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第55話 終焉

 鐘の音が身体を抜け、途切れていた視界が戻った。


 最初に見えたのは、地面へ伏したまま動かないリュシアだった。その傍らではクラリスが両手を傷口へ翳し、途切れることなく治癒の光を注いでいる。少し離れた場所ではラウルとガルムが黄色い仮面の使徒を挟み、セルマは杖を構え、ニルスも弓へ矢を番えたまま身を低くしていた。使徒の右肩にはリュシアが斬り込んだ深い傷が残り、そこから流れた血が灰色の身体を濡らしている。


 何も変わっていない。


 鐘が鳴る直前、視界が途切れたその瞬間から、黄の歴史だけがそのまま再び動き始めていた。


 黄だ。


 そう認識した瞬間、エルディアスの頭の中で、それまで別々の場所へ置かれていた幾つもの情報がほとんど同時に繋がった。


 本来なら赤の次には青が来るはずだった。到着した日の黄を除けば、赤、青、黄と順に巡り、それぞれが自分自身の続きを持ちながら進んできた。その順序は一度も崩れていない。それなのに、赤を一日過ごした後に戻ってきたのは青ではなく、鐘が鳴る直前まで戦っていた黄だった。


 青の使徒を倒した。あの女は死ぬ間際に、青は終わると言った。ここから先はもうないとも言った。その直後、青では道の長さも家々の位置も、すぐ近くにいた仲間との距離さえ定まらなくなり、見えているものすべてが形を失っていった。エルディアスは黒い糸だけを頼りにリュシアを探し続けたが、やがて何も確かなものが残らないまま視界が途切れ、その先を見ることなく黄へ移った。


 そして、石碑に刻まれていた言葉がある。


 三王、勝者の歴史のみ続く。


 あれは、最後に一つの歴史が選ばれれば終わるというだけの意味ではなかった。


 使徒を失った歴史には、次がない。


 青は順番を飛ばされたのではなく、もう続いていないから来なかった。使徒を殺したことで青そのものが消え、残った赤と黄だけが次へ進んだのだと考えれば、あの女の言葉も、青が崩れていった感覚も、今ここへ戻ったこともすべて一つに繋がる。


 なら、この黄も同じだった。


 目の前にいる使徒が死ねば黄は消え、残るのは赤だけになる。逆に黄を残すなら、この使徒を生かしたまま戦いを止め、赤へ戻った後に赤の使徒を探さなければならない。


 どちらか一つしか残せない。


 そこまで考えるのに、ほとんど時間は掛からなかった。


 その結論へ辿り着くより早かったのではないかと思うほど、左手薬指から伸びる黒い糸が強烈な感覚を送り込んできた。


 リュシアはまだ生きている。


 生きているから糸がある。


 だが、そこから伝わってくるものは声でも痛みでもなかった。傷の場所も、身体がどれほど苦しいのかも分からない。ただ死ぬことが怖いという感覚だけが、何の形にもならないままエルディアスの内側へ流れ込んでくる。逃げたい、まだ死にたくない、ここから離れたいという意味に言葉を与えることさえできないほど剥き出しの恐怖が、黒い糸を通じて何度も押し寄せ、そのたびに胸の奥が冷たく縮んだ。


 ――リュシア。


 念話を送る。


 返事はない。


 クラリスは治癒を止めていなかった。額には汗が浮かび、傷口へ翳した両手の光も弱まってはいない。それでもリュシアの身体は動かず、胸が上下しているのかさえ離れた場所からは分からなかった。


「エル!」


 ラウルの声で、戦闘が止まっていなかったことを思い出した。


 黄色い仮面の使徒がガルムの盾を蹴り、反動で後ろへ跳ぶ。深く斬られた右腕はほとんど使えていないらしく、着地した身体が一瞬だけ傾いたが、それでも動きは速い。ニルスがすぐに矢を放つと、使徒は首を傾けるだけで避け、そのまま鐘楼から離れる方向へ走ろうとした。


「逃がすな!」


 ラウルが追う。


 セルマの火が使徒の進路へ広がり、ガルムが左側から回り込む。使徒は燃え上がる地面を避けて向きを変えたが、誰も戦いを止めようとはしていなかった。


 当然だった。


 黄のラウルたちは、青で使徒を名乗る女と戦ったことも、その女を倒したところまでは知っている。だが、その後に青が消えたことは知らない。赤の一日を経験したのはエルディアスだけで、今ここにいる五人にとっては、鐘の音が響いた後も戦闘がそのまま続いているだけだった。


 彼らにとって、目の前にいるのはリュシアを殺しかけた敵だった。村人を消し、正体を現し、こちらを襲った使徒であり、このまま放置する理由などない。


 だからラウルが倒そうとするのは正しい。


 少なくとも、ラウルが知っていることだけを並べれば。


 エルディアスは杖を握ったまま動けなかった。


 一言、言えばいい。


 青が来なかった。使徒を倒した歴史は消えるらしい。こいつを殺せば黄もなくなる。


 それだけ伝えれば、少なくともラウルは今すぐ止めを刺そうとはしないはずだった。意味を理解できなくても、エルディアスが三つの歴史をすべて見てきたことはすでに話している。確認する時間くらいは作れる。


 その間に黄のリュシアを治療できるかもしれない。


 使徒を拘束しておくことも考えられる。次の切り替わりまで生かしておき、赤へ戻って使徒を探すことだってできるかもしれない。使徒を倒す以外に歴史を選ぶ方法がないと決まったわけでもなく、そもそも青が消えたという一例だけで、まだ知らない条件がすべてなくなったわけでもない。


 考えるべきことはいくらでもある。


 いつもの自分なら、そうしたはずだった。


 分からないものを、分からないまま決めない。可能性を並べ、一つずつ確かめ、確かめられないなら少なくとも後戻りのできない選択だけは避ける。それを繰り返してここまで来たのだから、今も同じようにすればいい。


 エルディアスはそう考えようとした。


 だが、黒い糸の向こうから、またあの感覚が流れ込んできた。


 思考の途中へ割り込まれたという程度ではなかった。何か別のことを考え始めても、死への恐怖が触れた瞬間、それまで頭の中に組み立てかけていたものが急に遠くなる。黄の使徒をどう拘束するか考えていたはずなのに、気づけば地面に倒れているリュシアを見ている。次の鐘まで待つ意味を考えようとしていたはずなのに、赤で目を覚ました時の無傷のリュシアが浮かんでいる。


 赤へ戻れば、このリュシアがいる。


 傷一つなく、自分で身体を起こし、こちらを見て、念話を返したリュシアがいる。


 そして黒い糸から、こんなものは流れてこない。


 そこまで考えたところで、エルディアスは自分の思考に嫌悪した。


 リュシアが助かる、ではなかった。


 今、自分が最初に考えたのは、この恐怖を感じなくて済むということだった。


 死にかけているのはリュシアなのに、苦しんでいる本人ではなく、それを黒い糸越しに受け取っている自分が楽になることを考えていた。


 エルディアスは歯を食いしばった。


 これでは、リュシアを救いたいのかさえ分からない。


 失いたくないとは思う。家族でも恋人でもなく、共に行動するようになってから長い年月が経ったわけでもないが、それでもリュシアはすでに、エルディアスにとって単なる同行者ではなかった。危険な場所へ入れば無事かどうかを確かめ、離れれば位置を気にし、姿が見えなくなれば探すことを当然と思う、自分の側にいる人間だった。死別契鎖が生まれて以降、その距離は本人の意思だけでは変えられないところに固定されている。


 だから失いたくない。


 その感覚まで嘘だとは思わなかった。


 けれど、それだけなのかと考えると答えられない。


 リュシアを失いたくないから赤を残したいのか。それとも、黒い糸の向こうから絶えず流れ込んでくる死への恐怖に自分がもう耐えられず、それから逃げるためにリュシアの生存を理由にしようとしているのか。


 どちらか一方ではなかった。


 おそらく、どちらもある。


 そう認めてしまうと、今度は自分が何を選ぼうとしているのかが、ひどく醜いものに見えた。


「エル、どうした!」


 ガルムが盾で使徒の蹴りを受けながら叫んだ。


「動けるなら右を塞いでくれ! こいつ、村の奥へ逃げる気だ!」


 エルディアスは反射的に杖を向けかけ、途中で止めた。


 使徒を逃がせばいいのではないか。


 少なくとも今ここで死ぬことはない。戦闘から離れさせ、その間にリュシアを治療する。そうして考える時間を作ればいい。


 だが、本当に逃がしていいのか。


 使徒は村人を消すことができる。これまでの戦いでも、こちらを殺そうとする力を持っていることは分かっている。逃げた後に誰かを襲う可能性もあれば、こちらが知らない方法で歴史へ干渉する可能性もある。一度見失えば次に見つけられる保証もなく、その間に何が起こるかは分からない。


 なら拘束する。


 土で足を固める。ガルムに押さえさせ、武器を奪い、動けない状態で置いておけばいい。


 それでどれだけ保つ。


 使徒の身体能力は人間とは違う。黄の使徒はリュシアの剣を肩に受けても動いている。拘束を破られない保証はないし、誰かが見張り続けなければならない。その間にクラリスがリュシアを治せるのかも分からない。


 なら、次の切り替わりまで。


 次の切り替わりはいつだ。


 昨日までの法則なら一日後だ。その間、この状態のリュシアを保たせるのか。


 黒い糸から、また死の恐怖が押し寄せた。


 エルディアスの呼吸が浅くなった。


 考えろ。


 短く自分へ命じる。


 もっとあるはずだった。


 使徒を生かす。治療を続ける。村長に聞く。受付の少女を調べる。三神像を見る。石碑の文言をもう一度考える。歴史が消える条件が使徒の死だけなのかを確かめる。青が本当に完全に失われたのかも、まだ自分がそう判断しているだけではないか。


 だが、どれも最後まで考えきれなかった。


 一つの可能性を頭に置き、それを実行した場合に何が起こるかを順に辿ろうとすると、その途中で黒い糸から恐怖が来る。そのたびにリュシアの姿へ意識が戻り、赤で普通に立っていたリュシアを思い出し、そこから離れられなくなる。


 自分がこんなに考えられないことが、さらに腹立たしかった。


 何のために観測者という役目を与えられた。


 三つの歴史を一人だけ覚えているのなら、こういう時こそ考えるためではなかったのか。ほかの誰にも見えていないものを見て、誰も持っていない情報を使って判断するためではなかったのか。


 それなのに今、自分はその情報を持っているせいで何一つ決められず、恐怖に追い立てられている。


 ラウルたちは知らない。


 知らないから、目の前の敵を倒すことだけを考えられる。


 ニルスは使徒が逃げようとするたびに矢を放ち、セルマは仲間を巻き込まないよう火の位置を変え、ガルムは傷ついた右側を狙って圧力を掛けている。ラウルも剣を構えたまま、一度も迷わず使徒の隙を探していた。


 クラリスだけは戦列から外れ、リュシアを治そうとしている。


 誰も悪くない。


 それでも一瞬だけ、エルディアスは彼らが羨ましいと思った。


 知らなければよかった。


 青が消えたことに気づかなければ、今の自分もラウルと同じように戦えた。リュシアをこんな状態にした使徒を倒すことに疑問など持たず、いつものように必要な術式を選んで援護できた。


 なぜ自分だけが知っている。


 その考えが浮かんだ瞬間、すぐに自分で否定した。


 観測者なのだから当然だ。自分だけが覚えていることは最初から分かっていたし、それを利用して使徒を探したのも自分だった。今になって、知らない者を羨む資格などない。


 それでも感情は消えなかった。


 知らないラウルたちは、正しいと思うことをすればいい。


 自分だけが、何をしても何かを消すことになる。


 その理不尽さに腹が立ち、次には、そんなことで仲間へ苛立っている自分が嫌になった。


 さらに黒い糸から恐怖が来る。


 ――リュシア。


 もう一度呼ぶ。


 返事はなかった。


 何でもいいから返せと思った。声が聞こえれば、まだ考えられる気がした。生きていると言ってくれればいい。痛いでも、怖いでも、うるさいでも構わないから、何かを返してほしかった。


 だが、黒い糸から来るのは同じものだけだった。


 その瞬間、エルディアスの中に別の感情が浮かんだ。


 いつまで、これを感じさせる。


 考えた直後、自分で何を思ったのか理解し、息が止まりそうになった。


 リュシアは何も悪くない。


 死にかけている本人に向かって、自分が苦しいからどうにかしろと思った。


 エルディアスは視線を逸らした。


 こんな時まで、黒い糸は繋がっている。


 生きていることだけは伝えるくせに、どう助ければいいのかは何も教えない。念話を送っても返事はなく、傷の状態も分からず、それなのに死ぬことへの恐怖だけは一方的に流し続けてくる。


 何のための繋がりだ。


 そこまで考えてから、今度は死別契鎖へ怒りを向けている自分に気づいた。呪いを責めても何も変わらない。そもそもこの糸がなければ、クラリスが呼吸を確認できなかった時点でリュシアは死んだと判断していたかもしれない。まだ生きていると分かるのは、この繋がりがあるからだった。


 それなのに、自分は役に立つ部分ではなく、苦しい部分だけを取り上げて恨み始めている。


 どこまで落ちれば気が済むのかと思った。


 使徒がセルマの火を抜け、ニルスとの距離を詰めた。ニルスが弓を捨てて身を引き、ラウルが横から剣を入れる。使徒は左腕で刃を逸らしたが、すでに動きは最初ほど鋭くない。リュシアに斬られた右肩から流れ続ける血が、確実にその身体を鈍らせている。


 このままでも、いずれ倒される。


 止めるなら今だった。


「ラウル!」


 エルディアスは呼んだ。


 ラウルが一瞬だけこちらを見る。


「何だ!」


 言え。


 使徒を殺すな。


 その言葉は出せる。


 喉も動く。声だって出た。誰かに命令されているわけでも、魔法で判断を奪われているわけでもない。


 それなのに、次の言葉が続かなかった。


 黄を残したらどうなる。


 目の前にはニルスがいる。クラリスもいる。少なくともこの二人については、生きていることを疑う必要がない。


 赤では二人が消えた。


 折れた矢があった。血もあった。クラリスの道具も落ちていた。争った跡だけを残し、夜通し探しても見つからなかった。


 普通に考えれば、無事とは言いにくい。


 だが、死体はなかった。


 その事実が頭に浮かんだ。


 赤のニルスとクラリスは、死んだと決まったわけではない。二人とも行方不明なだけで、どこかに閉じ込められているかもしれない。使徒が関わっているのなら、生かしたまま連れ去った可能性だってある。村の中から出られない以上、まだ見つけていない場所があるのかもしれない。


 赤を残しても、二人まで失うと決まったわけではない。


 そこまで考えた瞬間、エルディアスは自分が何をしているのか分かった。


 黄では、二人が目の前にいる。


 生きているかもしれない二人と、生きている二人を同じものとして比べようとしている。


 違う。


 赤を選びたいから、赤に都合のいい可能性だけを拾っている。


 夜通し探して見つからなかった時には、二人が危険な状態にあることを理解していた。だから全員で探した。それを今になって、死体がなかったという一点だけを大きくし、まだ生きているかもしれないから同じだと自分へ言い聞かせようとしている。


 何のためか。


 赤にはリュシアがいるからだ。


 無傷で、声を返し、自分の足で歩くリュシアがいる。


 それを選びたい。


 そのための理由を探している。


 エルディアスは、自分の中に出てきた答えから逃げたくなった。


 リュシアを救うためなら、それでいいのか。


 黄にいるニルスとクラリスを、確実に生きている二人を消してまで、自分の側にいる一人を残したいと考えるのは何なのか。仲間だから、死別契鎖で繋がっているから、失いたくないからと理由を並べても、結局は自分にとって大切な一人を優先しているだけではないのか。


 それを仕方がないと言っていいのか。


 それとも、そう思いたいだけなのか。


 判断できなかった。


 そもそも判断しようとしている自分を信用できなくなっていた。


 黒い糸から死の恐怖を受け取り続けている今の自分に、赤と黄のどちらを残すかなどという選択をする資格があるのか。恐怖から逃げたい人間が、逃げられる方を選んで、それを仲間を救うためだったと言い換えるだけではないのか。


 なら、今は選ばない。


 それが一番まともなはずだった。


 使徒を生かす。


 ラウルたちを止める。


 リュシアの治療を続け、少しでも時間を作る。その間にもう一度考える。考えられないなら、考えられるようになるまで決めない。


 そうすればいい。


 分かっている。


 なのに、身体が動かなかった。


 また黒い糸から恐怖が流れ込む。


 もう嫌だと思った。


 その感情だけは、考える必要さえなかった。


 もうこれを感じたくない。


 いつ終わるかも分からず、返事もない相手の死への恐怖を、自分のものと区別できない近さで受け続けたくない。次に黄へ戻った時も同じならどうする。さらにその次も、その次も、リュシアが死にきらず、助かりもせず、この状態のままならどうする。


 どこまで耐えればいい。


 そう考えた自分が情けなかった。


 死にかけているのは自分ではない。それなのに、耐えるという言葉を使った。


 自分が被害者のように思い始めている。


 恐怖を送られているから仕方がない。観測者だから仕方がない。死別契鎖があるから仕方がない。赤にはまだ二人が生きているかもしれない。ラウルが使徒を倒そうとしている。自分が殺すわけではない。


 一つずつ並べれば、どれも完全な嘘ではなかった。


 だから余計に質が悪かった。


 自分がやろうとしていることから目を逸らすために、事実を使っている。


 そのことまで分かっているのに、エルディアスはなお次の言い訳を探していた。


 そして、最も考えたくなかったことに気づいた。


 赤へ戻れば、誰も知らない。


 赤のラウルは、青で自分が死んだことさえ知らない。ガルムもセルマも、三つの歴史が存在したことを知らず、ニルスとクラリスが行方不明になった赤だけを自分たちの続いてきた現実として受け入れている。


 リュシアですら、青でラウルが死んでいると聞かされただけだった。青の使徒を倒したことも、黄で自分がこんな姿になっていることも、黄ではニルスとクラリスが生きていることも知らない。


 黄が消えれば、ここにいる者たちもいなくなる。


 誰も赤へ来て、エルディアスを責めることはできない。


 赤へ戻った時にラウルが尋ねるのは、ニルスとクラリスをどう探すかということだけだろう。セルマもガルムも二人を心配し、リュシアも何も知らないままエルディアスの隣にいる。


 誰にも知られない。


 その考えに、一瞬だけ安堵しかけた。


 直後、吐き気がした。


 知られなければ何だ。


 責められなければ、何をしても同じなのか。


 黄のニルスとクラリスが消えたことを誰も覚えていなければ、二人がここにいた事実までなかったことになるのか。


 そんなはずはない。


 少なくとも自分は覚えている。


 観測者である自分だけは、全部覚えたまま赤へ行く。


 なら、誰にも知られないという事実は救いではなかった。本来なら、むしろ自分一人で抱えることになるだけのはずだった。


 それでも、その一瞬に安堵した。


 そこまで追い詰められている自分を、エルディアスはもう信用できなかった。


「エル!」


 ラウルの声が、今度はすぐ近くから飛んだ。


 黄色い使徒が包囲を抜けかけていた。ガルムの盾を蹴って身体を浮かせ、ニルスの矢を左腕で弾き、そのままラウルの脇を抜けようとしている。


「足を止めろ!」


 頼まれたのは、それだけだった。


 エルディアスが何度もやってきた援護だった。土を動かし、相手の足場を崩す。仲間が剣を届かせるための一瞬を作る。それだけなら、考える必要さえないほど慣れている。


 今なら、まだ止められる。


 何もしなければいい。


 あるいはラウルへ、待てと言えばいい。


 青が消えたことを話せばいい。


 この使徒を殺せば黄も消える可能性が高いと、それだけ伝えればいい。


 選ばなくてもいい。


 今ここで決めなくてもいい。


 ほかの方法を探せるかもしれない。


 それなのに、黒い糸の向こうからまた死の恐怖が来た。


 地面に倒れたリュシアが視界へ入る。


 赤で目を覚ましたリュシアが浮かぶ。


 ニルスとクラリスの死体は見つかっていない。


 誰も自分に赤を選べとは言っていない。


 ラウルはただ、足を止めろと言っているだけだ。


 殺すのは自分ではない。


 そこまで考えてから、最後の一つだけは、はっきり分かった。


 全部、言い訳だった。


 それでも、杖を上げた。


 左手薬指から伸びた黒い糸を通じ、膨大なオドを引き込む。普段なら頼もしさすら感じる量が流れ込んできたが、その奥には依然として死への恐怖が貼りついていた。生きている。まだ繋がっている。その事実を確かめながら、エルディアスは地面へ術式を走らせた。


 使徒が踏み出した先の土が沈み、同時に両脇から盛り上がる。完全に拘束するためではない。走る足を一瞬だけ崩し、ラウルが追いつくための隙を作る、それだけの術式だった。


 使徒の左足が取られた。


 身体が傾く。


「今だ!」


 ガルムが盾をぶつけ、逃げようとした身体を土の上へ押し戻した。ニルスの矢が左腿へ突き刺さり、セルマの火が退路を塞ぐ。


 ラウルが踏み込む。


 剣身に光が走り、そこへ風と水が重なる。白く弾ける雷が刃を包み、黄色い仮面がラウルの方を向いた。


 使徒は最後まで逃げようとした。


 右肩は動かない。左腿には矢が刺さり、足元はエルディアスの土に取られている。それでも左腕を振るい、ラウルの剣を逸らそうとする。


 エルディアスは見ていた。


 今でも術式を解ける。


 土を戻せば、使徒は足を抜けるかもしれない。風でラウルの踏み込みをずらすことだってできる。


 止めようと思えば、まだ止められる。


 だが、何もしなかった。


 ラウルの剣が左腕を潜り、黄色い仮面の下へ深く入った。


 雷が弾ける。


 使徒の身体が大きく震え、そのまま力を失った。


 エルディアスが作った土の上へ、黄色い仮面が落ちる。


 音は小さかった。


 ラウルはすぐに剣を引き、倒れた使徒から距離を取った。ガルムも盾を構えたまま様子を窺い、ニルスは次の矢へ手を伸ばしている。


 使徒は動かなかった。


「……終わったか?」


 セルマが息を切らしながら言った。


 誰もすぐには答えない。


 エルディアスも答えられなかった。


 自分は止めなかった。


 それどころか、足を止めた。


 ラウルが殺したという言い方はできる。最後に剣を入れたのはラウルで、自分は直接使徒を殺していない。


 だが、そんなものに意味はなかった。


 自分が選んだ。


 そう認めたくなくて、最後まで別の言葉を探していた。それでも使徒が逃げる道を土で塞いだ時点で、もう何をしたのかは明らかだった。


 地面に倒れた黄色い仮面の輪郭が、わずかに揺れた。


 同時に、周囲の景色にも違和感が走る。


 鐘楼までの距離が曖昧になり、石畳の継ぎ目が僅かにずれ、家々の輪郭が薄く重なって見え始めた。


 青で見たものと同じだった。


 黄が終わる。


 その認識と同時に、エルディアスはリュシアを見た。


 クラリスはまだ治癒を続けていた。


「リュシアさん、お願いです。もう少しだけ――」


 声が聞こえる。


 ニルスもいる。


「クラリス、どうだ」


「まだ分かりません。でも、まだ……」


 ラウルもガルムもセルマもいる。


 全員、生きている。


 その姿が少しずつ遠くなる。


 エルディアスは左手を握った。


 黒い糸はまだあった。


 その向こうから、死への恐怖が流れ込んでいる。


 そして次の瞬間、それが薄れた。


 傷が治ったわけではない。リュシアが目を覚ましたわけでもない。クラリスの治癒が届いたのでもない。


 黄そのものが遠ざかっている。


 だから届かなくなっているだけだった。


 分かっていた。


 それでも、胸の奥から最初に浮かんだ感情を、エルディアスは止められなかった。


 楽になった。


 そう感じてしまった。


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