第63話 市場
翌朝、エルディアスが食堂へ下りると、リュシアはすでに朝食を終えていた。向かいの席には空になった器と、きれいに畳まれた布袋がいくつか置かれている。
「早いな」
「普通です。昨日のエルが遅かったのです」
昨日は身体が起きるまで寝るつもりで、本当に朝をほとんど使い切った。否定する材料はない。
エルディアスが席へ着く間に、リュシアは布袋を一つにまとめた。
「もう行く気か?」
「市場ですから、遅くなれば品物も変わるでしょう。昨日と同じものがあるとも限りませんし」
「修道院に持ってくのか?」
「まだです。使えるかどうかも分からないものを持っていって、食べてくださいとは言えないでしょう。少し買って、自分で試してみます」
出された朝食へ手を伸ばしながら、エルディアスは卓上の袋を見る。
「何作る」
「まだ決めていません」
「決めてないのに買いに行くのか」
「昨日の小魚が気になっています。まずはそこからですね」
少なくとも、最初に見るものだけは決まっているらしい。
◇
港へ着くと、昨日とは店先の様子が少し違っていた。
大きな魚を何本も吊るした店の横では銀色の小魚が籠いっぱいに積まれ、その奥では船から降ろされたばかりの魚を男たちが次々と仕分けている。潮と魚の匂いに炭火の煙が混じり、朝から値段を尋ねる声や荷を運ぶ声が途切れない。
昨日魚の名前を教えてくれた男も、店先で包丁を動かしていた。二人に気づくと、魚を押さえたまま顔を上げる。
「また来たのか。今日は何食うんだ?」
「今日は少し聞きたいことがあります」
「昨日も随分聞かれた気がするけどな」
「今日は料理についてです」
「昨日も途中からそんな話だっただろ」
リュシアが少しだけ考える。
「では、もう少し詳しく聞きます」
「増えるのかよ」
男は笑いながら包丁を置いた。
リュシアが近づいたのは、昨日も見た小魚の籠だった。
「これは、大きい魚より残りやすいと言っていましたよね」
「ああ。小さいから一匹ずつ腹を開くのが面倒だし、骨もある。家なら大きいのを一匹買った方が楽って奴は多いな」
「まとめて煮るなら?」
「酒場なんかじゃやるぞ。こいつは煮れば骨もかなり柔らかくなる」
男が一匹を持ち上げ、その隣の籠を顎で示した。
「ただ、そっちは似てるけどやめとけ。骨が硬い。身は崩れても骨は残る」
リュシアは二種類を見比べ、柔らかくなる方を一匹持たせてもらった。
「頭ごと煮ても大丈夫ですか?」
「こいつならな。腹だけ取った方がいい。少し塩をして置けば臭いも抜ける」
「汁も出ます?」
「それなりには。でかい魚の頭ほどじゃないけどな」
店の端には、身を切り取ったあとの大きな魚の頭と中骨も置かれていた。骨の間や頬にはまだ肉が残っている。
「こちらなら、もっと味が出るのですよね」
「ああ。汁を取る店が持っていくこともある。ただ、毎日あるとは限らんぞ。大物が揚がらなきゃ出ない」
リュシアは魚の頭をしばらく見てから、小魚の方へ視線を戻した。
「では、今日はこっちを少しください」
「頭はいらないのか?」
「ある時だけ使えるものは、あとで考えます」
「何を作る気なんだ?」
「それを考えているところです」
「考えてないのに魚は買うのか」
「これで汁を取るところまでは決めました」
「なるほどな」
男はそれで納得したらしく、小魚を包んだ。
店を離れてから、エルディアスが袋へ目をやる。
「魚の汁か」
「はい。昨日の煮込みは水だけでしたから、味の元になるものがあれば少し変わると思います」
「魚臭くならないか?」
「そのまま煮れば、多少は」
「なら駄目じゃないのか」
「臭みを抑えるものを一緒に入れればいいでしょう。市場に似たものがあるか探します」
「もう何を使うか分かってるのか?」
「故郷で使っていたものと同じものがあるとは限りません。でも、香りが近ければ使えると思います」
そう答えてから、リュシアは特別なことを言ったつもりもなさそうに歩き続けた。
少し先では、平たい貝を殻ごと炭火へ載せている。昨日はなかった屋台だった。
リュシアの視線がそちらへ動き、歩みがわずかに遅くなる。
「食うのか」
「まだ何も言っていませんよ」
「見てただろ」
「見ていただけです」
そう言いながら二歩ほど進み、結局戻った。
「買うんじゃないか」
「見たら食べてみたくなりました」
「最初からそう言え」
一皿だけ買い、焼けた貝へ店主が柑橘に似た果汁を絞る。リュシアは一つ食べてから、残りの半分ほどをエルディアスへ寄せた。
「エルもどうぞ」
「朝飯食ったばかりだぞ」
「私もです」
「昨日も聞いたな、それ」
「でしたら、もう驚かなくてよいでしょう」
仕方なく一つ取る。潮の味は強いが、果汁の酸味があるせいか思ったほど重くない。
「酸っぱいな」
「それが合うのだと思います。貝だけだと、もう少し重そうですから」
リュシアはそう言って残りを食べた。
◇
港を離れると、リュシアは昨日立ち寄った豆の店へ向かった。
大きな袋がいくつも開かれ、白、茶、黒と色の違う豆が並んでいる。その中に、昨日修道院で使っていたものより一回り大きな茶色い豆があった。ほかの袋に比べると、まだ口元近くまで残っている。
「これは、あまり売れないのですか?」
店主が袋を見る。
「ああ、それか。悪い豆じゃないんだが、戻すのに時間が掛かる。朝になって急に食おうと思っても間に合わん」
「一晩、水に入れておけば?」
「それなら問題ない。煮るのにも少し掛かるけどな」
「潰せるくらい柔らかくなりますか?」
「長めに煮りゃなる。形を残したい料理には向かんくらいだ」
リュシアは豆を一粒手に取り、指先で転がした。
「昨日の煮込みには合いそうですね」
「どんな煮込みだ?」
「豆を半分ほど潰して、汁へ戻したのです」
「ああ、それなら使いやすいぞ。こいつは皮も薄い」
「保存は?」
「乾かしておけば長い。湿気と虫には気をつけろ」
そこで値段を尋ねると、昨日修道院で使っていた豆より少し安かった。
「では、少しください」
店主が布袋へ分ける。
支払いを済ませて店を離れると、エルディアスは小魚の入った袋と豆の袋を交互に見た。
「魚と豆」
「はい」
「合うのか?」
「魚から取った汁なら、豆だけより味は出ると思います。半分を潰せば、身が少なくても汁に厚みが出ますし」
「もう作るもの決まった?」
「まだ足りません」
今度は穀物屋へ向かう。
精白された白い麦の横に、昨日リュシアが値札を見ていた色の濃い麦が積まれていた。
「こちらを煮るなら、どのくらい掛かりますか?」
「白いのより少し長いな。パンには向かんが、粥や煮込みなら普通に使える」
「豆と一緒なら?」
「豆を先に煮て、途中から入れりゃいい。最初からだと麦の方が先に崩れるぞ」
「火を使う時間は、かなり増えますか?」
「豆を煮るついでなら、そこまででもない。麦だけのために火を起こすなら別だけどな」
リュシアは手の上へ少量出してもらい、粒を確かめた。
「これも少しください」
「それも入れるのか」
店を出てからエルディアスが尋ねる。
「はい」
「魚の汁に、豆と麦」
「そうですね」
「もう煮込みだろ、それ」
「だいたいは」
今度は否定しなかった。
「でも、これだけでは具が足りません。それと、魚を煮るなら香りのあるものも欲しいです」
「さっき言ってた臭みを取るやつか」
「はい。あまり強すぎると魚の味まで消してしまうので、少しだけですけど」
「詳しいな」
何気なく言うと、リュシアがこちらを見る。
「そうですか?」
「少なくとも俺よりは」
「それを基準にされても困ります」
「何だよ」
「旅をしていれば、このくらいは覚えますよ。毎日宿で食べられるわけではありませんし、獲れた魚や肉を自分で処理することもあります。臭いが強ければ香りのある葉や茎を使う、硬い肉なら長く煮る、その程度です」
「俺は知らない」
「エルは料理をしないでしょう」
「しないな」
「なら、知らなくても不思議ではありません」
それで話は終わった。
リュシアにとっては、エルディアスが思ったほど特別な知識ではないらしい。
◇
野菜の並ぶ通りへ入ると、リュシアはまず店先へ並ぶものの匂いを確かめながら歩いた。
葉を少し千切って香りを見せてもらい、違うと分かれば礼を言って次へ移る。二軒目でも足を止めず、三軒目で白い茎から細長い緑の葉が伸びた野菜を見つけた。
一本手に取り、切り口へ鼻を近づける。
「これ、煮込みに使えますか?」
「使えるよ。肉と一緒に煮る客が多いね。香りがあるから、魚に入れる奴もいる」
「辛みは?」
「生なら少しある。火を通せばだいぶ抜ける」
「葉も使えますか?」
「ああ。ただ、入れすぎると青臭くなるぞ」
リュシアは茎を指先で折り、香りをもう一度確かめた。
「これなら大丈夫そうですね」
「探してたの、それか?」
エルディアスが尋ねる。
「故郷で使っていたものとは違いますけど、香りは近いです。魚と一緒に少し煮れば、臭みは抑えられると思います」
「食べるのか?」
「食べられますよ。細かく切れば、そのまま具にもなります」
リュシアは店主へ向き直った。
「今の時期は、いつもありますか?」
「大体ある。寒くなれば少し減るけどな」
「では、何本かください」
必要な分だけ包んでもらう。
そのまま少し歩いたところで、リュシアは今度は根菜の店へ足を止めた。
丸みのある白い根菜と、細長い橙色のものが並んでいる。
「この二つなら、魚と煮るのはどちらが向いていますか?」
店主が顔を上げる。
「汁物か?」
「豆と麦も入れます」
「なら白い方だな。橙のは甘いが、魚によっては香りがぶつかる。白い方は癖が少ないし、煮ても崩れにくい」
「火を通すと甘くなりますか?」
「ああ。柔らかくすりゃ子供でも食える」
リュシアは白い根菜を一つ手に取り、重さを確かめるように掌で転がした。
その隣には、小さく曲がったものや、表面に浅い傷のあるものが別の籠へまとめられている。
「こちらも同じものですか?」
「同じだよ。形が悪かったり、掘る時に傷がついたりしただけだ。長く置くならきれいな方を勧めるが、今日か明日使うなら変わらん」
「味も?」
「同じだ」
リュシアは何本か持ち上げ、傷の深さを確認した。
「では、こちらをください」
「そっちでいいのか?」
「切って煮るので、形は関係ありませんから」
包んでもらっている間に、リュシアは隣の葉物へ目を向けた。
「緑のものも少し欲しいですね」
「さっき買っただろ」
「あれは香りを出すためです。こちらは最後に入れます」
「違うのか」
「違いますよ」
「どっちも緑だろ」
「エルはそういうところだけ見ていますね」
「見た目の話なら合ってるだろ」
「料理の話をしています」
何種類か見たあと、リュシアは柔らかそうな青菜の前で止まった。
「これは煮ると苦くなりますか?」
「若い葉ならならないよ。長く煮ると色は悪くなるけどね」
「最後に入れれば?」
「すぐ火が通る。茎も細いからそのままでいい」
「では、少しください」
量は多くない。
店を離れたところで、エルディアスは増えた袋を見た。
「小魚、豆、麦、根菜、さっきの香りのやつ、それと青菜」
「はい」
「今度こそ決まった?」
「だいたいは。魚は香りのある茎と一緒に煮て、汁を取ったら身をほぐして戻します。豆を少し潰して汁に厚みをつけて、麦と根菜を入れる。青菜は最後ですね」
「昨日見てたパンは?」
「今日は要りません」
「使えそうって言ってなかったか?」
「使えそうだとは思います。でも、魚と豆と麦まで入れるなら十分でしょう。何でも入れればよいわけではありませんから」
「そういうもんか」
「そういうものです」
◇
買うものが揃っても、リュシアはそのまま市場を出なかった。
途中で足を止めたのは、薄い生地へ刻んだ木の実を混ぜ、表面へ蜜を塗った菓子を売る店だった。
「まだ食うのか」
「少し休みませんか?」
「そう言われると断りづらいな」
「では、一つにしましょう」
昨日食べたものとは別の店だった。
一つ買って半分に分け、歩きながら食べる。昨日の蜂蜜と木の実の焼き菓子より薄く焼かれていて、噛むと表面が軽く割れた。
「昨日のより甘いな」
「蜜が多いのでしょうね。木の実の香りもこちらの方が強いです」
「お前はこっちの方が好きそうだな」
リュシアが少し意外そうにこちらを見る。
「どうしてですか?」
「昨日も木の実入ったの買ってただろ。それに、香りが強いものもよく見てる」
「それだけで決めないでください」
「違うのか?」
リュシアは菓子をもう一口食べた。
「こちらも好きですけど、昨日のも美味しかったですよ」
「じゃあ同じじゃないか」
「好きなものが一つである必要はないでしょう」
「分からん」
「別に分からなくても困りません」
そこで話は終わった。
昨日より市場を回る時間は短かったが、食材だけを見ていたわけでもない。見慣れない品があれば足を緩め、通りの向こうで楽器を鳴らす音がすればそちらへ顔を向ける。
それでも、今日は手にした袋の方が少し重かった。
◇
市場を出る頃には、持ってきた布袋のいくつかに食材が収まっていた。
小魚。豆と粗い麦。香りのある葉茎野菜。白い根菜と青菜。
量はどれも多くない。
「魚と豆と麦を合わせるのも、最初から考えてたのか?」
「いいえ。港では、魚の汁が使えそうだと思っただけです」
「じゃあ、豆を見て?」
「少し形が見えました。昨日みたいに潰せば汁に厚みが出ますし、魚の身が少なくても食べた感じは出せると思ったので。麦を見たところで、煮込みに近いものにしようと決めました」
「それで野菜か」
「はい。魚を使うなら香りのあるものは欲しかったですし、そこまで決まれば、ほかに何を合わせたいかも分かりますから」
「最初に野菜買わなくてよかったな」
「何を作るか分からないのに買っても仕方ないでしょう」
「昨日は色々見てたけどな」
「昨日は見ていただけです」
少し間を置いてから、リュシアが付け足す。
「食べてもいましたけど」
「そっちの方が多かったんじゃないか?」
「そんなことはありません」
否定はしたが、昨日何度屋台で足を止めたかまでは数えていないらしい。
しばらく歩いてから、リュシアは手にした袋へ目を落とした。
「ただ、まだ上手くいくかは分かりません。香りが魚より強くなってしまうかもしれませんし、豆を入れたら重すぎるかもしれません。麦も思ったより水を吸うかもしれないですから」
「だから少ししか買わなかった?」
「はい。まず作ってみれば分かります」
「修道院で?」
「いえ。昨日も言ったでしょう。いきなり持っていくつもりはありません」
「宿の厨房か」
「借りられれば、ですけど」
「昼過ぎなら空いてると思ってるんだろ」
リュシアがこちらを見る。
「昨日、宿へ戻った時に見たら、朝と夕方の間は人が少なかったので」
「そこまで見てたのか」
「厨房を借りるかもしれないと思っていましたから」
「いつから」
「修道院を出たあとくらいです」
市場へ行くと決めた時点で、買って終わりにするつもりではなかったらしい。
「貸してくれなかったら?」
「その時は別の場所を考えます」
「俺の部屋で煮るのはなしだぞ」
リュシアが少し眉を寄せた。
「言いませんよ」
「昨日は言った」
「あれは冗談です」
「一瞬考えてただろ」
「考えていません」
「間があった」
「エルが勝手にそう思っただけです」
今度ははっきり否定された。
布袋の中で、豆と麦が歩調に合わせて小さく鳴る。
宿へ着けば、次はそれを鍋へ入れることになる。




