第65話 算段
翌朝、エルディアスが食堂へ下りると、昨日取り分けておいた煮込みが小鍋で温め直されていた。
麦は予想どおりかなり汁を吸っており、出来たてより明らかに固くなっている。リュシアは少しずつ水を足し、味を確かめながら塩をほんのわずかに加えていた。
「どうだ」
「思っていたより吸っていますね。でも、このくらいなら最初から汁を多めにしておけば大丈夫そうです。温め直しても魚の臭いは戻っていませんし、豆も悪くありません」
匙ですくったものをもう一度味わい、リュシアは小さく頷いた。
「これなら、修道院で一度作ってみたいです」
「いきなり全員分?」
「いいえ。まずは少量作って、修道女の方に味を見てもらいます。作る手間や味に問題がなければ、その次に子供たちへ出せる量を作ればよいでしょう」
「その時は三十人分くらいか」
「全員に出すなら、それくらいですね」
昨日借りた宿の厨房には、必要な道具が一通り揃っていた。一方、修道院にも大鍋と竈はあったが、同じ料理を三十人分作るとなれば、今あるものだけでは手間が増えるらしい。
朝食を終えたリュシアは紙の切れ端を取り出し、必要そうなものを書き始めた。
目の細かい大きな漉し網。豆を潰すための丈夫な木の棒。大きめのまな板が二枚。それから、下拵えした魚や野菜を分けて置くための浅い桶。
「鍋はいらないのか」
「昨日見たものが使えます。もう一つあれば楽でしょうけど、最初から何でも増やす必要はありません」
「漉し網は?」
「小魚を一匹ずつ全部手で分けていたら、人数が増えた時に大変でしょう。まとめて引き上げて、大きな骨を取り除けるだけでもかなり違います」
「木の棒は豆か」
「はい。昨日の量なら杓子でもよいですけど、三十人分を毎回あれで潰したいですか?」
「やりたくない」
「私もです」
必要な理由は分かった。
「買いに行くのか?」
「そのつもりです。昨日、市場に道具を扱っている店もありましたよね」
「誰の金で」
リュシアが顔を上げる。
「私のですけど」
「やめとけ」
「なぜですか?」
「一回分の食材なら、お前が試したくて買うんだから好きにすればいい。でも、それは修道院に残す道具だろ」
「だからこそ、置いて使ってもらえればよいと思っています」
「今回だけならな」
エルディアスは紙の上を指先で叩いた。
「次に鍋が傷んだらどうする。包丁が足りない、桶が割れた、薪を置く場所を直した方がいい。そのたびにお前が買うのか?」
「そこまで私が払うとは言っていません」
「お前がそう思ってても、一度全部揃えたら話は変わる」
リュシアは少し考え、紙へ視線を戻した。
「では、修道院の方に買ってもらうのですか?」
「神殿に行くぞ」
リュシアが顔を上げた。
「神殿?」
「ああ」
「なぜですか?」
「この道具の話をする」
「どうして神殿に?」
「行けば分かる」
「説明してください」
「断られたら自分で買えばいい。今と何も変わらん」
リュシアはしばらくエルディアスを見ていた。
「何か考えていますね」
「別に」
「その返事は信用できません」
「じゃあ行かなくていいぞ」
「行きます」
「行くのかよ」
「エルがそこまで言うのですから、一度聞いてみるくらいはよいでしょう。本当に神殿が調理器具の話に乗ってくるとは思いませんけど」
紙を畳んで立ち上がる。
「エルも来てください」
「何でだ」
「あなたが言い出したのでしょう」
「相談するのはお前だ」
「壁際に立っているだけで構いません」
聞き覚えのある役割だった。
「神殿で俺の扱い、ずっとそれだな」
「では、行きましょう」
「聞いてないだろ」
◇
セレイス神殿へ着くと、以前と同じように正面の礼拝堂ではなく、脇の扉から中へ通された。
今回は神殿側から呼び出したわけではない。それでもリュシアが名を告げると、受付の神官は一度奥へ下がり、しばらくして二人を神殿長の部屋へ案内した。
木の机と椅子。壁際に並ぶ術具と薬瓶。以前とほとんど変わっていない。
そして、椅子はやはり一脚だった。
リュシアが椅子を見てから、エルディアスを見る。
「何だ」
「いえ」
「座れよ」
「そのつもりです」
エルディアスはいつものように壁際へ立った。
ほどなくローデン神殿長が入ってくる。白髪の老人は二人を見て穏やかに一礼した。
「お待たせしました。リュシア殿からお越しになるとは珍しいですね」
「少し相談したいことがあります」
「神託についてでしょうか」
「違います」
返事までに、ごく短い間があった。
「承知しました。では、伺いましょう」
リュシアは畳んでいた紙を机へ置いた。
「街の南側にある修道院へ行きました。そこで子供たちの食事を作るのを少し手伝ったのですが、今より使いやすい食材や料理がないか試しています」
「それはまた、意外なお話ですね」
「そうでしょうか」
「少なくとも、勇者の選定についてご相談に来られたのではないことは確かなようです」
「その話ではありません」
「承知しています」
神殿長は微笑んだまま、先を促した。
「昨日、一つ料理を試してみました。まだ修道院で出せるかは分かりませんが、向こうで人数分を作るのであれば、いくつか道具があった方が作業を減らせます」
紙を開き、神殿長の方へ向ける。
「大きな漉し網と、豆を潰すための道具。それから、まな板と下拵え用の桶です。鍋や竈は今あるもので足りると思います」
神殿長は紙へ目を落とし、一つずつ目で追っていく。
「こちらは、すべてリュシア殿が購入されるおつもりだったのですか?」
「はい。そのつもりでした」
「修道院から費用を出していただく予定は?」
「ありません。私が使いたいと思ったものですから」
「ご自身で?」
「はい」
リュシアは当然のことのように答えた。
「私が料理を試してみたいと思って始めたことです。道具があった方が楽なら、私が用意するのが自然でしょう」
神殿長はすぐには答えなかった。
紙へ視線を戻し、それから一度だけ壁際へ目を向ける。
エルディアスは何も言わなかった。
「そうですか」
神殿長は紙の上へ指を置いた。
「この大きさの漉し網でしたら、神殿の共同厨房に予備が一つあったはずです」
リュシアが顔を上げた。
「神殿に?」
「祭日や、大人数へ食事を用意する際に使うものです。普段は使っておりませんので、状態に問題がなければ修道院へ回せるでしょう」
「ですが、私は道具をいただきたいとお願いしたわけではありません」
「承知しています」
神殿長は穏やかに答えた。
「豆を潰す道具と、まな板、桶についても、それほど大きな出費にはなりません。修道院側が必要としているのであれば、神殿で用意しましょう」
リュシアが一度瞬きをした。
本当に話に乗ったことの方が意外だったらしい。
「よいのですか?」
「まず、修道院側が必要としているかをご確認ください。善意であっても、必要のないものを送りつけては迷惑になります。置く場所がない、今ある道具で足りている、管理する手間が増える。そうした事情もあるでしょう」
「それは、もちろん確認します」
「でしたら、必要だという返答を得られたあとで、こちらから提供しましょう。漉し網も、今あるものが使えない状態であれば新しく用意します」
「そこまでしていただく理由がありますか?」
「子供たちの食事を良くするために使われるのでしょう?」
「結果としては、そうなると思います」
「でしたら、神殿としても異論はありません」
リュシアはまだ少し腑に落ちていないようだった。
「でも、私は別に、大したことをしているつもりではありません。昨日、厨房を見て、もう少し作りやすくできると思っただけです」
「そうなのかもしれません」
神殿長は否定しなかった。
「ですが、何を当然と考えるかは、人によって違います。リュシア殿がご自身の金で道具を揃え、子供たちの食事を良くしようとなさっている。それを知った神殿が、何もせず見ている必要もないでしょう」
もっともな話だった。
少なくとも、言葉の上では。
エルディアスは壁際から神殿長を見る。
神殿長は相変わらず穏やかな顔をしている。その表情だけでは、どこまでを善意として、どこからを別の理由で考えているのかは分からない。
ただ、リュシアが自分で買うと言った時から、話が妙に早くなったことだけは確かだった。
リュシアも同じことに気づいたらしい。
こちらを見る。
――本当に出すと言いましたね。
――言ったな。
――少し意外です。
――そうか?
――エルは、こうなると思っていたのでしょう?
――あとでな。
リュシアはわずかに目を細めたが、神殿長の前でそれ以上は続けなかった。
「分かりました。まず修道院の方へ確認します」
「お願いします。了承が得られましたら、こちらで手配しましょう」
「ありがとうございます」
「こちらこそ、ご相談いただけて何よりです」
神殿長はそこで紙を手元へ引き寄せた。
「漉し網については、先に状態だけ確認させておきます」
「一つ、お願いがあります」
「何でしょう」
「この件を、私の名前と一緒に広く知らせる必要はありません」
「承知しました」
「修道院の前に天幕も要りません」
神殿長の動きが一瞬だけ止まった。
「……厨房用品の提供に天幕を設ける予定はございません」
「旗もです」
「用意しません」
「人を集める必要もありません」
「分かりました」
エルディアスは口元へ手を当てた。
隣から視線が来る。
――笑いました?
――笑ってない。
――今、笑いそうになりましたよね。
――気のせいだ。
リュシアはしばらくこちらを見ていたが、それ以上は追及せず、神殿長へ向き直った。
◇
神殿を出てから、リュシアはしばらく何も言わなかった。
白い建物が通りの向こうへ遠ざかった頃、ようやく口を開く。
「エル」
「何だ」
「説明してください」
「何を」
「分かっているでしょう」
エルディアスはそのまま歩く。
「神殿へ行けば出してもらえるかもしれないと言った理由です」
「出しただろ」
「結果の話ではありません。どうして、ローデン神殿長があそこまで簡単に話へ乗ると思ったのですか」
思ったより真面目に聞いている。
「お前、自分で買うつもりだっただろ」
「はい」
「修道院の子供の飯を良くするために」
「それだけではありません。私が試してみたいからです」
「お前にとってはな」
リュシアがこちらを見る。
「他から見れば違う」
「どう違うのですか」
「勇者を選ぶって石碑に名まで刻まれたエルフが、貧しい子供の飯を何とかするために、自分の金で道具まで買ってる」
「そこまで大げさな話ですか?」
「大げさに聞こえるように言えばな」
「そういう言い方をするから信用できないのです」
「間違ってはない」
リュシアは少し考えた。
「その話が広まると、私の評判が上がる?」
「ああ」
「別に上げたいとは思っていません」
「お前が思ってるかは関係ない」
「それで、神殿は?」
「その隣で何もしてなかったら?」
リュシアの歩調がわずかに遅くなる。
「……神殿が何もしなかったように見える」
「ああ」
「逆に神殿が道具を出せば、私がしていることに神殿も賛同したように見える」
「そういうことだ」
リュシアはしばらく黙った。
自分の行動を、そこまで外から見たことはなかったらしい。
「それで、ローデン神殿長なら話に乗ると思ったのですか」
「神殿は前からお前を支援する側でいたがってる。大した金も掛からず、子供の飯も良くなって、お前にも恩を売れる。断る理由が少ない」
「恩を売る、ですか」
「嫌なら、支援した実績が残るでもいい」
「そちらもあまり好きではありません」
「でも、ローデンなら考えるだろ」
「本当にそこまで考えるものですか?」
「考える」
「私は、少し料理を作ってみたいだけなのですが」
「だから、お前じゃなくてローデンがどう見るかって話だ」
リュシアは前を向いたまま、少し考えていた。
「……なるほど」
まだ完全には納得していないようだった。
リュシアにとっては、自分が使いたい道具を自分で買うことも、子供たちが食べる料理を作ることも、それほど特別な行動ではないらしい。
だが、周囲まで同じように受け取るとは限らない。
「利用しましたね」
リュシアが言った。
「誰を」
「ローデン神殿長をです」
「向こうも分かって乗っただろ」
「そうでしょうね」
「ならお互い様だ」
「エルは、そういうところだけ妙に詳しいですね」
「褒めてる?」
「いいえ」
即答だった。
少し歩いてから、リュシアがこちらを見る。
「では次から、何か必要になったらまず神殿長へ相談すればよいのですね」
「やめろ」
「今回、うまくいきましたよ?」
「何でもやったらただのたかりだ」
「そうなのですか。では、どこまでなら大丈夫なのか教えてください」
口調だけは真面目だったが、目元がわずかに緩んでいる。
「分かってて言ってるだろ」
「何のことでしょう」
「その顔で誤魔化せると思うな」
「エルに言われたくありません」
「もう教えん」
「それは困ります。今回のように役立つこともありますから」
「自分で考えろ」
「では次は、自分でローデン神殿長が乗りそうな話を考えます」
「だからやめろって」
今度は、リュシアも隠さず少し笑った。
その日の予定は、市場へ道具を買いに行くことから、修道院へ確認を取りに行くことへ変わった。
まだ料理を出せると決まったわけではない。神殿から道具が届くことも、修道院が受け取ることも、まずは向こうの了承があってからだ。
それでも少なくとも、リュシア一人が財布を開き続ける形にはならずに済んだ。
エルディアスとしては、それで十分だった。




