第64話 試作
宿へ戻った頃には、昼の客はほとんど引いていた。
食堂には使い終えた器がいくつか残っているものの、朝や夕方のような慌ただしさはない。厨房から聞こえるのも、食器を重ねる音と水を流す音くらいだった。
リュシアは買ってきた袋を抱えたまま奥を覗く。
「今なら大丈夫そうですね」
「勝手に入るなよ」
「分かっています」
ちょうど厨房から出てきた宿の主人が、二人の持つ袋を見て眉を上げた。
「何だ。昼飯ならもう終わったぞ」
「食事ではなくて、お願いがあるのですが」
「嫌な始まり方だな」
「厨房を少し貸していただけませんか?」
主人の視線が袋へ落ちる。
「料理すんのか?」
「はい。夕食の仕込みが始まるまでで構いません。使った鍋や道具は洗いますし、薪も必要なら払います」
「ずいぶん準備がいいな」
「駄目でしょうか?」
主人は厨房の奥を振り返った。
「大鍋は夕方使う。小さい方なら空いてるし、竈も一つならいい。ただ、仕込みを始める時間になったら空けてもらうぞ」
「十分です。ありがとうございます」
「薪くらいで金は取らん。その代わり、変な臭いが残るもんは作るなよ」
「魚を使います」
「先に言え」
「臭いは抑えるつもりです」
「そこまで言うなら好きにしろ」
許可が出ると、リュシアはすぐ厨房へ入った。
エルディアスも続こうとすると、主人に止められる。
「お前も料理するのか?」
「しない」
「じゃあ何で入る」
「俺にも分からん」
厨房の奥から声が飛んできた。
「エル、水をお願いします」
主人が笑う。
「仕事あるじゃねえか」
「昨日と同じだ」
◇
作業台へ買ってきたものを並べる。
小魚。乾燥豆。粗い麦。白い根菜。魚の臭みを抑えるために選んだ香りのある葉茎野菜と、仕上げに使う青菜。
リュシアは最初に豆を水へ入れた。
「一晩戻すんじゃなかったのか?」
「本来はそうします。今日は完全には戻らないので、少し長く煮ます」
「時間掛かるだろ」
「それも見ておきたいです。実際に作るなら前の日から水に入れておけば済みますけど、どのくらい違うのか知っておいて損はないでしょう」
そう言いながら魚へ移る。
腹を開いて内臓を取り、軽く塩を振って置く。その間に、香りのある野菜の白い茎と葉を分け、茎の一部だけを大きめに切った。
「全部入れないのか」
「最初は香りを移すだけです。葉まで入れると強くなりすぎるかもしれませんから」
「さっき買った青菜も最後に入れるんだろ」
「役目が違います」
「どっちも緑だろ」
リュシアの手が止まった。
「昨日も同じようなことを言っていましたね」
「見た目は似てる」
「こちらは魚の臭みを抑えるためのもの。青菜は具です。これなら分かりますか?」
「分かった」
「最初からそう言えばよかったですね」
「俺のせいになってないか?」
返事はなかった。
魚についた塩を軽く流し、鍋へ入れる。水を張り、切った茎も加えて火へ掛けた。
しばらくすると魚の匂いが厨房へ広がったが、強く鼻につくほどではない。茎から出た青い香りが混じり、少しずつ別の匂いへ変わっていく。
主人が奥から顔を出した。
「思ったより臭わんな」
「これを一緒に入れていますから」
「それ、肉に使う奴じゃないのか?」
「肉にも使えると思います。魚でも大丈夫ですよ。ただ、入れすぎると今度はこちらの香りばかりになりますけど」
「よく知ってるな」
主人が感心したように言ったが、リュシアは魚の様子を見たまま答えた。
「旅をしていれば、このくらいは覚えますよ」
「そういうもんか?」
「宿で食べられない日は自分で作りますし、獲ったものをその場で食べることもありますから。臭いが強ければ香りのあるものを入れる、硬ければ長く煮る。その程度です」
主人はエルディアスを見る。
「お前も旅してるだろ」
「俺は料理しない」
「そういうことか」
「だから、エルを基準にすると大抵の人が料理に詳しく見えるのです」
「そこまでか?」
「少なくとも、さっき二種類の緑を同じもの扱いしていました」
「色の話だろ」
「料理の話です」
主人が笑いながら奥へ戻った。
やがて魚へ火が通ると、リュシアは一度鍋から取り出した。大きな骨と頭を外しながら、細い骨を一本だけ指で折ってみる。
「柔らかくなったな」
「これなら小さいものはそれほど気にしなくてよさそうですね。人数が多い時に全部の骨を一本ずつ取るのは現実的ではありませんから」
「三十人分だもんな」
「今日は念のため、もう少し丁寧に取ります」
魚の身をほぐし終えると、汁から香りづけに使った茎を取り出す。
「それは食わないのか?」
「食べられますけど、もう十分香りが出ています。このまま煮ると強くなりすぎるので」
次に豆を入れた。
完全に戻っていない分、火が通るまでには時間が掛かったが、柔らかくなったところで半分ほどを木杓子で潰す。それを汁へ戻すと、薄く濁っていた魚の汁に少しずつ厚みがついた。
粗い麦と、食べやすい大きさに切った根菜を加える。
「火、弱くするのか?」
「豆を潰した後は底につきやすくなります。麦も水を吸いますから、強くして急ぐより、このくらいの方が楽です」
時々鍋底から返しながら煮る。
根菜が柔らかくなり、麦がふくらんだところで魚の身を戻す。最後に青菜を入れ、塩を少し足した。
それ以上は触らず、火を弱める。
「できた?」
「一度目は」
リュシアが小さな器へ取った。
最初に自分で一匙食べ、次に具と汁を一緒に口へ運ぶ。少し間を置いて、もう一度汁だけを味わった。
「どうだ」
「美味しいと思います」
「思います?」
「普通に出しても問題ないくらいには」
「じゃあ成功だろ」
「エルも食べてみてください」
一杯渡された。
魚の臭みはほとんど残っていない。豆を潰した汁にはほどよい厚みがあり、根菜の甘みと魚の味も合っている。麦が入っているので、量の割には腹にも溜まりそうだった。
「うまいぞ」
「ですよね」
「自分でも分かってるじゃないか」
「不味いとは思っていません」
そう言いながら、リュシアは鍋を見ている。
「でも何か気になる?」
「少しだけ」
「何が」
「味が別々なんです」
エルディアスはもう一匙食べる。
「魚と豆と野菜の味がするんだから、そういうもんじゃないのか」
「そうではなくて……」
リュシアは自分でもう一度食べた。
「全部ちゃんと美味しいのですけど、まだ一つになりきっていない感じがします」
「分からん」
「そうでしょうね」
「何だ、その言い方は」
「エルが美味しいと思うなら、それで十分ではあるのです。でも、もう少し良くできそうなので」
しばらく鍋を見てから、厨房の棚へ視線を移した。
勝手には触らず、主人を呼ぶ。
「少しよいですか?」
「今度は何だ?」
「料理に使う脂はありますか? 癖の強くないものがよいのですが」
「豚の脂を取ったやつならあるぞ」
「見せていただけますか?」
主人が棚から小ぶりの壺を出した。
中には白く固まった脂が入っている。
「これなら大丈夫そうです。あと、酢はありますか?」
「果実酢ならある」
今度は細長い瓶が出てきた。
リュシアは二つを見比べてから尋ねる。
「これは、それぞれ一つ買うとしたらいくらくらいですか?」
「一つ?」
「はい。この壺一杯と、酢を一瓶です」
「使うのはちょっとだろ。そんなにいらんぞ」
「今日ではなくて、同じ料理をまた作る場合です。魚や野菜が安くても、ほかに高いものが必要なら意味がありませんから」
「ああ、そっちか」
主人は脂の壺を持ち上げた。
「このくらいなら銀貨四枚。酢は一瓶で銀貨二枚くらいだな。買う店で多少は違うだろうが、その辺りだ」
「それなら、一度買えば何度も使えそうですね」
「今から使う量ならな。脂も一回でそんなに減らんし、酢なんてもっと持つ」
「分かりました。ありがとうございます」
「今日はどうする?」
「少し分けていただけますか?」
「それくらいならいい。試してみろ」
「では、お借りします」
リュシアは脂をほんの少量、小鍋へ取った。
弱い火に掛けると、白かった脂がすぐ透明に溶ける。そこへ先ほど残しておいた香りのある野菜の白い部分を細かく刻んで入れた。
じゅ、と小さな音がした。
水へ入れた時とは違う香りが立つ。
「同じ野菜だろ?」
「同じです。でも、脂で火を入れると香りの出方が変わります」
焦げる前に火から外し、煮込みの汁を少し加える。
鍋の中で脂と汁を馴染ませてから、元の鍋へ戻した。
リュシアは一度混ぜ、味を見る。
「まだ何かするのか」
「少しだけ」
今度は果実酢の栓を開ける。
匙の先へわずかに取り、そのまま鍋へ落とした。
「それだけ?」
「最初はこれくらいで十分です」
混ぜて味を見る。
少し考え、今度は数滴だけ追加する。
もう一度食べたところで、リュシアの手が止まった。
「どうだ」
「これならいいです」
今度は迷わなかった。
「そんな変わった?」
「食べてみてください」
新しい器へ取られたものを受け取る。
見た目はほとんど変わらない。
エルディアスは一匙食べた。
「……さっきよりうまいな」
「でしょう?」
「何が違うのかは分からん」
「それでいいです」
「説明しろよ」
「脂が入ったので、魚と豆の味が少し馴染みました。酢は酸っぱくするためではなくて、重くなった味を最後に少し軽くしています」
「酸っぱくないぞ」
「酸っぱいと分かるほど入れたら多すぎます」
主人もこちらへ来た。
「俺にも食わせろ」
「もちろんです」
一杯というほどではない量を器へ入れて渡す。
主人は一口食べ、すぐもう一匙続けた。
「うまいな」
「どうですか?」
「普通に店で出せる。魚が少ない割にちゃんと魚の味がするし、豆と麦が入ってるから腹にも溜まる。最初のも悪くなかったが、こっちの方が食ったあとが軽いな」
「やはり酢は入れた方がよさそうですね」
「そんなちょっとでも変わるもんなんだな」
「入れすぎたら別の料理になりますけど」
主人は器の底まで食べてから、買ってきた食材を見る。
「で、これ何のために作ってるんだ?」
「昨日、街外れの修道院へ行きまして」
「南の?」
「はい。そこで食事を作るのを少し手伝ったのです。人数の割に使える食材が多くなかったので、市場でほかに使えそうなものがないか見てきました」
「それで、小魚だの形の悪い野菜だの買ってきたのか」
「はい。ただ、安いだけでは意味がありませんから」
リュシアは鍋へ視線を戻した。
「食べてもらえなければ残りますし、作るのに手間や薪が掛かりすぎても続きません。今日買ったものなら、そこまで難しくはなさそうです」
「脂と酢も銀貨数枚で、一回で使い切るわけじゃないしな」
「はい。保存も利きますし、それなら問題は少ないと思います」
主人はしばらく鍋を見ていたが、やがて頷いた。
「これなら子供も食うんじゃないか」
「そこは、実際に食べてもらわないと分かりません」
「まだ試すのか?」
「私たちが美味しいと思うのと、子供が食べるのは別でしょう?」
「まあ、それはそうだな」
リュシアは使った道具を片づけ始めた。
残った食材の量も確認し、豆と麦の袋を閉じる。今日使った量だけなら、どちらもまだ残っている。
エルディアスは鍋を覗いた。
「これ、どうする」
「食べます?」
「まだ結構あるぞ」
「試すために一人分だけ作るわけにもいかないでしょう。少ないと火加減も変わりますから」
「それは分かるけど」
リュシアが器を出した。
「もう一杯いりますか?」
「ああ」
「では、少し待ってください」
「何で」
「麦が時間を置いたらどのくらい汁を吸うか見たいので、その分は別に取っておきます」
「まだ終わってないのか」
「味は決まりました。でも、作ってすぐ食べるとは限らないでしょう?」
「修道院ならそうか」
「三十人分を全員同時に盛るのは無理ですから」
小さな器へ一杯分だけ取り分け、脇へ置く。
そのあとでエルディアスの器へ煮込みを入れた。
「俺、いつから試す側になったんだ」
「最初からでは?」
「聞いてないぞ」
「水を汲んでもらった時点でしょうか」
「それは料理するためだろ」
「では、その続きです」
「勝手だな」
「嫌なら食べなくてもよいですよ」
エルディアスは器を見る。
「食う」
「では問題ありませんね」
リュシアも自分の分を取った。
十分に美味しいものを作って、それで終わりにはしなかった。
何か一つ足りないと考え、脂と酢を加え、ようやく納得した。
エルディアスには最初の時点でも十分だったが、二つを続けて食べれば違いは分かる。
安い材料だからこの程度でいい、とは考えていないらしい。
厨房の隅では、時間を置いて確かめるために取り分けた器から、まだ細い湯気が上がっていた。




