第60話 整備
翌朝、エルディアスとリュシアが冒険者ギルドへ入ると、受付にいたミュリカが二人へ気づいて帳面を閉じた。
「おはようございます。ちょうどお伝えしたいことがありました」
「王都からか?」
「そのお話もありますが、先にギルドからお伝えすることがあります」
ミュリカは受付の下から一冊の帳面を取り出し、開いた頁を確認した。
「まず、《暁星》のラウルさん、ガルムさん、セルマさんですが、今朝早く王立迷宮査察隊の調査班と一緒に黒碑王墓迷宮へ向かわれました」
リュシアがわずかに目を見開く。
「もう出発されたのですか?」
「はい。日の出より前だったそうです。第二層の測量と、まだ確認できていない場所の調査に加わることになりました」
「ニルスとクラリスも探すんだろ」
「それもあると聞いています。調査班が進む範囲と、お二人の捜索範囲はかなり重なりますから、別々に動くより一緒に調べた方がいいという話になったそうです」
エルディアスは返事をせず、受付台へ視線を落とした。
ラウルならそうするだろうとは思っていた。村を出た時点でも、ニルスとクラリスを諦めた様子はなかった。王都から人手が来て、第二層をもう一度調べるというなら、そこへ加わらない理由の方が少ない。
――知らなかったですね。
リュシアの声が内側へ届く。
――ああ。
――昨日のうちに聞いていれば、どうしましたか。
エルディアスは少しだけ考えた。
――行くって言われても止めない。
――そうですね。
それだけで念話は途切れた。
二人は知っている。少なくとも、自分たちが最後にいた赤の歴史で何が起きたのかは知っている。だが、それを知らないラウルたちに、もう探しても仕方がないとは言えなかった。
ミュリカは二人の沈黙を待ってから続けた。
「王都側は、現時点では第二層の攻略完了を正式には認定しないそうです」
「神託があって、碑文も増えたのに?」
リュシアが尋ねる。
「それだけでは判断できない、ということのようです。村の境界がなくなり、皆さんが帰還できるようになった。二度目の神託が下り、黒碑にも第四文が加わった。大きな変化が起きたこと自体は間違いないのですが、何を倒した、何を解除した、どこを通れば次へ進める、といったことが王都側では確認できていません」
「それで地図を作り直すのか」
「作り直すというより、続きを作るそうです。森から村までの経路にも未確認の場所がありますし、第二層の先へ進む道もまだ見つかっていません。危険が残っていないか確かめながら、調査範囲を広げる方針だと聞いています」
エルディアスには異論はなかった。
自分が知っていることをすべて説明したところで、王都が同じ判断をできるとは限らない。三つの歴史を確認できるのは自分だけで、そのうち二つはもう存在しない。使徒の死と歴史の消失を再現して見せることもできなければ、村長は使徒だった時のことを忘れている。
黒碑へ新しい文が刻まれたという結果だけが、外から見ても確かなものとして残っている。
「それとは別に、お二人が受けていた『第二層第一次攻略』の依頼は、今回の成果をもって完了扱いになりました」
ミュリカが帳面を二人の側へ向ける。
「第二層が攻略済みになったという意味ではありません。依頼として求められていた調査へ参加し、得られた情報を持ち帰ったことについて、王都側から成果の受領が出ています。ですので、ギルドとしてはこちらを達成で処理します」
「ややこしいな」
「私も説明していて少しそう思います」
ミュリカの猫耳がわずかに伏せた。
「報酬は、以前作った共同勘定へ入れてよろしいですか?」
エルディアスがリュシアを見る。
「いいか?」
「はい。黒碑王墓迷宮の依頼で得たものですから、それで構いません」
「では、そのように処理します」
ミュリカは帳面へ二人の確認を書き加えた。
第一層を終えた後に作った共同勘定は、黒碑王墓迷宮に関する仕事だけに使うと決めている。装備、薬、術具、修理など、依頼に必要なものをそこから出し、残った分を二人で分ける。どちらか一人の判断だけでは使えない。
前回は、その仕組みを作った直後にリュシアの新しい剣を買った。
エルディアスは彼女の腰へ目を向けた。黒い鞘の細身剣は、今もそこにある。
「王都から、俺たちへの次の依頼は?」
「今のところありません。調査班の追加募集自体はありますが、お二人を指定した依頼ではありませんし、王都から参加要請も出ていません」
「なら、今日は空いてるな」
「そうなりますね」
リュシアも腰の剣へ手を置いた。
「何かするのですか?」
「剣を見せに行く」
「まだ買ってから、それほど経っていませんよ」
「使った回数は多い」
リュシアは少し考えた後、自分の剣を見下ろした。
「……それは否定できませんね」
◇
職人街へ入ると、遠くからでも槌音が聞こえてきた。
ドゥガンの工房は以前と変わらず、開け放たれた戸口から熱気と鉄の匂いを通りへ吐き出している。中へ入ると、炉の前で金具を叩いていた初老のドワーフが二人を見た。
「早かったな」
「そうでしょうか」
リュシアが尋ねると、ドゥガンは槌を置いた。
「剣を作ってからじゃない。またお前たちが来るのがだ」
「壊してはいません」
「なら見せろ」
否定を聞く気もないらしい。
リュシアは黒い鞘ごと剣を外し、作業台へ置いた。ドゥガンは抜いた刃を炉の光へかざし、切っ先から鍔元までゆっくり角度を変えていく。刃には細かな擦り傷がいくつかあり、一か所だけ小さく刃が欠けていた。
今度は柄を握り、左右へ力を掛ける。
「緩んでるな」
「どこがですか?」
「鍔と柄だ。ほんの少しだが遊びが出てる。刃そのものは大したことない。研ぎ直せば済む」
ドゥガンは鞘へ戻さず、エルディアスを見る。
「白い火は使ったか?」
「使ってない」
「本当だな?」
「ああ」
「なら、この程度で済んでるのも納得だ。ほかには何を通した」
「風」
「どれくらいだ」
「かなり」
ドゥガンの眉間に皺が寄った。
「かなりじゃ分からん」
「踏み込みを伸ばすのと、剣を押すのに何度も使った。途中で止める方にも使ってる」
「止める?」
「前へ出てる途中で、風を逆にした」
ドゥガンはしばらくエルディアスを見た。
「お前は剣を何だと思ってる」
「剣だ」
「だったらもう少し普通に使え」
「使ってるのは私です」
リュシアが訂正すると、ドゥガンは今度はそちらを見る。
「なら、お前もだ」
「私はエルに合わせただけですが」
「二人まとめて同じだ」
ドゥガンは剣を作業台へ置き、柄の端を指で叩いた。
「刃へ火を通すのとは傷み方が違う。風で前へ押すだけならまだいいが、振ってる途中や突いてる途中で急に力を足したり、逆へ引いたりすれば、その力は全部どこかへ逃げる。刃が折れなくても、鍔や柄、茎の周りには少しずつ負担が溜まる」
「使うなとは言わないのですね」
「そのための剣を売ったんだ。使うなとは言わん。ただし、壊れない剣を売った覚えもない」
以前にも聞いた言葉だった。
リュシアも覚えていたらしく、小さく頷く。
「では、お願いします」
「夕方まで置いていけ。研ぎ直して、柄を締め直す。茎も抜いて確認する」
「今日中に終わりますか?」
「この程度ならな。次に来る時も、この程度で持ってこい」
ドゥガンはそこでエルディアスへ目を向けた。
「白くなるまで火を通してから持ってくるなよ」
「分かってる」
「前にも聞いた」
それ以上は信用されなかった。
◇
工房を出た二人は、そのまま港側へ戻った。
剣だけを整えて終わりにするつもりだったが、石畳を歩いている途中でエルディアスは自分の足元を見た。靴の踵は片側だけ少し減り、縁には乾いた泥が染みついている。外套にも森で引っ掛けた継ぎが何か所か残っていた。
隣を歩くリュシアの靴も似たような状態だった。村の中では石畳を走り、森では根を越え、戦いになればそこへ風まで重ねている。
「《錆びない鹿》も寄るぞ」
「エルの装備ですか?」
「お前もだ」
「私ですか?」
「靴を見ろ」
リュシアは歩きながら自分の足元へ目を落とした。
「まだ履けますよ」
「履けるかどうかじゃない」
「エルがそれを言いますか?」
「何がだ」
「その外套は何度直したのですか」
エルディアスは答えなかった。
「私の靴だけを見て言うのであれば、先にご自分の外套を見てください」
「だから一緒に行くんだろ」
「最初からそう言ってください」
通りの先で、鉄板から切り抜かれた鹿が海風に揺れていた。
《錆びない鹿》の扉を開けると、革をなめす薬品と油の匂いが鼻へ届く。奥の作業台にいたザックは、革帯へ穴を開けているところだった。二人を見ると手を止め、最初にリュシア、その次にエルディアスへ視線を移す。
「帰ってきたとは聞いてたよ」
「昨日戻りました」
「それで今日は、どっちが何を壊したんだい?」
「壊していません」
リュシアがすぐに答えた。
「剣ならドゥガンに置いてきた」
エルディアスが続けると、ザックは笑う。
「その言い方だと、剣は何かあったんじゃないか」
「点検です」
「なら、こっちも点検していきな」
そう言われるより先に、リュシアは外套を脱いでいた。その下の青灰色のローブまで外し、以前と同じように作業台へ広げる。
ザックはそれを見て目を細めた。
「前よりはましだね」
「前回が酷すぎただけではありませんか」
「そうとも言う」
裾から順に傷を確かめ、肩、袖へと手を進める。左袖へ来ると、以前追加した銀糸の導線を裏側から引き出し、継ぎ目を一つずつ確認した。
「こっちは切れてない。熱が入った跡もないね」
「今回は火を通していません」
「それなら納得だ。途中の継ぎも生きてる。前に追加した分は、そのまま使えるよ」
リュシアが少し安心したように息をついた。
「では、ローブは問題ありませんか?」
「大きな問題はない。ただ、肩と脇の縫い目が緩んでる。裾にも新しい裂け目が三つ。こっちは何度か強く引っ張られた跡があるね」
「戦闘中に掴まれました」
「だろうね。直せる範囲だよ。補助術式も生きてるから、銀糸を全部引き直す必要はない」
ザックはローブを脇へ寄せ、今度はリュシアの靴を指した。
「そっちも脱いでみな」
「これもですか?」
「店まで来て、そこだけ見せない理由があるのかい?」
リュシアは諦めたように椅子へ座り、片方ずつ靴を脱いだ。
ザックは底を見た瞬間、眉を上げる。
「よくこれで『まだ履ける』って言ったね」
リュシアがエルディアスを見る。
「告げ口をしましたね」
「見れば分かる」
「確かに、見れば分かるね」
ザックは靴底の縁を押した。
「前側がかなり薄くなってる。縫い糸も一部出てるよ。直すことはできるが、ここまで減ったなら替えた方がいい。次も走るんだろう?」
「おそらく」
「なら、新しいのを出すよ。今までより底を少し厚くする。ただし硬くはしない。お前さんは足裏の感覚が鈍る方を嫌うだろうからね」
「よく覚えていますね」
「防具屋だからね」
ザックは棚の奥からいくつか靴を出し始めた。
その間にエルディアスは外套を脱ぎ、作業台の空いた場所へ置く。
「こっちも見ろ」
「珍しく素直じゃないか」
「言われる前に出しただけだ」
「それを素直って言うんだよ」
ザックは外套を持ち上げ、表と裏を順に確認した。何度も継ぎを当てた裾、肩掛けの革帯が擦れる場所、袖口を見ていくうちに、顔つきが少し呆れたものへ変わる。
「これは直せるかどうかじゃなくて、替え時だね」
「まだ使える」
「さっきどこかで聞いた言葉だね」
リュシアが新しい靴を片足だけ履いたまま、こちらを見る。
「私にも聞き覚えがあります」
「お前は黙ってろ」
「嫌です」
ザックは笑いながら、古い外套を畳んだ。
「布そのものが薄くなってる。継ぎを増やしても、次はその隣が裂けるだけだよ。同じような形で作るなら、今使ってる留め具と内側の革帯は流用できる。道具を吊るす場所も今と同じにしておけば、使い勝手は変わらない」
「時間は?」
「急ぐのかい?」
エルディアスは一度考えた。
「いや」
「なら二日くれ。今日は採寸だけして、古い方は持って帰ればいい」
「分かった」
ザックの視線が、二人の靴とローブ、外套の上を一巡した。
「ずいぶん使ったみたいだね」
「十日ほどです」
「十日でこれかい」
「毎日戦っていたわけではありません」
リュシアが説明する。
「そうだとしても、普通は十日でここまでにはならないよ」
「途中から少し忙しくなりました」
「お前さんがそう言う時も、だいたいろくなことになってないね」
以前はエルディアスへ向けられていた言葉を、今度はリュシアが受けた。
彼女は少しだけ考えた後、否定しなかった。
「それは、そうかもしれません」
新しい靴を両足とも試し、店の中を数歩歩く。さらに軽く踵を浮かせて踏み込みを確かめた後、リュシアは頷いた。
「これでお願いします」
「エルの靴もだ」
ザックが言う。
「俺のもか」
「人の靴を指摘しておいて、自分だけ帰れると思ったのかい?」
結局、エルディアスも靴を見せることになった。
状態はリュシアより多少ましだったものの、交換を勧められる程度には減っていた。
ローブの補修、二人分の靴、それにエルディアスの新しい外套。ザックが金額をまとめると、リュシアがその内容を一つずつ確認した。
「すべて、黒碑王墓迷宮へ入るための装備ですね」
「そうだな」
「共同勘定からで構いませんか?」
「ああ」
「では、ギルドへ回してください」
ザックが二人を見る。
「前は修理代をどっちが払うかで随分揉めてたのに、今はずいぶん簡単になったね」
「共同経費です」
リュシアが答えた。
「共同のお財布らしい」
「違う」
「まだ言うのですか」
「依頼の金だ」
「そういうことにしておきます」
ザックは懐かしそうに笑いながら、請求を書き始めた。
◇
夕方、二人はもう一度ドゥガンの工房へ寄った。
黒い鞘の剣は研ぎ直され、柄の緩みも消えていた。ドゥガンは茎にも異常はなかったと告げたが、最後にもう一度、風で急な加減速を繰り返すなら定期的に持ってこいと念を押した。
リュシアは剣を腰へ戻し、左手で柄を握って位置を確かめる。
工房を出る頃には、港側の空が赤くなり始めていた。
「今日は、これで終わりですか?」
「ああ」
「本当に?」
「ほかに何がある」
「ありませんけど」
二人は宿へ向かって歩き始めた。
少し進んだところで、リュシアが口を開く。
「ラウルさんたちは、今頃まだ第二層でしょうか」
「たぶんな」
「ニルスさんとクラリスさんを探しているのでしょうね」
「ああ」
それ以上の言葉はすぐには続かなかった。
通りには仕事を終えた職人たちが出始め、港側から戻る荷車とすれ違う。二人は人の流れを避けながら歩いた。
「見つからないと分かっているのに、何も言わずに送り出すのは、少し変な感じがします」
リュシアが静かに言った。
「言えないだろ」
「はい」
「探すなって言うなら、理由がいる」
「私たちにはあります。でも、話せる理由ではありませんね」
「そういうことだ」
ラウルたちは探す。
王都も地図を作り続ける。
第二層のどこかに、まだ二人がいる可能性を捨てずに。
エルディアスとリュシアだけが、その先にあるものを知っている。それでも、知らない者が確かめようとすることまで止める理由にはならなかった。
「しばらく、私たちには依頼がないのですよね」
「ああ」
「では、明日は?」
「休めばいいだろ」
リュシアが横を見る。
「エルもですよ」
「分かってる」
「本当に?」
「今日はそれを何回聞くつもりだ」
「信用できるまでです」
「なら一生終わらんぞ」
「それは困りますね」
言葉とは反対に、リュシアの声は少しだけ楽しそうだった。
第二層が本当に終わったのか、王都はまだ判断できていない。地図は作り続けられ、ニルスとクラリスの捜索も終わってはいない。黒碑には意味の分からない第四文が増えたままで、その先に何があるのかも分からなかった。
それでも、今すぐ二人がするべきことはない。
次に呼ばれた時、また迷宮へ入れるようにしておく。
今日は、それで十分だった。




