第72話 照会
翌朝、エルディアスが宿の食堂へ下りると、リュシアはすでに朝食を半分ほど終えていた。
窓際の卓には焼いたパンと卵、薄い野菜のスープが並び、その脇には見覚えのない布袋が置かれている。袋そのものに心当たりはなかったが、中身が何なのかはすぐに分かった。
「乾いたのか?」
向かいの椅子を引きながら尋ねる。
「だいたいは。昨日、洗ったあとにエルが風を当ててくれたでしょう。朝まで掛けておいたので、もう大丈夫だと思います」
「ならよかった」
昨夜、夕食から戻ったあと、リュシアはノンノの旅装を洗った。港でエルディアスが水と風を使って応急的に汚れを落としていたとはいえ、長い船旅で染みついた汗や潮気までは残っていたらしい。
洗い終えた服から手で水を切り、最後だけエルディアスが弱い風を通した。そのまま一晩掛けておいたものが、今は布袋の中へ畳まれている。
エルディアスも朝食を頼み、運ばれてくるまでの間に今日の予定を確認した。
「修道院は?」
「ノンノさんのところへ寄ってから行きます。服を渡すと約束しましたから」
「そのあと俺がギルドへ連れていくんだな」
「体調が良ければ、です」
「分かってる」
リュシアが何か言いかけるようにこちらを見る。
「何だ」
「何も言ってません」
「言おうとしただろ」
「エルが分かっているなら大丈夫です」
昨日から何度似たようなやり取りをしたのか分からない。
運ばれてきた朝食へ手をつけながら、それ以上は広げなかった。
まず二人で診療所へ行く。ノンノが問題なく歩ける状態なら、リュシアはそこから南修道院へ向かい、エルディアスはノンノを冒険者ギルドへ連れていく。
姉の記録について何か分かれば、その先を考える。
昨日見せてもらった精霊術らしい本もあるが、そちらはノンノの体調次第だった。
◇
朝の診療所は、昨日の午後より少し慌ただしかった。
入口近くの長椅子には腕を布で吊った男が座り、その隣では咳をする老人が順番を待っている。薬草を煮る匂いと酒精の匂いが混じる中、受付の女性へ声を掛けて奥へ進むと、ノンノはすでに起きていた。
昨日のように寝台へ横たわっているのではなく、その端へ腰掛けている。
リュシアが買ってきた服を着たままだが、顔色はさらに戻っていた。完全に元気というわけではないものの、港で見た青ざめた顔とはまるで違う。伏せきっていた薄茶色の猫耳も今は自然に立ち、二人が近づく気配へ先に反応して入口を向いた。
「おはようございます」
「おはようございます。具合はどうですか?」
リュシアが寝台の脇へ近づく。
「かなりいいです。起きた時は少しふらっとしましたけど、昨日みたいに気持ち悪くはないです」
寝台脇には朝食だったらしい器が残っていた。柔らかく煮た麦と細かく刻んだ野菜が、底に少しだけ残っている。
「朝も食べられたのか」
「はい。全部じゃないですけど、半分よりは食べました」
「なら昨日よりはましだな」
「先生にも同じこと言われました」
ノンノが少し笑う。
医師は別の患者を診ているらしく、奥から低い話し声が聞こえていた。代わりに受付の女性が様子を見に来て、朝の診察では大きな問題はなかったことを教えてくれた。
長く歩き続けないこと。急に走ったり、重い物を持ったりしないこと。吐き気や眩暈が戻ったら我慢せず休むこと。食事も今日いっぱいは脂の多いものを避け、少量ずつ取ること。
それを守るなら、診療所を出て構わないという。
「よかったですね」
「はい」
リュシアは持ってきた布袋を寝台の上へ置いた。
「これも乾きましたよ」
ノンノが中を覗き、自分の旅装だと分かると、すぐに両手で取り出した。
「本当に洗ってくれたんですね……」
「洗うと言ったでしょう?」
「そうなんですけど」
上着を広げ、袖や裾を確かめる。
昨日は応急的に汚れを落としただけだったが、今日は布の色そのものが少し明るく見えた。船旅で染みついていた潮気もなくなっているらしく、ノンノは襟元へ顔を近づけてから、少し驚いたようにリュシアを見る。
「すごくきれいです」
「普通に洗っただけですよ」
「ありがとうございます」
大事そうに旅装を膝へ置いたところで、ノンノの手が止まった。
「……あ」
「どうしました?」
「昨日、この服のお金、払ってません」
今着ている上着の裾を摘まむ。
リュシアが着替えを買ってきてくれたこと自体は昨日から分かっていた。ただ、目を覚ました時にはまだまともに身体も動かず、そのあとも診察や姉の話が続いたため、代金についてはそのままになっていたらしい。
ノンノは慌てて自分の鞄を引き寄せた。
「いくらでしたか? ちゃんと払います」
「いりませんよ」
リュシアは即答した。
ノンノの手が革袋へ届く前に止まる。
「でも、買ってもらったものですし」
「ノンノさんにあげるつもりで買いましたから」
「でも、それじゃ昨日からずっと貰ってばっかりで……食べ物も、洗濯もしてもらってますし」
「では、その服はいりませんか?」
「え?」
ノンノが顔を上げた。
「いらないなら置いていっても構いません。でも、お金は受け取りません」
「そういう意味じゃないです。服は助かってますし、嫌じゃないです」
「なら、そのまま使ってください」
「でも、お金は――」
「プレゼントです」
リュシアが言い切った。
ノンノは革袋へ伸ばしかけた手を止めたまま、何か言おうと口を開く。
「嫌ですか?」
「嫌じゃないです」
返事だけは早かった。
「では決まりですね」
「……またそれですか」
「何がです?」
「嫌かどうか聞かれたら、嫌じゃないって答えるしかないじゃないですか」
「嫌なら嫌と言っていいですよ」
「嫌じゃないです」
「なら問題ありませんね」
リュシアは平然としている。
ノンノはしばらく何か言いたそうにしていたが、やがて諦めたように革袋を鞄へ戻した。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
「大事に着ます」
「普通に着てください。服ですから」
その返しに、ノンノも少しだけ笑った。
エルディアスは横で一連のやり取りを見ていたが、昨日の洗濯の件とほとんど同じだった。ノンノもそろそろ、この手の話でリュシアへ遠慮しても勝てないことを覚えた方がいい。
もっとも、本人が気づくまで教えるつもりもなかった。
「では、旅装に着替えますか?」
「はい」
リュシアが寝台を囲う布を引く。
二人が少し離れている間にノンノは着替えを済ませ、しばらくすると昨日港で見た旅装姿へ戻って出てきた。
汚れが落ちたせいか、印象は少し違う。
小柄な身体に合わせた動きやすい上着と下衣。飾り気はほとんどなく、丈夫さを優先した作りだ。海を越える長旅のために選んだのだろう。その中で、片耳に揺れる赤い石のイヤリングだけがよく目立った。
リュシアからもらった服は丁寧に畳み、自分の鞄へ入れる。
その鞄の底には、姉から送られてきた精霊術らしい本も入っていた。
荷物をまとめ終え、ノンノは寝台から立ち上がる。一度その場で止まり、足元を確かめるように重心を移したが、昨日のように膝が崩れることはなかった。
「大丈夫そうですね」
リュシアが様子を見ながら言う。
「はい。身体が少し重い感じはありますけど、普通に歩けます」
「それでも無理はしないでくださいね」
「分かりました」
三人で診療所の外へ出る。
朝の日差しが石畳を照らし、昨日の夕方とは違う人の流れができていた。南へ向かえば修道院。冒険者ギルドは同じ通りを少し進んだところにある。
「では、私は行きます」
リュシアがエルディアスを見る。
「何か分かったら教えてください」
「ああ」
「ノンノさんも、少しでも気分が悪くなったら無理しないでくださいね」
「はい」
「では、またあとで」
リュシアは南へ向かって歩き始めた。
ノンノはその背中を少し見送ってから、エルディアスの隣へ戻る。
「ギルドって、どっちですか?」
「すぐそこだ」
エルディアスが通りの先を示した。
建物をいくつか挟んだ向こうに、見慣れた冒険者ギルドの看板が見えている。
「近いんですね」
「だから昨日もあの診療所に連れていった」
「ああ……」
納得したらしい。
ギルドまでの短い道でも、ノンノは忙しそうに周囲を見ていた。昨日は街を見る余裕などなかったのだろう。
戸を開ける商店、朝の荷を運ぶ人足、王都の調査隊へ向かうらしい荷車。人族だけでなく、獣人やエルフ、時折混じるドワーフへも視線が動く。
「大きな街ですね」
「ミズナギとは違うか」
「全然違います。こんなに人がいるところ、初めてです」
「昨日は見てる余裕なかっただろ」
「全然なかったです。船を降りて、石の地面に着いたところまでは覚えてるんですけど、そのあとは気持ち悪いのしか……」
「俺に吐いたのは?」
ノンノの耳が止まった。
「……覚えてます」
「そうか」
「忘れてください」
「無理だろ」
「じゃあ、せめて言わないでください」
昨日より元気になったせいか、返事にも少し勢いが戻っている。
そんな話をしているうちに、もうギルドの入口へ着いた。
◇
冒険者ギルドの扉を開けると、朝の喧騒が一気に耳へ入ってきた。
掲示板の前には依頼票を確認する冒険者が集まり、いくつかの受付にも列ができている。装備を身につけたまま外へ向かう者と、朝一番の報告を済ませる者が入り交じり、昨日の午後とはまた違う忙しさだった。
エルディアスが中へ入ると、受付の一つにいたミュリカがこちらへ気づいた。その視線が隣のノンノへ移り、すぐに昨日の話と結びついたらしい。
順番が来るのを待ち、二人で受付へ進む。
「エルさん。昨日の子って、この方ですよね?」
「ああ」
「やっぱり。もう大丈夫なんですか?」
ミュリカがノンノへ向き直る。
「はい。昨日よりずっと良くなりました」
「それならよかったです。エルさんが猫族の女の子を背負って街を歩いてたって話なら、昨日ずいぶん聞きましたけど」
「まだ言うのか」
「珍しかったんでしょうね」
ノンノが少し不思議そうにエルディアスを見る。
「珍しいんですか?」
「知らない女を背負って街を歩くことなんて普通ないだろ」
「それは……そうですね」
ノンノは一度納得しかけてから、なぜかもう一度エルディアスを見る。
「何だ」
「いえ」
ミュリカが小さく笑い、それから仕事の顔へ戻った。
「それで、今日は依頼ではないんですよね?」
「ああ。この子の姉について調べたい」
エルディアスはそれだけ言って、ノンノを見る。
自分の事情は本人から話した方がいい。
ノンノも意図を察し、受付へ少し近づいた。
「ノンノ・ミーゴです。姉を探しています。名前はカンナ・ミーゴ。わたしより先にミズナギ島を出て、大陸で冒険者をしていました」
ミュリカは記録用の板を引き寄せる。
「年齢を教えてもらえますか?」
「十八です」
一瞬だけ、ミュリカの手が止まった。
「十八?」
「はい」
「……すみません。もう少し下かと思いました」
「よく言われます」
慣れているらしい。
ノンノは気にした様子もなく、そのまま姉について分かっていることを話した。
「姉は精霊術士です。島へ旅で来た精霊術士の人に弟子入りして、その人と一緒に島を出ました。師匠は人族で、セヴランって呼ばれていたことしか、わたしは知りません」
「セヴランという人族の精霊術士ですね」
「はい。それ以上は、わたしも知らなくて」
「大丈夫です。カンナさんと一緒に動いていた精霊術士なら、二人分を合わせて探せますから」
ミュリカは細かな質問で話を切らず、ノンノの説明を聞きながら必要な部分だけ書き留めていった。
ミズナギ島から大陸へ来る定期船はセレイスへ着くため、カンナとセヴランも一度はこの街を通っているはずであること。その後は各地を旅しながら冒険者として仕事をし、カンナは半年に一度ほど島へ手紙を寄越していたこと。
最後の手紙はおよそ一年前。その時は西方の街ラゼンで、セヴランとともにいくつかの依頼を受けていると書かれていた。
それを最後に手紙が途絶え、帰ると言っていた時期もすでに過ぎている。
ノンノが一通りを説明すると、ミュリカは書いた内容を確認した。
「分かりました。まず、この支部を利用した記録がないか調べます。カンナ・ミーゴさん、精霊術士。同行者は人族の精霊術士で、セヴランという呼び名。お姉さんが島を出たのは五年ほど前で間違いありませんか?」
「はい。そのくらいです」
「それなら探せると思います。少し待っていてください」
ミュリカは席を立ち、奥の記録棚へ向かった。
二人は受付の端へ移る。
すぐに終わるかと思ったが、ミュリカは何冊かの帳面を確認し、時折ほかの職員にも何か尋ねている。一冊を開いては別の棚へ移り、薄い板に書かれた番号と照らし合わせていた。
ノンノは黙ったまま、その様子を追っている。
「座るか?」
エルディアスが近くの長椅子を示した。
「大丈夫です」
「昨日倒れたやつが言っても信用ないぞ」
「本当に大丈夫です。ちょっと立ってるくらいなら」
顔色を見る。
少なくとも無理をしているようには見えない。
「ならいいけど、気持ち悪くなったら言えよ」
「分かってます」
しばらくして、ミュリカが古い帳面と薄い記録板を持って戻ってきた。
「ありました」
ノンノの猫耳がぴんと立つ。
「本当ですか?」
「はい。書かれている内容を見る限り、お姉さんで間違いないと思います」
ミュリカは帳面を受付へ置き、該当する記録を確認しながら説明した。
「カンナ・ミーゴ。精霊術士。四年少し前に、この支部を利用しています。同行者に人族の精霊術士が一名。記録にはセヴランとあります」
ノンノが息を止めた。
「姉です」
「二人とも同じ護衛依頼を受けています。西へ向かう商隊に同行する短期の仕事ですね。商隊の最終目的地までではなく、途中の街までの契約です。この依頼のあと、二人がセレイス支部を再び利用した記録はありませんから、そのまま西へ移動した可能性が高いと思います」
カンナが確かにセレイスへ来たこと。
セヴランという師匠と一緒だったこと。
そこから西へ向かったこと。
姉から届いていた手紙だけではなく、別の記録からも同じ足取りが確認できた。
ノンノはしばらく帳面を見つめていた。
「……本当に、ここに来てたんですね」
「記録上は間違いありません。ただ、これは四年以上前の情報です。今の居場所を探すなら、最後の手紙に書かれていたラゼンを調べる方がいいでしょう」
ラゼン支部の記録をセレイスから直接見ることはできないが、照会は出せる。
ミュリカはそのまま、カンナ・ミーゴとセヴランという精霊術士がラゼン支部を利用した記録があるか、確認できるなら最後にいつ利用したかを問い合わせること、その返事が戻るまでにはある程度の日数が必要になることまでまとめて説明した。
「お願いします」
ノンノは迷わず答えた。
「手数料は掛かりますか?」
「通常の照会手数料だけです。それほど高くはありません」
「払います」
ミュリカから金額を聞き、ノンノは鞄から革袋を取り出して必要な硬貨を数えた。
エルディアスは手を出さない。
診療所の費用と同じだ。本人が準備してきた金で払えるものを、わざわざ代わりに出す理由はなかった。
ミュリカは硬貨を受け取り、照会用の記録へ必要事項を書き足した。
「しばらくセレイスにいる予定ですか?」
「はい。そのつもりです」
「では、返事が届いた頃にここへ確認に来てもらっても構いません。宿が決まったら、宿名を教えてもらえれば、返事が届いた時に伝言を出すこともできます」
「まだ決めてない」
エルディアスが言う。
「今日探す予定です」
ノンノが続けた。
「では、決まってから教えてください。セレイス側で今すぐ確認できるものは、このくらいですね。四年前の依頼主や商隊について調べ直すこともできますが、最後に手紙が届いたのが一年前なら、まずラゼンからの返事を待つ方がいいと思います。必要になれば、そのあとで古い記録を追えますから」
「そうします」
ノンノが頷く。
手掛かりがあるからといって、古いものからすべて追えばいいわけではない。より新しい記録が残っている可能性があるなら、まずそちらを確認する方がいい。
エルディアスも異論はなかった。
「ありがとう、ミュリカ」
「どういたしまして」
ミュリカはそう答えてから、ノンノを見た。
「今日は自分で歩けているみたいで安心しました」
「はい。もう大丈夫です」
「昨日はエルさんが背負ってきたって聞いた時、何事かと思いましたから」
「またそれか」
「昨日の話ですよ」
ノンノが小さく笑った。
◇
ギルドを出ると、朝より人通りが増えていた。
二人は入口を塞がないよう壁際へ寄った。ノンノはすぐには歩き出さず、鞄の肩紐を握ったまま、しばらく黙っている。
「一つは分かったな」
エルディアスが言った。
「はい」
「姉がセレイスを通ったのは確かだ」
ノンノはもう一度頷く。
「手紙に書いてあったこと、本当だったんですね」
「疑ってたのか?」
「疑ってたわけじゃないです。ただ……家にあるのは全部、姉が送ってきたものだったから」
ノンノは片耳に揺れる赤いイヤリングへ触れた。
「手紙も、これも、本も。姉から届いたものばかりで……姉じゃない人が残したところに、姉の名前があるのを見るのは初めてです」
四年以上前の、短い記録でしかない。
それでも、カンナ・ミーゴという精霊術士が確かにセレイスへ来て、人族の師匠セヴランとともに西へ向かったことは確認できた。
ノンノにとっては、それだけでも意味があるのだろう。
「ラゼンからの返事は待つしかないな」
「はい」
ノンノはそう答えてから、自分の鞄へ視線を落とした。
その中には、まだもう一つ、姉から送られてきたものがある。
「エルディアスさん」
「何だ」
「この本も、見てもらっていいですか?」
「魔術ギルドでか」
「はい」
ノンノは一度、自分の身体の具合を確かめるようにゆっくり息を吐いた。
「少し疲れてますけど、気持ち悪くはないです。まだ朝ですし、歩けます」
すぐに大丈夫だと言い張らず、自分で状態を確かめてから答えている。
顔色も悪くない。
足元にも、診療所を出た時から変わった様子はなかった。
「途中で具合が悪くなったら、その時点で終わりだからな」
「はい」
返事と同時に、ノンノの猫耳が少し起きた。
「じゃあ行くか」
エルディアスが歩き出す。
ノンノもすぐ隣へ並んだ。
ラゼンへは、カンナ・ミーゴとセヴランについての照会が送られる。
そしてノンノの鞄には、まだ中身の分からない一冊の本が残っている。
二人は次の手掛かりを確かめるため、魔術ギルドへ向かった。




