第61話 休暇
目を覚ました時には、窓から差し込む光が思っていたより高い位置まで上がっていた。
エルディアスは寝台の上でしばらく天井を見たまま、自分が何かを忘れているのではないかと考えた。だが、昨日のうちに装備の整備は済ませ、王都への報告も終わっている。第二層にいた間は、朝になれば誰かが起きる気配や村の鐘、その日に確かめるべき何かがあったが、今日は本当に何もない。
そのせいで、身体が起きるまで眠っていたらしい。
「……寝たな」
窓を開けると、通りから朝の慌ただしさはすでに消えていた。港へ向かう荷車はまだ行き交っているものの、店々はとっくに軒を開き、向かいでは店主が椅子へ腰掛けて客を待っている。
顔を洗って階下へ下りると、食堂も朝食の混雑を終えていた。
エルディアスがいつもの席へ座ると、宿の主人が空いた卓を拭きながらこちらを見る。
「珍しいな。死んでるのかと思ったぞ」
「死んでたら起こしてくれ」
「死んでる奴を起こせるなら、冒険者宿なんかやってねえよ」
遅い朝食として出てきたのは、黒パンと卵、それに肉と野菜を煮込んだものだった。エルディアスが半分ほど食べたところで表の扉が開き、外から戻ってきたリュシアが食堂へ入ってくる。
こちらを見つけると、少し意外そうに目を瞬いた。
「本当に寝ていたのですね」
「何だ、その言い方は」
「昨日、休むと言っていましたから。朝になったらギルドか王墓へ行っているのではないかと思っていました」
「起きたら行ってたかもしれない」
「では、起きなかったのはよいことですね」
リュシアは向かいの椅子を引いた。腰にはドゥガンから戻ってきた剣を下げており、すでにしばらく外を歩いてきたらしい。
「お前はどこ行ってた」
「グレンさんたちのところです。朝食が終わった頃なら邪魔にならないと思って、医務室へ寄ってきました」
そこで声が少し明るくなる。
「四人とも、もう医務室を出てよいそうです。今日のうちに宿へ移ると言っていました」
エルディアスは匙を止めた。
「フィルもか?」
「はい。まだ無理はできないそうですけど、治療を続けるために医務室へいる必要はないそうです。ディナさんの腕も固定が外れていましたし、ネラさんも普通に歩いていました。グレンさんは早く仕事へ戻りたいと言って、治癒師の方に怒られていましたけど」
「なら元気だな」
「私もそう思います」
第一層から戻った時は、誰もすぐに動ける状態ではなかった。特にフィルは長引いていたため、そこまで回復したのなら一つ気掛かりが減ったことになる。
「グレンさんには、もう見舞いに来なくていいと言われました」
「解散したからか?」
「違います。医務室を出るのだから、来ても誰もいないという意味です」
「そりゃそうだ」
「私もそう答えました。そうしたら、分かっているなら最初から聞くなと言われました」
エルディアスは匙を動かし直した。
「やっぱり元気だな」
「ええ。かなり」
リュシアの表情にも、昨日までよりわずかに余裕があった。
エルディアスが朝食を食べ終えるのを待ってから、リュシアは窓の外へ目を向けた。
「エルは、今日は本当に何もしないのですか?」
「その予定だ」
「でしたら、一つお願いしてもよいですか」
「内容による」
「セレイスを案内してください」
予想していなかった言葉に、エルディアスは少しだけ眉を上げた。
「何で俺が」
「この街に五年も住んでいる人がいるのですから、知らない私が一人で歩くより早いでしょう。今まではギルドや宿、店、それから仕事で必要な場所へ行っただけです。街そのものを見たことはほとんどありませんから」
「一人で見ればいいだろ」
「最初はそう思いました」
リュシアは左手の薬指を持ち上げた。
そこから伸びる黒い糸が、卓を越えてエルディアスの左手まで続いている。
「医務室くらいの距離なら何も起きませんでした。でも、街の端まで行ってどうなるかは分かりません。それを確認するためだけに、わざと離れて心の声が聞こえるか試すのも嫌です」
「俺も嫌だな」
「でしたら、一緒にいた方が簡単でしょう。それに、案内する場所くらい思いつくのではありませんか?」
「どこを見たい」
「それが分からないから案内をお願いしているのです」
「注文が雑だな」
「知らない街の見たい場所を先に全部指定できる方がおかしいと思います」
もっともだった。
「なら港からだ」
「港は何度か通っていますよ」
「通るのと見るのは別だ」
リュシアは少し考え、立ち上がった。
「では、お任せします」
◇
港へ近づくにつれて人の流れが増えていった。
宿の周辺では朝の混雑が落ち着いていたが、海沿いはまだ忙しい。沖から戻った船が桟橋へ入り、濡れた綱が杭へ巻きつけられる。籠いっぱいの魚が次々と陸へ運ばれ、船員の掛け声と商人の値段交渉が重なっていた。
海水と魚、濡れた縄、船体に塗られた油の匂いが混じり、その上を海鳥が騒がしく飛び回っている。
リュシアは何度も足を緩めた。
吊り上げられる大魚を見て、貝の入った籠を覗き込み、見慣れない魚が並んでいれば首を傾げる。森の中で周囲を確認している時とは、視線の動きが明らかに違った。
「随分種類があるのですね」
「海だからな」
「それは分かります。あの赤い魚と、隣の細いものでは味も違うのでしょうか」
「知らん」
リュシアがこちらを見る。
「この街に長くいるのにですか?」
「食うたび名前を聞いてないからな」
「食べているのに何だったのか知らないのですか?」
「宿で出た飯に毎回聞くか?」
「私は気になれば聞きます」
「そうか」
ちょうど近くの屋台から焼いた魚の匂いが流れてきた。
小ぶりな魚を串へ刺し、塩を振って炭火で焼いている。リュシアは一度そちらへ目を向け、そのまま通り過ぎるかと思ったが、数歩進んだところで止まった。
「食べてみてもよいですか?」
「俺に聞くことか?」
「案内の途中ですから」
「好きにしろ」
一本買ったリュシアは熱い串を持ち替えながら一口食べ、少し考えるように噛んだ。
「思ったより脂がありますね」
「そうなのか」
「エルも食べますか?」
「朝飯を食ったばかりだ」
「私も食べましたよ」
「なら何で食ってる」
「見たことがなかったので」
理由になっているのか分からなかった。
リュシアは気にせず二口目を食べ、串を売っていた男へ魚の名前を尋ねた。そこから話が広がり、焼く以外にも煮ることがあると聞いている。
その隣には、さらに小さな魚が籠へ山積みにされていた。
「こちらは随分安いのですね」
「小さいし骨が多いからな。まとめて煮る店が買うくらいだ。家で一匹ずつ食うなら面倒だろ」
「味は悪いのですか?」
「いや。面倒なだけだ」
「そうですか」
リュシアはそれだけ聞き、特に買おうとはしなかった。
港を抜けて市場へ入る。
野菜、果物、穀物、肉、乾燥豆、香草。海沿いには香辛料を扱う店もあり、見慣れない文字を焼きつけた木箱が積まれていた。
港で魚ばかり見ていた時以上に、リュシアの歩みは遅くなった。
最初に捕まったのは果物屋だった。
黄色い皮の細長い果実を見つけ、店主に味を聞く。試しに切った一片へ塩を振って渡されると、少し驚いた顔で食べた。
「甘いものに塩をかけるのですね」
「暑い時期はこっちの方が売れるんだよ」
「合いますね」
そのまま小さなものを二つ買う。
次は、薄い生地へ豆と刻んだ肉を包み、鉄板で焼いている屋台だった。
「また食うのか」
「半分にします」
「そういう問題じゃない」
「エルも半分食べればよいのでは?」
結局、一つを二人で分けることになった。
歩きながら食べるリュシアは、店先に並ぶものを忙しく見ている。香草の束へ鼻を近づけたかと思えば、今度は焼き物の皿へ目を移し、隣の布屋では色の変わった織物を眺めた。
食べ物だけを見ているわけではない。
古い装飾品、細工の入った箱、海向こうから来たらしい陶器。聞き慣れない楽器を鳴らす露天商の前では、少し長く足を止めていた。
市場の中ほどまで進んだところで、リュシアがまた立ち止まる。
野菜屋の端に、小さく曲がった根菜だけを集めた籠が置かれていた。
「これは別の種類ですか?」
「同じだよ。形が悪いだけだ」
「味も同じなのですか?」
「変わらん。店に並べるなら真っすぐなのを欲しがる客が多いから、こっちは安くしてる。煮込みなら何の問題もない」
「確かに、切れば分かりませんね」
リュシアは一本持ち上げて眺め、戻した。
「買わないのか」
「今日は持ち歩くことになりますから。それに、今は食材を買いに来たわけではありません」
「さっきから随分見てるけどな」
「市場に来たのですから、見るでしょう」
当然のように返された。
確かに、リュシアは料理ができると言っていた。料理をする人間なら、街ごとの食材に目が向くものなのかもしれない。
その直後には、果物屋で勧められた赤い実を一つ味見し、酸っぱかったらしく露骨に眉を寄せていたので、深く考えるようなことでもなかった。
「顔に出てるぞ」
「思っていた味と違いました」
「甘いとは言われてなかっただろ」
「果物ならもう少し甘いと思うでしょう」
店主が笑いながら、水へ漬けて飲み物にするとよいと教えてくれた。
さらに進むと穀物を扱う店があり、上等な麦の隣に色の濃い粗い麦が置かれている。
リュシアはそちらも少し眺めたが、今度は値札を見ただけで通り過ぎた。
それよりも、その先で焼いていた甘い薄焼き菓子の方へ目を取られている。
「さっき食ってなかったか」
「歩いていますから」
「そういう問題か?」
「食べられる時に食べておくのは冒険者として正しいでしょう」
「今は休暇だぞ」
「では、休暇なので食べています」
結局また一つ買った。
◇
市場を抜けた先は、海側より古い商店街だった。
石畳の幅は狭く、二階部分が通りへ張り出した建物が肩を寄せ合うように並んでいる。古道具屋、革製品の店、針仕事の工房、古書を扱う店。大通りでは見かけない雑多な品が狭い店先へ積まれていた。
「ここは随分雰囲気が違いますね」
「昔はこの辺りが商人街の中心だったらしい。港が広がって新しい店が海側へ移ってから、古い店が残った」
「エルも来ることがあるのですか?」
「たまにな。革紐とか雑に使う道具なら、こっちの方が安い。飯屋も多いが、入るなら選んだ方がいい」
「味ですか?」
「それで済めばいい。来たばかりの頃、安いからって適当に入った店で腹を壊した」
リュシアが目を丸くし、そのあと口元を少し緩めた。
「そういう失敗もするのですね」
「二日動けなかった」
「それは覚えますね。では今日は、腹を壊さなかった店へしてください」
「まだ食うのか」
「市場で食べたのは少しずつです」
確かに一つ一つは少なかった。
案内役として失敗例だけを紹介するわけにもいかず、エルディアスは以前から使っている食堂へ連れていった。
出てきたのは厚切りの黒パンと、豆と肉を煮込んだ濃いスープだった。豪華ではないが量はある。
リュシアは一口食べると、少しだけ目を細めた。
「何だ」
「香草が何かと思っただけです」
「食って分かるのか」
「全部ではありません。でも、市場で嗅いだものが入っている気がします」
「店主に聞くか?」
「今は食べます」
そう言いながら、器の中をもう一度見ていた。
食堂を出てからも、リュシアは宿へ戻ろうとはしなかった。
古道具屋では欠けた食器や古いランプを眺め、楽器店から音が聞こえれば足を緩める。エルディアスが古い短剣へ目を向けている間に一度姿が隣から消え、次の通りへ入ったところで紙包みを持って戻ってきた。
「それ、いつ買った」
「さっきの露店です。蜂蜜と木の実が入っているそうですよ」
「またか」
「これは別です」
「何が違う」
「甘いものです」
説明になっていない。
リュシアは包みを開き、丸く焼いた菓子を一つ取り出した。
「食べますか?」
「いらない」
「そうですか」
一口かじり、そのまま歩く。
特に感想は口にしなかったが、古い商店街を抜ける直前、先ほどの露店がある方へ一度だけ振り返った。
味は悪くなかったらしい。
◇
午後になると、通りの様子が少しずつ変わっていった。
荷車が減り、商店の代わりに住宅が増える。小さな庭を持つ家や、窓辺へ花鉢を置いた家もあり、路地では子供たちが木片を蹴って遊んでいた。
市場ほど目立つものはない。
それでもリュシアは退屈した様子を見せず、庭木を刈る男や、軒先で話す老人たちへ目を向けている。知らない街の日常そのものを見ているらしい。
「エルが今の宿を選んだのも、やはりギルドに近いからですか?」
「それが一番だな。あとは飯が悪くない。値段もほどほどで、余計なことを聞かれない」
「昨日までは、ただ近いから使っているのだと思っていました」
「嫌なら、とっくに別の宿へ移ってる」
「それはそうですね」
家の軒先で老女が花へ水をやっていた。
その脇を通り過ぎたあと、リュシアは一度だけそちらへ顔を向ける。
何かを褒めるわけでもない。
それでも、いつものように目的地だけを見て歩いている時とは違っていた。
次の分かれ道で、エルディアスは足を止める。
「まだ行くか?」
「案内を頼んだのですから、エルが終わりだと思うところまでは付き合いますよ。ただ、そちらへ行くのを迷っているように見えますけど」
「迷ってるわけじゃない。この先は、今までみたいに歩いて眺めるだけの場所じゃない」
南へ続く道の先は、少しずつ建物が古くなっている。
「治安が悪いのですか?」
「場所による。一人で入り込まない方がいい路地はある。ただ、犯罪者ばかり住んでるわけじゃない。港の日雇いや、怪我で仕事を続けられなくなった奴、家族の稼ぎだけじゃ足りない連中もいる」
リュシアは道の先を見た。
「貧しい人たちが暮らしている場所なのですね」
「そうだ。見ないで帰っても別に構わない」
「でしたら、見ておきたいです。都合のよいところだけ見せてもらうために案内を頼んだわけではありませんから」
答えに躊躇はなかった。
「分かった。ただ、ここからは離れるなよ。死別契鎖とは別の意味で」
「それは先に言ってください」
「今言った」
「ここへ入る前なので、今回は間に合っています」
南へ進む。
石畳の割れた箇所が増え、板で補修された家や、一つの建物を何世帯かで使っているような場所が目立ち始める。洗濯物は多く、二階の窓から声が飛び、その下を裸足の子供たちが走っていった。
ただ、人の暮らしそのものが別物になるわけではない。
軒先では女が服を洗い、男たちが翌日の仕事について話している。片腕を吊った男が古い椅子へ座って靴を直し、その隣では少年が幼い子へ水を飲ませていた。
「港で働いている人が多いのですか?」
「多い。船が来なければ仕事が減るから、日雇いは安定しない」
「怪我をしたら?」
「動けない間は稼げない。何日かで戻れればいいが、長引けば厳しい」
「神殿などが助けることはないのですか?」
「病人や身寄りのない子供を預かるところはある。ただ、街にいる全員の生活を支えられるわけじゃない」
リュシアはそれ以上何かを言うことなく、周囲を見る。
「こういう場所は、他の街にもあったか」
「ありました。もっと小さな町でも、仕事を失った人や、親を亡くした子供はいましたから。旅をしていれば珍しいものではありません」
少し間を置いて続ける。
「珍しくないからといって、気にならなくなるわけでもありませんけど」
「そうだな」
家の密集が途切れ始めたところで、低い石壁に囲まれた古い建物が見えてきた。
灰色の石を積んだ二階建てで、正面には小さな鐘が一つ吊られている。屋根には何度も補修した跡があり、建物の脇には小さな畑があった。
庭では十人ほどの子供が遊んでいる。
布を丸めた球を追いかける者もいれば、壁際で本を読む子もいる。少し離れたところでは、年上らしい少女が幼い子供の服を縫っていた。
リュシアの歩みが緩くなった。
「あれは神殿ではありませんよね」
「修道院だ。この辺りだと、身寄りのない奴を預かったり、親が働いている間だけ子供を見たりもしてる」
「全員がここで暮らしているわけではないのですね」
「たぶんな。俺も中へ入ったことはない」
ちょうど扉が開き、灰色の修道服を着た女が大きな籠を抱えて出てきた。庭にいた年長の子供二人が走ってきて籠を受け取る。
中には、小さな根菜と少し萎れた葉物が入っていた。
市場で見た、形の悪い根菜とよく似ている。
リュシアの視線が籠を追った。
次に、小さな畑へ移る。
それから庭にいる子供たちへ戻った。
「まだ見るのか」
「少しだけ。せっかくここまで来たのですから」
「ああ」
エルディアスも足を止めた。
朝からリュシアは、魚や果物、知らない店や菓子を見つけるたびに足を止めていた。
今も同じように何かを見ている。
ただ、その目の動きだけが、少し違って見えた。




