第69話 介抱
エルディアスは港の人波の端に立ったまま、自分の胸元と、腕の中でぐったりしている猫族の少女を順に見た。
上着はひどい有様だった。
少女の方も無事ではない。吐いた時に身体を折ったせいで、胸元から袖にかけて少し汚れている。先ほどまで青白かった顔には恥ずかしさでわずかに赤みが戻っていたが、それももう消えかけていた。伏せた耳は頭へ張りつくように寝たまま動かず、身体からは完全に力が抜けている。
このまま港へ寝かせておくわけにはいかない。
すぐ脇では荷車が行き交い、船員が縄を引き、人足たちが積み荷の番号を怒鳴り合っている。大型船から降りた客もまだ途切れておらず、立ち止まっていれば邪魔になる場所だった。
まずは片づけるしかない。
エルディアスは少女を桟橋脇の低い石積みに座らせようとしたが、腰を下ろさせて手を離した途端、身体がそのまま横へ傾いた。
「おい」
「……うぅ……」
返ってきたのは呻き声だけだった。
仕方なく肩を支え、背中を石積みへ預ける。完全に意識を失っているわけではないらしく、身体を動かすと眉を寄せ、喉の奥で小さく唸った。ただ、自分で姿勢を保つだけの力は残っていないらしい。
エルディアスは杖を抜いた。
近くの作業用の水桶から少量を借り、水の術式を薄く広げる。布そのものを濡らすのではなく、表面へ水膜を滑らせるようにして汚れを浮かせ、下へ落としていく。
完全に元通りにはならない。
染み込んだ臭いまでは消しきれないし、宿へ戻れば洗い直す必要もある。それでも、このまま街中を歩くよりはずっとましだった。
水を切ったあと、今度は風を弱く流す。
濡れた布が膨らまない程度の風を当て、水気だけを少しずつ飛ばしていく。
次に少女を見る。
胸元と片方の袖が汚れていた。
「少し触るぞ」
「……ん……」
返事になっているのかどうかも怪しい。
少女が着たままの状態で処理できるところだけを水で流す。首元へ入らないよう気をつけ、胸元と袖の表面を洗ってから、同じように風で乾かした。
身体を起こされている間も少女はほとんど目を開けず、時折耳が震えるだけだった。
最後に石畳へ残ったものを水でまとめ、港の排水溝へ流す。濡れた周囲も風で軽く乾かしてから、ようやく杖を下ろした。
少なくとも、港へ後始末まで押しつけることはない。
問題は、まだそこにいた。
少女は石積みにもたれたまま、浅い呼吸を繰り返している。
「歩けるか」
「……むり……」
今度はどうにか言葉になった。
「そうか」
聞くまでもなかった。
肩から落ちかけていた少女の鞄を拾い、自分の肩へ掛ける。小さな革鞄だった。長旅の荷物にしてはずいぶん少ないが、今ここで中を調べる理由はない。
エルディアスは少女の前へしゃがみ込んだ。
「背負うぞ」
「……え……」
「このまま置いていけない」
「でも……」
「歩けないんだろ」
「……はい……」
か細い声だった。
両腕を自分の肩へ回させ、そのまま身体を背負い上げる。
やはり軽い。
見た目から小柄なのは分かっていたが、背負ってみると思っていた以上だった。華奢な身体はほとんど負担にならず、むしろ自分で掴まっていられないことの方が問題だった。
少女の腕が首元からずり落ちそうになる。
「落ちるなよ」
「……がんばります……」
「頑張れるなら歩けそうだけどな」
「それは……むりです……」
そこだけは返してきた。
だが、言い終わると額がエルディアスの肩へ落ち、それきり黙った。
頭の横では、薄茶色の耳が完全に伏せている。歩き始めると赤い耳飾りだけが小さく揺れた。
港の近くにも診療所はある。
ただし船員や荷運び人を主に診るところで、この時間は怪我人や船から降りたばかりの者で混みやすい。ギルド近くまで戻れば、冒険者がよく使う診療所を知っている。
距離もそれほどない。
エルディアスは少女を背負い、港を離れた。
◇
港を出ると、人の流れが少し変わった。
倉庫街では大きな荷車が道の中央を占め、人足たちが声を掛け合っている。外海から届いた荷を積んだ車と、逆に船へ積む荷を運ぶ車が入り混じり、その間を商人や職人が行き交っていた。
背中に少女を負ぶったままでは、行きよりも歩く場所を選ぶ。
荷車の車輪が石畳の継ぎ目を越えるたび、鈍い音が響いた。その振動が伝わったのか、背中の少女が小さく身じろぎする。
「気持ち悪いか」
「……ずっと……」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
少女の呼吸はまだ浅い。
額が肩へ触れているせいで、呼吸のたびにわずかな動きが伝わってくる。熱があるようには感じないが、身体には変に力が入ったり抜けたりしていた。
倉庫街を抜ける頃には、背中からほとんど声が聞こえなくなった。
一度だけ意識を確かめる。
「聞こえてるか」
「……います……」
変な返事だった。
思わず少しだけ振り返る。
「いるならいい」
「……はい……」
それきり、また黙った。
商業区へ入る。
行きに見た王都向けの荷が、今度は黒碑王墓迷宮の方角へ運ばれていた。乾燥肉や穀物を積んだ荷車の後ろには、まとめられた縄と灯具が載っている。
道具屋の前では、王都から来たらしい男たちが大量の油を受け取っていた。宿屋の軒先には洗ったばかりの毛布が何枚も干され、向かいでは靴屋が同じ形の革靴を何足も店先へ並べている。
ダンジョン内部で続いている調査は、街の外から見ればただ人が出入りしているだけだ。
だが、人が増えれば食料が動き、寝具が要り、灯具も靴も消耗する。セレイスの生活の中へ、調査は少しずつ入り込んでいた。
その流れを避けながら進む。
途中、露店の前を通った時に焼いた肉の匂いが流れてきた。
背中の少女が急に身体を強張らせた。
「……っ」
エルディアスはすぐに歩く方向を変えた。
「吐くなよ」
「……がんばります……」
露店から離れると、少女の身体から少しずつ力が抜けていった。
行き交う人間から何度か視線を向けられた。
猫族の少女を負ぶったエルディアスは、それなりに目立っているのだろう。しかも少女は小柄で、顔立ちにも幼さが残っている。事情を知らなければ、兄妹か、具合を悪くした子供を運んでいるようにも見えるかもしれない。
説明する相手でもない。
そのまま歩いた。
冒険者ギルドの建物が見えてくる頃には、少女の腕からほとんど力が抜けていた。何度かずり落ちそうになるのを直しながら、一本裏の通りへ入る。
診療所はそこにあった。
表通りより静かな場所だが、人の出入りは多い。入口の脇には松葉杖が立て掛けられ、軒下には薬草を干すための木枠が置かれていた。
冒険者の利用が多いだけあって扉は広い。
泥や血で汚れた者が担ぎ込まれても困らない造りになっている。
エルディアスが扉を開けると、薬草と消毒に使う酒の匂いが混ざった空気が流れてきた。
受付にいた年配の女が顔を上げる。
エルディアスの背中を見た途端、椅子から立った。
「その子、こっちへ。吐いた?」
「ああ。船から降りたところで動けなくなった」
「なら横向きに寝かせて。先生を呼ぶから」
詳しい事情より先に、奥の寝台へ通された。
エルディアスは少女をゆっくり下ろす。
背中から離れた途端、小さな身体が頼りなく沈んだ。
仰向けにしようとすると、少女は目を閉じたまま眉を寄せた。
「……いや……」
「横向きでいい」
受付の女に言われ、身体を横へ向ける。
枕へ頬をつけると、少女は少しだけ楽になったらしく、肩の力を抜いた。頭の上の耳も完全に寝たままだが、先ほどより呼吸は落ち着いている。
小さな鞄を寝台の脇へ置いた。
ほどなくして、五十を越えていそうな男が奥から出てきた。白髪交じりの髪を後ろへ撫でつけ、袖を肘までまくっている。
男は事情を長く聞くことなく、まず少女の瞼を確認した。次に手首を取り、呼吸と脈を確かめる。額へ触れ、首筋へ指を当ててから、少女の顔を覗き込んだ。
「聞こえるか」
「……はい……」
「名前は?」
少女はうっすらと目を開けた。
「……ノンノ・ミーゴ……です」
「ノンノだな。目眩と吐き気は?」
「……まだ、あります……」
「身体の奥が重いとか、熱いとか、そういう感じはあるか」
ノンノはすぐには答えなかった。
少し考えるように眉を寄せる。
「……なんか……変です。船を降りたのに、ずっと気持ち悪くて……身体も……重いです」
「分かった。もう喋らなくていい」
男はそう言って、もう一度ノンノの手首へ触れた。
今度は脈だけを見ている様子ではなかった。
目を閉じたまましばらく手を置き、やがて静かに離す。
「船酔いはある。ただ、それだけじゃないな。かなり強くマナに当たってる」
「マナ酔いか」
「ああ。それも軽くない」
男は薄い布をノンノへ掛けながら続けた。
「島国や群島なんかには、土地のマナがかなり薄いところがある。そういう場所で長く暮らしていた者が、急に濃い土地へ来ると身体がついていかないことがあるんだ。目眩、吐き気、身体の重さ。人によって出方は違うが、この子は船酔いで弱ったところへ重なったんだろう」
寝台の上で、ノンノの耳がわずかに動いた。
聞こえてはいるらしい。
男はその様子を一度確認してから話を続ける。
「しかも今のセレイスは、元から住んでいる俺たちが思っている以上に条件が悪い。ダンジョンが近い街だし、最近は特に周辺のマナが強くなってる。ここで暮らしてる人間なら多少変わっても気づかないが、マナの薄い土地から来た者には相当きついことがある」
エルディアスはノンノへ目を向けた。
船を降りれば治る。
そう思っていたのに、石畳へ立っても気分の悪さが消えず、本人が戸惑っていた理由はそれだったらしい。
「命に関わるようなものじゃない。休んで身体が慣れるのを待てばいい。ただ、今日は無理をさせるな。船の上でも相当消耗してるだろうし、吐いた分だけ水分も減ってる。水は少しずつ。食べられるようになったら、柔らかくて油の少ないものからだ」
男はノンノの顔色をもう一度確かめた。
「吐き気止めは使う。マナ酔いそのものを一気に消す薬はないから、あとは身体が慣れるのを待つしかない。強く出る者だと何日か引きずることもあるが、普通は少しずつ楽になっていく」
「分かった」
「連れじゃないんだろ?」
「港で会っただけだ」
船を降りたノンノがふらついていたこと。
声を掛けた直後にこちらへ倒れ込み、服へ吐いて、そのまま立てなくなったこと。
エルディアスが簡単に説明すると、男は術式で応急的に洗った跡の残る上着を見た。
「なるほど。ずいぶんな拾い物をしたな」
「俺もそう思う」
寝台では、ノンノがすでに目を閉じていた。
問診へ答えただけで疲れたらしい。
顔色はまだ悪いが、港にいた時より呼吸はゆっくりしている。薄茶色の髪の間から覗く耳だけが、時々小さく動いていた。
◇
吐き気止めを使い、しばらくそのまま休ませることになった。
エルディアスは寝台の脇へ置かれた椅子に座った。
診療所の中は静かだった。
完全に音がないわけではない。奥では薬瓶を動かす小さな音がし、隣の仕切りの向こうから咳が聞こえる。入口が開くたび、表通りより少し遠くなった街の喧騒が入り込んできた。
ノンノは眠っている。
正確には、眠ったのか、ただ目を閉じているだけなのか分からない。
時折眉が寄る。
気分の悪さが完全に消えたわけではないらしい。
改めて見ると、やはり幼く見えた。
丸みの残る頬、大きな目、細い肩。さっき港で見た時には十代半ばほどにも見えたが、年齢を聞いたわけではない。
薄茶色の髪は寝台へ広がり、赤い耳飾りだけが妙に目立っている。
服は応急的に洗っただけだ。
今は乾いているが、このまま着せ続けるより着替えがあった方がいい。
腹に入れられるものも必要になる。
エルディアスは左手の薬指へ意識を向けた。
――リュシア。
返事はすぐに来た。
――はい。終わりましたか?
――仕事は終わった。
――では、もう戻るのですか?
――そのつもりだったんだけど、面倒なのを拾った。
少し間が空いた。
――……拾った?
――人だ。
今度は、さっきより長い間があった。
――エル。もう少し順番に説明してください。
もっともだった。
エルディアスは港で起きたことを簡単に伝えた。
外海から来た船を降りてきた猫族の少女で、名前はノンノ・ミーゴ。
酷い船酔いのような状態でふらついており、エルディアスへ倒れ込んだ直後に服へ吐き、そのまま自力で立てなくなったこと。
ギルド近くの診療所まで背負って運び、診てもらったところ、船酔いだけでなく強いマナ酔いも重なっているらしいこと。
そこまで伝えると、少し返事が途切れた。
――リュシア?
――……服に吐かれたのですか?
――そこか?
――そこだけを気にしているわけではありません。でも、エルがそういう説明をしたので。
――もう水と風で落とした。ノンノの方も応急だけど綺麗にしてある。
――そうですか。それならよかったです。
そこでエルディアスは本題へ移った。
――それで頼みがある。しばらく診療所で休ませることになった。船酔いの後でも食べられそうなものを何か買ってきてくれないか。あと、女物の着替えも欲しい。
――分かりました。大きさはどのくらいですか?
エルディアスは寝台へ目を向けた。
薄い布の下でも、身体の小ささは分かる。
――お前よりかなり小さい。見た目は十代半ばくらいだ。
――では、少し余裕のあるものを選びます。食べ物は、水分と柔らかいものですか?
――ああ。油の少ないものからって言われた。
――それならこちらで見てきます。修道院の方も、もう少しで区切れますから。
――悪い。
――構いません。それより、ノンノさんを一人にしないでくださいね。
――診療所だぞ。
――エルは診療所まで連れていったから十分だと思って、そのまま帰りそうなので言っています。
――置いて帰るなら、最初からここまで運んでない。
――それなら安心しました。
少し笑われたような気がした。
――ギルド近くの診療所だ。
――分かりました。終わったら向かいます。
念話を切り、エルディアスは椅子の背へ軽く身体を預けた。
朝は仕事が終われば戻ると、リュシアに言ったはずだった。
実際、依頼そのものはもう終わっている。
完了札も持っている。
あとはギルドへ寄って報告し、宿へ帰るだけだったはずだ。
寝台へ目を向ける。
ノンノはまだ眠っていた。
伏せた耳の片方が小さく動き、赤い耳飾りが薄い光を返す。
その姿を見ている限り、今すぐ立ってどこかへ行けるようには見えない。
エルディアスは小さく息を吐いた。
宿へ戻れるのは、もう少し先になりそうだった。




