第74話 召喚
「契約者の署名欄だ」
男の指先が示した先に、ノンノ・ミーゴという名前がある。
姉から言われるまま、なくさないための目印として書いただけの文字だった。ノンノはしばらく何も言わず、自分の署名と、その周囲を囲む細かな術式を見つめていた。
「……じゃあ、わたしはもう契約してるんですか?」
「そこまでは分からない」
男はすぐに首を横へ振った。
「本来の古代式なら、先に魔導書で精霊を呼び出して、その後にここへ署名する。君は名前を書いただけで、少なくとも自分では魔導書を起動していないんだろう?」
「はい。姉から届いて、中を少し読んで……最後に名前を書いただけです」
「なら、普通なら契約は成立していない。ただ、この本を普通の古代式として扱っていいかが分からない」
男は最後の頁から何枚か戻り、途中に加えられている線や書き込みを改めて確認した。元の術式を避けるように足されたものもあれば、その上へ重ねるように書かれたものもある。先ほど説明されたあとで見れば、素人のエルディアスにも、最初から一冊の本として完成していたものではないことくらいは分かった。
「でも、この署名が契約欄としてまだ機能しているなら……」
男は再び最後の頁を開き、ノンノの名前へ目を落とす。
「この本が契約者として認識するのは、君ということになる」
「わたしだけ?」
「少なくとも契約に関わる部分はな。他の人間が魔力を流しても正常に動かないか、途中で弾かれる可能性がある。逆に言えば、今の状態ではこの魔導書そのものが、ノンノ・ミーゴを使い手として指定している可能性が高い」
ノンノはわずかに眉を寄せた。
「名前を書いただけなのに……」
「古代式の魔導書では、その名前がただの記名じゃない。術式の中に契約者を組み込むためのものだからな」
そこで会話が途切れた。
ノンノは膝の上で両手を握り、自分の名前が書かれた頁を見続けている。
姉から送られてきた本。そして、その姉から最後の頁へ名前を書いておくよう言われていた。カンナがどういう意図でそう書いたのかは分からないが、今のノンノにとって目の前の魔導書は、姉が残した数少ない手掛かりの一つだった。
「さっき、魔力は流すなって言ったよな」
エルディアスが尋ねる。
「ああ」
男はあっさり認めた。
「今でも勧める気はない。何が起こるか分からないという点は変わっていないからな」
「でも、動かさないと分からないこともある?」
ノンノが顔を上げた。
男は少し黙った。
「ある」
「どんなことですか?」
「例えば、追加された術式のどこへ魔力が流れるのか。起動した時に元の術式と追加部分のどちらが先に働くのか。この状態では追い切れない」
男は金属の表紙を軽く撫でる。
「古い魔導書は、紙に書かれている術式だけで動くわけじゃない。表装にも綴じにも頁の配置にも意味がある。そこへ後から別の術式を組み込んだとなれば、実際に魔力が通った時の動きを見ないと分からない部分はどうしても残る」
「だったら……」
「だからといって、試した方がいいという話でもない」
先回りして言われ、ノンノが口を閉じた。
「調べるだけなら、時間を掛ければもう少し分かるかもしれない。ただ、全部を解読できる保証はないし、起動しなければ永遠に分からない部分もあるかもしれない。それだけだ」
ノンノはもう一度、本を見る。
「この本を動かしたら、姉のことが分かる可能性はありますか?」
「それも分からない」
男の答えは一貫していた。
「呼び出されるものが姉さんと関係しているのか、この改造が姉さんのためにされたものなのか、それすら判断できない。起動したところで姉さんの居場所が分かる、なんて話ではないと思った方がいい」
「でも、姉が送ってきた本なんですよね」
ノンノの声は小さかった。
「名前を書けって言ったのも姉です。このまま持ってるだけじゃ、何も分からないままですよね」
男は答えなかった。
エルディアスも口を挟まずに待った。
昨日この街へ着いたばかりの少女だ。港から出る前に倒れ、それでも翌朝には冒険者ギルドへ足を運び、姉の足跡を一つ見つけた。その流れを見ていれば、ここで本を鞄へ戻して終わりにするつもりがないことは分かる。
「……試してみたいです」
やがてノンノが言った。
「怖くないわけじゃないです。でも、姉を探すためにここまで来たので。この本にも何か残っているなら、確かめたいです」
「何が起きるか、本当に分からないぞ」
「はい」
「精霊が出るとも限らない。何も起こらないかもしれないし、本そのものが壊れる可能性だってある」
その言葉には、ノンノも少し迷った。
姉から送られた本だ。壊れる可能性を聞けば躊躇するのも当然だったが、それでも最後にはゆっくり頷いた。
「それでも、やります」
男は長く息を吐いた。
「……分かった」
今度はエルディアスが眉を寄せる。
「いいのか?」
「良くはない」
「どっちだ」
「俺ならやらない。だが、持ち主が事情を理解したうえで動かすと言うなら、止めて終わりにもできないだろう」
男は本を閉じた。
「だったら、少なくともここではやらない。何が起きるか分からないものを、人と魔導具が集まってる建物の中で起動する理由はない」
「街の外か」
「ああ。街道からも少し離れた場所がいい。何も起きなければそれでいいし、何か起きたとしても周囲に人が少ない方がいい」
危険だと分かっているわけではない。安全かどうかも分からない以上、市街地の中で試す理由がないというだけの話だった。
男は立ち上がり、本をノンノへ返した。
「準備をしてくる。魔力の流れを記録する道具くらいは持っていきたい」
「来てくれるんですか?」
「ここまで見て、起動するところだけ見ないというのも気になるからな」
そう答えてから、男はふと足を止めた。
「そういえば、まだ名乗ってなかったな」
確かに、ここまで話しておきながら名前を聞いていない。
「マティアス・クレイン。魔術ギルドで古式術式と古い魔導具の資料を扱ってる。精霊術そのものは専門外だが、こういう古いものは仕事の範囲だ」
「ノンノ・ミーゴです」
「それはもう署名で知ってる」
「あ……そうでした」
ノンノの耳がわずかに伏せる。
マティアスは小さく笑ってから、準備のため奥へ向かった。
その背中が廊下の先へ消えたところで、エルディアスはリュシアへ意識を向ける。
――ノンノの本のことが少し分かった。
返事はすぐに届いた。
――何か手掛かりがありましたか?
――古い精霊術の魔導書らしい。最後に書いてあったノンノの名前も、ただの持ち主の印じゃなかった。
――どういうことですか?
――契約する人間の名前を書く場所だった。
少し間が空いた。
――ノンノさんは、契約しているのですか?
――そこまでは分からない。本自体にかなり手が加えられてる。それで、ノンノが実際に魔力を流してみたいと言ってる。
――そうなのですか。
――街の中じゃ何が起きるか分からないから、郊外へ出ることになった。
今度の返事は早かった。
――でしたら、私も戻ります。
――修道院は大丈夫か?
――今日はマルタさんたちだけでも問題ありません。今から戻れば間に合います。
――街を出るところで待つ。
――分かりました。先に行かないでくださいね。
――行かない。
念話を終える頃には、ノンノが不思議そうにこちらを見ていた。
「どうした?」
「いえ。急に黙ったので」
「考え事だ」
「そうですか」
それ以上は気にした様子もなく、ノンノは魔導書を布で包み直した。
ほどなくしてマティアスが戻ってくる。
肩には先ほどまでなかった大きな鞄が掛かっていた。中には筆記具や紙の束のほか、円盤状の小さな魔導具が何枚か収められている。
「行けるか?」
「はい」
「体調が悪くなったら、その時点でやめるぞ。魔導書以前に、君は昨日まで寝込んでたんだからな」
「分かってます」
ノンノの返事を確認し、三人は魔術ギルドを出た。
*
街の出口へ着く頃には、朝の人通りも少し落ち着いていた。
荷車が門を抜け、外から運び込まれた野菜や木材が検められている。その脇で待っていると、やがて街の中から見慣れた銀髪が近づいてきた。
リュシアだった。
エルディアスたちを見つけると歩調を速め、三人の前まで来る。腰にはいつもの剣がある。
「お待たせしました」
「いや、今来たところだ」
そのやり取りを聞いて、ノンノがわずかに首を傾げた。
魔術ギルドを出るまで、リュシアも一緒に行くという話を聞いた覚えはない。けれど、エルディアスがどこかで伝えていたのだろうと思ったらしく、それ以上気にすることもなく表情を戻した。
リュシアはノンノへ目を向ける。
「体調は大丈夫ですか?」
「はい。少し休みながら来たので、今は平気です」
「無理はしないでくださいね」
「ありがとうございます」
ノンノは素直に頷いた。
リュシアは次にマティアスを見る。
「こちらは?」
「マティアス・クレイン。魔術ギルドの人間だ。この本を見てもらってる」
「マティアスです。あなたがリュシアさんですか」
「リュシア・フェル・ノルディアです。よろしくお願いします」
簡単に挨拶を済ませ、一行は門を抜けた。
街道をしばらく進んでから、マティアスの判断で脇へ外れる。踏み固められた道を離れると人の姿は急に減り、低い草が広がる土地の向こうに、まばらな木立が見えた。
完全に人里から離れる必要はない。
街の外壁がまだ見える程度の距離を保ったまま、街道から少し外れ、周囲に人影がない場所を探していく。
マティアスは何度か立ち止まって地面や周囲を確かめ、ようやく一つの場所を選んだ。
「ここにしよう」
緩やかな起伏のある草地で、近くに人家はない。街道も少し離れており、通行人から見れば何かをしていることは分かっても、すぐ近くを通るような場所ではなかった。
すぐには始めなかった。
昨日倒れたばかりのノンノを歩かせてきた以上、まず休ませる。
木陰になっている場所へ座り、水を何口か飲ませる。その間にマティアスは鞄から円盤状の魔導具を取り出し、少し間隔を空けて地面へ置いていった。
「それは何ですか?」
リュシアが尋ねる。
「周囲の魔力の変化を見るためのものです。精密な測定まではできませんが、どこへ魔力が流れたかくらいなら残せます」
「精霊が現れたかどうかも?」
「それは精霊次第ですね。そもそも本当に何かが現れるのかも分かりません」
マティアスの言葉に、ノンノが魔導書を抱え直した。
「まだやめてもいいぞ」
エルディアスが言う。
「……やります」
答えは変わらなかった。
休憩を終え、平らな石の上へ布を敷く。
ノンノがそこへ魔導書を置いた。
鈍い銀灰色の表紙が、昼前の光をぼんやりと返している。
「魔力を本へ流した経験は?」
マティアスが尋ねる。
「ないです」
「魔術そのものは?」
「水なら少しだけ使えます。低級術式くらいですけど」
「どの程度だ?」
「水を出したり、洗ったりするくらいです。島では家でも使ってました」
エルディアスはそこで、ノンノがまったく魔術を使えないわけではなかったことを知った。
精霊術を使えないことと、六属性の魔術を一切扱えないことは別の話だ。
「なら、魔力を動かす感覚は分かるな」
「はい」
「普段は水の術式を組むために魔力を流しているはずだ。今回は術式を作らなくていい。手元へ集めた魔力を、そのまま魔導書へ渡す」
マティアスは魔導書を指した。
「最初から強く流す必要はない。少量で反応を見る。何もなければ少しずつ増やす」
「分かりました」
ノンノが魔導書の前へ膝をつく。
右手を伸ばし、金属の表紙へ掌を載せた。
一度、大きく息を吸う。
「いきます」
「ゆっくりでいい」
ノンノが目を閉じた。
しばらくは何も起こらなかった。
エルディアスは魔力の動きへ意識を向ける。六属性の術式を扱う時とは違い、形を作る前の魔力そのものがノンノの掌へ集まっていくのが分かった。
量は小さい。
エルディアスが普段扱っているものと比べれば、ごく僅かなものだった。ノンノが言った通り、水を生み、洗い物をする程度なら十分というくらいだ。
その魔力が、掌から金属の表紙へ移った。
何も起こらない。
ノンノが目を開ける。
「入ってますか?」
「入ってる。もう少しだけ増やしてみろ」
マティアスが円盤の一つを見ながら答える。
ノンノは再び集中した。
流れ込む魔力が、ほんの少し増える。
次の瞬間だった。
銀灰色の表紙の縁に、細い光が走った。
「……光りました」
リュシアが小さく言う。
最初は一本だけだった。
やがて表紙の端から端へ、刻まれていた細い線が順番に光り始める。葉とも炎ともつかなかった中央の模様にも淡い光が入り、銀灰色だった金属が内側から照らされるように明るさを帯びていった。
「そのまま」
マティアスの声が低くなる。
ノンノは掌を離さない。
かちり、と小さな音がした。
誰も触れていない表紙が、わずかに持ち上がる。
ノンノが息を呑んだ。
そのまま表紙が開いた。
一枚目の紙が現れる。
風はほとんどない。それでも頁はひとりでにめくられ、最初の術式が記された場所で止まった。
一つの文字が淡く光った。
次の文字へ。
さらに次へ。
ノンノから流れ込んだ魔力が、書かれた文字列に沿って細い光となり、頁の上を走っていく。
「自動詠唱か……」
マティアスが呟く。
「ノンノは何も唱えてないぞ」
「ああ。この本自身が詠唱を処理してる」
術者が声に出すはずの言葉を、魔導書へ組み込まれた術式が代わりに辿っているらしい。
光は一定の速さで文字を進み、一つの文章を終えると次の行へ移った。頁の最後まで達すると紙が自動でめくられ、また新しい文字が最初から光り始める。
誰も言葉を発しなかった。
紙が擦れる音だけが、小さく続く。
マティアスは地面へ並べた魔導具と魔導書を交互に見ている。エルディアスも何が起きても術式を使えるよう杖へ手を添えていたが、今のところ周囲の空気に変化はない。
リュシアも少し離れた位置から本を見つめている。
頁が進む。
古い文字。
後から足された文字。
書き換えられた図。
それらを区別することなく、魔力の光が順に通り抜けていく。
「追加部分も動いてる」
マティアスが小さく言った。
「分かるのか?」
「少なくとも魔力は通ってる。無視されてはいない」
さらに頁がめくられた。
やがて、ノンノ自身にも意味が分かっていなかった最後の頁が現れる。
ノンノ・ミーゴ。
署名の周囲を囲む術式へ光が流れ、最後に名前そのものが淡く輝いた。
マティアスの表情が変わる。
ノンノも、自分の名前から目を離さなかった。
署名を抜けた光が頁の端まで到達する。
そこで、魔導書全体が強く輝いた。
「っ……!」
ノンノが目を細める。
エルディアスも反射的に腕を上げた。
白い光が一瞬だけ膨らみ、魔導書もノンノの手も、その輪郭すら見えなくなる。
熱はない。
衝撃もない。
風が吹き荒れることもなかった。
ただ、視界だけが白く染まった。
そして次の瞬間には、光は消えていた。
草原は変わらない。
木立も、空も、遠くに見えるセレイスの外壁もそのままだ。
ノンノも同じ姿勢で魔導書へ手を置いている。
「大丈夫か?」
「はい」
「気分は?」
「何ともないです」
リュシアも周囲を確認した。
「何か、出てきましたか?」
「見える範囲には何も」
エルディアスも答えながら辺りへ視線を巡らせる。
魔物の気配もない。
動物が近づいた様子もない。
召喚と聞いて想像するような大きな変化は、どこにも起きていなかった。
「失敗したのか?」
「いや……」
マティアスは魔導書の前へしゃがみ込んだ。
「まだ動いてる」
言われて見る。
強い光は消えている。
それでも金属の表紙には、ごく淡い明かりが残っていた。陽光の下では見落としそうなほど弱いが、縁を走る線と中央の模様だけが、確かに内側から光っている。
「ノンノ、まだ魔力を流してるか?」
「はい」
ノンノは掌を載せたまま答えた。
「わたしが流そうとしてるというより……少しずつ持っていかれてる感じがします」
「量は?」
「そんなに多くないです。水を出す時より少ないくらい」
マティアスは円盤状の魔導具を確認する。
「本への流れも続いてる。古代式なら、精霊を使役している間は魔導書へ魔力を送り続けるはずだ」
「じゃあ、何かは呼べてるのか?」
「そのはずなんだが……」
マティアスが立ち上がる。
四人で周囲を見渡した。
何もない。
草が風に揺れている。
遠くで鳥が一羽、木立から飛び立った。
それだけだった。
「……何もいませんね」
ノンノが肩の力を少し抜く。
「本当に失敗――」
「ノンノさん」
リュシアが言った。
声は大きくない。
だが、ノンノの言葉を止めるには十分だった。
「はい?」
「そのまま動かないでください」
ノンノの耳がぴたりと止まる。
「え?」
リュシアはノンノ本人ではなく、その肩を見ていた。
エルディアスも視線を追う。
最初は、陽の光が耳飾りへ反射しただけだと思った。
違った。
ノンノの左肩に、小さな何かが止まっている。
細い脚。
重なる二枚の翅。
蝶だった。
ゆっくりと翅が開く。
その瞬間、色が変わった。
赤から青へ、青から緑へ。紫、黄、淡い橙、そのどれとも言い切れない色まで、見る角度によって滑るように移り変わっていく。薄い翅そのものが光を宿しているようで、一度羽ばたくたびに虹色の輝きが表面を流れた。
ノンノは顔を動かせないまま、目だけを自分の肩へ向ける。
「……蝶?」
虹色の蝶は逃げなかった。
もう一度だけ美しい翅を開き、そのままノンノの肩で静かに休める。
その下では、古い魔導書の金属表装が、今も淡い光を放ち続けていた。




