があると分かれば、そちらへ向かわない理由はない。
エルディアスには、その先をいくら探しても二人が見つからないことだけは分かっていた。
だが、それをラウルたちへ伝えることはできない。
「それで、俺たちへの連絡は?」
「明日の朝、第二陣が第二層へ入ります」
ミュリカが別の書類を差し出した。
「王都側から、お二人にもその部隊へ参加してほしいと依頼が来ています。まずは先行班との合流。その後、森の先を確認する予定です。実際に砂漠へ出られるのであれば、その周辺まで調査することになるそうです」
エルディアスは依頼書へ目を通した。
参加者として記されているのは、自分とリュシア。
支給される物資、報酬、現地での指揮系統も書かれている。どれほどの距離を進むことになるのか分からないため、携行食と水は通常より多めに準備することになっていた。
帰還予定日は空欄だった。
「受けます」
リュシアが言った。
迷う様子はなかった。
エルディアスも依頼書を置く。
「ああ。俺も行く」
「分かりました。では、お二人は参加で返答しておきます」
ミュリカが書類をまとめようとしたところで、リュシアが隣へ視線を向けた。
ノンノは黙っている。
普段なら何かしら話へ入ってくるところだが、今回は依頼書に自分の名前がないことを分かっているらしい。耳だけがこちらへ向いていた。
「ノンノは、どうなりますか?」
リュシアがミュリカへ尋ねた。
ノンノが顔を上げる。
「今回の依頼は、エルさんとリュシアさんを指定したものです」
「今は同じパーティーとして登録していますよね?」
「はい。ただ、王都側の調査任務ですので、通常の依頼とは扱いが違います。ノンノさんも同行するのであれば、追加の参加者として確認が必要になります」
「できないわけではないのですか?」
「できないとは書かれていません。最終的には第二陣の責任者が判断することになります」
ミュリカはそこでノンノを見る。
「ただ、まずは三人で話した方がよいと思います。第二層は第一層とは違いますし、今回はその先へどこまで進むのかも分かっていませんから」
「……はい」
ノンノは素直に頷いた。
「返事はいつまで?」
エルディアスが尋ねる。
「お二人については、参加ということで大丈夫です。ノンノさんの同行を希望されるのであれば、今夜中に知らせていただければ、明日の出発前に確認できるよう手配します」
「分かった」
三人はギルドを出た。
外へ出ると、日はかなり傾いていた。
通りには夕食を売る屋台が並び始め、焼いた肉と香草の匂いが風に混じっている。普段ならノンノが真っ先にそちらへ目を向けるところだったが、今日は一度も顔を上げなかった。
宿までの道を、三人ともそれほど話さずに歩いた。
◇
夕食を済ませたあと、エルディアスはリュシアとノンノの部屋へ入った。
二つの寝台と小さな卓、壁際には荷物を置くための棚がある。ノンノが来てから持ち物が増えたらしく、以前より床に空いている場所は少なくなっていた。
窓際には、ノンノが第一層へ持っていく小さな背負い袋が置かれている。
卓の上には、水差しと三つの杯。
エルディアスが椅子へ座り、リュシアは寝台の端へ腰を下ろした。
ノンノだけは立ったままだった。
「座れよ」
「はい」
言われて、ようやくもう一方の寝台へ腰を下ろす。
少しだけ沈黙が続いた。
最初に口を開いたのはノンノだった。
「二人は、明日行くんですよね」
「ああ」
「はい」
二人の返事がほぼ重なった。
ノンノは膝の上で両手を組む。
「わたしも行きたいです」
「俺は反対だ」
エルディアスが答えると、ノンノが顔を上げた。
すぐにそう返されるとは思っていなかったらしい。
「……まだ理由も言ってません」
「聞いても、たぶん変わらない」
「それでも聞いてください」
「なら聞く」
ノンノは一度口を閉じ、少し考えてから続けた。
「今、一緒に依頼を受けてるからです。それに、姉さんたちのことは今は待つしかありません。ラゼンからも返事は来ていないし、レムノアからもまだ何もないです。ここに残っていても、わたしが何かしたから早く返事が来るわけじゃありません」
「それはそうだな」
「だったら――」
「でも、それは第二層へ行く理由にはならない」
ノンノが言葉を止めた。
「今回は第一層の討伐依頼じゃない。王都の調査隊が、まだ何があるか分からない場所へ進む。その途中に第二層を通るんだ」
「分かっています」
「第一層に入るだけでも、まだ少し具合が悪くなるだろ」
「最初だけです。今は休めば動けます」
「第一層で慣れたからって、第二層でも同じとは限らない。あそこは第一層とは環境そのものが違う」
ノンノが何か言おうとしたが、エルディアスはそのまま続けた。
「それに、具合が悪くなった時に困るのはお前だけじゃない。途中で動けなくなれば、誰かがお前を連れて戻ることになる。場所によっては、すぐ戻れるとも限らない」
「……はい」
「ニペクが使えるから連れていく、って話にもならない。第一層じゃかなり扱えるようになった。でも、第二層の魔物にも鱗粉が効く保証はない。これから行く先に何がいるのかも分かってない」
ノンノは膝の上の手へ目を落とした。
今日の戦いでは、自分で考えてニペクを動かしていた。以前のように、一つ試すたびにエルディアスへ判断を求めることもなかった。
それでも、第一層で扱えるようになったことと、第二層へ連れていけることは別だった。
「だから、俺は反対だ」
エルディアスは言い切った。
部屋が静かになる。
ノンノはすぐには何も言わなかった。
やがて、隣にいるリュシアへ顔を向ける。
「リュシアさんは?」
「私ですか?」
「はい」
リュシアは少し考えたあと、ノンノを見る。
「エルの言っていることは分かります。私も、ノンノなら大丈夫だから連れていきましょう、とは言えません」
ノンノの耳が僅かに下がった。
「でも、私はノンノ自身がどうしたいのかは聞きたいです」
「……行きたいです」
「どうしてですか?」
先ほどよりも、ノンノは答えるまでに時間を掛けた。
「ここへ来てから、ずっと二人と一緒にいました。部屋はリュシアさんと一緒で、ギルドにも連れていってもらって、依頼も三人で受けるようになって……だから、二人がまたダンジョンへ行くのに、わたしだけここで待っているのは嫌です」
そこで少し間を置き、リュシアを見る。
「リュシアさんが行くなら、わたしも行きたいです」
「私が?」
「はい」
返事は早かった。
「もちろん、エルさんもいますけど」
「付け足したな」
「付け足してません」
「今、明らかに――」
「エル」
リュシアに止められた。
ノンノは少し頬を膨らませたが、すぐに表情を戻す。
「危ない場所なのは分かってます。第一層より危ないことも、ニペクが使えないかもしれないことも。でも、わたしも冒険者です。ずっと安全な依頼だけを受けているつもりはありません」
「それは今じゃなくてもいい」
「いつならいいんですか?」
エルディアスはすぐには答えなかった。
「第二層で具合が悪くなるかもしれないなら、行ってみないとずっと分からないままですよね」
「確かめるためだけに行く場所じゃない」
「分かってます。だから、駄目だったら戻ります」
「戻れる場所ならな」
「その時は誰かに迷惑を掛けるかもしれません。でも、それは……」
ノンノは言葉を探すように眉を寄せた。
「冒険者なら、誰だって同じじゃないですか。怪我をしたら誰かに助けてもらうこともあるし、逆にわたしが助けることもあると思います」
エルディアスは黙ってノンノを見る。
勢いだけで言っているわけではなかった。
「今日だって、前よりちゃんと動けました」
「ああ」
「ニペクも、自分で考えて使いました」
「ああ」
「水の術式が強くないのも分かっています。ニペクが一頭しか使役できないのも分かっています。それでも、何もできないわけじゃありません」
「それは否定してない」
「だったら、最初から駄目だって決めないでください」
ノンノはエルディアスから目を逸らさなかった。
しばらくして、リュシアが口を開いた。
「エル」
「何だ」
「私は、条件を決めればよいと思います」
「条件?」
「まず、王都の方が同行を認めること。それから、第二層へ入った時点でノンノの具合を確認します。第一層より明らかに悪ければ、その時点で戻る」
「本人が大丈夫だって言っても?」
「私が見ます」
リュシアはそう答えてから、ノンノへ向き直った。
「それでよいですか?」
「はい」
「私が無理だと思ったら、ノンノが大丈夫だと言っても戻りますよ」
「……分かりました」
「今の間は何ですか?」
「ちゃんと考えてから返事しただけです」
「そういうことにしておきます」
ノンノが少し不満そうに眉を寄せる。
エルディアスは椅子へ背を預けた。
「それだけじゃない」
二人がこちらを見る。
「第二層に入ってから先は、俺たち三人だけの依頼じゃない。調査隊の判断を優先する。勝手に離れない。ニペクを追って一人で動かない」
「はい」
「知らないものを見つけても、勝手に触らない」
「それは子供に言うやつじゃないですか?」
「お前ならやりそうだから言ってる」
「やりませんよ」
「市場じゃ知らない食べ物を見るとすぐ触るだろ」
「食べ物とダンジョンの変なものは違います!」
「それから」
エルディアスが続けると、ノンノが口を閉じた。
「姉かセヴランの名前を聞いても、一人で追うな」
今度はすぐに返事がなかった。
「砂漠の街にいるとは思ってないです」
「思ってなくても、名前を聞けば動くだろ」
「……一人では行きません」
「本当だな」
「はい」
それでも、エルディアスはすぐには頷かなかった。
ノンノを連れていく利点より、置いていく方が安全なのは変わらない。
今回の目的はノンノを鍛えることでも、ニペクを試すことでもない。王都の調査隊と共に、何があるのかさえ分からない場所へ進むための依頼だ。
だが、ノンノ自身は冒険者として同行を望んでいる。
第一層では、自分の役割を持ち始めた。ニペクに任せきりになるのではなく、周囲を見ながら三人の動きへ組み込むことも覚え始めている。
隣を見る。
――本当に連れていくつもりか。
――はい。ただ、無理なら戻します。
――本人が平気だって言っても?
――その時は私が決めます。
そこまで言うなら、リュシアも軽く考えているわけではない。
エルディアスは小さく息を吐いた。
「……王都側が許可したらだ」
ノンノの耳が立った。
「それなら?」
「同行していい。ただし、さっき決めたことは全部守れ」
「はい」
「第二層へ入って、リュシアが無理だと判断したらそこで終わりだ」
「はい」
「俺はまだ、連れていくのが正しいとは思ってないからな」
ノンノが少しだけ目を丸くした。
それから、しっかりと頷いた。
「分かりました。それでも行きたいです」
「なら、あとは王都側が決める」
「はい」
その返事を聞いてから、エルディアスは立ち上がった。
「ギルドへ行ってくる」
「今からですか?」
「今夜中に言えって話だっただろ」
「あ」
「忘れてたのか」
「忘れてません。今、思い出しただけです」
「それを忘れてたって言うんじゃないですか」
リュシアが笑うと、ノンノが慌てて首を振った。
「違いますって」
「二人は明日の準備をしておけ」
「はい」
リュシアが答え、壁際にまとめられた荷物へ目を向けた。
「砂漠まで行くかもしれませんし、水は多めにした方がよさそうですね」
「調査隊でも用意するだろうけど、自分たちでも持てる分は持っておけ」
「布も少し増やした方がよいかもしれません」
「砂漠って、やっぱり暑いんですか?」
ノンノが尋ねる。
「普通ならな」
「行ったことあるんですか?」
「俺はない」
「私もありません」
「二人ともないんですか」
「だから、まだ分からない」
エルディアスは扉を開けた。
廊下の向こうから、宿の食堂を片づける音が聞こえている。窓の外はもう暗く、通りには夜の灯りが一つずつ点き始めていた。
数日前まで、翌日も三人で第一層へ行くものだと思っていた。
修道院は、リュシアが毎日顔を出さなくても回るようになった。ノンノもニペクを扱うことに慣れ、第一層なら自分で体調を見ながら、三人の戦いの中で精霊を使えるようになっている。
姉と師匠の手掛かりだけは、まだ届いていない。
その間に、第二層の森の向こうから一人の旅人が現れた。
森の先には砂漠があり、その向こうには街があるという。
今は、それだけしか分からない。
「エルさん」
ノンノが扉の前まで来たエルディアスへ声を掛けた。
「お願いします」
「まだ許可が出ると決まったわけじゃないぞ」
「分かってます」
「ああ」
エルディアスは部屋を出た。
明日、許可が下りれば三人で第二層へ戻る。
森の向こうに何があるのかを確かめるために。




