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第76話 使役

 羊が座ったあとも、虹色の蝶はその頭から動かなかった。


 白い毛の上で翅を閉じていると、遠目には薄い光が一片だけ乗っているように見える。時折ゆっくり開くたび、細かな鱗粉が陽を受けて瞬き、そのいくつかが毛の間へ沈んで消えた。


 ノンノは魔導書へ手を添えたまま、その様子を覗き込んでいる。


「まだ少し持っていかれてます」


 マティアスは地面の測定具へ視線を落とした。


「こっちも同じだ。蝶だけを出していた時より僅かに多い」


 羊は伏せたまま、口だけを動かしていた。命じられて座ったあとも怯えている様子はなく、近くの草を噛み、のんびりと顎を動かしている。


 リュシアがその姿を見ながら少し首を傾げた。


「嫌がっているようには見えませんね」


「そうだな」


 エルディアスも羊を見る。


 無理に身体を押さえつけられているような動きではない。少なくとも外から見れば、ただ自分でそこへ伏せている羊と変わらなかった。


「立たせてみます」


 ノンノが蝶へ顔を向ける。


「この子を立たせて」


 蝶が翅を一度開いた。


 羊はすぐには動かなかったが、少しして前脚を伸ばし、身体を持ち上げた。立ち上がると首を振り、そのまま何事もなかったように草へ鼻先を寄せる。


「ちゃんと聞いてますね」


「なら、次は距離だな」


 マティアスが顔を上げた。


 遠くの斜面では、他の羊たちが草を食みながら少しずつ場所を変えている。先ほどよりも奥へ移っており、ここからなら五十メートルは十分に越えていた。


 ノンノもそちらを見る。


「群れまで戻してみます」


 蝶へ視線を戻した。


「この子を、あの群れまで戻して」


 虹色の翅が開く。


 羊は草を噛むのをやめ、顔を上げた。


 遠くの群れへ身体を向け、そのまま歩き出す。


 蝶は頭に止まったままだ。


 しばらくは何も起こらなかった。


 羊は一定の歩調で草地を進み、十メートル、二十メートルと距離が開いていく。蝶だけを飛ばした時と違って、途中で立ち止まる様子もない。


 マティアスは測定具を見ながら時折羊へ目を上げる。


 ノンノは魔導書に触れたまま、じっとその後ろ姿を追っていた。


 三十メートルを過ぎる。


 四十メートル。


 リュシアが先に口を開いた。


「そろそろ、さっき止まった辺りですね」


 その直後だった。


 羊の頭に止まっていた蝶が翅を広げた。


 ふわりと浮く。


「あ」


 ノンノが声を漏らす。


 蝶だけが羊から離れた。


 羊は止まらない。


 虹色の蝶はその場で二度ほど円を描くように飛んだが、それ以上は斜面側へ進まず、やがてこちらへ向きを変えた。


 リュシアが羊の方を見たまま言う。


「でも、羊はそのままです」


「ああ」


 蝶は戻ってくる。


 羊との距離は広がり続けた。


 やがて虹色の光はノンノの肩へ戻り、いつもの場所へ静かに止まった。


 その間にも羊は歩き続けている。


 五十メートルを越えた。


 さらに遠ざかる。


「蝶は越えられない。でも羊には残ってるな」


 マティアスが測定具を見た。


 使役が始まってから増えた魔力消費は、まだ戻っていない。


 ノンノも同じことを感じているらしく、魔導書へ置いた手を少し握り直した。


「まだ繋がってる感じがあります」


 羊はやがて群れへ辿り着いた。


 一頭が顔を上げ、戻ってきた羊へ鼻先を寄せる。短く鳴き声を交わしたあと、二頭は並ぶように頭を下げ、そのまま草を食べ始めた。


「戻りましたね」


 リュシアが目を細める。


 ノンノの耳も少し立った。


「呼び戻してみてもいいですか?」


「やってみろ」


 ノンノは肩の蝶へ声を掛ける。


「あの子を、こっちへ戻して」


 蝶が一度翅を開いた。


 自分では飛ばない。


 だが、遠くの群れの中で一頭だけが顔を上げた。


「あ」


 羊は周囲を見回したあと、群れを離れた。


 こちらへ向かって歩き始める。


「届いてます」


 ノンノが言う。


「五十メートルの外でも、命令は通るんですね」


 リュシアは羊とノンノの肩を交互に見た。


「蝶はここにいるのに」


 その言葉に、マティアスが小さく頷く。


「精霊そのものが動ける範囲と、鱗粉の効いてる相手へ届く範囲は別みたいだな」


 羊はゆっくり近づいてくる。


 五十メートルほどまで戻ったところで、ノンノの肩にいた蝶がふわりと飛び立った。


 今度は羊の方へ向かう。


 距離が縮まると、そのまま白い頭の上へ戻った。


「近づけば、また止まれるんですね」


「らしいな」


 エルディアスが答える。


 羊はそのまま四人の近くまで戻り、ノンノの前で足を止めた。


 もう一度群れへ戻してみても、同じだった。


 五十メートルほど離れたところで蝶だけが羊から離れ、羊自身は命令されたまま歩き続ける。群れへ戻ったあとに呼び戻しても、遠くからまたこちらへ向かってきた。


 数度繰り返したところで、マティアスは新しい線を記録紙へ引いた。


「距離の方は、ひとまずこれでいいだろう」


 ノンノも頷いた。


 羊は再び群れへ戻される。


 今度はそのまま様子を見ることになった。


 四人が記録を確認している間にも、遠くの斜面では羊たちが少しずつ場所を変えていく。使役された一頭も、群れの中で他と同じように草を食んでいた。


 しばらくして、ノンノが魔導書へ目を落とした。


「……あれ?」


「どうした?」


 エルディアスが尋ねる。


「軽くなりました」


 ノンノは掌の下にある金属板を見つめた。


「さっきまであった感じが、なくなってます」


 マティアスが測定具を覗き込む。


「こっちも戻ってるな」


 僅かに増えていた値が、蝶だけを維持していた時とほとんど同じになっていた。


 リュシアが斜面を見る。


「さっきの羊に、もう一度命令してみますか?」


「そうだな」


 ノンノも遠くへ目を向ける。


「あの子を、こっちへ戻して」


 蝶が翅を開いた。


 何も起きない。


 もう一度。


 群れの中で顔を上げる羊はいなかった。


「切れてますね」


 ノンノが言った。


 マティアスは記録へ時刻を書き込む。


「鱗粉が残ってる間だけかもしれないな」


「落ちたんでしょうか」


 リュシアが尋ねる。


「それとも時間で?」


「どっちもあり得る。今は分からん」


 マティアスはそう答え、斜面を一度見た。


 さっきまで使役されていた一頭は、もう他の羊に紛れて見分けがつかなくなっている。


 ノンノも同じ場所を見ていたが、やがて肩の蝶へ視線を戻した。


「一頭だけなんでしょうか」


「何が?」


「この子が一度に動かせる数です。さっきは一頭しかいなかったので」


 マティアスが周囲を見る。


 少し離れたところに、群れから外れて草を食べている羊が二頭いた。互いにも何歩か距離があり、どちらもこちらを気にしていない。


「ちょうど試せそうだな」


 エルディアスが言う。


 ノンノもそちらを確認してから、蝶へ命じた。


「まず、あの子に」


 虹色の蝶が肩を離れる。


 一頭目の頭へ降り、翅をゆっくり開閉した。


 細かな光が白い毛へ落ちる。


 少し待つと、ノンノが頷いた。


「来ました」


 マティアスも測定具を確かめる。


「ああ。さっきと同じくらい増えてる」


 一頭目を数歩動かしてみる。


 羊はすぐに従った。


 蝶を離し、今度は二頭目へ止まらせる。


 同じように虹色の鱗粉が毛の上へ散る。


 だが、しばらく待っても変化はなかった。


 マティアスが測定具から目を上げる。


「増えないな」


「わたしも何も感じません」


 ノンノが蝶へ命じる。


「この子を、こっちへ」


 二頭目は顔を上げなかった。


 草を食べ続けている。


 もう一度試しても同じだった。


 リュシアが羊へ目を凝らす。


「鱗粉自体は付いていますよね」


「見えてるな」


 エルディアスも白い毛の上に残る僅かな光を確認した。


「でも効いてない」


 ノンノが一頭目へ命じる。


「最初の子を、こっちへ」


 一頭目はすぐに顔を上げ、こちらへ歩いてきた。


 リュシアが二頭を見比べる。


「最初の一頭が効いている間は、次には移らないんでしょうか」


「そう見える」


 マティアスが記録へ書き加えた。


「少なくとも今は、一頭だけだな」


 ノンノは近づいてきた一頭目と、まだ草を食べている二頭目を交互に見た。


 しばらく二頭を見ていた耳が、ふと動く。


「……この子から、あの子に一緒に戻るように言ってみます」


 肩へ戻した蝶へ目を向ける。


「この子に、あの子も一緒に群れへ戻るよう伝えさせて」


 虹色の翅が開いた。


 使役されている羊が、もう一頭へ顔を向けた。


「メェ」


 二頭目が草から顔を上げる。


「メェー」


 一頭目が少し近づき、また鳴いた。


「メェ、メェ」


 二頭目も返す。


 今度は互いに鼻先を寄せた。


 何をしているのか、しばらく誰も口を挟まなかった。


 一頭目がもう一度短く鳴く。


 それから身体を群れの方へ向け、歩き始めた。


 二頭目はその場に残った。


 ノンノがじっと見守る。


 数歩進んだところで、一頭目が振り返った。


「メェ」


 少し間が空いた。


 二頭目が顔を上げる。


 そして、歩き出した。


「ついていきましたね」


 リュシアが小さく言った。


 二頭は少し距離を空けながら、同じ方向へ進んでいく。


 使役されているのは一頭目だけだ。


 二頭目に鱗粉は付いていない。魔力消費も増えていなかった。


「二頭目は自分で動いてるな」


 マティアスが測定具から目を離さずに言う。


 リュシアは羊の方を見たままだった。


「今のは、命令が移ったというより……話を聞いてついていったように見えました」


「俺もそう見えた」


 エルディアスが答える。


 ノンノは不思議そうに二頭を見送った。


「本当に話したんでしょうか」


「一回じゃ分からんな」


 マティアスが言う。


 しばらく周囲を見ていると、また別の羊が群れから離れた。


 今度も一頭だけを使役し、もう一頭の近くまで歩かせる。


 ノンノは肩の蝶を見る。


「一緒に群れへ戻るよう伝えさせて」


 蝶が翅を開いた。


「メェ」


 使役された羊が鳴く。


 相手も顔を上げた。


「メェー」


 一頭目がまた鳴く。


 二頭目も返す。


 しばらく鳴き声が交わされた。


 そのあと、一頭目は群れの方へ身体を向ける。


 歩き始めた。


 二頭目は動かなかった。


 ノンノが少し首を傾げる。


「……来ませんね」


 一頭目が途中で振り返る。


「メェ」


 二頭目も返事をする。


 それでも歩き出さない。


 もう一度。


 また返事はあった。


 リュシアが二頭目を見ながら言う。


「無視しているわけではなさそうですね」


「ああ」


 エルディアスも同じところを見ていた。


 一頭目が再び鳴く。


 二頭目も返した。


 だが、そのまま頭を下げ、また草を食べ始める。


「さっきの羊はついていった。でも、この羊は行かない」


 リュシアが言う。


「何を伝えているのかは分かりませんけど、向こうにも選ぶ余地はあるみたいですね」


 マティアスが頷いた。


「命令そのものを移してるわけじゃなさそうだな」


 ノンノはまだ少し離れた二頭を見ている。


「本当に会話してるってことですか?」


「少なくとも、何かは伝わってるんだろう」


「何を話してるんでしょう」


「それが分かれば面白いんだがな」


 一頭目はもう一度だけ鳴いた。


 二頭目も短く返したが、やはり動かなかった。


 結局、一頭目だけが群れへ戻っていく。


 五十メートルほど離れたところで、頭に乗っていた蝶がふわりと浮いた。


 それ以上は進まない。


 羊だけが歩き続ける。


 蝶は向きを変え、ノンノの左肩へ戻った。


 しばらくして、ノンノが魔導書へ触れていた指を少し動かした。


「また軽くなりました」


「切れたな」


 マティアスが時間を書き留める。


 最初の羊と大きく違わない。


 正確な時間まではまだ測れていないが、鱗粉の効果がいつまでも続くわけではないことは、もう間違いなさそうだった。


 マティアスは書き込んだ紙を一度広げ、今日確認した箇所へ目を通した。


「今日はこれくらいにしておこう」


「もう終わりですか?」


 ノンノが尋ねる。


「契約した初日にしては十分だ。お前は平気でも、この本と精霊の方に何が起きるかまでは分からん」


「……分かりました」


 少し名残惜しそうだったが、ノンノは素直に頷いた。


 リュシアが遠くの斜面を見る。


 使役されていた羊も、そうでなかった羊も、もう群れへ戻っていた。先ほどまでこちらの命令で歩かされていたことなど知らないように、他の羊と並んで草を食んでいる。


「見た感じでは、変わった様子もありませんね」


「今のところはな」


 エルディアスが答える。


 ノンノは魔導書へ流していた魔力を止めた。


 銀灰色の表装から淡い光が消える。


 肩に止まっていた蝶も輪郭を薄くし、翅の端から虹色の粒へほどけていった。最後に小さな光が一つだけ残り、それも風に溶けるように消える。


 ノンノは空になった肩を一度見たあと、魔導書を閉じた。


「……これ、羊だから効いたんでしょうか」


 マティアスの手が止まる。


 リュシアもノンノへ顔を向けた。


「動物だけとは限らない、ということですか」


 ノンノは答えず、閉じた魔導書を見る。


 リュシアの視線が、今度は遠くの草地へ移った。


「魔物にも?」


 誰もすぐには答えなかった。


 エルディアスも銀灰色の表装へ目を落とす。


 同じ疑問は、もう一つ残っていた。


 人には、どうなのか。


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