第78話 臨時
翌朝、朝食を終えたエルディアスが一階の食堂から受付へ目を向けると、階段脇にノンノの荷物がまとめられていた。
背負い袋と着替えを包んだ布、旅道具を詰めた小さな袋が二つ。その横では宿の女主人が昨日までノンノの使っていた部屋の鍵を受け取り、代わりに別の鍵をリュシアへ渡している。
「空いてたのか」
声を掛けると、リュシアが振り返った。
「はい。今朝、一組出たそうです。掃除が終われば今日から使っていいと言ってもらえました」
「ちょうど二人部屋だったんです」
ノンノも横から言った。
昨日の夕食で話していた通り、今日から二人で部屋を使うことになるらしい。まだ移動を始めただけだというのに、ノンノの耳は朝からよく立っている。
「これなら宿を移らなくても済みますね」
「そうだな」
「では、先に運んでしまいましょう」
リュシアが床に置かれていた荷物の一つを持ち上げると、ノンノも自分の背負い袋へ手を伸ばした。
「それくらい一人で持てますよ」
「知っています。私の荷物も移しますから、一緒です」
「……じゃあ、そっちお願いします」
最初から断り切れないと分かっていたのか、ノンノはすぐに譲った。
古い魔導書だけは、ほかの荷物へ混ぜていない。銀灰色の表装を胸元へ抱えたまま、空いた手で袋を一つ持つ。
二人が並んで階段を上っていくのを、エルディアスは残っていた茶を飲みながら見送った。
昨日もノンノが遠慮するたびに理由を並べ、最後には二人部屋へ移るところまで話をまとめていた。今日も朝から当然のように荷物を運んでいる。
大概、お人好しだ。
今さら止めるようなことでもないので、何も言わずに器を空にした。
しばらくすると、二人が揃って戻ってくる。
「終わりました」
「早かったな」
「まだ置いただけですから。細かいものは帰ってから片づけます」
「リュシアさん、思ってたより荷物ありました」
「ノンノが少ないんですよ」
「旅してたら増やせないですから。持てなくなります」
「それはそうですね」
そんなことを話しながら、二人はもう入口へ向かっている。
エルディアスも席を立った。
三人で冒険者ギルドへ着いた頃には、朝一番の混雑は少し落ち着き始めていた。
早く出発する冒険者たちはすでに街を出たらしく、依頼板の前に残っているのは数組だけだった。受付でも、職員たちが朝に受け取った書類を整理したり、空いた卓を片づけたりしている。
入口を抜けると、奥の受付にいたミュリカがこちらへ気づいた。
「エルさん、おはようございます。リュシアさんも」
その視線がノンノへ移る。
「ノンノさん、今日はずいぶん顔色がいいですね」
「はい。もう船に乗ってないので」
即答だった。
ミュリカが笑う。
「それは何よりです」
エルディアスは軽く手を上げ、そのまま依頼板へ向かった。
今日は第二層へ入るつもりはない。ノンノにニペクを使わせるなら第一層で十分だったし、最初から危険の大きい依頼を選ぶ理由もなかった。
第一層向けの依頼を順に見ていく。
素材採取、魔物の間引き、通路近くにできた巣の確認。その中から、牙鼠の討伐依頼で手を止めた。
階層主を倒す以前の第一層では、通常より大きく凶暴になった魔物が出ていたが、今ではその異常もかなり収まっている。牙鼠なら、ニペクの効果を確かめる相手としても危険が大きすぎない。
「これでいいだろ」
依頼票を外すと、隣からノンノが覗き込んだ。
「牙鼠?」
「一層にいる魔物だ」
「強いですか?」
「今なら、それほどでもない」
「今なら?」
ノンノが顔を上げる。
横から依頼票を見たリュシアが口を開いた。
「最初の頃は、普通よりずいぶん大きかったんです。今は元に戻っていますよ」
「それもダンジョンの変化ですか?」
「ああ。一層を攻略してから落ち着いた」
「そういうこともあるんですね……」
ノンノはもう一度依頼票を見る。
「今日は、この牙鼠にニペクが効くか試すんですよね?」
「見つかればな」
「分かりました」
三人で受付へ戻った。
エルディアスが依頼票を差し出すと、ミュリカは内容へ目を通してから三人を見た。
「牙鼠ですね。三人で受けますか?」
「ああ」
「三人で……」
そこでミュリカの手が止まった。
ノンノを見て、それからエルディアスとリュシアへ視線を戻す。
「そうでした。ノンノさんは単独登録のままでしたね」
「はい」
「エルさんとリュシアさんはパーティー登録ですから……」
ミュリカは少し考えたあと、受付の下から一枚の用紙を取り出した。
「しばらく三人で依頼を受けるつもりなら、ノンノさんを一時的にお二人のパーティーへ入れてしまった方が簡単ですよ」
ノンノが目を瞬く。
「一時的に?」
「はい。一件だけ同行する人や、欠員が出た時に別の人が入ることもありますから。ずっと所属する形とは別で、必要がなくなれば受付で戻せます」
「このまま三人で受けるのとは違うのか?」
エルディアスが尋ねる。
「受けられないわけではありません。ただ、そのたびにノンノさんを同行者として処理することになります。何日か一緒に動くなら、最初から同じ組にしてしまった方が達成記録もまとめやすいですね」
ミュリカはエルディアスたちの登録内容を確認する。
「それと、エルさんたちは報酬を二人分まとめて受け取っていますよね。ノンノさんの分だけ別にお渡しするようにもできます」
「なら、その方が楽だな」
エルディアスがリュシアを見る。
「私は構いません」
二人の視線がノンノへ向いた。
「わたしも、それでいいです。ただ……パーティーに入ったことがないので」
ノンノは差し出された用紙を覗き込む。
「何を書けばいいんですか?」
「ここに名前だけで大丈夫ですよ」
ミュリカが指定した欄を指した。
ノンノは魔導書を脇へ抱え直して筆を受け取り、そこへ自分の名前を書く。
ノンノ・ミーゴ。
昨日は古い魔導書の最後の頁に書かれた同じ名を皆で見ていたが、今度は本人の手で冒険者ギルドの用紙へ記されていく。
ミュリカは文字が乾くのを少し待ってから用紙を引き寄せた。
「報酬の取り分は三人で均等にしますか?」
ノンノが顔を上げた。
「わたしも同じなんですか?」
「三人で受けるんだから同じでいいだろ」
「でも、今日はわたしの精霊を試すためでもありますし……」
「そのためだけに行くわけではありませんよ」
リュシアが言う。
「依頼も受けていますし、私たちも一緒に戦うんですから、分けるなら三人でいいでしょう」
ノンノは少し迷ってから頷いた。
「……じゃあ、それでお願いします」
「はい」
ミュリカが受注印を押す。
「これで終わりです。次からは三人分まとめて受け付けますね」
返された登録証を、ノンノはしばらく眺めていた。
見た目には何も変わっていない。それでも一度裏返してまで確かめ、それから丁寧に懐へしまう。
「思ってたより簡単なんですね」
「冒険者は依頼によって組む相手が変わることもありますからね。そこまで大変な手続きにはしていません」
ミュリカは依頼票をまとめながら三人を見た。
「今日は第一層ですよね?」
「ああ」
「なら大丈夫だとは思いますけど、無理はしないでください。特にノンノさんは、まだセレイスへ来たばかりですから」
「はい」
「では、いってらっしゃい」
ギルドを出ると、朝の通りにはまだ涼しさが残っていた。
三人でダンジョンへ向かって歩く。
途中、ノンノが懐から登録証を取り出した。
「これで、依頼を受ける時は二人と同じ組なんですね」
「変な感じか?」
エルディアスが尋ねる。
「少しだけ。今までずっと一人で受けてたので」
登録証を見ながら、ノンノは小さく笑った。
「でも、ちょっと安心します」
「それならよかったです」
リュシアが隣で答える。
ノンノは登録証をしまい、代わりに魔導書を両腕で抱え直した。
ダンジョンの周辺には、すでに何組かの冒険者が集まっていた。入口脇で装備を締め直す者、壁際に腰を下ろして水を飲む者、戻ってきたばかりなのか靴についた泥を落としている者もいる。
三人はその間を抜けて入口へ向かった。
石碑の前で、ノンノの足が止まる。
「……本当に書いてある」
視線の先には、昨日の夕食で聞いたリュシアの名が刻まれている。
ノンノは文字をゆっくり追い、それからすぐ隣に立つ本人を見た。
「昨日聞いたのと同じです」
「嘘をつく理由もありませんから」
「そうなんですけど、聞くのと見るのは全然違います」
もう一度石碑へ向き直る。
その視線が下へ動き、後から刻まれた一文の前で止まった。
幸せを選んだ者に、帰る場所はない。
そこでは何も尋ねなかった。
しばらく黙って文字を見たあと、ノンノは魔導書を抱える腕へ少しだけ力を込める。
「行きましょう」
三人は石造りの通路を抜け、そのまま第一層へ入った。
それほど進まないうちに、ノンノの歩みが鈍った。
「……あれ」
小さな声とともに、頭の上の耳がゆっくり伏せていく。
リュシアがすぐに足を止めた。
「どうしました?」
「ちょっと……待ってください」
ノンノは魔導書を抱えたまま眉を寄せた。深く息を吸おうとしたものの、途中で浅く吐き出し、近くの壁へ片手をつく。
「気持ち悪いのか」
「少しです。それと、身体が重い感じが……」
「マナ酔いか」
港で倒れた時ほど酷くはない。自分の足で立っていられるし、顔色も急激に悪くなったわけではなかった。
それでも、セレイスの街中ではほとんど見なくなっていた症状が、ダンジョンへ入ってからはっきり戻っている。
リュシアがノンノのすぐ横まで戻った。
「一度座りましょう」
「そこまでじゃ――」
「倒れてからでは遅いです」
「……はい」
壁際まで移り、平らな石へ腰を下ろす。
ノンノは膝の上へ魔導書を置き、目を閉じた。肩を上下させながら何度かゆっくり呼吸を繰り返す。
「街には、だいぶ慣れたと思ってたんですけど……」
少ししてノンノが目を開く。
「ここ、街よりマナが濃いんですよね?」
「ああ」
「やっぱり……。入ってから急に身体が重くなったので」
「無理なら今日は戻るぞ」
「そこまでじゃないです。少し休めば大丈夫だと思います」
エルディアスは周囲を警戒しながら待った。
数分もすると、伏せていた耳が少しずつ戻ってくる。
ノンノは岩へ手をついて立ち上がり、その場で二、三歩動いた。
「大丈夫です。まだ少し重いですけど」
「なら、しばらくゆっくり行きましょう」
リュシアが言う。
「また気持ち悪くなったら、すぐに言ってください」
「はい」
三人は改めて奥へ進んだ。
しばらくは歩調を落とした。ノンノも何度か深く呼吸していたが、進むにつれて足取りは少しずつ戻っていった。
人の出入りが多い場所を離れたところで、エルディアスが足を止める。
「先にニペクを出せるか?」
「はい」
ノンノが古い魔導書へ手を添え、少量のオドを流す。
銀灰色の表装へ淡い光が走り、頁がひとりでに数枚めくれた。最初の召喚の時のような強烈な閃光はなく、開いた頁の上へ集まった光の中から虹色の翅がゆっくり開く。
ニペクはノンノの周囲を一度回り、そのまま肩へ止まった。
エルディアスは蝶ではなく、ノンノの顔を見る。
「具合は?」
「大丈夫です」
一度、自分の内側を確かめるように間を置く。
「ニペクを出した分は、昨日とそんなに変わらないと思います」
「なら続ける」
「はい」
ノンノが肩へ目を向けた。
「ニペク」
返事はない。
ただ、虹色の翅が一度だけ開いて閉じる。
「名前、分かってるんでしょうか」
「それだけじゃ分からないな」
「ですよね」
少し残念そうに言いながらも、耳は先ほどよりしっかり立っていた。
そこから先はエルディアスが前を歩いた。
リュシアはノンノの近くにつき、右手を鞘へ添えればいつでも左手で剣を抜ける位置を保っている。
最初の牙鼠を見つけたのは、それほど進んでからではなかった。
低い茂みの奥で葉が揺れる。
エルディアスが足を止めると、灰褐色の毛を持つ牙鼠が一頭、太い根の陰から姿を現した。
こちらへ気づいた瞬間、身体を低くする。
剥き出した前歯の隙間から、短い唸り声が漏れた。
「一頭だ」
ノンノが魔導書を抱え直す。
「やってみます」
「俺たちは手を出さない。危なくなったらリュシアが止める」
「はい」
リュシアはすでに半歩前へ出ている。
まだ剣は抜かない。
ノンノは自分の肩を見る。
「ニペク。あの子のところへ行って」
蝶が飛び立った。
ふわりと舞い上がり、牙鼠へ近づいていく。
昨日の羊は、近くまで来た蝶をほとんど気にしなかった。
牙鼠は違った。
頭を上げ、小さく動く虹色の影を目で追う。
「……あ」
ノンノが声を漏らした直後だった。
牙鼠が地面を蹴る。
前脚が空を薙いだ。
ニペクへ触れた瞬間、虹色の姿が光の粒となって崩れた。
「ニペク!」
ノンノが反射的に一歩前へ出る。
牙鼠が着地するのとほぼ同時に、リュシアの右手が鞘を押さえた。
左手が剣を抜く。
牙鼠はそのままノンノへ向きを変えたが、走り出す前にリュシアが間へ入った。
剣先が真正面へ向く。
牙鼠が急停止し、低い姿勢のまま再び唸った。
「ノンノ、怪我は?」
「わたしは大丈夫です。でも、ニペクが……」
「本を見ろ」
エルディアスが言う。
ノンノが慌てて腕の中へ目を落とした。
魔導書は開いたままだ。
表装の光も消えていない。
「オドは?」
「……流れてます」
「もう一度呼べるか」
ノンノは少し迷ってから、開いた頁へ意識を向けた。
「ニペク」
小さな光が集まる。
その中から、先ほど消えたばかりの虹色の蝶が何事もなかったように飛び上がった。
「出た……」
ノンノが大きく息を吐く。
伏せていた耳も一気に戻った。
「消されても、召喚そのものが駄目になるわけじゃないらしいな」
「よかった……」
ニペクは再びノンノの肩へ止まった。
その間も牙鼠から目を離していなかったリュシアが、剣を構えたまま口を開く。
「でも、近づく前に払われたら何もできませんね」
「ああ」
羊相手では見えなかった弱点だった。
鱗粉を届かせるより先に、ニペクそのものを攻撃される。
リュシアが牙鼠との距離を測った。
「今度は私が気を引きます。その間に、後ろから近づけてみてください」
「できます?」
「やってみましょう」
リュシアが一歩進む。
牙鼠の目が剣先へ向いた。
さらに半歩。
牙鼠が横へずれる。
リュシアも同じだけ身体の向きを変える。
その間にニペクがノンノの肩から離れた。
今度は高く舞い上がらず、地面近くを回り込む。
牙鼠の視線はリュシアへ向いたままだ。
「そのまま……」
ノンノが小さく言う。
ニペクが背後から牙鼠へ近づき、その背へ降りた。
虹色の翅が大きく開く。
細かな鱗粉が灰褐色の毛へ落ちていく。
ノンノの表情が変わった。
「増えました」
「オドの消費量か?」
「はい。昨日、羊に効いた時と同じです」
牙鼠の唸り声が途切れた。
剥き出していた歯が閉じられ、伏せていた身体から少しずつ力が抜ける。
リュシアはまだ剣を下ろさない。
「ノンノ」
「はい」
ノンノが一度息を整えた。
「ニペク。その子を座らせて」
蝶が翅を動かす。
牙鼠が、その場で腹を地面へ下ろした。
リュシアの眉が僅かに上がる。
エルディアスは牙鼠からノンノへ視線を移した。
「効いたな」
「魔物にも……」
驚いているのはノンノ自身だった。
座った牙鼠はリュシアを見ている。眠っているわけでも、意識を失ったわけでもない。ただ、先ほどまでこちらへ向けていた敵意は表に出なくなっていた。
「剣を収めます」
リュシアがゆっくり剣先を下げる。
牙鼠は動かない。
鞘へ戻しても同じだった。
ノンノが恐る恐る一歩近づく。
「こっちに来て」
牙鼠が立ち上がる。
そのままノンノの前まで歩いた。
「止まって」
止まる。
「右を向いて」
牙鼠が右を向く。
「反対」
今度は左。
ノンノがエルディアスを見る。
「羊と同じです」
「ああ」
少なくとも、単純な命令への反応には大きな違いがない。
「なら次だ」
「次?」
「戦えるかを見る」
ノンノの表情が少し強張った。
「この子を?」
「嫌なら別の試し方にする」
足元の牙鼠を見る。
しばらく迷ってから、ノンノは首を横へ振った。
「やります。魔物に使うなら、それも知らないと意味がないですよね」
そう答えたものの、もう一度牙鼠へ目を落とす。
「でも……変な感じです」
「少し前まで襲ってきた相手ですからね」
リュシアが言った。
「はい」
三人は牙鼠を連れたまま、さらに奥へ進んだ。
ニペクはノンノの肩へ戻っている。
使役された牙鼠は特に命令されなくてもノンノから大きく離れず、数歩先や横を歩いた。時折鼻先を上げ、周囲の匂いを探っている。
次の牙鼠を見つけたのは、その使役された個体の方が先だった。
不意に足を止める。
耳を立て、前方へ顔を向けた。
エルディアスも視線を追う。
「何かいる」
言うと同時に、茂みの奥からもう一頭が姿を現した。
ノンノが足を止める。
「どうすれば?」
「細かく指示しないでみろ」
「え?」
「何ができるか見たい」
ノンノは少し考え、ニペクへ声を掛けた。
「この子に、わたしたちを守るように伝えて」
虹色の蝶が翅を開いた。
足元にいた牙鼠が前へ出る。
ノンノの前へ回り込み、低く身体を伏せた。
向こうの牙鼠もこちらへ気づく。
短く鳴き、地を蹴った。
リュシアの右手が鞘へ動く。
だが、その剣が抜かれるより先に、使役された牙鼠が飛び出した。
二頭が正面からぶつかる。
毛が舞い、土が跳ねた。
「戦ってる……」
ノンノが呟く。
噛みつけとも、右へ避けろとも命令していない。
それでも牙鼠は相手の動きを見て身を捻り、横へ回り込み、前脚を振るわれれば自分で距離を取る。
「自分で動いていますね」
リュシアが剣を抜きながら言った。
「ああ」
エルディアスも杖を構える。
命令された目的だけを受け取り、そこへ至る動きは牙鼠自身が選んでいるように見えた。
ノンノは口を挟まず、二頭の動きを追う。
使役された牙鼠が再び飛び込んだ。
だが、相手の方が僅かに身体が大きい。
正面から組み合ったところで押し返され、体勢を崩した首元へ牙が食い込んだ。
「あっ」
ノンノの声が上がった。
使役された牙鼠が暴れ、振り払おうとする。
相手は離さない。
リュシアが一歩動いた時には、牙鼠の身体から力が抜けた。
地面へ倒れる。
動かない。
ノンノが息を呑んだ。
勝った牙鼠が顔を上げる。
次に狙ったのはノンノだった。
リュシアが間へ踏み込む。
右手で鞘を押さえ、左手の剣を斜めに構えた。
牙鼠が跳ぶ。
リュシアは刃を当てず、その腹で頭を押し流すように軌道を変える。
牙鼠が横へ転がった。
「ノンノ!」
「はい!」
ニペクが飛び出す。
倒れた牙鼠が起き上がるより早く、その背へ降りた。
虹色の翅が開く。
鱗粉が灰褐色の毛へ落ちた。
「効いてます!」
ノンノが魔導書を抱える腕へ力を込める。
再びオドの消費が増えたらしい。
「止まって!」
牙鼠の身体が止まった。
リュシアも剣を止める。
数呼吸前までノンノへ飛び掛かろうとしていた魔物が、その場で静かに立っている。
ノンノは地面へ倒れた一頭を見る。
それから肩へ戻ってきたニペクを見る。
「ニペクは……何ともないです」
「使役した方が死んでも影響はないか」
エルディアスは倒れた牙鼠へ近づき、杖の先で身体を確かめた。
完全に死んでいる。
魔導書にも、ニペクにも変化はない。
「それに、すぐ次へ使えたな」
「はい」
ノンノは新しく使役された牙鼠へ目を向ける。
「一頭が死んだら、次の一頭に使えるんですね」
「少なくとも今はそう見える」
リュシアは剣についた汚れを落としてから鞘へ戻した。
「それより、私は最初の一頭の方が気になります」
「ニペクが消されたことか?」
「はい」
リュシアはノンノの肩に止まる蝶を見る。
「羊は何もしませんでした。でも、魔物は近づくものを払います。戦っている最中なら、もっと狙われやすいかもしれません」
ノンノの耳が少し伏せた。
「使役する前が危ないんですね」
「ああ」
使役できれば命令は通る。
だが、その前にニペクを対象まで届かせなければならない。
「じゃあ、わたし一人だと難しいですか?」
「相手によるでしょうけど、一人では厳しい場面もあると思います」
リュシアは素直に答えた。
「さっきみたいに誰かが注意を引けば、近づけやすくなりますけど」
「一人で契約した精霊なのに、一人で使いにくいんですね」
「今の精霊術とは仕組みから違う」
エルディアスが言う。
「普通の精霊術と同じようには考えない方がいい」
「……はい」
ノンノは肩のニペクを見る。
それほど落ち込んだ様子はなかった。
むしろ、できることとできないことが分かってきたのが面白いらしい。
「もう少し試していいですか?」
「ああ」
「今度は、この子がどこまで自分で動けるか見たいです」
「なら命令は簡単にしろ」
「はい」
三人は新しく使役した牙鼠を連れてさらに進んだ。
ノンノがニペクへ与えた命令は一つだけだった。
「この子に、一緒に来てわたしたちを守るよう伝えて」
牙鼠はノンノの足元へ張りつかなかった。
少し前を歩き、何か物音がすればそちらへ顔を向ける。エルディアスが進路を変えれば、周囲を気にしながら自然についてくる。
少なくとも、進む方向まで一つずつ命じる必要はないらしい。
やがて別の牙鼠が現れた時も、ノンノは追加の命令を出さなかった。
使役された牙鼠が先に前へ出る。
ただし、今度はすぐには飛び掛からない。
リュシアが左手で剣を抜き、相手の正面へ立つ。
すると牙鼠はその横へ回った。
「そこにいるんですね」
リュシアが視線だけで位置を確かめる。
向こうの牙鼠が飛び込んだ。
リュシアが剣で受け流す。
身体が崩れたところへ、使役された牙鼠が横から噛みついた。
リュシアはすぐに一歩退く。
二頭が交錯し、使役された方が離れた瞬間だけ剣を入れた。
短いやり取りで決着する。
ノンノは目を丸くしていた。
「わたし、何も言ってません」
「ちゃんと見ているみたいですね」
リュシアが剣の汚れを払いながら答える。
「私が前にいる間は待って、相手の体勢が崩れてから入ってきました」
「リュシアさんと一緒に戦ったんですね」
「そう見えました」
リュシア自身も少し興味深そうに牙鼠を見る。
戦闘が終わると、使役された牙鼠はノンノのところへ戻ってきた。
鼻先が靴へ近づく。
ノンノが反射的に手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「……触っても大丈夫かな」
「さっきまで魔物だったぞ」
「今も魔物です」
リュシアが訂正する。
「そうでした」
ノンノは手を引っ込めた。
「やめときます」
使役されているからといって、牙や爪までなくなったわけではない。
依頼に必要な数を倒したあとも、三人はしばらく第一層に残った。
使役中の牙鼠へ距離を取らせたり、簡単な命令をいくつか試したりする。その間もノンノの体調を見ていたが、最初に感じていた身体の重さはかなり薄れたらしく、途中からは自分から先へ歩けるようになっていた。
ニペクが攻撃されて消えても、すぐに呼び直せること。鱗粉さえ届けば、牙鼠にも羊と同じように使役が成立すること。大まかな目的を伝えれば、使役された魔物は細かな指示がなくても周囲を見て動けること。そして、使役した魔物が死んでもニペクや魔導書には変化がなく、別の一頭へすぐ使役を移せること。
昨日、羊を相手にしていた時には見えなかった性質が、実際に魔物と向き合わせたことで少しずつ形になっていった。
「思ってたより、ずっと戦えますね」
帰路へ向きを変えたところで、ノンノが言った。
使役された牙鼠が少し前を歩き、その上をニペクがゆっくり舞っている。
「ニペクじゃなくて、この子が、ですけど」
「ニペクがいなければ動かせないんだから、同じようなものだろ」
「でも、ニペク自身は戦わないじゃないですか」
「最初に叩かれて消えていましたしね」
リュシアが言った。
ノンノの耳が伏せる。
「それは言わないでください」
「大事なところですよ」
「分かってます」
少し不満そうに返しながらも、ノンノは前を歩く牙鼠から目を離さなかった。
昨日は羊だった。
今日は魔物だ。
同じ鱗粉を浴び、同じように命令を聞く。
ただ、戦わせたことで、その力が何に使えるのかは昨日よりずっと分かりやすくなった。
「これ……もっと強い魔物にも効いたら、どうなるんでしょう」
ノンノがぽつりと言う。
エルディアスも同じことを考えていた。
今は牙鼠一頭。
それでも、自分で周囲を見て戦えるなら十分に役に立つ。
対象が変わっても同じなら、その意味はさらに大きくなる。
「だから、一つずつ試す」
エルディアスは答えた。
「今日分かったのは、牙鼠には効く。それだけだ」
「はい」
ノンノは素直に頷いた。
少し前を歩いていた牙鼠が立ち止まり、こちらを振り返る。
ノンノも足を止めた。
肩の近くを舞っていた虹色の蝶へ目を向ける。
「帰ろう、ニペク」
その声に応えるように、虹色の翅が一度だけ揺れた。
改訂はTypoみたいなものなので気にしないで…




