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第68話 船酔

 翌朝も、リュシアは南の修道院へ向かうことになった。


 昨日の帰りにマルタが声を掛けた二人のうち、一人が今日は都合をつけられるらしい。まずは市場を一緒に回り、昨日の煮込みだけでなく、何を見て食材を選ぶのかを共有するという。


「エルは来ないのですか?」


 宿を出たところでリュシアに聞かれ、エルディアスは首を振った。


「今日はいいだろ。マルタがいる」


「昨日はずっと後ろから見ていただけでしたけど」


「だから今日もいる必要ないだろ」


「それはそうですけど。エルは?」


「ギルドで街中の仕事を探す」


「遠くには行かないでくださいね」


「ああ。街の外には出ない」


「街の中でも、あまり離れすぎないでください」


「分かってる」


「本当に?」


「試す気はないよ」


 それでようやく、リュシアは頷いた。


「では、私は修道院へ行きます。今日は昨日とは違うものも少し試してみるつもりです」


「増やしすぎるなよ」


「分かっています。一つずつです」


「ならいい」


「エルも、仕事を見つけたからといって長居しないでくださいね」


「終わったら戻る」


「お願いします」


 二人は通りの途中で別れた。リュシアは南へ、エルディアスは冒険者ギルドへ向かう。


 朝のセレイスは、すでに一日の半分ほどが始まったような騒がしさだった。


 宿や食堂が並ぶ通りでは朝食を終えた旅人が荷を背負い、市場へ向かう荷車がその間を縫っていく。ただ、以前より明らかに荷が多い。


 乾燥肉の箱、油を詰めた壺、巻かれた縄、束ねられた毛布。いくつかの荷車には王都から来た調査隊を示す札が掛けられ、帳面を持った男が数を読み上げる横で、人足たちが次々と積み込んでいた。


 少し先の道具屋では、王都の兵らしい二人が灯具をまとめて確認している。別の宿の前には似た形の背嚢がいくつも置かれ、主人が空いている部屋の数を説明していた。


 第二層から戻った直後ほどの騒ぎではない。それでも、王都の調査が続いていることは街を歩くだけで分かった。


 ダンジョンへ向かう冒険者たちの流れにも、見慣れない装備の者が混じっている。王都から追加で来た者なのか、調査のため臨時に雇われた者なのかまでは分からないが、黒碑王墓迷宮へ向かう人も荷も、少し前より増えていた。


 今日はその流れへ加わるつもりはない。


 杖一本だけを持ち、エルディアスはギルドへ向かった。


     ◇


 冒険者ギルドへ着くと、朝一番の混雑はすでに落ち着き始めていた。


 入口近くでは依頼を受けたばかりらしい三人組が地図を囲み、奥では素材を持ち込んだ冒険者と査定係が何やら揉めている。掲示板の前にもまだ人はいたが、条件のよい討伐や護衛の依頼はほとんど剥がされていた。


 代わりに目につくのは、王都の調査に関係するものだ。


 王墓入口までの資材運搬。第二層へ入る調査班向けの補給補助。地上側で使う道具の整備。直接第二層へ同行するものではなくても、その周辺だけでいくつもの仕事が増えている。


 エルディアスはそれらを避け、残っている紙を順に見た。


 街道沿いの護衛は外へ出る。


 郊外の薬草採取も同じだ。


 北門の外へ逃げた山羊を探す依頼は少し迷ったが、結局戻した。あとは宿の薪運び、商店の棚卸し、荷車の車輪交換の補助。どれも受けられるが、今ひとつ決め手がない。


「今日は依頼を受けるんですか?」


 横から声を掛けられた。


 ミュリカだった。


「軽いやつだけな。街から出ないので探してる」


「リュシアさんは?」


「修道院」


「ああ、昨日の続きですか」


 ミュリカは納得したように頷いた。


「そうだ。第二層の方ですが、今朝も連絡が来ています」


「何か変わった?」


「大きなものはありません。塔から村までの経路はかなり確認が進んで、補給班なら道標を辿って往復できるところまで来たそうです。ラウルさんたち三人も引き続き調査班に同行していて、村だけではなく周辺まで範囲を広げて調べています。ただ、ニルスさんとクラリスさんはまだ見つかっていませんし、第二層の先へ続く道も確認できていません」


 ミュリカはそこで一度言葉を切った。


「王都は追加の人員を入れながら、このまま調査を続けるそうです。しばらくはセレイスとの往復も増えると思います。それと、エルディアスさんたちへの新しい要請は、今朝の便にはありません」


「そうか」


 エルディアスは短く頷いた。


「でしたら、今日は本当に軽い依頼ですね。これなんてどうです?」


 ミュリカが掲示板の端に残っていた一枚を指した。


 港近くの商会から出ている依頼だった。


 倉庫の棚を動かし、積まれている木箱を種類ごとに並べ直す。そこまでは単純な力仕事だが、その下に追記がある。


 雨が降ると壁際に水が染みるため、荷を退かしたついでに原因を見てほしい。土か水の術式が扱える者なら、なおよい。


「これ、まだ残ってたのか」


「力仕事の割に半日潰れますからね。魔導士は荷運びを嫌がりますし、力仕事が得意な方は壁の染みなんて知るかと言います」


「誰向けなんだよ」


「今のエルディアスさん向けでしょう?」


「雑だな」


「適任という意味です」


 エルディアスは依頼書を剥がした。


「これにする」


「ありがとうございます。商会は港の西側です。倉庫番号は七番。受付票を持っていけば分かります」


「分かった」


 依頼を受け、ギルドを出た。


     ◇


 港へ向かう道は、宿から南の修道院へ向かう時とは街の顔が違った。


 初めは石造りの店が並ぶ商業区を通る。衣服、革具、食器、香辛料。朝の買い付けを終えた店へ荷が運び込まれ、その合間を客が行き交う。


 ここでも王都の調査の影響は見えた。


 保存の利く食料を箱単位で買い付ける者がいれば、縄や油、替えの靴をまとめて求める者もいる。店側も慣れてきたのか、揃いの外套を着た一団が来ると、何人分必要なのかを先に聞いていた。


 ある店の前には大量の毛布が積まれている。


「また王墓か?」


「昨日も持ってっただろ」


「人数増えたんだとさ」


 荷車へ積んでいた男たちの会話が耳に入った。


 調査そのものはダンジョンの中で行われている。だが、それを支える人数が増えれば、地上でも食う者が増え、寝る場所が必要になり、道具も減る。


 街はそういうところから少しずつ変わっていた。


 さらに西へ進むにつれて建物は低くなり、代わりに倉庫と工房が増えていく。空気にも塩気が混じり始め、魚を運ぶ籠の匂い、濡れた縄、油、木材の匂いが重なる。どこかでは魚を煮ているらしく、風向きが変わるたびに出汁のような匂いまで流れてきた。


 セレイスは港町だ。


 長く暮らしていれば当たり前になってしまうが、港へ近づくほど街全体が海を向いて作られているのが分かる。


 大通りの幅は広く、荷車同士がすれ違える。建物の軒もほかの地区より高い。路地の奥には綱を編む工房や樽屋が並び、石畳の隙間には細かな木屑が入り込んでいる。


 その道の向こうから、大きな樽を転がす男たちが来た。


「端寄れ!」


 声を掛けられ、エルディアスは壁際へ避ける。


 三人がかりで樽を押し、その後ろを帳面を持った男が追っていく。さらに向こうでは、港から運ばれてきた魚箱を店ごとに仕分けしていた。声を張り上げる者が一人いるだけで、十人近い人足が迷わず動いている。


 昨日リュシアと回った市場とは、同じ港から届いたものを扱っていても空気が違う。


 向こうは買う場所で、こちらは街へ流す場所だった。


 七番倉庫は、その一角にあった。


     ◇


「ギルドから?」


 受付票を見せると、倉庫の前にいた男がほっとした顔をした。


「ああ。壁を見る奴も兼ねてる」


「助かった。棚だけならうちの若いのにやらせてもいいんだが、染みの方が分からなくてな」


 男に案内されて中へ入る。


 倉庫は奥行きがあり、両側の壁際へ棚が並んでいた。袋詰めされた穀物、木箱、酒らしい小樽。入口近くはきれいに整理されているが、奥へ行くほど荷物の置き方が怪しくなる。


「これ全部か?」


「いや、動かすのは奥だけだ。そこに新しい荷を入れたい」


 指された先には木箱が積み上がっていた。同じ大きさに見えるが、荷札を見れば中身は別だ。乾燥豆、塩漬け肉、燻製魚、布地。


 そのうちいくつかには、王都側の受取先らしい札も付いている。


「これも調査用か?」


「一部だけな。最近はそっちの荷が増えて、空けた場所へまた入ってくる。片づける暇が追いついてない」


「それで混ざった?」


「言い訳にならんのは分かってる」


「なら先に壁見るぞ」


 問題の場所は倉庫の一番奥だった。


 石壁の下部だけが周囲より濃い。触れば少し冷たいが、今日の天気では湿っているほどではない。


「雨の日だけ?」


「ああ。雨が強いと出る。床に水溜まりができるほどじゃないが、この辺の箱が湿る」


「屋根は?」


「二度見てもらった。穴はないってさ」


「外側は?」


「見たが、俺には分からん」


 荷箱を移動させると、下から出てきた壁際にも同じような跡が続いていた。


 エルディアスは杖を取り、土の術式を広げる。石壁の下から床、その向こうの地面へ薄くオドを通し、形を拾った。


 壁そのものに大きな割れはない。


「ちょっと外見る」


 倉庫を回り込む。


 裏手は狭い通路になっており、荷車が通るほどの幅はない。石畳が古く、ところどころ沈んでいる。雨樋から落ちる水の跡も残っていた。


 壁の根元を見ると、石畳との境に細い隙間が走っている。


「ここだな」


 商会の男もしゃがみ込む。


「こんなのか?」


「水は入る」


 術式でもう一度確かめる。


 石畳へ落ちた雨水が低い方へ流れ、その一部が壁際へ溜まる。そこから隙間へ入り、壁の内側へ回っていた。


「屋根じゃない。地面からだ」


「直せるか?」


「応急なら」


「頼む」


 隙間へ土を押し込み、締める。それだけではまた水が溜まるので、壁際の地面もわずかに盛り、反対側へ流れるよう傾きを作った。


 目で見てもほとんど分からない程度だが、水ならそれで十分動く。


「これで次の雨は様子見ろ」


「完全には直らない?」


「石畳からやり直した方がいい。隙間埋めただけじゃ、何年もは持たない」


「石工呼ぶか」


「ああ。それまでは荷物を壁に直接つけるな」


「分かった」


 中へ戻る。


 原因が分かれば、あとは本来の雑用だった。


 棚を動かす前に中身を全部下ろす。それだけでかなりの量がある。


「魔法でどうにかならんのか」


 商会の若い男が、木箱を抱えながらぼやいた。


「箱を浮かせろって?」


「できない?」


「できなくはないけど、こんな数やるより持った方が早い」


「魔法使いも大変なんだな」


「便利な道具じゃないぞ」


 二人で箱を動かす。


 途中から別の人足も加わり、棚そのものを壁から離した。床へ木材を敷き、箱の底が石へ直接触れないようにする。


「この箱、どこ?」


「乾燥豆は右の二段目!」


「塩漬け肉と一緒にするなよ!」


「誰だよ最初に混ぜたの!」


「お前らだ!」


 倉庫の奥で声が飛び交う。


 エルディアスも荷札を確認しながら箱を移していった。


 単純な仕事だったが、嫌いではない。ダンジョンの中なら、一つ間違えば誰かが死ぬ。今やっているのは、箱を間違った棚に置けば怒られる程度の仕事だ。


 たまにはこのくらいでいい。


 途中で水を飲むため外へ出ると、港の方から鐘の音が聞こえた。


 倉庫前を歩いていた男たちが何人か足を止め、沖を見る。


「南航路かな」


「今日来るのは西じゃなかったか?」


「鐘二つだから外海だろ」


 そんな声が聞こえた。


 エルディアスも一度だけ港の方を見たが、建物に遮られて船までは見えない。


 水を飲み終え、倉庫へ戻った。


 最後の箱を棚へ入れた頃には、昼を少し過ぎていた。


「これで全部だな」


 商会の男が帳面と棚を見比べる。


「壁も?」


「応急だけ。次の雨のあと見ろ」


「ああ。助かった」


 依頼完了の札を受け取った。


「昼食ってくか? 人足用の残りならあるぞ」


「いや、戻る」


「そうか。じゃあまた何かあったら頼む」


「できれば棚は混ぜる前に片づけろ」


「そこは若いのに言っとく」


「本人にも聞こえてるぞ」


 少し離れたところから、若い男が嫌そうな顔をした。


 倉庫を出れば、あとはギルドへ戻って報告するだけだった。


     ◇


 昼を過ぎた港は、朝よりさらに人が多かった。


 先ほど鐘が鳴った船が、すでに桟橋へ着いている。


 外海を渡る大型船だった。


 セレイス近海を行き来する沿岸船より船腹が高く、帆柱も太い。帆は半ば畳まれ、甲板では船員が忙しく綱を片づけている。


 岸側では荷降ろしの準備が始まっていた。樽を運ぶための台車、荷札を確認する商人、乗客を待つ宿の客引き。その間を、船から降りてきた者たちが流れてくる。


 セレイスでは珍しくない光景だった。


 商人らしい身なりの男。大きな荷を背負った獣人。旅装の人族。小さな子供を連れた家族。長旅から解放されたのか、その場で大きく背を伸ばす者もいる。


 エルディアスはその流れを横切らないよう端へ寄り、そのまま大通りへ戻ろうとした。


 そこで、一人だけ妙な歩き方をしている者が目に入った。


 少女だった。


 周囲の大人に混じると、ひどく小柄に見える。


 薄茶色の髪は肩に触れる程度で、船旅のせいかあちこちへ跳ねていた。その間から同じ色の三角形の耳が覗いている。片方の耳には赤い石を嵌めた小さな耳飾りがあり、歩くたびに頼りなく揺れていた。


 猫族だろう。


 顔立ちにもまだ幼さが残っていた。丸みのある頬に大きな目。背丈だけでなく華奢な身体つきも相まって、十代の半ばほどに見えなくもない。


 肩から下げているのは、鞄一つだけだった。


 それなのに、まともに歩けていない。


 渡し板を一歩進んでは止まり、両手で手すりへしがみつく。少し待ってからまた進み、桟橋へ降りたところで今度は近くの杭へ手をついた。


 顔色が悪い。


 白くなった頬にはほとんど血の気がなく、頭の上の耳も力なく伏せている。後ろから来た乗客が脇を抜けていっても、避ける余裕すらなさそうだった。


 それでも少しずつ進み、ようやく石畳まで辿り着く。


 少女はその場に立ったまま、自分の足元を見た。


 右足で一度。


 左足でもう一度。


 地面が本当に動いていないことを確かめるように、何度か靴底で石畳を踏む。


「……着いた」


 ひどく弱々しい声だったが、そこには明らかな安堵があった。


 近くにいた船員が振り返る。


「もう揺れてないぞ」


「分かってる……」


「じゃあ、そこ塞ぐなよ」


「今、動くから……」


 船員は慣れた様子で苦笑し、そのまま荷降ろしへ戻っていった。


 少女は両手を膝へ置き、何度かゆっくり息をした。


 それでも顔色は戻らない。


 やがて身体を起こしたものの、今度は不思議そうに瞬きをする。


「……あれ?」


 額へ手を当てた。


 伏せていた耳が、困惑したようにわずかに動く。


「もう降りたのに……なんで、まだ気持ち悪いの……」


 小さな独り言だった。


 しばらくそこにいれば落ち着くと思っているらしく、少女はもう一度ゆっくり呼吸を整えた。それでも変わらなかったのか、しばらくして小さな鞄の紐を握り直し、恐る恐る歩き始める。


 最初の一歩は真っ直ぐだった。


 二歩目で少し右へ寄り、三歩目では反対へ傾いた。


 本人も気づいたらしく、慌てて足を止める。


「……うぅ」


 小さく呻き、またしばらく動かなくなった。


 エルディアスは足を止めた。


 放っておいても大丈夫そうには見えない。


「大丈夫か」


 声を掛けると、少女がゆっくり顔を上げた。


 大きな目が一度瞬き、少し遅れて視線がエルディアスへ合う。


「だい、じょうぶ……です」


 一応は丁寧に答えた。


 だが、言った直後に身体がまた傾いた。


「そうは見えないぞ」


「船に弱いだけなので……いつも、降りれば治るんです。だから、もう少ししたら……たぶん」


「たぶん?」


「……たぶん」


 自分で言っておきながら、まるで自信がなさそうだった。


 少女はそれでも姿勢を正そうとしたが、その動きで気分が悪くなったらしい。口元へ手をやり、しばらく目を閉じる。


「座った方がいいんじゃないか」


「だ、大丈夫です。ここで座ったら、たぶん立てなくなるので……」


「もうまともに立ててないだろ」


「それは……そうなんですけど……」


 言葉を返す元気だけは残っているらしい。


 少女は小さく息を吐き、もう一度歩き始めた。


 一歩。


 二歩。


 今度はこちらへ向かってくる。


 正確には、向かっているわけではない。本人は大通りの方へ歩いているつもりなのだろうが、足を運ぶたびに進路が少しずつエルディアス側へずれている。


「おい」


「え?」


 少女が顔を上げた。


 そこでようやく、目の前にエルディアスがいることに気づいたらしい。


「あっ」


 慌てて止まろうとした。


 足がもつれる。


 身体が前へ倒れる。


 エルディアスは反射的に肩へ手を掛けた。


 思っていた以上に軽く、わずかに力を入れただけで身体が止まった。


「あっ……す、すみま――」


 少女の言葉が途中で消えた。


 大きな目が見開かれる。


 両手で口元を押さえた。


 伏せていた耳が一瞬だけ立ち、その直後、ぺたりと頭へ張りつくように倒れる。


 嫌な予感がした。


「待て」


 間に合わなかった。


「う……っ」


 少女が大きく身を折った。


 次の瞬間、生温かいものがエルディアスの上着へ盛大に掛かった。


 エルディアスは少女の肩を支えたまま、自分の胸元へ視線を落とした。


 鼻を刺す酸っぱい臭いが上がってくる。


 少女も、自分が何をしたのか分かったらしい。


 恐る恐る顔を上げる。


 先ほどまで青白かった頬へ、ほんの少しだけ赤みが戻っていた。大きな目は涙で潤み、耳はこれ以上ないほど小さく伏せている。


「……ごめんなさい」


 消え入りそうな声だった。


 それだけ言うのが精一杯だったらしい。


 少女の身体から、急に力が抜けた。


「おい」


 膝が折れる。


 エルディアスが咄嗟に腕を掴まなければ、そのまま石畳へ倒れていた。


「大丈夫か」


「……ぅ……」


 返ってきたのは、かすかな呻き声だけだった。


 少女は目を閉じたまま眉を寄せ、エルディアスに支えられた身体を起こそうともしない。呼び掛けても、今度は喉の奥で小さく唸るだけだった。


 どうやら完全に限界らしい。


 エルディアスは自分の上着を見下ろした。


 ひどい有様だった。


 次に、腕の中で完全に動けなくなっている少女を見る。


 伏せた猫耳。


 赤い耳飾り。


 小さな鞄。


 知り合いらしい者は近くにいない。


 周囲では何事もなかったように荷降ろしが続いている。人足が荷車を押し、船員が声を張り上げ、その間を新しい乗客たちが次々と通り過ぎていく。


 その真ん中で、見ず知らずの猫族の少女だけが、エルディアスへ体重を預けたまま完全に動けなくなっていた。


「……どうするんだ、これ」


 少女から返事はなかった。


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