第73話 契約
冒険者ギルドを出た二人は、そのまま街の中央寄りへ向かった。
診療所から冒険者ギルドまでは建物をいくつか挟んだ程度だったが、魔術ギルドまではもう少し距離がある。朝の仕事へ向かう人の流れに混じって石畳を歩きながら、エルディアスは時折隣を確認した。
ノンノの足取りは診療所を出た時から大きく変わっていない。昨日のようにふらつくこともなく、エルディアスが少し落としている歩調にも問題なくついてきている。ただ、本人が言っていた通り、完全に元通りというわけでもなさそうだった。
通りの途中で水を買い、一つをノンノへ渡す。
「飲んどけ」
「まだ喉は渇いてませんけど」
「渇いてからじゃ遅い」
ノンノは器とエルディアスを交互に見たあと、昨日のことを思い出したらしく素直に口をつけた。
「……はい」
「全部飲まなくていい。少しずつでいいって言われただろ」
「分かってます」
何口か飲むのを待ち、近くの日陰で一度休むことにした。ノンノはまだ歩けると言ったが、歩けなくなってから休ませても意味がない。店先の壁際に置かれた低い石へ腰を下ろすと、本人もそれ以上は逆らわなかった。
通りを行き交う人々をしばらく眺めてから、ノンノが口を開く。
「魔術ギルドって、冒険者ギルドとは全然違うんですよね?」
「扱ってるものが違うからな」
「魔法使いの仕事を紹介するところですか?」
「それもある。術式の登録や研究、魔導具の検査、事故を起こした魔術の調査、魔術師向けの依頼。古い術式や魔術書の記録も持ってる」
「じゃあ、姉の本も分かるかもしれないんですね」
「精霊術を知ってるやつがいればな」
ノンノが少し首を傾げた。
「魔術ギルドなのに、いないこともあるんですか?」
「精霊術は普通の魔術とは別だからな。ここで扱ってる大半は六属性の魔術だ」
エルディアスも精霊術について一般的な知識なら持っているが、専門的に学んだわけではない。これから詳しい人間へ見せるものを、中途半端な知識で先に決めつける必要もなかった。
「詳しいことは向こうで聞け」
「はい」
少し休んでから再び歩き出す。
やがて、通りの先に石造りの大きな建物が見えてきた。冒険者ギルドほど間口は広くないが、奥行きがあり、左右にも別棟が伸びている。入口の上には六つの記号を円状に並べた紋章が刻まれていた。
「ここですか?」
「ああ」
二人で中へ入る。
扉を抜けた途端、紙と乾燥させた薬草、それに金属や薬品が混ざった独特の匂いが鼻に入った。
人の数そのものは冒険者ギルドより少ない。ただ、何もしていない者もほとんどいなかった。束ねた紙を抱えて奥へ急ぐ職員、細長い箱を慎重に運ぶ男、杖を受付へ預けて説明している女。その向こうでは、布に包まれた魔導具らしいものを二人掛かりで卓へ載せている。
壁には入口と同じ六つの記号が並んでいた。
火、水、風、土、光、闇。
この世界で魔術と言えば、まずこの六属性を指す。
ノンノは忙しそうに視線を動かしていた。奥の部屋から何かが弾けるような音が聞こえるたび、薄茶色の猫耳までそちらへ向く。
「島にはこういうところはないのか」
「ないです。魔法を使える人も、そんなに多くありませんでしたから。姉も、セヴランさんが島へ来なかったら精霊術を習うことはなかったと思います」
「そうか」
順番を待って受付へ進む。
「精霊術に関係する本を見てほしい」
エルディアスが告げると、受付の女性が少し意外そうな顔をした。
「精霊術ですか?」
「ああ。この子の姉が精霊術士だった。その姉から送られてきた本がある」
ノンノも一歩前へ出る。
「姉は今、行方が分からないんです。本の内容が分かれば、何か手掛かりになるかもしれないと思って」
「本は今お持ちですか?」
「はい」
「でしたら、少々お待ちください。精霊術を専門に扱える者がいるか確認します」
女性はその場で本を預からず、後ろの棚から名簿を取り出した。何人かの名前を確認し、近くの職員とも話す。やがて戻ってきたが、表情を見る限り目的の人間はいなかったらしい。
「申し訳ありません。精霊術を専門にしている者は今日はおりません。ただ、古い魔術書や過去の術式に詳しい者ならおりますので、まずそちらで確認してもよろしいでしょうか」
「お願いします」
案内された長椅子へ移る。
ノンノは座ると、膝の上へ鞄を置いた。
「やっぱり、精霊術って珍しいんですね」
「人族の街ならな」
エルディアスは周囲を見る。受付で交わされている話も、ほとんどが六属性の魔術についてだった。火の術式が途中で崩れる、触媒を替えたら水術の出力が安定しなくなった、古い魔導具へ新しい術式を繋げられるか。
精霊について話している者は見当たらない。
「エルフが得意だって聞いたことがあります」
「ああ」
リュシアの顔が一瞬浮かんだ。
種族として得意であることと、個人が扱えることは別だ。身近に、その分かりやすい例がいる。
しばらく待つと、奥の廊下から一人の男が現れた。
五十を越えているように見える。灰色の髪を短く切り、長衣の袖を肘まで捲っていた。右手の親指と人差し指には黒いインクが染みつき、左手の爪の間には細かな白い粉が残っている。
「精霊術の古い本を持ってきたのは君たちか?」
「ああ」
「精霊術そのものは専門外だが、古式の魔術書ならある程度分かる。まず見せてもらってもいいかな」
ノンノは鞄を膝へ載せ、底から布包みを取り出した。
包みを開く。
鈍い銀灰色の金属板で表裏を覆われた、小ぶりな本が現れた。
手のひらより一回り大きい程度しかないが、普通の本より厚みがある。金属の表面には細かな擦り傷が重なり、角や縁も長く使われたことでわずかに摩耗していた。中央には、葉とも炎ともつかない細い模様が浅く刻まれている。
男は差し出しかけた手を止めた。
「……金属表装か」
「珍しいんですか?」
「今ではな」
ノンノへ確認してから両手で受け取る。持ち上げた瞬間、男の手がわずかに沈んだが、すぐに持ち直し、まず表面を斜めから光へ透かすように見る。それから中央の模様ではなく、縁に沿って走る細い線を指先で追った。
「これは装飾だけじゃないな」
「何が?」
エルディアスが尋ねる。
「表装そのものに魔力を通すための加工がある。かなり古い作りだ」
男は本を持ったまま周囲を見て、受付近くではなく奥にある小さな卓へ二人を案内した。
「ここで見よう。念のため、ほかの魔導具から少し離した方がいい」
「危ないものなんですか?」
「まだ分からないから離すんだよ」
男は椅子へ座ると、本を卓へ置いた。
慎重に金属の表紙を開く。
最初の頁からゆっくり目を通し、二頁、三頁と進んだところで一度止まった。さらに数頁をまとめてめくり、今度は前へ戻る。同じ箇所を別の角度から見たり、文字の並びを指で追ったりするうちに、表情が少しずつ真剣なものへ変わっていった。
「精霊術の本であることは間違いない」
ノンノの猫耳が立つ。
「やっぱりそうなんですか?」
「ああ。ただ、今の精霊術士が使っている本とはずいぶん違う」
「違う?」
男は本を二人にも見える向きへ少し回した。
「まず、今の精霊術をどこまで知っている?」
ノンノは少し考える。
「精霊と契約して、その精霊の力を借りて魔法を使う……くらいです」
「それで大筋は合っている」
男は頷いた。
「精霊にも六つの属性がある。精霊術士は、そのうち一体の精霊と契約して力を借りる。一人の術士が使役できる精霊は、生涯に一体だけだ」
「一体だけなんですか?」
「ああ。一度契約したあとで、別の精霊へ替えることはできない。だから精霊術士にとって、どの精霊と契約するかは生涯を決めるくらい大きなことになる」
男は近くの棚から一冊の薄い本を持ってきた。
「これは今使われている精霊術の入門書だ」
表紙を開き、ある頁を示す。文章の中に短い詠唱がいくつも区切られており、その横へ細かな説明が並んでいた。
「現代の精霊術は、まず精霊を感知できなければ始まらない。存在そのものを感じ取れない者には、そこに精霊がいることすら分からないからな」
「それができる人が少ないんですか?」
「少ない。人族では特にそうだ。エルフは比較的得意とされているが、それでも全員ができるわけじゃない」
男は詠唱文へ指を移した。
「それに、感知できたからといって契約できるとは限らない。契約の方法も一つじゃない。精霊の性質、土地、術士の系統、それまでどう接してきたかでも変わる」
「この詠唱は、契約するためのものじゃないんですか?」
「主には契約したあとのものだ」
男は首を横へ振った。
「契約した精霊がどういう性質を持ち、どのような形で力を引き出せるのか。その理解を深め、術者の意思を正確に伝えるための詠唱だ。精霊ごとに違いはあるが、使い続ける中で術士自身も扱い方を覚えていく」
エルディアスも頁を覗く。
「使役する時に魔力を使うんだったな」
「ああ。術者の魔力は、精霊へ働きかけ、力を借りるために使う。実際の魔法は精霊の力で成立するから、同じ規模の術を術者自身が一から組み上げるより、魔力効率はいい」
「じゃあ、普通の魔法より強いんですか?」
ノンノが聞く。
「条件が揃えばな。同じ程度の魔力を持つ術者なら、精霊術士の方が大きな力を出せることはある。ただ、そもそも精霊を感じられる者が少なく、そこから契約まで至れる者はさらに少ない。便利だからといって誰にでも使えるものじゃない」
男は現代式の本を閉じた。
「君の姉さんの師匠は人族なんだったか?」
「はい。セヴランさんという精霊術士です」
「人族で精霊術を教えられるほどなら、かなり珍しい部類だろうな」
それだけ言うと、再び金属表装の本へ戻った。
「問題はこっちだ」
何頁かを一気に前へ戻し、大きな円と文字列が描かれた頁を開く。
「これは今の方式じゃない」
「じゃあ、何なんですか?」
「古代詠唱式だ」
聞き慣れない言葉だった。
「古代詠唱式?」
エルディアスが尋ねる。
「今の精霊術が形になるより前に使われていた方式だ。考え方がまるで違う」
男は本の頁ではなく、まず金属の表装を指した。
「現代の術士は、自分で精霊を感知して、自分で契約する相手を見つける。だが古代式は、そこを魔導書にやらせる」
ノンノが瞬きをした。
「本が?」
「ああ。この魔導書へ術者が魔力を流す。それによって本に組み込まれた術式が動き、精霊そのものを呼び出す」
「精霊を感じられない人でもですか?」
「そこが古代式の特徴だ」
男ははっきり頷く。
「本人に精霊を感知する資質がなくても構わない。魔力を本へ流せるなら、魔導書の術式が精霊を呼び出す。本来なら精霊術士になれない者でも、魔導書を介して精霊へ接触できる」
ノンノの目が少し大きくなった。
「そんな方法があるなら、どうして今は使われてないんですか?」
「効率が悪すぎた」
答えは早かった。
男は本の縁を指先で軽く叩く。
「現代式では、契約した精霊へ働きかける時に術者の魔力を使う。精霊を使役していない間まで魔力を送り続ける必要はない」
「古代式は違うのか」
「ああ。精霊を呼び出すところから、契約後の使役まで、この魔導書が間に入り続ける」
男は中央の図をなぞった。
「精霊を動かしている間、術者はずっと魔導書へ魔力を流し続けなければならない。命令する瞬間だけじゃない。精霊を使役している間は、魔導書そのものを維持し続ける必要がある」
「それは食うな」
「かなりな。精霊の力を利用できても、そこへ至るまでの損失が大きすぎる。直接契約できる術士にとっては、わざわざ魔導書を挟む理由がない」
「だから廃れたんですね」
「そういうことだ。資質を問わず精霊を扱える利点はあったが、使い勝手では今の方式に劣る」
男はさらに頁を進めた。
そこで表情が変わった。
「ただし」
指が止まる。
「この本は、古代式の原本そのままじゃない」
頁には、本文とは明らかに違う筆跡が何種類も残されていた。余白へ短い説明を書き込んだ程度の場所もあれば、元の図へ新しい線を足した箇所もある。一部では文字の上から別の文字が重ねられ、元々そこに何が書かれていたのか判別しづらい。
さらに先には、紙の色そのものがわずかに違う頁まで混じっていた。
「後から足したのか?」
「おそらく」
男は綴じ目を確認した。
「この頁は元々この本に入っていなかった。こっちは元の術式を書き換えているし、この部分は別の術式を重ねてる」
数頁戻り、最初の図と見比べる。
「元が古代詠唱式だというところまでは分かる。魔力を流して精霊を呼び出し、魔導書を介して契約し、使役する。その骨格もある程度は残っている。ただ、その上へ手を加えられすぎていて、今この本が実際にどう動くのかは簡単には判断できない」
「姉が書き加えたんでしょうか」
ノンノが尋ねる。
「それも分からない。筆跡が一つじゃないからな。姉さんかもしれないし、師匠かもしれない。その前の持ち主が加えたものかもしれない。何人が手を入れたのかすら、今見ただけでは判断できない」
「何のために変えたかは?」
「もっと分からない」
男は改めて頁を追う。
「魔力効率を改善しようとしたのか、呼び出す精霊を限定しようとしたのか、それとも別の機能を加えたのか。推測ならいくらでもできるが、今ここで決めつけるべきじゃない」
「じゃあ、魔力を流せば分かるか?」
エルディアスが聞く。
男がすぐ顔を上げた。
「絶対にやるな」
それまでで一番強い返事だった。
「何を呼び出すように変えられているか分からない。元の召喚術式が正常に動くかも不明だ。何も起こらなければそれで済むが、何か起きた時に止められる保証がない」
「試せば分かるって話じゃないな」
「何が出るか分からないものを呼んで確かめる趣味があるなら、俺のいないところでやってくれ」
「ない」
「ならいい」
ノンノも本を見ながら頷いた。
「分かりました。魔力は流しません」
「それがいい」
男はさらに頁を進めていった。
古い術式。後から書き込まれた文字。追加された頁。いくつもの変更を一つずつ確認するうち、進む速度は次第に遅くなっていく。
「古代式は、精霊との契約もこの魔導書が仲介するはずなんだが……」
独り言のように呟き、また一頁めくる。
しばらくは何も言わなかった。
一頁、さらに一頁と進み、途中で一度前へ戻って書き加えられた術式を見比べる。それから再び後ろへ進んだ。
最後に近い頁を開いたところで、男の指が止まった。
「……」
そのまま動かない。
「どうした?」
エルディアスが尋ねる。
男は答えず、開いた頁を一度自分の方へ引き寄せた。周囲に書かれた細かな文字を確認し、一つ前の頁へ戻る。しばらく見比べてから、また最後へ進んだ。
それをもう一度繰り返す。
やがて、ゆっくりと本を二人の方へ向けた。
「これは誰が書いた?」
開かれているのは最後の頁だった。
紙の周囲を古い文字列と細い術式が囲んでいる。その上へ別の線や文字が幾重にも重なり、どこまでが元の形なのか、エルディアスには判別できない。
ただ、その中央近くにある一つだけは読めた。
ノンノ・ミーゴ。
ノンノの耳がぴたりと止まった。
「……わたしです」
「君が書いたのか?」
「はい」
ノンノは自分の名前を見つめたまま、少し間を置いた。
「姉から本が届いた時、手紙に書いてあったんです。なくさないように、最後の頁へ自分の名前を書いておけって。だから、言われた通りに書きました」
男は何も言わなかった。
もう一度、署名の周囲へ目を落とす。
「何かまずいんですか?」
ノンノが尋ねる。
男はしばらく答えず、指先で古い文字列を追った。頁を戻って前の術式と照らし合わせ、またノンノの名前へ視線を戻す。
やがて、ゆっくり口を開いた。
「本来の古代式では、魔導書が精霊を呼び出したあと、契約を望む術者が指定された場所へ自分の名を書く」
ノンノの視線が、自分の名前へ落ちる。
「それが、契約成立の手続きだ」
沈黙が落ちた。
「……じゃあ、これ」
「ここは本の持ち主の名前を書く場所じゃない」
指先がノンノの署名の手前で止まる。
「契約者の署名欄だ」




