第71話 夕餉
ノンノが残っていたスープを飲み終える頃には、診療所の窓から差し込む光もずいぶん傾いていた。
港から運び込まれた時に比べれば顔色は戻っている。完全に伏せていた猫耳も今は半ばまで起きており、受け答えにも力があった。それでも長く話したせいか、器を置いたあとは枕へ背を預けたまま動こうとしない。
様子を見に来た医師はノンノの瞼を持ち上げ、脈を確かめると、立ってみるようには言わなかった。
「今日はここで休んでいきな。船酔いだけなら宿へ帰してもいいが、マナ酔いまで重なってる。今は楽でも、夜になって吐き気や眩暈が戻ることはある」
ノンノが寝台の上で身を起こす。
「ここに泊まってもいいんですか?」
「空いてる寝台があるからな。もちろん一晩分は掛かるが、今から宿を探して歩き回るよりはいい。朝になってちゃんと立てるようなら、その時に出ればいい」
ノンノは少し考えてから頷いた。
「お願いします」
その返事を聞いた医師は受付へ声を掛け、必要な薬だけ指示して奥へ戻っていった。
しばらくして受付の女性が、一晩分の寝台代と今日使った薬、診察を合わせた金額を伝える。
ノンノはすぐに自分の鞄を引き寄せた。船旅のためか革には細かな擦れがあり、底の方には塩が白く残っている。中から小さな革袋を取り出すと、銀貨と銅貨を一枚ずつ確かめながら必要な分を数えた。
「これで足りますか?」
「ああ、大丈夫だよ」
受付の女性が硬貨を受け取る。
ノンノは目に見えてほっとした。
海の向こうから一人で来たうえ、港では自分で立つことさえできなかったため、エルディアスには頼りない印象の方が先に残っていた。だが、旅費だけでなく、着いてから必要になる金もきちんと準備してきたらしい。
無計画に島を飛び出したわけではない。
「じゃあ、これは私が持って帰りますね」
隣でリュシアが言った。
ノンノがそちらを見る。
リュシアが手にしていたのは、寝台脇に畳まれていた旅装だった。港でエルディアスが水と風を使って応急的に汚れを落としてはいるが、そのまま着直すにはまだ気になる。
「え?」
「洗って、明日持ってきます。今夜はその服がありますから」
ノンノは自分が今着ている服を見下ろした。
それもリュシアが買ってきたものだ。
「いえ、でも……着替えまで買ってもらったのに、洗濯までしてもらうのは……」
「今日、自分で洗えますか?」
「今日は無理でも、明日なら」
「明日はお姉さんのことを調べたいのでしょう?」
「そうですけど……」
ノンノはなおも困ったように旅装とリュシアを見比べる。
「それに、こんなにいろいろしてもらうのは悪いです。自分の服ですし、自分で――」
「嫌ならしませんけど」
リュシアがあっさり言った。
ノンノの耳が動く。
「え?」
「私に洗われるのが嫌なら置いていきます。そうでなければ、今夜洗って明日持ってきます」
「嫌じゃないです」
返事だけは早かった。
少し大きな声が出たことに気づいたのか、ノンノの耳がわずかに伏せる。
「……嫌じゃないです」
「では、持って帰りますね」
「はい……お願いします」
それ以上は何も言えなくなったらしい。
リュシアは畳んだ旅装を布袋へ入れた。
エルディアスはそのやり取りを横で見ていたが、口を挟む必要はなかった。リュシアがああいう言い方をした時点で、ほとんど決まっている。
「明日の朝、持ってきます。その時に体調も見ましょう」
「ありがとうございます」
ノンノが頭を下げる。
「動けそうなら、そのあと冒険者ギルドですね」
「はい。まずそこへ行ってみます」
ノンノが答えたところで、リュシアの視線がエルディアスへ向いた。
「エル」
「何だ」
「明日はノンノさんを冒険者ギルドへ連れていってあげてください」
「決定なのか?」
「はい」
迷いのない返事だった。
ノンノが慌てて二人を見比べる。
「場所さえ教えてもらえれば、一人でも行けると思います。今日みたいにはならないと思うので」
「それは明日の朝にならないと分かりません」
リュシアは穏やかな口調のまま言った。
「知らない街ですし、エルならギルドの受付とも顔見知りです。お姉さんの事情を説明するにも、一緒にいた方が早いでしょう?」
「ミュリカに聞けばいいだけではあるけどな」
「なら問題ありませんね」
「まだ引き受けるとは言ってないぞ」
「行かないんですか?」
エルディアスはノンノを見る。
こちらへ向けられた二つの目が、申し訳なさそうに少し細くなる。
「……ギルドまでなら連れていく」
「ありがとうございます」
ノンノが頭を下げた。
「すみません。何から何まで」
「明日、歩けるならな。無理ならここで寝てろ」
「はい」
返事は素直だった。
姉から送られてきた本については、明日の状態を見てから考えることになった。
精霊術に関係するものらしいことまではリュシアにも分かったが、それ以上は専門外だ。魔術ギルドへ持ち込めば何か分かる可能性はあるものの、冒険者ギルドと両方を一日で回る必要はない。
「まずはお姉さんの記録ですね」
リュシアが言う。
「冒険者ギルドで何か分かれば、そこから次を考えればいいと思います」
「そうだな」
エルディアスも同意した。
最後の手紙に書かれていたのは、西方の街ラゼン。
そこへ向かうべきなのか、セレイスから問い合わせるだけで何か分かるのか。そもそもカンナの記録がどこまで残っているのかさえ、今は分からない。
先のことを決めるには情報が足りなかった。
リュシアは寝台脇の水差しにまだ水が残っていることを確かめ、旅装を入れた布袋を持ち上げる。
「夜にまた気分が悪くなったら、我慢しないで先生か受付の方を呼んでくださいね」
「はい」
「無理に食べなくてもいいですけど、水は少しずつ飲んでください」
「分かりました」
「明日の朝には来ますから」
「……はい」
ノンノは答えながら、一度だけリュシアの顔を見た。
すぐに視線を戻し、布団を少し引き上げる。
「本当にありがとうございました。二人とも」
「まだ明日もあるけどな」
エルディアスが言うと、ノンノが小さく笑った。
「それも、お願いします」
エルディアスは立ち上がった。
「じゃあ、今日は寝てろ」
「分かってます」
今日、自分が何度もリュシアへ返したものと同じ言葉だった。
何となく言い返したくなったが、やめた。
そのまま診療所を出る。
少し遅れて、ノンノの旅装が入った袋を提げたリュシアも続いた。
◇
外へ出ると、すでに夕方だった。
西へ傾いた日が屋根や建物の上階だけを赤く照らし、通りの下半分は長い影へ沈んでいる。昼間まで絶えず行き交っていた荷車も少し減り、市場では店じまいの準備が始まっていた。
代わりに、食堂や酒場には明かりが灯り始めている。
焼いた肉の匂い。
煮込み料理の湯気。
昼の仕事を終えた職人たちの声。
朝から騒がしかったセレイスが静かになるわけではなく、街を動かす人間だけが入れ替わっていく。
しばらく並んで歩いたところで、リュシアが口を開いた。
「夕食、どうしますか?」
「宿でいいんじゃないか」
「今日は外で食べませんか?」
エルディアスは横を見る。
「珍しいな」
「そうですか?」
「最近は修道院で食ってきたり、宿で適当に済ませたりしてただろ」
「だからです」
リュシアは布袋を持ち直した。
「二人で普通に夕食を食べに行くのも、しばらくありませんでしたから」
言われてみればそうだった。
第二層から戻って以降、王都側への報告や聞き取りが続き、それが落ち着いたあとは修道院の件が始まった。二人で行動している時間は変わらず長いが、何の用事もなく店へ入って食事をする機会は減っている。
「何が食いたい?」
「エルが決めてください」
「言い出したのはそっちだろ」
「では、温かいものがいいです」
「だいたい全部そうだろ」
「おいしいものなら何でもいいです」
「さらに分からなくなったぞ」
リュシアが小さく笑った。
結局、二人は大通りから一本入った場所にある食堂へ向かった。
以前にも何度か使った店だ。冒険者向けの酒場ほど騒がしくなく、高級店ほど気取ってもいない。近隣の職人や商人が仕事帰りに使うような店で、値段も手頃だった。
夕食時にはまだ少し早く、卓は半分ほど空いている。
二人は壁際の席へ座った。
エルディアスは羊肉と豆を煮込んだ料理を頼み、リュシアは鶏肉と根菜の焼き物を選んだ。それにパンと、薄く割った果実水を二人分。
注文を取りに来た店員が離れると、リュシアは膝の上に置いた布袋を一度見た。
「宿へ戻ったら、これを洗わないといけませんね」
「自分で言い出したんだろ」
「もちろん洗いますよ」
「俺のも洗わせればよかったか」
「もう自分で洗ったのでしょう?」
「洗った」
「なら駄目です」
「何が駄目なんだ」
「二度洗う必要はありません」
「そういう意味じゃない」
リュシアは分かっているのかいないのか、何も答えなかった。
ほどなくして果実水が運ばれてくる。
リュシアは一口飲んでから、今日の修道院の話を始めた。
「マルタさんのお知り合い、今日から来てくれました」
「使えそうだった?」
「使える、という言い方はどうかと思いますけど……かなり慣れている方でした」
「元冒険者なんだろ」
「はい。野営で料理を担当することも多かったそうです。大人数の食事そのものより、残った材料をどう使うかとか、少ない薪で何品作るかとか、そういうところが上手でした」
マルタとはまた違うタイプらしい。
市場でも値段だけを見て買うのではなく、何日持つか、どの料理へ回せるかまで考えて選んでいたという。
「子供たちも少し手伝いました。刃物を使わない作業だけですけど、豆を選ったり、野菜を洗ったり」
「前より回るようになってるな」
「はい。まだ私がいないと困るところはありますけど、全部を私がやる必要はなくなってきました」
そこまで言って、リュシアは少し考える。
「明日も午前中は行くつもりです。今日来てくれた方へ、まだ説明しきれていないことがありますから」
「午後は?」
「今のところ空けてあります」
「ノンノのところに来るつもりか?」
「必要なら」
即答ではなかった。
「まずはエルがギルドへ連れていってください。私の方が先に終わったら念話します」
「ああ」
そこへ料理が運ばれてきた。
羊肉と豆の煮込みからは、香草と脂の匂いが立っている。肉は長く煮込まれて柔らかく、匙で触れただけでも崩れそうだった。
リュシアの皿には、表面を香ばしく焼いた鶏肉と、玉葱、蕪、芋が一緒に盛られている。
二人とも食べ始める。
しばらくは会話も途切れた。
何かを相談するためでもなく、誰かへ説明するためでもなく、ただ同じ卓で夕食を取る。
それだけの時間は、確かに久しぶりだった。
エルディアスはパンを千切って煮込みへ浸した。
「ノンノの姉のこと、どう思う?」
先に聞いたのはリュシアだった。
「まだ何とも」
「ですよね」
「一年手紙がないってだけじゃ、何があったかは分からない。冒険者なら半年や一年、同じ場所にいないこともある」
「でも、帰ると言っていた時期も過ぎている」
「ああ。だからノンノが心配するのも分かる」
カンナが単に手紙を書けない場所へ行っただけなのか。
別の街で冒険を続けているのか。
あるいは何かあったのか。
今の情報ではどれも否定できない。
「まず明日だな」
エルディアスは続けた。
「セレイスのギルドに記録があるか確認する。姉がここで依頼を受けてなかったとしても、ラゼンへ問い合わせる方法くらいは聞けるかもしれない」
「本は?」
「ノンノが元気なら、そのあと考える。ただ、ギルドで何か分かったなら先にそっちだ」
「私もそれでいいと思います」
リュシアが鶏肉を切り分ける。
「マナ酔いが残っているのに、一日で街中を連れ回す必要はありませんから」
「分かってる」
「本当に?」
エルディアスは匙を止めた。
「今日それ、何回目だ?」
「何がですか?」
「分かってるのかって聞くやつ」
リュシアは少し考えた。
「何回でしょう」
「朝から何度も聞かれてる気がする」
「では、もう少し信用される行動をしてください」
「今日一日で何したんだよ」
「知らない猫族の方を拾ってきました」
「拾ってない」
「背負ってきたんでしょう?」
「倒れたからだ」
「明日もその方を連れて歩くことになりました」
「決めたのはお前だろ」
「そうでした」
リュシアは平然と答え、根菜を一つ口へ運んだ。
エルディアスは何も言えなくなった。
少しして、今度は第二層の話へ移った。
「王都の調査は、まだ続いているんですよね?」
「ああ。今日ギルドに行ったら補給依頼が増えてた」
「新しい情報は?」
「朝ミュリカから聞いたのと変わらない。塔から村までの道はほぼ確認できた。ラウルたちはまだ村の周辺を調べてる。ニルスとクラリスも、向こうでは捜索中」
リュシアの手が一度だけ止まった。
それ以上の反応は見せない。
店内には他の客もいる。
二人だけが知っていることを口にする場所ではない。
「先へ進む道は?」
「まだ見つかってないらしい」
「そうですか」
「王都からも人を追加するって話だった。しばらくは続くだろうな」
リュシアは静かに頷いた。
第二層がすでに終わっていることを、王都側は知らない。
村で何があったのかも。
ニルスとクラリスがなぜ見つからないのかも。
エルディアスとリュシアだけが知っている。
「私たちは、しばらくセレイスにいていいんでしょうか」
「今すぐダンジョンへ戻る理由はない」
エルディアスは答えた。
「向こうは王都が調査してる。俺たちが入っても、今は同じ場所を見ることになるだけだ」
「では、しばらくはこのまま?」
「修道院もあるしな」
「それにノンノさん」
「それは今日増えただけだ」
リュシアが少し笑う。
「でも、明日は予定に入っています」
「ギルドまでだぞ」
「はい。明日のところは」
「その言い方やめろ」
「何も決めていませんよ」
実際、その通りだった。
ノンノの姉について何が分かるかによっては、セレイスで話が終わるかもしれない。
誰かがラゼンへ問い合わせれば済む可能性もある。
逆に、何の記録も残っていないかもしれない。
今はまだ、先を決める段階ではない。
「明日は俺が診療所へ行く。体調が良ければギルドへ連れていく」
「はい」
「お前は修道院」
「午前中だけです」
「ギルドで何か分かったら念話する」
「お願いします」
「そのあとノンノの宿も探した方がいいだろうな。診療所にずっと泊まるわけにはいかない」
「あ」
リュシアが僅かに目を見開いた。
「考えてなかったのか?」
「……そこまで考えていませんでした」
「珍しいな」
「エルも今気づいたのでしょう?」
「俺は今気づいた」
「同じじゃないですか」
「先に気づいた」
「ほんの少しです」
明日の用事が一つ増えた。
ノンノの体調を確認する。
冒険者ギルドへ行く。
必要なら、当面泊まる場所を探す。
魔術ギルドへ行くかどうかは、そのあとで決めればいい。
それ以上は考えなかった。
料理を食べ終えた頃には、店内の客もかなり増えていた。
仕事帰りの男たちが酒を頼み、入口近くでは家族連れが空いた卓へ座る。窓の外もすっかり暗くなり、向かいの店先には夜用の灯りが出されている。
エルディアスは最後に残った果実水を飲んだ。
「帰るか」
「はい。私は洗濯がありますから」
「忘れてなかったか」
「忘れませんよ」
リュシアは足元に置いていた布袋を持ち上げた。
中にはノンノの旅装が入っている。
「明日の朝までに乾きますかね」
「風使えば?」
「自分で洗った服には使ったのでしょう?」
「ああ」
「では、少し借ります」
「俺のオドを?」
「エルの魔法を、です」
「分かってるよ」
エルディアスは立ち上がった。
二人は代金を払い、夜のセレイスへ出る。
明日の朝になれば、また予定が一つ増える。
だが今夜のところは、ノンノが診療所で眠り、自分たちは宿へ戻るだけだった。




