第54話 十日
視界が戻るより先に、エルディアスは左手を握った。
黒い糸は残っていた。左手薬指から伸びた細い糸は、いつもと変わらない距離で隣へ続いている。その先から流れ込んでくるものを確かめるように意識を向けたが、胸の内側まで押し潰していたあの恐怖はない。
目を開ける。
旅人用の家だった。
見慣れた天井と寝台、その中にリュシアがいる。横向きに眠っていた身体がわずかに動き、やがて瞼が開いた。鐘楼の石積みへ叩きつけられた痕も、血に濡れた跡もない。息をしているか確かめようと目を凝らすまでもなく、リュシアは小さく息を吐きながら身体を起こした。
視線が合う。
――エル?
声まで、いつもと変わらない。
エルディアスは返事をする前に、もう一度左手を見た。
黄では、クラリスにも呼吸を確かめられなかった。治癒の光を受けても動かず、念話を送っても返事がない。それでも黒い糸だけは消えず、その向こうから逃げ場のない恐怖が流れ込み続けていた。
今は何もない。
――何かあったのですか。
リュシアが尋ねた。
エルディアスはすぐには答えず、室内を見回した。向かいの寝台ではラウルが身体を起こしかけており、その隣ではガルムが毛布を退けている。ニルスもクラリスもいる。
赤だった。
黄から赤へ移ったのであれば、これまでの順番から外れてはいない。青の使徒を倒した後に起きたことが何を意味しているのかも、まだ確かめられなかった。
それよりも今は、黄に残してきたリュシアの方が気に掛かる。
死んではいない。それしか分からない状態のまま、あちらは途切れている。クラリスの治療がどこまで届くのかも、次に黄へ戻った時にどれほど時間が進んでいるのかも分からない。
赤のリュシアへ話したところで、何もできなかった。
別の自分が今にも死にそうだと聞かせても、黄へ戻れるわけではない。青の使徒を倒したことまで加えれば、答えの出ていない問題を増やすだけになる。
――少し、考えることが増えた。
それだけを返した。
リュシアはしばらくこちらを見ていたが、無理に聞き出そうとはせず、少し間を置いてから別のことを尋ねた。
――青のラウルさんのことですか。
その問いで、今のリュシアが知っている範囲を思い出す。
赤のリュシアには、青でラウルが死んだことだけを話していた。青で使徒を見つけたことも、その使徒を倒したことも知らない。黄で何が起きたのかはもちろん、向かいで身支度を始めている《暁星》の五人に至っては、自分たちとは異なる歴史が存在すること自体に気づいていなかった。
――それもある。
嘘ではない。
リュシアは小さく頷き、それ以上は聞かなかった。
◇
「今日は昨日までの続きでいい。ただ、同じところを何度も見て回るだけになってきたから、一度やることを絞ろう」
朝食を取りながら、ラウルが卓の上へ記録板を広げた。
「入口と岩壁は何度も確認した。使われていない建物も大半は見たし、井戸の周りにも今のところ何もない。今日は残っている場所を調べながら、村の連中からまだ聞けてないことを拾う。三神像には近づかない。それで何も増えなければ、夜にもう一度全体を整理する」
「ずいぶん普通の調査に戻ったわね」
セルマが湯を飲みながら言った。
「普通じゃなかった日があったみたいに言うな」
「毎日同じ村を何周もしてるのよ。そろそろ私たちより村人の方が、次にどこへ行くのか分かってそうじゃない?」
「それでも分からないものを飛ばして、次へ行くわけにはいかないだろ」
ラウルはそう返してから、開いていた記録板を閉じた。
「それと、出口が見つかったら何より先に戻る。向こうでどれだけ時間が経ってるかは分からんが、俺たちが帰還予定を過ぎてることだけは間違いない」
セルマが器を置いた。
「……そういえば、外から見れば私たち全員が行方不明なのよね」
「そうなるな」
ニルスが答えた。
「そもそも今回は、鐘の方向へ経路を延ばしても、決めた時刻には引き返す前提だった。村まで来る途中で予定外の野営をした時点でも遅れてるし、そこから何日も報告がない。宿営地じゃ何度も転移紋を確認してるだろうし、王都にもギルドにもとっくに話が行ってるはずだ」
「バルドさん、怒っているでしょうか」
クラリスが少し困ったように尋ねると、セルマは考えてから首を傾げた。
「先に心配するんじゃない? 怒るのは、七人揃って帰ってきたのを確認してからだと思うわ」
「それなら怒られる方がましだな」
ガルムが干し肉を噛みながら言った。
「戻れればな」
ラウルは全員を見回した。
「王都が救援を入れてくる可能性もあるが、それは期待しない方がいい。森へ大人数を入れるのは危険だって、俺たち自身が報告した。こっちが戻らないからって準備もせずに追ってきたら、二重遭難になるだけだ」
「ここまで来られたとしても、私たちと同じ条件で村から出られなくなったら人数が増えるだけですしね」
クラリスの言葉に、ラウルが頷いた。
「ああ。外の連中が心配してるだろうから急ぐのは当然だが、それで手当たり次第に試して死んだら意味がない。戻った時に説明できるよう、記録も続けるぞ」
「そこは任せろ」
ニルスが記録板を自分の方へ引き寄せた。
その横で、エルディアスは今日どう動くべきかを考えていた。
青の使徒は以前受付をしていた女だった。黄では鐘番の男が使徒だった。同じ人物が別の歴史でも使徒になるわけではないことは、黄で青の女を確認した時点で分かっている。
なら赤にも使徒がいるとして、探すには他の歴史との行動差を見るしかない。
ただし、見つけても戦うつもりはなかった。
黄には、あの状態のリュシアが残っている。青がどうなったのかさえ確かめられていない今、さらに別の使徒を倒して何かを動かす気にはなれなかった。
「俺は今日は一人で村を回る」
エルディアスが言うと、ラウルが顔を上げた。
「一人で? さっきまでの話を聞いてたか」
「村の中を見るだけだ。今まで会った人間が、普段どこで何をしてるかを自分で見たい。七人で話を聞きに行けば、向こうも普段とは違う動きをする」
「それならリュシアと二人でもいいだろ」
「一人の方が目立たない」
ラウルは少し考え、エルディアスの顔を見る。
「何か怪しい奴でもいるのか?」
「まだいない。だから見る」
「見つけても一人で追うなよ。村の中だから安全だとは、もう思ってない」
「ああ。何かあれば戻る」
「なら昼には一度ここへ顔を出せ。それまでに戻らなかったら、今度は俺たちがお前を探す」
「分かった」
話が決まると、ラウルはほかの四人にも今日の動きを振り分けた。ガルムとセルマは村長から教えられた古い物置を見た後、セルマが気にしていた竈近くの石組みを確認する。ニルスは村の猟師から、北側の岩壁沿いで罠が続けて壊されていると聞いており、午後にそちらを見たいと言った。
「でしたら、私も同行します」
クラリスが続ける。
「あの辺りには薬草が生えているそうですし、罠を壊したものが傷ついているのであれば、その痕跡も見られるかもしれません」
「二人で行くなら構わん。ただ、罠の周りを見るだけだ。村から離れすぎるな」
「分かってる。何か見つけても追わない」
ニルスはそう答え、クラリスも頷いた。
エルディアスが食事を終えて立ち上がると、リュシアも外套へ手を伸ばした。
――本当に一人で行くのですか。
――ああ。
――私がいると困りますか。
黄の鐘楼で倒れたリュシアが頭に浮かんだ。
今目の前にいる彼女へ重ねないよう、エルディアスは視線を外した。
――一人で見た方が都合がいい。
少し間があった。
――分かりました。ただ、ラウルさんが言った通り、昼には戻ってください。
――ああ。
◇
村へ出ると、エルディアスは最初に入口側へ向かった。
朝の鐘を誰が鳴らしたのかを見ていない。黄では使徒だった男が、赤でも鐘と関わっているのかは確認しておきたかった。
鐘楼にはすでに誰もいなかった。朝の仕事を終えたらしく、縄だけが壁際へ垂れている。近くで籠を修理していた老人に尋ねると、今朝の鐘を鳴らしたのは別の男で、黄で使徒だった髭の男は畑へ出ているという。
「今日はあいつの番じゃないよ。鐘は何人かで回してるって、前にも聞いただろう?」
「ああ。畑はいつものところか」
「東だよ。朝から土を返してるはずだ。何か用なら昼になる前に行った方がいいぞ」
礼を言って畑へ向かう。
男は言われた通り、数人の村人と一緒に畝の間へいた。袖を肘まで捲り、鍬で土を起こしている。エルディアスに気づくと一度手を止めたものの、黄で正体を現す直前に見せた警戒はなく、普段と変わらない調子で声を掛けてきた。
「今日は鐘じゃないぞ。今度は畑まで調べるのか?」
「お前が毎日鐘を鳴らしてるのかと思ってただけだ」
「そんなことしたら畑が終わらん。今日は朝からこっちだよ。鐘なんて順番が回ってきた時だけだ」
「そうか」
「それだけか?」
「ああ。邪魔したな」
「本当に変な調査だな」
男は笑いながら鍬へ戻った。
黄では、あの男が明けの鐘を担当し、そのまま使徒として正体を現した。赤では鐘番ですらなく、何事もなかったように畑仕事を続けている。
次に向かったのは、青で使徒だった女の家だった。
屋根には今日も青い布が干され、女は軒下で木の器を磨いている。エルディアスを見ると、また来たのかと言いたげに顔を上げた。
「今度は何を聞きに来たんだい?」
「前に受付をしてた頃のことを少し思い出してた。俺たちが来る前、変わった役目を見たことはなかったか」
「また観測者の話かい? 知らないものは何度聞かれても知らないよ。昔の旅人なら今の受付の子より何人も見てるけど、あんたの役目は覚えがないね」
「そうか」
「最近はそれを聞いて回るのが仕事なのかい?」
「そんなところだ」
「大変だねえ。私は豆と器の方が分かりやすくていいよ」
女は本当に興味を失ったように手元へ戻った。
青で何度も感じた、観測者への執着は見えない。黄でも同じだった。
青の女も、黄の男も、赤では普通に暮らしている。使徒が歴史ごとに別の人間なら、赤ではまだ別の誰かを探さなければならない。
そこから先は、これまで何度か顔を合わせた者を中心に村の中を歩いた。
村長は家の前で村人から壊れた屋根について相談を受け、場所を聞くと自分も一緒に見に行っていた。受付の少女はいつも通り小屋に座り、老人たちは家の前や井戸端で話をしている。昨日畑にいた者が今日は家畜小屋へ行き、井戸でよく会った女が子供を連れて家にいる。
違いそのものはいくらでもあった。
だが、この規模の村では一人が複数の仕事をするのが当たり前で、昨日と今日の行動が違うだけなら何の材料にもならない。村長にしても、赤でも黄でも村の中で何かあれば顔を出している。どこまでがいつもの行動で、どこからが一つの歴史だけにある違いなのか、今の時点では分けられなかった。
青の女は、観測者を調べ始めたから目についた。黄の男は鐘との関係を追った結果、自分から余計なことを口にした。
赤では、まだそれに当たるものがない。
◇
昼に旅人用の家へ戻ると、ほかの六人もほぼ同じ頃に揃った。
セルマが気にしていた石組みは古い排水溝で、ガルムが土を少し掘って確かめても地下へ続くような構造はなかった。村長から聞いた物置にも、古い農具と空の樽が残っているだけだった。
「そっちは?」
セルマがエルディアスへ尋ねた。
「何人か見たが、まだ何もない」
「朝からずっと人を見て回って、それだけ?」
「普通に暮らしてる人間を見て、一日で何か分かる方がおかしいだろ」
「それはそうなんだけど、どういう違いを探してるのかくらい教えてくれてもいいんじゃない?」
「普段と違う動きをしてないか見てるだけだ」
「それなら私たちも見られるでしょう?」
「前に見た時と比べたい」
セルマはもう一度聞こうとしたが、ラウルが先に口を挟んだ。
「エルが一人で見たい理由は分かった。何か出たら話させればいい。それより午後の確認を先にするぞ」
ニルスが記録板を開いた。
「北側の罠を見てる猟師に聞いたら、二つ続けて仕掛けだけ壊されてるらしい。獲物が掛かった跡はあるが、血も毛もほとんど残ってない。魔物かどうかも分からないから、クラリスと見てくる」
「薬草も少し見てきます。あの辺りへ採りに行く方は少ないそうなので、踏まれていない場所なら使えるものが残っているかもしれません」
クラリスが続けた。
「二人なら構わんが、夕方までには戻れ。何か見つけても深追いするな」
「分かってる。罠の周囲を見たら戻るよ」
ニルスは軽く手を上げた。
昼食を済ませると、二人は揃って北側へ向かった。
ガルムとセルマは午前中に見た排水溝を記録へ残すため、もう一度竈のある家へ行く。ラウルは村長と、まだ使っていない建物がないか確認すると言い、リュシアも以前から頼まれていた料理の手伝いへ向かった。
エルディアスはまた一人になった。
家を出る直前、リュシアから声が届く。
――午後も一人で動くのですか。
――もう少し見る。
――分かりました。夕方には戻ってください。
――お前もな。
リュシアは一度こちらを見てから、小さく頷いた。
――はい。
◇
午後になっても、赤の使徒に繋がる違いは見つからなかった。
むしろ見れば見るほど、村人の行動は日によって変わる。畑の手が足りなければ近くの者が手伝い、屋根が壊れれば修繕へ回り、家畜が逃げれば仕事を止めて捕まえる。鐘番も交代し、村長でさえ相談を受ければ家から出て村の中を歩いている。
黄の男だけを見ていれば、鐘を鳴らす役目が使徒の特徴に思えたかもしれない。
だが、赤では同じ男が畑に立ち、別の人間が鐘を鳴らしている。それだけで黄と赤の違いを説明することはできなかった。
使徒を見つけるには、もっと大きな違いが必要になる。
それでもエルディアスには、何日も掛けて調べるつもりはなかった。
次は青のはずだ。
そこで、使徒を倒した後に青がどうなったのかを確かめる。その次に黄へ戻れば、リュシアの状態も見なければならない。
赤の使徒については、その後でいい。
日が傾き始めたところで、エルディアスは旅人用の家へ戻ることにした。
途中でリュシアと会った。
向こうもこちらを探していたらしく、道の先で足を止める。
「戻るところですか?」
「ああ。何かあったか」
「いいえ。エルがまだ戻っていないと聞いたので見に来ました。ラウルさんとガルムさんはもう戻っています」
二人で並んで歩き始めた。
しばらくは何も話さなかったが、家並みの向こうに旅人用の家が見え始めたところで、リュシアが口を開いた。
「朝から何度も私を見ていますね」
「そうか」
「はい。具合が悪そうに見えますか?」
「いや。今は問題ない」
答えてから、自分で付け足した言葉に気づいた。
リュシアも同じところに気づいたらしく、横からこちらを見る。
「今は?」
「気にするな」
「気にするような言い方をしたのはエルです」
朝のラウルと似たようなことを言われ、エルディアスは少し黙った。
「別のことを考えてただけだ」
「私を見ながらですか?」
「ああ」
「それなら余計に気になります」
リュシアはそう言ったものの、それ以上は聞かなかった。
「話せるようになったら教えてください」
「ああ」
今は、それしか答えられなかった。
旅人用の家へ入ると、ラウル、ガルム、セルマはすでに戻っていた。卓の上には夕食の準備が途中まで並べられている。
エルディアスは室内を見回した。
「ニルスとクラリスは?」
ラウルも窓の外へ目を向けた。
「まだだ。お前たちと一緒かと思ってた」
「会っていません。二人とも、午後は北側へ向かったはずです」
リュシアが答える。
「夕方までには戻るって言ってたわよね」
セルマが竈の火を弱めた。
「ニルスなら暗くなる時間を読み違えるとは思えないし、クラリスも一緒なら無茶して奥まで行かないでしょう。何か見つけて、確認に手間取ってるだけならいいんだけど」
「一度見に行く」
ラウルは剣帯を取った。
「少し遅れてるだけなら途中で会う。何もなければ連れて戻ればいい」
「全員で行くか?」
ガルムが大盾へ腕を通す。
「ああ。行き違いになっても、二人とも戻る場所は分かってる。夕の鐘までに会えなければ、その時は探し方を変える」
まだ、誰も最悪のことを口にはしなかった。
◇
二人が向かった北側は、家並みが途切れるとすぐ岩壁沿いの草地になる。
村の猟師から教えられた罠は簡単に見つかった。細い木を曲げて縄を張ったもので、一つは完全に壊れ、もう一つも仕掛けの部分だけが外れている。
その周囲には、ニルスとクラリスの足跡が残っていた。
「ここまでは来てる」
エルディアスが土へ意識を広げる。
二人分の足跡は罠の前でしばらく止まり、その後、岩壁へ沿ってさらに北へ続いていた。
「何か追ったのか?」
ラウルが尋ねる。
「走ってはいない。二人とも歩いてる。罠を壊したものの跡らしいのも混じってるが、崩れてて何かまでは分からん」
リュシアは少し先へ進み、草の倒れ方を見ていた。
「こちらです。二人とも同じ方向へ進んでいます。少なくとも、別々に動いたようには見えません」
「なら追うぞ。ただし足跡を潰すな」
岩壁と低い灌木の間には、人が一人ずつ通れる程度の隙間が続いていた。普段から道として使われている様子はないが、獣が行き来しているらしく、草がところどころ倒れている。
しばらく進んだところで、リュシアが足を止めた。
「ラウルさん」
声の調子が変わっていた。
少し先の地面に、矢が一本落ちている。
ニルスのものだった。
ラウルが拾い上げると、鏃は残っているものの軸の中央が折れている。普通に射って外した矢には見えなかった。
「踏まれたのか?」
ガルムがしゃがみ込む。
「いや。折られたように見える」
ラウルは矢を持ったまま周囲を見回した。
「ここから先、戦った跡を探せ。離れすぎるなよ」
五人が数歩ずつ範囲を広げると、すぐに草が大きく倒れている場所が見つかった。地面は何度も踏み荒らされ、岩壁の近くに生えていた灌木も何本か枝を折られている。
その根元には、黒ずみ始めた血が付着していた。
「こっち」
セルマの声が低くなる。
岩の表面だけでなく、その下の土にも血が染み込んでいる。一滴や二滴ではないが、誰か一人がここで死んだと断定できるほどの量でもなかった。
リュシアがしゃがみ込み、触れずに匂いを確かめる。
「人のものだと思います。少なくとも、鎧猪のような獣の臭いではありません」
「二人のどちらかか?」
「そこまでは分かりません」
さらに少し先で、ガルムが泥の上に落ちていた小さな布袋を拾った。
「クラリスのだな」
セルマにもすぐ分かった。治療道具を分けて入れている袋で、留め紐が千切れている。中には包帯と小瓶が二つ残り、蓋が開いたまま泥を被っていた。
「誰かを治療しようとして落としたのかしら」
「その可能性はある」
ラウルは袋を受け取り、周囲へ視線を走らせた。
「ニルスが傷を負ってクラリスが治そうとしたのかもしれんし、逆かもしれない。まだ何も決めるな。二人がここからどこへ行ったのかを先に探す」
エルディアスは土へ術式をさらに広げた。
二人がここまで来た跡は読める。争った場所では何度も足が交差し、その中へ別の踏み跡らしいものも幾つか混じっていた。
だが、そこから先が分からない。
村へ戻る方向にも、さらに北へ進む方向にも、二人分の足跡が続いていなかった。
「ここから先がない」
「どういうこと?」
セルマが聞き返す。
「二人が歩いて離れた跡が見つからない。担がれたなら運んだ側の跡がもっと残るはずだが、それも読めない」
「消された可能性は?」
ラウルが尋ねる。
「ある。風でも土でも、跡を壊すやり方はいくらでもある」
使徒なら。
その考えが浮かんだ。
赤にもいるはずの使徒。
自分が一人で村人を見ている間に、ニルスとクラリスが別の何かへ触れた可能性はある。
だが、口には出さなかった。
「二人の名前を呼べ。怪我で動けなくても、意識があるなら返せるかもしれない」
ラウルが言う。
五人で声を上げた。
岩壁沿いを何度呼んでも、返事はなかった。
◇
夕の鐘が鳴っても、二人は見つからなかった。
一度旅人用の家へ戻り、灯りと縄、それから必要な道具を持ち出す。ラウルが村長へ事情を伝えると、村長は途中まで話を聞いただけですぐに立ち上がった。
「北側で争った跡があって、二人がいないんだな?」
「ああ。血と持ち物も見つかった」
「分かった。使ってない家と物置は全部開ける。俺が鍵を持ってるところは今から回るし、ほかも持ち主を起こせばいい。畑の納屋や家畜小屋も見てもらおう」
「夜だぞ」
「二人が怪我をしてるかもしれないんだろ。明るくなるまで待つ理由はないよ」
村長はそのまま近くの家へ声を掛け、捜索を手伝える者を集め始めた。日が落ちてから村人を動かすことをためらう様子もなく、どの家に空いている物置があるか、昔使っていた貯蔵穴がどこに残っているかまで一つずつ挙げていく。
ニルスとクラリスが二人で北側へ向かう姿を見た者は何人かいた。
戻ってくるところを見た者はいない。
怪しい人物を見たという話も出なかった。
「村から出られないんだから、どこかにはいるはずだ」
ラウルは村長から借りた簡単な地図を卓へ広げた。
「現場周辺だけでなく、使われてない小屋と物置も全部見る。怪我をして自力で戻れず、誰かに運ばれた可能性もある。村人には家の近くと畑を頼む。俺たちは最後にいた場所からもう一度追う」
「二人とも、あの血の量ならまだ動けた可能性はあるわよね」
セルマが言う。
「誰の血かも分からん」
ガルムが返した。
「そうだけど……」
「まだ死んだと決めるな」
ラウルの声が重なる。
「死体はない。二人とも一緒にいなくなってるなら、どこかへ運ばれた可能性だってある。今は生きてる前提で探す。それでいい」
セルマは少し黙った後、頷いた。
「分かった」
エルディアスも何も言わなかった。
死体はない。
その言葉だけが、妙に頭へ残った。
◇
夜が深くなっても、捜索は続いた。
岩壁沿いの現場から範囲を広げ、畑の端、家畜小屋、使われていない物置、空き家まで一つずつ確認する。村長は鍵の掛かった建物を開けて回り、それが終わると村人から「子供の頃に入った穴がある」「昔は芋を置いていた場所がある」と聞けば、自分で案内までした。
それでも二人はいない。
エルディアスは現場へ何度も戻った。土の術式を薄く広げ、最初には気づかなかった窪みがないか探し、風を岩壁へ沿わせて人が入り込める亀裂や空洞も調べる。見つかるのは浅い割れ目ばかりで、人二人が姿を消せるような場所はなかった。
現場に残っているのは、折れた矢と血痕、クラリスの袋、それに争った跡だけだった。二人が何事もなく立ち去ったとは考えにくい材料ばかりなのに、肝心の姿がどこにもない。
死体も見つかっていなかった。
夜半を過ぎた頃、捜索に参加していた村人が水を持ってきた。五人は岩壁近くへ集まり、立ったまま短い休憩を取る。
セルマは水筒を両手で持ちながら、暗い村を見た。
「朝は、外の人たちが心配してるだろうって話をしてたでしょう。今になって、ちょっと分かった気がするわ」
ラウルが顔を上げる。
「何がだ」
「戻ってこない人を待つの。向こうじゃ七人まとめて、こっちじゃニルスとクラリス。何があったのかも分からないまま、帰ってくるかもしれないって探したり待ったりしてるんでしょうね」
いつもの軽さはなかった。
ガルムも少し黙ってから、水筒の口を閉じた。
「なら余計に帰らんとな。二人も連れて」
「……そうね。バルドさんに怒鳴られるところまで、ちゃんと戻らないと」
「そこまで望む必要はないだろ」
ラウルが返すと、セルマはようやく少しだけ笑った。
「でも、今なら怒鳴られても文句は言わないかもしれないわ」
「帰ってから決めろ」
「ラウルは止めてくれないの?」
「俺も一緒に怒られる側だ」
短いやり取りが終わると、ラウルは立ち上がった。
「もう一度行くぞ。朝までに見つからなくても、その時点で終わりじゃない。ただ、疲れたまま同じ場所を見続ければ見落としが増える。明るくなったら一度集まって、昼の捜索を組み直す」
誰も反対しなかった。
エルディアスも水筒を返しながら立ち上がる。
外では、自分たち七人を待っている。
赤では、五人がニルスとクラリスを探している。
そして黄には、呼吸があるのかさえ分からないリュシアが残されていた。
どれも同じ場所にはない。
今のエルディアスには、どれにも手が届かなかった。
◇
東の空が白み始めても、二人は見つからなかった。
村を何度回ったのか、もう数えていない。探していない場所へ行く段階はとうに過ぎ、見落とした可能性を疑って同じ場所を繰り返していた。
ガルムとセルマは村長たちと西側をもう一度回り、ラウルとリュシア、エルディアスは北側の現場から入口方向へ戻りながら足跡を探していた。
「朝になるな」
ラウルが空を見た。
「ああ」
「鐘が鳴るまで見たら、一度家へ戻るぞ。寝ろとは言わんが、全員の情報を合わせる。明るくなれば夜に見えなかったものもあるかもしれない」
「分かった」
三人で入口側へ歩いていると、鐘楼の近くに人影が見えた。
年嵩の男が一人、まだ薄暗い道を歩いてくる。肩から小さな袋を提げ、鐘楼へ入ると壁際から垂れた縄を取り、結び目や擦れている箇所を順に確かめ始めた。
黄で使徒だった男ではない。
以前から村で何度か見かけた顔だった。
こちらへ気づくと、男は縄から手を離した。
「まだ見つからないのか?」
「まだだ」
ラウルが答える。
「そうか……俺も昨日聞いた。鐘を鳴らしたら、畑へ出る前に少し見てみるよ。大勢で同じところを探しても仕方ないなら、家の裏や物置をもう一度聞いて回ってみる」
「助かる」
「こんな時くらいはな。あの二人には村の連中も世話になってる」
男は縄へ手を戻した。
エルディアスはその手元を見た。
「今朝はあんたが鐘番か」
「ああ。昨日の夕方には決まってたよ。どうした? こんな時まで鐘を調べてるのか?」
「確認しただけだ」
「なら、もうすぐ鳴らす。近くにいるなら耳を塞いだ方がいいぞ」
男は少し不思議そうにしたものの、それ以上は聞かなかった。
黄では、この場所に使徒がいた。
赤では別の男が、ごく普通に順番を受けて朝の鐘を鳴らそうとしている。少なくとも鐘番という役目そのものが使徒へ繋がっているわけではなく、黄ではたまたまあの男が鐘番を務めていたと考える方が自然だった。
それを確かめたところで、エルディアスの意識は別のことへ移った。
次は青のはずだ。
青の使徒を倒した後、あの歴史は普通には終わらなかった。道の長さが合わなくなり、近くにいるはずの仲間との距離さえ定まらず、最後には見えている景色そのものが形を失っていった。その中で黒い糸だけを頼りにリュシアを探し続け、何も確かなものが残らなくなったところで視界が途切れている。
あの先に何があったのかを、エルディアスは知らない。
ただ次の歴史へ移る途中で、青だけがあのように見えただけなのか。それとも使徒が死んだことで、あの場所そのものに何かが起きたのか。
次に青へ戻れば、それが分かる。
いつもの村で目を覚ますのか。あの崩れた景色の続きを見ることになるのか。それとも、別の何かが待っているのか。
鐘楼の男が東の空を確かめ、縄を握った。
エルディアスは、知らず左手薬指へ目を落とした。黒い糸は今も隣のリュシアへ静かに続いている。
やがて縄が引かれた。
鐘の音が、白み始めた村へ広がった。




