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第56話 追信

 そう感じてしまった直後、黄の景色が完全に失われた。


 次に輪郭を取り戻したのは、朝の村だった。鐘楼も石畳も、白み始めた空も、つい先ほどまで見ていたものとほとんど変わらない。それでもエルディアスには、ここが黄ではないことがすぐに分かった。左手薬指から伸びる黒い糸を確かめ、その先へ視線を向ける。


 リュシアが立っていた。


 鐘楼の石積みへ叩きつけられた傷も、血に濡れた衣服もない。剣は左腰の鞘へ収まり、自分の足で立ってこちらを見ている。黒い糸から伝わってくるものも、先ほどまで身体の内側を埋め尽くしていた死への恐怖ではなく、そこにあることを意識しなければ忘れられるほど静かなものへ戻っていた。


 それを確認しただけで、張り詰めていた身体から力が抜けそうになった。黄のリュシアが助かったわけではない。クラリスの治癒が間に合ったわけでも、傷が消えたわけでもなく、あの歴史そのものが失われ、そこにいたリュシアから何も届かなくなっただけだ。それでも苦しさが消えたことへ安堵し、赤で無傷の彼女を見てさらに安心している。その二つを、もう別々のものとして扱うことはできなかった。


「エル?」


 呼ばれて顔を上げると、リュシアは一度こちらの左手へ目を落とし、それから表情を窺うように見つめていた。


「……また、何かあったのですか?」


 無事でよかった、と言えば済むはずだった。嘘でもない。しかし、その言葉を口にすれば、自分が何を無事だと思っているのか、そのために何を失わせたのかまで一続きになってしまう気がした。黄にはニルスもクラリスもいた。ラウルも、ガルムも、セルマも生きていた。その中で死にかけていたのがリュシアで、自分は最後に使徒の足を止めた。


 エルディアスが答えずに視線を外すと、リュシアもそれ以上は尋ねなかった。ただ、いつものように必要なことだけを話さないのとは違うと感じたのか、しばらくこちらを見たあと、同じように鐘楼の外へ目を向ける。


 少し先では、ラウルが北側へ続く道を見ていた。朝の鐘を鳴らした男と短く話してから戻ってくると、夜通し捜索を続けていた疲れを滲ませながらも、迷いのない口調で言った。


「二人のことなら、まだ見つかってないだけだ。明るくなった分、夜より見えるものも増える。一度戻って情報を合わせたら、北側からもう一度探すぞ。村長たちも別の場所を見てくれてる」


「ああ」


 ラウルにとっては、夜通しニルスとクラリスを探し、そのまま朝を迎えただけなのだろう。黄で何が起きたのかも、その黄がもう存在しないことも知らない。


 エルディアスはもう一度だけ黒い糸を握り、それから二人の後を追った。


     ◇


 旅人用の家へ戻る途中でガルムとセルマに会ったが、二人の側にも新しい情報はなかった。西側の空き家や物置、村長から聞いた古い貯蔵場所まで夜のうちに確かめており、朝になってから見直せる場所を除けば、すでに村の大半を探し終えている。


「北は俺たちでもう一度やる。昨日は松明の範囲しか見えてないから、明るくなれば血や足跡の続きが拾えるかもしれん」


 ラウルはその場で動きを決め、ガルムとセルマへ北側の再確認を頼んだあと、エルディアスとリュシアへ顔を向けた。


「二人は村長のところへ行ってくれ。昨日までに聞いた場所以外に、昔使ってた穴や小屋が本当にないか、もう一度だけ確認したい。村の連中でも普段行かない場所が残ってるなら、先に全部潰す」


「分かりました。場所を聞いたら、私たちも確認してから北へ向かいます」


「頼む。二人が戻ってきたら誰かに走ってもらうよう村の連中にも言ってある。朝になって動いた可能性もあるから、入口側はその後でいい」


 死んでいるかもしれない、とは誰も言わなかった。昨夜の現場には血があり、折れたニルスの矢も、クラリスの治療道具も残されていた。それでも二人の身体は見つからず、村から出た跡もない。ならばまだ探していない場所があるかもしれず、怪我をしたままどこかへ移動した可能性も残っている。


 黄でエルディアス自身が縋った考えと、何も違わなかった。


 ラウルたち三人が北へ向かうと、エルディアスとリュシアは反対側にある村長の家へ歩き始めた。道の両側では、昨夜の捜索に参加していた村人たちも普段の仕事へ戻りきれず、二人の姿を見れば何か分かったかと声を掛けてくる。リュシアがそのたびに状況を伝え、エルディアスはほとんど口を開かなかった。


 村長は家の前で、夜の捜索に使った灯具を片づけていた。いくつかは油がほとんど残っておらず、手にも煤が付いている。二人に気づくと作業を止め、いつもと変わらない顔でこちらを見た。


「そっちは駄目だったか」


「まだ見つかっていません。ラウルさんたちは北側をもう一度見ています」


 リュシアはそう答え、昨夜までに確認していない建物や貯蔵場所が残っていないかを尋ねた。


「普段使われていない場所でも構いません。昔のものでも、人が入れるところがあれば教えていただけますか?」


「それなら南側に古い貯蔵穴が一つある。もう長いこと使ってないし、半分くらい土が入ってたはずだから、今も人が入れるかは分からんが……念のため見るなら場所は教えられる」


「頼む」


「ああ。ただ、二人を探してるなら、そこへ行っても見つからんよ」


 灯具を軒下へ置きながら、村長はそれまでと変わらない調子で続けた。


 エルディアスは老人の顔を見る。


「どういう意味だ」


「あの二人は、もう村のどこにもいない」


「居場所を知ってるのか」


「二人とも死んだからな」


 隣でリュシアの気配が僅かに強張った。


 昨夜、この老人は自分たちと一緒に村を歩いていた。鍵の掛かった物置を開け、昔使っていた穴まで案内し、二人を見た者がいないか村人へ聞いて回っている。その時と何一つ変わらない顔で、今は二人が死んだと告げていた。


「……お前がやったのか」


「ああ」


 否定も言い訳もなかった。


 そこでようやく、昨夜から埋まらなかった場所へ一つの答えが入った。


「赤の使徒か」


「そうだ」


 村長は特別な顔をすることもなく認めた。


 リュシアが老人を見る。今の彼女が知っているのは、青ではラウルが死んだということだけだ。青に使徒がいたことも、その使徒との戦いがあったことも、その後で青が失われたことも知らない。


「二人は、お前が使徒だなんて知らなかったはずだ」


「知らなかったよ。そんな名前を知ってる様子でもなかった」


 村長は夜のことを思い返すように、少しだけ視線を逸らした。


「北で俺と会って、何か引っ掛かったんだろうな。弓を持ってた方が先に距離を取って、もう一人も杖へ手を掛けた。何を見てそうしたのかまでは分からんが、あのまま誤魔化せそうにはなかった」


「それで正体を見せたのか」


「ああ。そこから先は、お前も見たことがあるだろう」


 青い面が現れた時の光景が浮かんだ。それまで道にいた村人だけが姿を消し、家も石畳も、道端の荷車もそのまま残った中で、使徒と戦う者だけが取り残された。


「二人だけだったのか」


「俺が姿を見せた時、そこにいたのは二人だけだった。そのまま戦って、二人とも死んだ」


「死体は?」


「残らん。血や矢みたいな戦いの跡は残るが、そこで死んだ人間はこっちには残らない」


 その一言で、昨夜の現場が頭の中へ戻ってきた。地面に残った血、折れた矢、散らばったクラリスの治療道具。そのすべてがあったのに、二人の姿だけがなかった。


「お前を今倒してもか」


「戻らんよ。死んだことまでなくなるわけじゃない」


 エルディアスは視線を落とした。


 死体はない。だから、まだ生きているかもしれない。どこかに閉じ込められているかもしれず、使徒が関わっているなら生かしたまま連れ去った可能性もある。


 黄で何度も拾った考えだった。確実に生きている黄のニルスとクラリスと、生きているかもしれない赤の二人を同じものとして比べようとしている。それが赤に都合のいい考えだと分かっていながら、それでも最後まで手放せなかった。


 実際には、赤の二人はその時点ですでに死んでいた。黄では確かに生きていた二人を消し、残った赤にも二人はいない。その事実を今知ったところで、もう何一つ変えられなかった。


「昨夜、お前も探してたな」


「探したよ」


「自分で殺しておいてか」


 村長は怒るでもなく、少しだけ首を傾げた。


「俺は村長だからな。村に来た旅人が二人いなくなって、皆が探してるなら手伝う。二人と戦ったこととは別の話だ」


 そこに矛盾を感じている様子はなかった。赤を守る使徒として二人を殺したことも、村長として行方不明になった二人を探したことも、どちらかが偽物だったわけではないのだろう。同じ男が、それぞれの役目で必要なことをしただけだった。


 エルディアスはそれ以上何も言わず、しばらく村長を見ていたが、やがて青で残った疑問を思い出した。


「青では、ラウルが三神像の前で死んだ。剣も欠けてた。あれは使徒との戦いじゃなかったのか」


「違う。あいつは神に刃を向けた」


「神? 三神の像のことか? 昔、同じようなことをした奴がいたと聞いたが」


「昔は、まだあれは像だった」


 村長は広場の方角へ目をやった。


「今は違う」


 それだけだった。


 エルディアスも聞き返さなかった。像のそばに落ちていた欠けた剣と、傷一つ残っていなかった石の身体を思い出す。昔の旅人が剣を振り下ろした時と、ラウルが同じことをした時では、すでに何かが違っていた。


「青も黄も、もうないんだな」


「ああ。残ったのはここだけだ」


 その答えに、リュシアの視線がエルディアスへ向いた。何も聞かない。しかし、青だけではなく黄まで失われたことを、今初めて知ったはずだった。


「なら、お前はどうする」


「どうもしないさ。青も黄もなくなったんだから、赤を奪う相手もいない。今さらお前たちと戦ったって何にもならん」


「勝ったから終わりか」


「そういうことだな」


 村長はそう答えてから、朝の村へ目を向けた。畑へ向かう者が道を歩き、離れた家からは食事の支度をする音が聞こえてくる。何日も見てきた村の朝と変わらない。


「まあ、礼くらいは言っておくよ」


「何の礼だ」


「俺たちが残ったことへの礼だ。お前がどういうつもりで何をしたのかまでは知らんが、青も黄もなくなって、ここだけが残った。それを全部見てたのは観測者のお前なんだろう?」


「俺が残したわけじゃない」


「そう思うなら、それでもいいさ。俺には結果しか分からん。俺たちはここにいて、ほかはもう続かない。それだけだ」


 黄で土の術式を走らせた時の感触が、左手へ戻った気がした。


 ラウルの剣が届く一瞬を作ったのは自分だった。直接殺したのはラウルだと言うことも、使徒を逃がさないために援護しただけだと言うこともできる。それでも、自分が最後に何を選んだのかまでは誤魔化せない。


 村長はそんなエルディアスの沈黙をどう受け取ったのか、それ以上は何も尋ねなかった。


「これで俺の役目も終わりなんだろうな」


 そう言って、ふっと顔を上げた。


 変わったのは、その時だけだった。


 疲れの残る老人の表情から一瞬だけ年齢が抜け落ち、瞳の奥へ薄い赤が差す。顔の上には三神像の仮面にも似た輪郭が重なったが、それは何かが村長を内側から押し退けたというより、これまで同じ場所にあったものが最後に姿を見せたように見えた。


「勝者の歴史のみ続く」


 声も、ほんの一瞬だけ違って聞こえた。


 次の瞬間、赤い輪郭が村長の顔から離れた。煙よりも淡い光となって宙へ浮かび、その形を保つこともなく朝の空気へほどけていく。


 村長の身体がわずかに揺れた。リュシアが一歩前へ出たが、老人は自分で壁へ手をついて踏みとどまり、しばらく目を閉じていた。やがてゆっくり顔を上げると、二人を見比べて怪訝そうに眉を寄せる。


「……どうした?」


 先ほどまでと同じ村長だった。ただ、そこに重なっていたものだけがなくなっている。


「ニルスとクラリスは?」


「まだ見つかってないだろう。何か分かったのか?」


「お前が二人と戦ったことは」


「俺が?」


 村長の顔に浮かんだのは、警戒でも誤魔化しでもなく純粋な困惑だった。


「何を言ってるんだ。俺も昨夜は一緒に探してただろう」


「……使徒は?」


「使徒?」


 聞き慣れない言葉を確かめるように繰り返し、村長は首を傾げる。


「三神様に仕える者のことか何かか? この村にそんな役目があるとは聞いたことがないが」


 使徒として何をしていたのかも、自分が赤を守っていたことも、ニルスとクラリスを殺したことも残っていない。その一方で、二人が行方不明になり、昨夜皆と一緒に探した記憶はそのまま残っているらしい。


 エルディアスはそれ以上聞かなかった。


「いや。何でもない」


「何でもない顔には見えないぞ」


 村長はまだ納得していなかったが、リュシアが静かに話を戻した。


「先ほど、南側に古い貯蔵穴があるとおっしゃっていました。場所を教えていただけますか?」


「ああ……そうだったな。それと、北の畑の外れに昔使ってた小屋もあったはずだ。昨夜は俺も思い出せなかったが、壊してなければまだ残ってる。二人がどこかで動けなくなってるなら、そっちも見た方がいい」


「お願いします」


「分かった。簡単に描こう」


 村長は家の中へ紙を取りに入った。


 その背中は、ニルスとクラリスを見つけるために、本気で役に立とうとしていた。


     ◇


 貯蔵穴と古い小屋の位置を書いた紙を受け取り、二人は村長の家を離れた。角を曲がって家が見えなくなり、道にも周囲の家にも人の姿がないことを確かめてから、リュシアの声がエルディアスの内側へ届く。


 ――ニルスさんとクラリスさんは、もう戻らないのですね。


 ――ああ。


 ――それをラウルさんたちは知らない。


 ――知らない。村長も、もう知らない。


 リュシアはしばらく黙った。先ほどの会話だけでも分かったことは多い。青には使徒がいて、その歴史はすでに失われている。黄にも同じものがいて、今はもうない。そして赤の使徒だった村長からも、その役目が消えた。


 ――黄でも、何かあったのですね。


 問いではなかった。


 エルディアスは返さなかった。石畳へ倒れ、念話にも応じなくなったリュシア。その傍らで治癒を続けていたクラリスと、弓を構えていたニルス。黒い糸から絶え間なく流れ込んできた死への恐怖と、それから逃れたいと思い始めた自分まで、何一つ薄れてはいない。最後に使徒の足を止めたことも。


 しばらく待ったあと、リュシアから静かな声だけが届いた。


 ――今は聞きません。


 エルディアスは礼も言わず、そのまま歩いた。


 やがて広場へ入ると、三神像が朝の光を受けていた。赤、黄、青の仮面はこれまでと変わらず並んでおり、見た目だけなら何も失われていない。


 ――「三王、勝者の歴史のみ続く」。


 ――ああ。


 ――青も黄も続かず、赤の使徒もいなくなった。


 エルディアスは三体の像を見上げた。もう次に青が来ることはなく、黄へ戻ることもない。残された赤には、それを守る使徒さえ必要なくなった。


 ――第二層は終わった。


 今度はエルディアスから送った。


 リュシアは少し間を置いて答える。


 ――はい。


 それを知っているのは、二人だけだった。


     ◇


 南側へ向かう前に、北を見直していたラウルたちが広場へ戻ってきた。ガルムは二人を見るなり首を横へ振り、セルマも疲れた表情のまま杖を肩へ載せているが、諦めた様子はない。


「そっちは?」


「南に古い貯蔵穴と、北側の畑の外れに使われていない小屋が一つ残っています。村長さんから場所を聞きました」


 リュシアが紙を見せると、ラウルはすぐに中身を確認した。


「なら先に近い方を見るか。北は明るくなってから範囲を広げても、新しい跡はまだ拾えてない。ただ、岩壁沿いを全部見切ったわけじゃないから、その後でもう一度――」


 そこでエルディアスは足を止めた。


 何かが聞こえたわけではなかった。三神像も家々も変わらず、朝の村は何事もなかったように動いている。それなのに、身体の周囲へ白い光が滲み出し、細い帯となって腕や胸元を這い上がり始めた。


「エル?」


 リュシアがこちらを見る。


 その声に答えるより先に、自分のものではない意味が意識の内側へ流れ込んできた。声でも文字でもない。それでも何を伝えようとしているのかだけは、最初から分かる。


 流れ込んでくるものは複雑ではなかった。


 幸せを選ぶこと。そして、それを選んだ時にはもう帰れなくなること。


 何から、どこへ帰れなくなるのかまでは示されない。ただ、その二つだけが切り離せないものとして、エルディアスの内側へ沈んでいく。


 白い光が肩から首元へ昇り、顔まで包んだ。開いたままの瞳からも色が失われ、白く染まっていく。


 リュシアの表情が変わった。


「……信託?」


「何だって?」


 ラウルが聞き返した。


 リュシアは白い光に包まれたエルディアスを見たまま、僅かに迷ってから答える。


「おそらく……私の第一層の時と同じです」


「なんで今なんだ?」


 ラウルの声がすぐに返ってくる。


「第一層はもう終わってる。今は第二層だぞ」


「分かっています。私にも、なぜもう一度起きているのかは分かりません」


「二度目なんてあるの?」


 セルマが周囲を見回し、何も変化がないことを確かめるように三神像へ目を向ける。


「それ以前に、俺たちは今何も倒してないぞ」


 ガルムも低い声で続けた。


 三人の声は聞こえていたが、エルディアスは返せなかった。内側へ流れ込んだものを言葉へ変えようとすると、一つだけどうしても別の言葉へ置き換えたくなる意味があった。


 幸せ。


 その言葉だけは使いたくなかった。


 望むもの、と考えてみる。大切なものでもいい。しかし、どちらも違った。帰れなくなるという方ではなく、その前にあるものがずれてしまう。信託が示しているのは、望みでも大切なものでもなく、確かに幸せだった。


 黄で自分が何をしたのかが浮かぶ。死にかけたリュシアから流れ込む恐怖に耐えられず、赤へ戻ればこれがなくなると考えた。赤には無傷のリュシアがいる。ニルスとクラリスについても、死体がない以上まだ生きている可能性があると、自分に都合のいい事実を拾った。


 その二人は、もう死んでいた。


 赤を残す理由として縋った可能性すら、最初から存在していなかった。黄ではニルスもクラリスも生きていた。その二人がいる歴史を失わせ、残した赤にも二人はいない。


 それでも、自分が失いたくなかったリュシアだけは今、すぐ隣に立っている。


 自分は、それを幸せとして選んだことになるのか。


「エル」


 リュシアの声が近くで聞こえた。


「無理に別の言葉へ変えないでください。受け取った意味のままでいいはずです」


 あの時は逆だった。信託を受けたリュシアが意味を言葉へ変え、エルディアスはその傍らにいた。


 今は自分が言わなければならない。


 選んだ道から戻れない。捨てたものを取り戻せない。どちらも近い。それでも、信託が求めているものとは少しずつ違っていた。


 幸せを選ぶことと、その先から帰れなくなること。


 その二つを切り離してはいけない。


 エルディアスはゆっくり息を吐き、白く霞んだ視界の向こうに立つリュシアを見た。その少し先にはラウルとガルムとセルマがいる。


 ニルスとクラリスだけがいない。


「幸せを選んだ者に、帰る場所はない」


 声にした瞬間、内側を満たしていた意味が途切れた。身体を包んでいた白い光も同時に薄れ、細い帯がほどけるように消えていく。白く染まっていた瞳へ元の色が戻るにつれて視界の霞も晴れ、朝の広場が再びはっきりと見えるようになった。


 しばらく誰も口を開かなかった。


「……今の、宣言なの?」


 最初に聞いたのはセルマだった。


「はい。信託は収まりました」


 リュシアが答えると、セルマは納得するどころか、さらに困った顔になった。


「でも、なんで二度目なのよ。第一層はもう終わってるでしょう」


「私にも分かりません」


「俺も聞いたことがないな」


 ガルムが言うと、ラウルも三神像とエルディアスを順に見た。


「俺たちは朝から二人を探してただけだ。何がきっかけだったのかも、なんで今エルに信託が下りたのかも分からない。……お前は何か知ってるのか?」


 エルディアスはすぐには答えなかった。


 第二層が終わったことなら知っている。青と黄が失われ、残った赤から使徒の役目まで消えたことも知っている。


 だが、それを話せば終わらない。


「二度目の信託がどうして起きたのかは、俺にも分からない」


 それだけを答えた。


 ラウルはしばらくエルディアスを見ていた。何かを伏せていることまで気づいたのかもしれないが、やがてそれ以上は尋ねず、深く息を吐いて視線を外した。


「……なら今はいい。このことは全部記録する。外へ戻れたら王都とギルドへ報告して、前例がないなら向こうにも調べてもらう」


「外へ戻れれば、ね」


「ああ。それより今は二人だ。信託が来たからって、ニルスとクラリスが見つかったわけじゃない。南の貯蔵穴を見て、それから北側の小屋へ行く。入口側もまだ見直してないから、その後で確認するぞ」


 ラウルはもう捜索へ意識を戻していた。ガルムも盾の位置を直し、セルマはリュシアが持つ紙を覗き込みながら、どちらから回るのが早いかを話し始める。


 やがてラウルが二人へ声を掛け、そのまま先に歩き出した。ニルスとクラリスがどこかにいると信じて、次に探す場所をガルムたちと確かめながら朝の村を進んでいく。


 エルディアスは何も言わず、その後を追った。


ようやくタイトル回収_(:3 」∠ )_

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