↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
78/114

第75話 鱗粉

 虹色の蝶は、ノンノの左肩から動かなかった。


 翅を閉じている間は、光を帯びた薄い膜が二枚重なっているように見える。それが時折ゆっくりと開くたび、赤から青、青から紫へと色が滑り、次の瞬間には黄や淡い緑が混じる。どれか一つの色を持っているというより、翅そのものが光を受けるたびに別の色へ移り変わっているようだった。


 精霊。


 そう呼ぶ以外にないのだろうが、エルディアスが想像していたものよりずっと小さく、静かだった。


 周囲には低い草地が広がり、その先にはセレイス近郊の畑や放牧地が点在している。緩やかな斜面では十数頭ほどの羊が草を食んでおり、さらに向こうには杖を持った羊飼いらしい人影も見えた。こちらとは十分に距離があり、互いを気にするような位置ではない。


「……これが、精霊なんですか?」


 ノンノ自身もまだ実感が湧かないらしく、顔は動かさずに目だけを肩へ向けている。


「少なくとも普通の蝶じゃないだろうな」


 マティアスは答えながら、地面へ置いた測定用の円盤と魔導書を交互に確認していた。


 先ほどの強い光はもうない。それでも銀灰色の金属表装には、ごく薄い輝きが残っている。縁を走る細い線と中央の模様だけが、内側から淡く照らされていた。


「ノンノ、まだ魔力は流れてるか?」


「はい。わたしが流そうとしてるというより、少しずつ持っていかれてる感じです」


「手を離したら止まりそうか?」


「たぶん」


「なら、一度やめてみよう」


 ノンノの眉がわずかに寄った。


「消えませんか?」


「それを確かめる」


 少し迷ってから、ノンノは肩の蝶をもう一度見た。


「……分かりました」


 魔導書へ触れていた右手をゆっくり離す。


 金属表装に残っていた光が消えた。


 ほとんど同時だった。


 肩に止まっていた蝶の輪郭が、一度だけ鮮やかな虹色に輝いた。


「あ……」


 ノンノが声を漏らす。


 蝶の翅から細かな光がほどけ、そのまま身体まで透けていく。数息も経たないうちに最後の光も空気へ溶け、そこには何も残らなかった。


 ノンノは空になった肩を見つめた。


「消えました」


「魔力は?」


「もう持っていかれてません」


 マティアスが測定具を覗き込む。


「こっちも止まった。魔導書へ魔力を流している間だけ、精霊をこちらへ出しておけるみたいだな」


 ノンノはすぐに本を見る。


「もう一度出せますか?」


「やってみよう」


 閉じた魔導書へ、再び掌を載せる。


 今度はノンノも要領を掴んだらしく、目を閉じることもなく少量の魔力を流した。


 銀灰色の表紙が淡く光る。


 それだけだった。


 先ほどのように視界を染めるほどの光は起こらない。


 かちり、と小さな音がして、魔導書がひとりでに開いた。数頁が風もないのにめくられ、途中の一頁で止まる。


 紙の中央に虹色の光が滲んだ。


 小さな光はふわりと浮かび上がり、輪郭を整えるように細長く伸びる。やがて二枚の翅が広がり、見覚えのある蝶の姿になった。


 蝶は魔導書から飛び立つとノンノの周囲を一度だけ回り、何事もなかったように左肩へ戻った。


「……今度はすぐでしたね」


 リュシアが言う。


「ああ」


 マティアスは開いた頁を覗き込んだ。


「最初だけ、やっていたことが違ったんだろうな」


「契約か?」


 エルディアスが尋ねる。


「たぶん」


 マティアスは最後の頁へ視線を移した。


「元の古代式なら、召喚したあとに契約者が署名する。この本は順番が逆で、先にノンノの名前が入ってた。最初に起動した時だけ、召喚から契約までまとめて処理したと考えれば辻褄は合う」


「詠唱も勝手にやってましたしね」


「そこまで手を加えるなら、契約まで自動化されててもおかしくはない」


 マティアスはそう言いながらも、断定はしなかった。


 だが、再び現れた蝶は迷う様子もなくノンノの肩に収まっている。少なくとも先ほどより、ノンノとこの精霊の間に何かが成立しているようには見えた。


「これ、動かせるんでしょうか」


「試してみろ」


 ノンノは肩へ目を向ける。


「……飛んで」


 蝶がすぐに翅を開いた。


 肩を離れ、ノンノの頭上を一度回る。


「前へ」


 虹色の光が草地の上を滑った。


「右」


 進路が変わる。


「戻ってきて」


 蝶は弧を描くように向きを変え、ノンノの左肩へ戻った。


「聞いてます」


 ノンノの耳が少し立つ。


「声に反応してるのか?」


 エルディアスが聞く。


「試してみよう」


 次は声を出さず、ノンノが蝶をじっと見る。


 動かない。


 前方を指で示しても、翅を閉じたままだった。


「飛んで」


 言葉にすると、すぐに肩を離れる。


「今のところ、命令は声で受けてるみたいだな」


 マティアスは記録用の紙へ何かを書き込んだ。


「精霊と話したりはできないんですか?」


「高度な精霊ならできるものもいる。普通に言葉を交わすものもあれば、意思だけを返してくるものもいる」


「この子は?」


 マティアスは蝶を見る。


 虹色の蝶も、意味が分かっているのかいないのか、空中でゆっくり翅を動かしている。


「……無理そうだな」


「蝶ですもんね」


「姿で決めるな。蝶の姿でも話す精霊はいる」


「じゃあ、この子はあまり高度じゃないんですか?」


「たぶんな。ただ、それと能力が強いかどうかは別だ」


 ノンノは少し複雑そうな顔をした。


 次に距離を試した。


 近くの石や低木を目印にしながら、少しずつ遠くへ飛ばしていく。三十メートルほどなら何の問題もなく、左右への指示にも従った。


 さらに先へ進ませる。


 四十メートル。


 そこまでは変わらない。


 だが五十メートルほど離れたあたりで、蝶の飛び方が少し鈍った。


「もっと先へ」


 ノンノが命じる。


 蝶は数メートルほど前へ出たものの、そのまま弧を描いてこちらへ戻ってきた。


「戻ってきちゃいました」


「もう一度やってみろ」


 方向を変えて試しても結果は同じだった。


 あるところまで行くと、壁にぶつかるように進めなくなり、自分から戻ってくる。


「五十メートル前後か」


 エルディアスが言う。


「そのくらいだろうな」


 マティアスも周囲を見渡す。


「魔導書を介してる以上、維持できる範囲があるんだろう」


 戻ってきた蝶がノンノの肩へ止まる。


「思ったより短いですね」


「古代式そのものが効率の悪い方式だから――」


 言いかけたマティアスが、地面の円盤へ目を落とした。


「……いや」


「どうした?」


「少なすぎる」


「何がですか?」


「魔力の消費だ」


 マティアスは別の円盤も確認する。


「ノンノ、疲れてるか?」


「全然です」


「本に吸われてる感じは?」


「ありますけど……すごく少しです。水を出す時より少ないくらいで」


「やっぱりそうか」


 マティアスはしゃがみ込んだまま眉を寄せた。


「古代式が廃れた理由の一つは、精霊を出している間ずっと魔導書へ魔力を流し続けなきゃならないことだった。こんな消費量じゃ話が違う」


「どれくらい持つ?」


「ノンノの魔力量を測ってないから正確には言えないが、このままなら数時間は平気そうだ」


「そんなに?」


 ノンノが驚いて魔導書を見る。


「後から加えられた術式のどれかが、そこを弄ってるのかもしれないな」


 何人もの手が加わり、原形すら分かりにくくなった古代の魔導書。


 何のために改造されたのかはまだ分からない。ただ、少なくとも元の古代式とはかなり違うものになっているらしい。


「それで……」


 ノンノが肩の蝶を見る。


「この子、何ができるんですか?」


 四人の視線が集まった。


 飛ぶ。


 命令を聞く。


 五十メートルほどまで離れられる。


 魔力もほとんど使わない。


 分かったのは、それだけだった。


「本には何かないのか?」


「探してる」


 マティアスは開いた魔導書の頁を何度か戻す。


「属性は、おそらく光だな」


「光?」


「召喚後に動いてる術式が光属性寄りだ。測定具の反応もそうなってる」


「じゃあ、光の魔法が使えるとか?」


「それなら分かりやすかったんだがな」


 頁を一枚めくる。


「元々の術式と後から足されたものが混ざりすぎてる。この蝶に何をさせるための術式なのか、今のところさっぱりだ」


 ノンノは少し考え、蝶へ顔を向けた。


「光って」


 蝶が翅を開いた。


 虹色に輝く。


 それだけだった。


「……元から光ってますね」


「そうだな」


「もっと明るく」


 変わらない。


「何か出して」


 何も出ない。


 リュシアが僅かに口元を緩めた。


「だんだんお願いが曖昧になっていますよ」


「だって、何ができるのか分からないんです」


「それはそうですね」


 今度は近くに咲いていた小さな花へ目を付けた。


「蜜、飲める?」


 蝶はすぐに肩を離れた。


 花へ降り、細い口吻を中心へ伸ばす。


「……飲んでます」


「そう見えるな」


「精霊も蜜を飲むんですか?」


「俺に聞くな」


 マティアスも興味深そうに蝶を見ている。


 しばらくすると、蝶は自分から花を離れてノンノの肩へ戻った。


 特に変化はない。


「何も起きませんね」


「腹が満たされたくらいじゃないか」


「精霊にお腹ってあるんですか?」


「知らん」


 次は花を持ってこさせようとした。


「その花、持ってきて」


 蝶はまた花へ飛んだ。


 周囲を何度か回り、細い脚で茎へ掴まろうとする。


 だが身体が小さすぎる。


 翅を激しく動かしても花は僅かに揺れるだけで、しばらくすると蝶の方が諦めたようにノンノへ戻ってきた。


「……無理みたいです」


「力は見たままらしいな」


 エルディアスが言う。


「かわいいだけなんでしょうか」


 ノンノが少し残念そうに蝶を見る。


「精霊を見た目だけで決めるなって言われただろ」


「でも、今のところ飛んで蜜を飲んだだけですよ」


 姉を探す手掛かりについても、何一つ増えていなかった。


 ノンノがカンナの名を口にしても、蝶は肩の上で一度翅を開いただけだった。どこかへ向かうわけでもなく、何かを伝えようとする様子もない。


「本の方は、戻ってからも調べる」


 マティアスが言う。


「古い資料と照らせば、まだ何か分かるかもしれない」


「お願いします」


 ノンノが頷き、肩へ戻ってきた蝶を見た。


「結局、この子が何をする精霊なのかは分からないですね」


「今のところはな」


 エルディアスも蝶を見る。


 ひとまず今日分かるのはここまでかと思ったところで、近くから草を噛む音が聞こえた。


 顔を向ける。


 いつの間にか、一頭の羊がすぐ近くまで来ていた。


 遠くの斜面にいた群れの一頭だろう。こちらを気にして近づいたというより、草を食べながら歩いているうちに群れから離れてしまったらしい。四人を警戒する様子もなく、数歩先でのんびりと草を食んでいる。


「あの子、ずいぶん近くまで来てますね」


 ノンノが言った。


 羊は一度だけ顔を上げたが、すぐにまた草へ鼻先を戻す。


 ノンノはしばらくその様子を眺め、それから肩の蝶へ目を向けた。


「……あの子のところにも行ける?」


 問いかけに答えるように、虹色の翅が開いた。


「行って」


 蝶が肩を離れる。


 草の上をふわふわと進み、羊の周囲を一度回った。


 羊は耳を動かしただけで逃げない。


「頭に止まって」


 蝶はゆっくり高度を落とし、白い毛の上へ降りた。


「止まった」


 ノンノが少し笑う。


 羊の方は何も気にしていないらしく、蝶を頭に乗せたまま草を食べ続けている。


 そこで、測定具を片づけかけていたマティアスの手が止まった。


「……待て」


「どうした?」


「少し増えた」


 地面の円盤を見直す。


「魔力の消費が」


 ノンノも魔導書へ意識を向けた。


「……あ。本当です。ほんの少しですけど」


 さっきまでより、魔導書へ持っていかれる魔力が増えている。


 蝶はただ羊の頭に止まっているだけだった。


「何かしてるのか?」


「分からん」


 マティアスは片づけかけていた紙をもう一度広げた。


 ノンノも不思議そうに羊を見る。


「……戻ってきて」


 蝶は飛ばなかった。


 代わりに、羊が草を食べるのをやめた。


「メェ」


 顔を上げる。


 そして蝶を頭に乗せたまま、一歩こちらへ進んだ。


 さらに一歩。


「……ん?」


 エルディアスが目を細める。


 羊はそのまま、まっすぐノンノの方へ歩いてくる。


「え?」


 ノンノも目を丸くした。


 数歩。


 さらに数歩。


 途中で草へ目を向けることもなく、ノンノの前まで来ると、そこで足を止めた。


 蝶はまだ羊の頭にいる。


 ノンノは羊を見下ろし、それから蝶を見る。


「……なんで?」


 羊は何事もなかったように立っている。


 ノンノが試すように横へ二歩動いた。


 羊も顔を向け、そのまま二歩ついてくる。


「え?」


 反対へ動く。


 またついてきた。


 マティアスが測定具へ目を落とす。


「蝶を離してみろ」


「飛んで」


 虹色の蝶が羊の頭から浮かび、少し横へ移動した。


 羊もそちらを向く。


 蝶がさらに先へ進む。


 羊も歩いた。


「……ついていってる」


 ノンノが小さく呟く。


 蝶を左右へ動かす。


 羊も方向を変えた。


 速く飛ばせば遅れて追い、蝶が止まれば羊も足を止める。


 マティアスは何も言わず、その動きと測定具を交互に見ていた。


 ノンノが蝶をもう一度羊の頭へ戻す。


 リュシアが少し身を乗り出した。


「翅の周り……何か落ちています」


 エルディアスも目を凝らす。


 虹色の蝶が翅を動かすたび、その周囲から細かな光の粒が舞っていた。


 陽の下ではほとんど見えないほど小さい。


 光は羊の白い毛へ触れると、そのまま溶けるように消えていく。


「鱗粉か」


 マティアスが呟いた。


 ノンノが羊を見る。


「これが何かしてるんですか?」


「かもしれない」


 マティアスの視線は、まだ測定具と羊の間を行き来している。


「試してみろ」


「何をですか?」


「羊に何かさせてみる」


 ノンノは少し考えた。


 羊へ向き直る。


「……座って」


 羊は立ったままだった。


 耳が一度動く。


 それ以上は何もない。


「聞かないですね」


「蝶に言ってみろ」


 ノンノが今度は羊の頭にいる蝶を見る。


「羊を……座らせて」


 蝶が一度、大きく翅を開いた。


 虹色の鱗粉がふわりと舞う。


 羊が僅かに首を動かした。


 しばらくその場で立っていたが、やがて前脚を折り、ゆっくりと草の上へ身体を下ろした。


「……座った」


 ノンノの声が小さくなる。


 誰もすぐには答えなかった。


 羊は大人しく伏せたまま、頭の上には虹色の蝶が止まっている。


 マティアスは測定具をもう一度確認し、それから羊へ視線を戻した。


「魅了……というより、使役か」


 小さく漏れた言葉に、ノンノが顔を上げる。


 虹色の蝶は何事もなかったように翅を閉じた。


 姉の居場所につながるものは、結局まだ何も見つかっていない。


 カンナがどこにいるのかも、この魔導書を何のために送ってきたのかも分からない。


 ただ、古い魔導書から現れた小さな精霊が何をするものなのか、その輪郭だけはようやく見え始めていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。