第57話 帰投
岩壁の切れ目には、何も見えなかった。
何度も確かめた場所だった。森から吹き込む風も、転がってくる枯れ葉も、村人も、持ち物も通る。それなのにエルディアスたちだけは、そこから先へ一歩も進めなかった。
今も見た目は変わっていない。
「本当に、ここだったよな」
ラウルが切れ目の手前で足を止めた。
「ああ」
ガルムが答える。
「散々押したんだから間違えん」
「押してない。通れるか確かめてただけだ」
「まだそこにこだわるの?」
セルマが呆れたように言った。
「もうどちらでもいいでしょう。出られるか試しに来たんだから、早くやってみなさいよ」
「お前は人にやらせる時だけ早いな」
「だって、もしまだ駄目だったら痛くも痒くもないでしょう?」
「今までだって痛くはなかった」
そう返しながらも、ラウルは境界へ向き直った。
昨日までなら、あと一歩というところで身体が止まった。何かへぶつかるわけでも、押し返されるわけでもない。ただ森側への移動だけが成立しなくなる。
ラウルが右足を前へ出した。
靴底が、何にも妨げられず岩壁の向こうへ落ちる。
そのまま身体まで森側へ出た。
誰も声を上げなかった。
ラウル自身も二歩ほど進んだところで止まり、足元を見てから振り返った。
「……出られたぞ」
「見えてる」
ガルムが答えたものの、自分でも確かめずにはいられないらしい。大盾を背負ったまま切れ目へ進み、以前止められていた位置を越える。続いてセルマも慎重に片足を伸ばし、森側の土を踏んだ。
「何もないわね」
「最初から何も見えてはいなかったでしょう」
リュシアが言う。
「そうなんだけど、今度は本当に何もないのよ。変な感じ」
セルマは境界だった場所へ杖の先を往復させ、それから村側へ戻ってきた。
エルディアスは最後までその様子を見ていた。
青の使徒が消えた後、青は来なくなった。黄の使徒を倒せば黄も続かなくなり、最後に残った赤の使徒としての役割も失われた。
そしてエルディアスへ、二度目の信託が下った。
偶然で片づけるには、起きたことが揃いすぎている。
第二層は終わった。
そう考えて間違いないはずだった。
――開いていますね。
リュシアの声が内側へ届いた。
――ああ。
――では、やはり。
――たぶんな。
エルディアスはそれ以上を送らなかった。
ラウルたちにとっては、何日も閉ざされていた出口が、理由も分からないまま突然開いただけだ。その直前には、エルディアスが白い光に包まれ、誰にも意味の分からない言葉を宣言している。
それだけでも十分に説明のつかない出来事だった。
「もう一人くらい試すか?」
ガルムが尋ねると、ラウルは首を横へ振った。
「三人通れたなら十分だ。少なくとも俺たちを止めていたものはなくなってる」
「それなら――」
セルマは途中で言葉を切った。
帰れる。
おそらく、そう言おうとしたのだろう。
だが、ここにいるのは五人だけだった。
七人で村へ入った。
ニルスとクラリスは、まだ見つかっていない。
ラウルも同じことを考えていたらしく、森へ続く道から村の方へ目を戻した。
「もう一度探す」
ガルムは何も言わなかった。
「昨日も夜まで探したでしょう」
セルマの声は責めるものではなかった。
「分かってる」
「村の人たちも探してくれたわ。家も物置も、岩壁の近くも見た。血が残っていたところからだって、ニルスの足跡もクラリスの足跡も追えなかったでしょう?」
「分かってると言ってる」
ラウルは強く言い返さなかった。森へ出られると分かったことで、むしろ迷いが増えたようにも見えた。
「だからって、出られるようになったから帰る、とはならないだろ」
「ならないわよ」
セルマはすぐに答えた。
「置いて帰りたいなんて誰も言ってないでしょう。でも、私たちだけで探し続けるのが一番いいのかは別よ」
ラウルが黙る。
ガルムは大盾の革帯へ手を掛けたまま、村の奥へ目を向けた。
「食料も減ってる。俺たち五人で見られる場所は、もう大体見た」
「村の外へ出られるなら、宿営地まで戻って人を連れてこられる」
エルディアスが言った。
ラウルがこちらを見る。
「戻っている間に、二人が出てきたらどうする」
「村長に頼む。村の連中にも話しておけばいい。二人が戻ったら村から出さずに待たせてもらう」
「出られるなら、二人だけで戻ってくる可能性もあるぞ」
「それなら森の道標を辿れる。ニルスが残した道だ」
その名前を出すと、ラウルの表情がわずかに動いた。
塔から村までの経路を作ったのは、ほとんどニルスだった。主要道標の色も、木の低い位置へ残した印も、根の近くへ隠した杭も、帰路で迷わないためにあいつが決めた。
「……自分で戻ってこいってことか」
「戻ってこられるならな」
「それで、俺たちは人を連れて戻る」
「ああ」
ラウルはしばらく答えなかった。
セルマも急かさずに待っている。ガルムは森側へ出たまま周囲を見ており、リュシアも何も言わなかった。
やがてラウルが息を吐いた。
「今日いっぱい、もう一度だけ探す」
「ラウル」
「分かってる。日が落ちるまで残るとは言わん。昼までだ。それで何も見つからなければ戻る。宿営地へ報告して、捜索できる人数と物資を揃えて戻ってくる」
セルマは少し考えた後、頷いた。
「それならいいわ」
「最初からそのつもりだ」
「さっきはもう一度探すとしか言わなかったでしょう?」
「今決めた」
「そういうのを後から足したって言うのよ」
「お前は今そこを詰める必要があるのか?」
「ないわね」
セルマはあっさり引いた。
ガルムが森側から戻ってくる。
「なら村長に先に頼んでおこう。俺たちが探してる間にも、村の連中へ声を掛けてもらえる」
「ああ」
五人はもう一度村へ戻った。
◇
昼までに、新しい痕跡は見つからなかった。
ニルスとクラリスが最後に向かった北側も、血と争った跡が残っていた場所も、その周辺の家も物置も改めて調べた。井戸の周囲や岩壁沿いまで見たが、昨日までになかったものは何一つ増えていない。
村長も何人かの村人へ頼み、使われていない納屋や家畜小屋を見てもらっていた。
「すまんな。こっちでも見てるんだが、やっぱり見つからん」
村長は申し訳なさそうに言った。
赤の使徒だった男は、今はもう何の変哲もない村長にしか見えなかった。
自分が使徒だったことも、その間に何をしたのかも覚えていない。ニルスとクラリスが消えた夜について尋ねても、ほかの村人と同じ程度のことしか知らなかった。
それを知っているのは、エルディアスとリュシアだけだった。
「俺たちは一度戻る」
ラウルが言った。
「森の向こうに仲間がいる。人手を増やして、また来る」
「その方がいいだろうな。あんたらだけでも随分探した。見落としてる場所があるなら、人数を増やした方が見つけやすい」
「二人が戻ってきたら、ここで待たせてもらえるか」
「もちろんだ。名前はニルスとクラリスだったな」
「ああ」
「森へ出ようとしたら止めておくよ。あんたらが戻る場所も聞いておいた方がいいか?」
「そこまではいい。俺たちの道を知ってる。二人なら戻れる」
そう言い切ったラウルに、村長は頷いた。
「分かった。こっちでも探しておく」
「頼む」
話を終え、五人は旅人用の家へ戻った。
荷造りには時間が掛からなかった。
もともと森を往復するために持ち込んだ装備であり、村で増えたものもほとんどない。使った保存食をまとめ、寝台の周囲へ置いていた道具を回収し、置き忘れがないか一通り確認する。
ニルスの使っていた寝台と、クラリスの寝台だけが空いたまま残った。
セルマが自分の荷物を背負ってから、二つを見た。
「戻ってきたら、勝手に使われてたりしないでしょうね」
「旅人用の家だぞ」
ガルムが答える。
「誰か来れば使うだろ」
「分かってるわよ。言ってみただけ」
「なら帰ってきた時に追い出せばいい」
「誰を?」
「使ってる奴をだ」
「それは感じ悪くない?」
「なら言うな」
「ガルムが言い出したんでしょう?」
「お前が最初だ」
ラウルは二人のやり取りを止めなかった。
ニルスがいれば、こういう時には余計な一言を挟んでいたかもしれない。クラリスなら、出発前に全員の体調を一人ずつ確認していただろう。
その二人はいない。
だからこそ、誰も普段とまったく同じようには振る舞えなかった。
「行くぞ」
ラウルが荷物を背負った。
五人は旅人用の家を出た。
◇
村を出る道は、来た時と同じだった。
中央の広場を抜け、家々の間を通り、鐘楼のある入口へ向かう。畑では村人が仕事を続け、家の前では女が洗った布を干している。何日も閉じ込められ、三つの歴史が消え、一つだけが残ったとは思えないほど、村はいつも通りだった。
三神像の前を通った時、エルディアスは一度だけ足を止めた。
赤、黄、青。
三つの仮面はそのまま残っている。
だが、もう向きが変わることはないのかもしれない。
「エル?」
リュシアが少し先から振り返った。
「何でもない」
エルディアスは像から目を離した。
確かめる必要はなかった。
広場を抜ける。
鐘楼が見え始めたところで、道の脇にある小さな受付の前を通った。
「……皆さんですか?」
机の向こうから声がした。
少女は最初に会った時と変わらない場所へ座っていた。机の上には細い紐が何本か並べられ、指先で結び目を確かめながら長さを揃えている。
ラウルが足を止めた。
「ああ。帰るところだ」
少女の顔が声の方へ向く。
「出られるようになったのですか?」
「今度はな」
「よかったです」
少女は素直に笑った。
「ずっと帰れないままなのかと思っていました」
「俺たちもだ」
「森を戻られるのでしたら、気をつけてくださいね。この前も村の方が鎧猪を見たと言っていましたから」
「それはもう会った」
ガルムが言う。
「大きいのに?」
「ああ」
「大丈夫でしたか?」
「盾は直すことになった」
「ガルム、それじゃ何があったのか分からないでしょう」
セルマが横から口を挟む。
「怪我はもう大丈夫よ。盾も直してからここへ来たんだけど、その後でまた色々あったから」
「そうなのですね。では、帰り道では何もないとよいですね」
「本当にね」
セルマが答えた。
ラウルは少女へ礼を言い、先へ進もうとした。
エルディアスだけがその場へ残った。
少女が気づく。
「エルさんですか?」
「ああ」
「足音で分かるようになりました」
「そんなに違うか」
「皆さん違いますよ。ガルムさんはすぐ分かります。ラウルさんも歩くのが少し速いですし、セルマさんはお話をしながら歩くことが多いので」
「それは足音じゃないだろ」
少女が少し笑った。
「そうですね」
エルディアスは机の上へ視線を落とした。
ここで初めて少女へ手を差し出し、観測者だと告げられた。
何を見るのかと聞いても、少女には分からなかった。本人にとっても初めての役目だった。
「世話になったな」
「私は何もしていませんよ」
「役目を教えただろ」
「あれは受付ですから」
「十分だ」
少女は少し考えたあと、嬉しそうに頷いた。
「それなら、よかったです」
「観測者って役目も、終わったのかもしれない」
少女の顔がわずかに傾いた。
「そうなのですか?」
「たぶんな」
「何を見る役目だったのか、分かりましたか?」
エルディアスはすぐには答えなかった。
三つに分かれた歴史。
同じ人間が死に、次の日には生きていた。
昨日だった出来事が誰かの中から消え、自分だけには残り続けた。
それを見て、比べ、最後まで覚えていた。
「少しはな」
「よかったです。最初にお会いした時、ちゃんと説明できなかったので、少し気になっていました」
「お前が決めた役目じゃないだろ」
「そうなのですが、受付をしているのに分からないというのも、少し申し訳なかったので」
「気にすることじゃない」
「はい」
少女は素直に答え、それから少し間を置いた。
「また来ますか?」
「分からん」
「そうですか」
「戻ってくる理由はある」
ニルスとクラリス。
名前は出さなかったが、少女にはそれで十分だったらしい。
「では、その時はまた声を掛けてください。もう受付は要らないかもしれませんけど」
「役目が変わってるかもしれないぞ」
「もう一度見ますか?」
「遠慮する」
「残念です」
「残念なのか」
「少しだけです。観測者は初めてだったので」
少女が笑う。
エルディアスもそれ以上は言わなかった。
「じゃあな」
「はい。お気をつけて」
少女は机の向こうから頭を下げた。
「また来てください、エルさん」
「ああ」
エルディアスは踵を返した。
少し先で待っていたリュシアが隣へ並ぶ。
――何を話していたのですか。
――役目の話だ。
――観測者ですか。
――ああ。結局、何を見る役目だったのか、あいつには最後まで分からなかったらしい。
リュシアは受付の小屋を一度振り返った。
――私たちにも、全部分かったとは言えませんね。
――そうだな。
それでも、もう村に残って確かめるものではなかった。
ラウルたちに追いつき、五人で鐘楼を過ぎる。岩壁の切れ目へ差しかかっても、今度は誰も足を止めなかった。
ラウルが先頭で境を越え、ガルムとセルマが続く。エルディアスとリュシアもそのまま森側へ出た。
何も起きない。
振り返れば、村へ続く道も鐘楼も、来た時と同じ場所に残っている。
「戻るぞ」
ラウルが言った。
五人は森へ向き直った。
道標を辿れば塔へ戻れる。
その先には宿営地があり、帰りを待っている者たちがいる。
そして人を集めれば、またここへ戻ってこられる。
エルディアスは村をもう一度見ることなく歩き始めた。
◇
受付の少女は、五人の足音が岩壁の向こうへ消えるまで顔を上げていた。
やがて何も聞こえなくなると、机の上に並べていた紐へ指を戻す。
一つ目の結び目を確かめ、次へ移る。
エルディアスたちの足音を覚えたのは、何日目だっただろう。
最初は七つあった。
ある朝には六つになっていた。
その次に聞いた時には、また七つに戻っていた。
別の日には同じ七つだったはずなのに、前の日に話したことを誰も覚えていないようなこともあった。それから五つになり、今日はその五つが村を出ていった。
少女は指先を次の結び目へ滑らせる。
昔から、たまにそういうことはあった。
昨日話した人が次の日には初めて会ったように名乗ることもあれば、ずっと前の出来事を誰も知らないこともある。
だから、特に不思議だと思ったことはない。
村とは、そういうところだった。
少女は最後の結び目を確かめると、揃えた紐を籠の中へしまった。




