第62話 厨房
門の前に立ち続けていると、先ほど野菜の籠を運ばせていた修道女がこちらへ気づいた。
年は四十を少し越えたくらいだろう。灰色の修道服は袖口が擦れ、腰には布巾と小さな鍵束を下げている。
「何か御用でしょうか」
「いえ」
リュシアが答える。
「街を案内してもらっていて、ここが何をする場所なのか聞いたところです。子供たちもいるようでしたので、少し見ていました。邪魔でしたらすぐに離れます」
「そうでしたか。庭をご覧になる程度でしたら構いませんよ。奥には休んでいる方もおりますので、建物の中を自由にというわけにはいきませんが」
「もちろんです。ありがとうございます」
そのまま帰るのかと思ったが、リュシアは素直に門をくぐった。
エルディアスも後へ続く。
石壁の内側には、外から見えた畑のほか、小さな物置と薪棚、井戸があった。十歳ほどの少年が桶へ水を汲み、それを年下の子供二人が小さな手桶へ移して畑まで運んでいる。
一方、布の球を追いかけていた子供たちは相変わらず走り回っていた。
一人が修道女へ近づいてきたが、見知らぬ二人を見つけると少し離れたところで止まる。
「新しい人?」
「お客様ですよ。遊んでいて構いません」
「泊まるの?」
「違います」
子供はそれだけ確認すると、また仲間のところへ戻っていった。
「ここで暮らしている子ですか?」
「ええ。あの子はそうです。ただ、庭にいる子の半分ほどは夕方になれば家へ帰ります。親御さんが港や工房へ働きに出ている間だけ預かっている子も多いのですよ」
「食事もここで?」
「昼は皆で食べます。迎えが遅くなる子には夕食も出しますよ」
話しながら、修道女が地面へ置いていた野菜の籠へ手を伸ばした。
その前にリュシアが取っ手を持つ。
「運ぶのでしたら持ちます」
「いえ、お客様にそのようなことをお願いするわけには」
「先ほど子供たちが運んでいましたよね」
「それはここの子たちですから」
「では、私は少しだけ手伝う客ということにしてください」
すでに籠を持ち上げている。
修道女は少し困ったように笑った。
「それでは、裏の厨房までお願いできますか」
「はい」
歩き始めたリュシアの後ろから、エルディアスもついていく。
「見に来ただけじゃなかったのか」
「見ていますよ」
「籠を持ちながら?」
「運んだ先も見られますから」
「そういう問題か?」
答えはなかった。
建物の裏手には、石造りの壁へ付け足すように小さな厨房があった。
扉は開け放たれており、中には大きな竈が二つ並んでいる。一方では鍋に湯が沸き、もう一方では浅い鍋の中で麦が水へ浸されていた。
厨房には修道女が二人と、十五、六歳ほどの少女がいる。
少女は卓の前で根菜の皮を剥き、修道女の一人は乾燥豆を水から上げていた。広くはない場所へ大きな鍋や桶が置かれ、人がすれ違うたび互いに身体を避けている。
「そこへ置いていただけますか」
リュシアは指定された卓へ籠を置いた。
中に入っていたのは小ぶりな根菜と葉物だった。
形の悪いものが多い。
一部は萎れているが、腐ってはいない。
「今日の夕食ですか?」
「ええ。豆と一緒に煮る予定です。麦も少し入れます」
「何人分くらい作るのですか?」
修道女は壁へ掛けられた木板を見る。
「今のところ三十一人ですね。迎えの遅くなる子が増えれば、もう少し多くなります」
リュシアの視線が鍋へ移った。
次に根菜。
豆。
麦。
また鍋。
「足りないのか?」
エルディアスが尋ねる。
修道女が少し驚いたようにこちらを見る。
「足りなくはありませんよ。一人分ずつはあります。パンも出しますから」
「一人分ずつ」
リュシアが同じ言葉を小さく繰り返した。
「普段も、このくらいなのですか?」
「日によります。買えるものも、その日に手に入るものも違いますから。今日は根菜が安かったので、少し多めに買えました」
「この野菜は、市場で?」
「ええ。形のよいものより安いのです。切って煮てしまえば同じですから」
今日、市場の野菜屋から聞いたのと同じ話だった。
リュシアは小さく頷いた。
その横で、少女が根菜を一つ剥き終える。
皮はかなり厚い。
傷んだ部分まで一緒に落とそうとしているためだろう。小さな根菜は、剥き終えると一回り以上小さくなっていた。
リュシアがその手元を見ている。
「その皮は捨てるのですか?」
少女が顔を上げた。
「うん。食べられないところだから」
「全部ですか?」
少女は自信がなくなったらしく、修道女を見る。
「畑へ戻していますよ。堆肥にします」
「傷んだところはそれでよいと思います。ただ、そこまで厚く剥かなくても食べられる部分があります」
少女が手元を見る。
「ごめんなさい」
「責めているのではありません」
リュシアはすぐに言った。
「こういう形のものは、先に傷んだところだけ取った方が簡単です。そのあと薄く皮を剥けば、食べるところがもう少し残ります」
「できる?」
「できますよ」
少女が包丁を差し出した。
リュシアは少し迷ったあと受け取り、根菜を一つ手にする。
傷んだ部分だけを刃先で落とし、表面を浅く削る。形が歪んでいても刃が止まることはなく、先ほど少女が剥いたものよりずっと大きく残った。
「これくらいで大丈夫です」
「まだ皮が残ってない?」
「この色のところは皮ではありません。煮れば柔らかくなります」
少女は自分でも一つ取って真似を始めた。
リュシアは隣に立ったまま、刃を入れる場所を時折指で示している。
エルディアスはその様子をしばらく見ていた。
「お前、料理できるんだったな」
リュシアがこちらを見る。
「今日聞いたばかりではありませんか」
「聞いた」
「もう忘れたのですか?」
「料理ができるのと、こういうのに慣れてるのは別だろ」
「野菜の皮くらい剥きます」
「俺は剥かない」
「それは知っています」
なぜ知っているのかと思ったが、宿で毎日食べているところを見られていれば想像はつくらしい。
修道女が笑った。
「よろしければ、もう少し教えていただけませんか。私たちも料理を専門にしているわけではありませんので」
「構いません。ただ、今日作るものを勝手に変えるつもりはありません。普段の作り方を教えてください」
その返答に、修道女が少し意外そうな顔をした。
「先ほどの根菜と豆を一緒に煮て、最後に麦を加えます。塩と乾燥した香草を少しだけ入れます」
「豆は全部そのままですか?」
「ええ」
リュシアは水へ浸された豆を一つ指で押した。
「半分だけ柔らかくなるまで先に煮てもよいですか?」
「何か変わるのですか?」
「潰して汁へ戻します。そうすると少しとろみがつきますし、豆そのものが少なくても全体に味が回ります」
「それだけで?」
「それだけです。あと、麦を全部鍋へ入れると水を吸いますから、一部は別に炊いて器へ入れて、その上から煮込みを掛けてもよいと思います。食べる人によって量を変えられます」
修道女が鍋を見る。
「でも、使える鍋が足りません」
「豆を煮た鍋をそのまま使えば大丈夫です。潰して戻したあと、空いた鍋で麦を炊けます。根菜はその間にこちらで煮始めればよいので」
説明しながら、リュシアは竈と鍋の位置を確認している。
食材だけではない。
火の数。
鍋の数。
人の手。
その全部を見ている。
エルディアスは何となく理解した。
料理ができるというだけではない。
かなり慣れている。
「少しだけなら、手伝いましょうか?」
修道女が恐縮したように首を振る。
「そこまでお願いするわけには」
「急いで帰る予定はありません。それに、もう始めてしまいました」
リュシアが隣を見る。
「エルも今日は何もありませんよね」
「俺まで入ってるのか」
「料理はしなくてよいです」
「なら何するんだ」
「水が足りなくなったら井戸からお願いします」
「もう決まってるじゃないか」
少女が笑った。
修道女もつられて笑い、その時点で断る理由がなくなった。
◇
少しだけ、では済まなかった。
エルディアスが三度目の水を運んだ頃には、リュシアは完全に厨房の中へ収まっていた。
ただし、料理そのものを一人で引き受けているわけではない。
「こちらの根菜を先にお願いします。葉の方は最後で大丈夫です。早く入れると柔らかくなりすぎますから」
「これくらいの大きさですか?」
「もう少しだけ揃えた方が煮える時間が近くなります。でも、全部同じでなくても大丈夫ですよ」
修道女へ作業を渡し、自分は煮上がった豆を木杓子で潰している。
少女には先ほど教えた皮の剥き方を続けさせていた。
「これは残していい?」
「そこは大丈夫です。傷んでいるのは反対側だけですね」
「じゃあ、こっちは?」
「それも食べられます」
捨てる部分は、始める前より明らかに減っている。
潰した豆を煮汁へ戻すと、薄かった汁に少しずつとろみがついた。そこへ切った根菜を入れ、塩を控えめに加える。
「味を見てもよいですか?」
「もちろんです」
小皿へ少し取り、リュシアが口に含む。
一度。
もう一度。
「塩はまだ入れなくてよいと思います。煮詰まれば濃くなりますから、最後に足りなければ加えましょう。香草も、このくらいで十分です」
「子供向けですか?」
「はい。香りが強すぎると嫌がる子もいますから」
エルディアスは空になった水桶を床へ置いた。
「随分慣れてるな」
「これくらいは普通です」
「俺の知ってる普通と違う気がする」
「エルの普通を料理の基準にしないでください」
「それはそうだな」
反論できない。
「家では、いつもこんな量を作ってたのか?」
「いつもではありません。でも、一人分だけ作る方が少なかったです。何人かで食べますし、子供や年寄りの分まで一緒に作ることもありましたから」
「三十人でも?」
「このくらいなら、特別多いとは思いません」
エルディアスは鍋を見る。
少なくとも自分にとっては十分多い。
「何ですか、その顔は」
「何でもない」
「また疑っていますね」
「料理できることは疑ってない」
「では?」
「思ってたよりできるんだな、と」
リュシアの眉が少し寄る。
「結局、同じではありませんか」
「少し違う」
「私には同じに聞こえます」
近くで聞いていた修道女が笑いを堪えていた。
その後、エルディアスは薪を運び、空いた桶を片付け、いつの間にか厨房の外で野菜を洗う仕事まで増えていた。
「俺は案内役だったはずなんだが」
「もう案内は終わっていますよ」
「いつ終わった」
「ここへ着いた時でしょうか」
「勝手に終わらせるな」
「では、今は延長中ということにします」
何の延長なのか分からなかった。
◇
夕食を出す前には手を止めた。
煮込みはあとは火を弱めて待てばよく、別に炊いた麦もほとんど出来上がっている。
最初に見た時より鍋の中身が増えたわけではない。
使った根菜も、豆も、麦も同じだった。
ただ、捨てる部分が減り、豆を潰したことで汁に厚みが出ている。麦を別にしたため、子供と大人で盛る量も変えられる。
修道女は鍋を覗き込み、感心したように息を吐いた。
「同じ材料なのに、随分違って見えますね」
「材料を増やしたわけではありませんよ」
「それでも、昨日までとは違います。こういうやり方を知りませんでしたから」
リュシアは借りた前掛けを外した。
「慣れれば難しくありません。皮も、今日の剥き方なら次から少し残せると思います」
少女が卓の下に置かれた屑籠を覗く。
「昨日より少ない」
「その分は鍋の中です」
「じゃあ、いっぱい食べられる?」
「少しだけですけどね」
「少しでも増えるよ」
少女はそう言って笑った。
リュシアもわずかに口元を緩めた。
帰る前に、リュシアは修道女へ一つ尋ねた。
「今日の野菜は、どこで買ったのですか?」
「南側の市場です。いつも同じ店ではありませんよ。その日に安いものを見て決めています」
「毎日買いに行くのですか?」
「数日分まとめて買えるものはまとめます。ですが、葉物や魚はそうもいきませんからね。誰かが市場へ行ける日に、その時あるものを買います」
「魚も使うのですか?」
「安ければ。身の多い魚はなかなか買えませんけど、小さい魚や、骨の多いところを煮ることはあります」
今日、港で見た籠をエルディアスは思い出した。
リュシアも同じものを思い出したらしく、少しだけ目を細める。
「肉は?」
「時々です。硬いところが安く出ていれば買います。でも、長く煮るには薪も使いますから、安ければ何でもよいというわけではありません」
「なるほど」
そこでリュシアは質問をやめた。
修道院を出る頃には、空が少し赤くなり始めていた。
庭では夕方まで残る子供たちが遊んでおり、厨房からは先ほどの煮込みの匂いが流れている。
通りへ出てしばらく歩いてから、エルディアスは隣を見る。
「何考えてる」
「まだ何も決めていませんよ」
「決めてない時の顔してるから聞いてる」
「どういう顔ですか、それは」
「面倒なことを始める前の顔だ」
「失礼ですね」
否定はしなかった。
少し歩いたところで、リュシアが口を開いた。
「エル。明日、もう一度市場へ行ってもよいですか?」
「今日あれだけ見ただろ」
「今日は見ていただけです」
「明日は何する」
リュシアは少し考えてから答えた。
「値段を知りたいです。それと、あまり売れないものが、どのくらいあるのかも」
「何で」
「今日使った根菜は、形が悪いから安かったのでしょう。市場で見た小魚も、骨が多くて面倒だから安いと言っていました。安いのには理由がありますけど、その理由が料理の仕方で消せるものなら、使えると思うのです」
そこでようやく、エルディアスにも考えていることの一端が見えた。
「修道院で使う気か」
「使えるかどうかを調べるだけです。安くても、美味しくなければ子供は食べませんし、下ごしらえに半日掛かるなら、修道女の方たちの仕事を増やすだけでしょう」
「だから、もう一度市場を見る?」
「はい。今日見た厨房だけでは、まだ分かりませんから」
昼までは菓子を買い、果物を味見し、知らない魚の名前を聞きながら歩いた市場だった。同じ場所へ行くというのに、明日は見るものがまるで違うらしい。
「分かった」
「案内してくれるのですか?」
「市場までならな」
「ありがとうございます」
「ただし、明日は寝かせろよ」
リュシアがこちらを見る。
「今日あれだけ寝たではありませんか」
「休暇は一日で終わりなのか?」
「私は何も仕事を頼んでいませんよ。市場を見たいだけです」
「それを仕事って言うんじゃないのか」
「今日も見ましたよ」
「今日は菓子食ってただろ」
「明日も食べるかもしれません」
そこだけは、目的が変わっても同じらしい。




