第53話 九日
鐘の音で、エルディアスは目を開けた。
見慣れた木の天井と、窓から差し込む朝の光が目に入る。それが何を意味しているのか理解するまで、ほんのわずかな時間が掛かった。
つい先ほどまで見ていたのは、この部屋ではない。
倒れた青の使徒。形の合わなくなった道。すぐ近くにいたはずの仲間との距離さえ定まらなくなり、最後には何を見ているのかも信用できなくなった。その中でも左手薬指から伸びる黒い糸だけは確かにリュシアへ続いていて、それを見失うまいと目を凝らしたところで視界が途切れている。
身体を起こし、最初に向かいの寝台を見た。ラウルが鐘に起こされたらしく目元を擦っており、その隣ではガルムが大盾の革帯へ手を伸ばしている。ニルスもクラリスもいる。青で負傷した二人だけでなく、青ではすでに死んでいたラウルまで、何事もなかったように同じ朝を迎えていた。
ラウルが視線に気づき、寝台の上で眉を寄せた。
「……何だ。朝から随分見てるな。前にも似たようなことがあった気がするぞ」
「生きてるか確認しただけだ」
「それを朝一番に言われると、冗談で返していいのか迷うんだが」
「気にするな」
「気にさせたのはお前だろ」
ラウルは呆れたように言いながら剣帯を取った。動きに異常はなく、声にもいつもの張りがある。
エルディアスは隣へ目を向けた。リュシアもすでに目を覚ましており、外套へ伸ばしかけていた手を止めてこちらを見ている。
――今日は何日目だ。
もう突然の問いにも驚かなくなったらしい。リュシアは自分の記憶を数えるように少し考えてから答えた。
――村へ着いた日を一日目にするのであれば、四日目です。前の黄では三日目まで過ごしていますから、その続きになります。
黄だった。
――昨日のことも覚えてるか。
――はい。エルと三つの歴史について話しました。赤、青、黄にはそれぞれ別の続きがあり、エルだけがすべてを覚えているのではないかというところまでは同じです。「勝者の歴史のみ続く」という石碑の言葉についても考えましたが、何をもって勝敗が決まるのかまでは分かっていません。
前の黄から間違いなく続いている。
エルディアスは左手薬指へ意識を向けた。黒い糸も変わらずリュシアへ伸びている。青の最後で景色も距離も定かでなくなった時でさえ、これだけは最後まで二人の間に残っていた。
リュシアが、今度は自分から尋ねた。
――青で何かあったのですね。
――ああ。使徒を見つけた。
――使徒?
――前に受付をしてた女だ。自分でそう名乗った。青の神に仕えて、青を守るのが自分の役目だと言ってた。
リュシアはすぐに質問を重ねず、その先を待った。
――戦いになった。青ではラウルが死んでたから六人だ。ガルムとニルスも途中で動けなくなって、最後は俺とお前とセルマで押し切った。使徒は死んだ。
――私たちは。
――生きてた。少なくとも、最後に確認できたところまではな。
リュシアの表情がわずかに緩んだ。
――では、その後に今の黄へ移ったのですか。
――たぶんな。ただ、普通に朝を迎えたわけじゃない。使徒が死んだ後、距離も音もおかしくなった。何がどこにあるのか分からなくなって、最後は見えてるものまで信用できなくなった。それで途切れて、今だ。
死ぬ前に青の使徒が残した言葉も伝えた。
青は終わる。ここから先はもうない。
その言葉と、今こうして黄へ移っていることを繋げようと思えば繋げられる。しかし一度起きただけの現象を、使徒が残した言葉だけで決める気にはなれなかった。
――青がどうなったのかは、まだ分からない。
――次に青が来るかどうかを確かめるまでは、ということですね。
――ああ。ただ、青に使徒がいたのは確かだ。赤や黄にも同じようなものがいる可能性は考えた方がいい。
リュシアは身支度を始めている五人へ視線を移した。
――皆さんにも話しますか。
――話す。向こうから観測者を狙ってくるなら、もう俺だけが知ってていい話じゃない。
◇
朝食の準備が整ったところで、エルディアスはこれまで自分とリュシアだけで確かめてきたことから話した。
受付で自分だけが観測者という役目を与えられたことは、五人も知っている。だが、その意味が何だったのか、エルディアスが赤、青、黄で何を見てきたのかは話していなかった。
赤には赤の続きがあり、青には青、黄には黄の続きがあること。それぞれの歴史にいる者は、自分が属する一つだけを昨日から続くものとして記憶しており、三つすべてを覚えているのは自分だけらしいこと。さらに青ではラウルが死に、その後に使徒を名乗る女を見つけて戦闘になったことまで、必要な順序で説明した。
ラウルたち五人へ、三つの歴史について話すのはこれが初めてだった。
最初に器を置いたのはラウルだった。
「俺が別の歴史では死んでいたって話も気になるが、今は使徒の方だな。その女は自分からそう名乗って、青を守るためにお前を狙った。倒した直後には村の様子までおかしくなって、それから今の黄へ来た。そこまでは間違いないんだな?」
「ああ。使徒が正体を出した後は村人も消えた。家や道具は残ってたから、人だけがいなくなったように見えた」
「ずいぶん大きな話をまとめて持ってきたわね」
セルマは困ったように息を吐いた。
「青に一人いたからって、赤と黄にも一人ずついるとは限らない。でも三つの神がいて、三つの歴史があるところまで分かってるのに、青だけ特別だと考えるのも変でしょう?」
「だから探す」
ニルスが卓の端に置いていた記録板を引き寄せた。
「青で見つけた時は、同じ人物が色ごとに違う動きをしていたことから絞ったんだろ。それなら、今まで何度か会った村人をもう一度見ていくのが一番早い。村長、受付の子、前に受付をしていた人、それから昔話を聞いた連中。比較できる材料がある相手から当たった方がいい」
ガルムも頷いた。
「手当たり次第に『使徒か』と聞いて回っても仕方ないだろうな。青の奴だって、正体が分かるまでは普通に村人をやってたんだろ?」
「ああ。ただ、青では俺が観測者だと分かってから動きが変わった。受付へ行ってこっちのことを調べたり、何度も俺たちが何を探してるのか確認してきた。それを追った先で正体を出した」
「なら今日は全員で動こう」
ラウルが五人を見回した。
「村人の姿をしているからといって、一人で話を聞きに行くのはやめる。使徒が青の奴と同じ程度に強いなら、見つけた瞬間に戦闘になってもおかしくない。七人で押しかければ村の連中には悪いが、事情を知らずに誰か一人が襲われるよりはましだ」
「七人全員で家を訪ねて回ったら、普通の人まで怖がると思うけど」
セルマが言うと、クラリスが苦笑した。
「武器を抜かず、まず普通にお話を聞けばよいでしょう。こちらが先に村の方を敵として扱ってしまえば、本当に何も知らない方まで警戒させてしまいます」
「それでいこう。ただし、青と違う動きをしてる奴がいたらその場で言ってくれ」
ラウルがエルディアスへ視線を戻す。
「お前にしか比べられないなら、そこを黙られると俺たちは何も判断できない」
「ああ。今度は言う」
◇
最初に向かったのは、青で使徒だった女の家だった。
屋根には今日も青い布が干され、扉の脇には木を削った鳥が掛かっている。女は軒先へ籠を出し、乾いた豆の中から傷んだものを選り分けていた。
「今日はまた随分大勢で来たねえ。昨日まで三神様だの昔の旅人だの聞いてたと思ったら、今度は何を探してるんだい?」
「少し聞きたいことが増えた」
エルディアスが答えると、女は手を止めずに笑った。
「この村へ来てから、あんたらはそればかりだね。聞くのは構わないけど、観測者についてなら前に話した以上のことは知らないよ」
「今日は別だ。使徒って言葉を知ってるか」
女はそこで手を止め、顔を上げた。
「使徒?」
「神に仕える者、という意味らしい。この村で聞いたことはないか」
「そんな大層な役目があるなら、私の方が聞いてみたいよ。三神様の世話をする祭司がいるわけでもないし、祭りの準備だって村の者で手分けしてやるんだからね」
女は七人の顔を順に見て、少し不思議そうに眉を寄せた。
「誰かがそう名乗ったのかい?」
「ああ」
「この村の人間が?」
「それ以上はまだ言えない」
「こっちには聞いておいて、自分たちは隠すのか。まあ、何か面倒なことに巻き込まれてるのは今さら分かってるけどね」
不満は口にしたものの、青で見せたような警戒はない。観測者について執拗に探ろうともせず、こちらが家を離れる時には「何か分かったら今度は教えておくれ」と声を掛けただけだった。
少し歩いてから、セルマが家を振り返る。
「同じ人なのに、青で戦った相手とは思えないわね。もちろん全部演技だったら分からないけど、少なくとも今のところは普通にしか見えない」
「青でも最初からおかしかったわけじゃない。ただ、何度会っても俺たちのことを気にしてた。今の黄ではそれがない」
「同じ人物だからといって、別の色でも使徒とは限らないということですね」
クラリスの言葉に、エルディアスは頷いた。
「そう見てる。ただ、一人だけで決めるのは早い」
その後も、これまで何度か顔を合わせた者を中心に村を回った。
村長は使徒という言葉を聞いて「祭司でも探しているのか」と聞き返し、昔話に詳しい老人は神の使いらしい獣が出てくる昔話を始めようとした。以前話を聞いた老女にも不自然な変化はなく、七人が別の調査を始めたと知ると、むしろ「それが済んだら物置の戸も見てくれ」とガルムへ頼もうとしたくらいだった。
午前の間に確認できた範囲では、青の女のような違いは見つからない。
昼の鐘が鳴る頃、七人は広場の端で少し休むことにした。
低い音が家々の間を抜けて岩壁へ反響し、長い余韻を残す。畑から戻ってくる者が増え、竈へ火を入れた家からは薄い煙も上がり始めていた。
「一日で見つかるとは思ってなかったけど、使徒がいるかもしれないって分かった後だと、普通に歩いてる人まで全部怪しく見えてくるわね」
セルマが水筒を傾けながら言うと、ニルスは記録板から目を上げた。
「それで決めつけないために見比べてるんだろ。青だって何日かの行動が積み重なって分かったんだ。一度話しただけで見つからない方が普通だ」
「分かってるわよ。ただ、こっちだけ相手の顔を知らないっていうのが落ち着かないの」
二人の話を聞きながら、エルディアスは鳴り終わった鐘の方へ目を向けた。
鐘楼は入口近くにあるため、ここから鐘そのものは家の屋根に隠れて見えない。それでも音は村のどこにいても届く。
森を調べていた頃から何度も聞いてきた。村へ入ってからも、朝だけではなく昼や夕にも鳴っている。赤でも青でも黄でも変わらず続いていたものの一つだった。
「鐘も一度見ておくか」
エルディアスが言うと、ラウルが振り返った。
「鐘そのものが怪しいと思ってるのか?」
「そこまでは分からん。ただ、赤でも青でも黄でも同じように鳴ってるのに、誰が鳴らしてるかまではほとんど見てない。使徒を探すなら、毎日繰り返されてるものも色ごとに比べた方がいい」
ニルスは少し考えてから記録板を閉じた。
「鐘番が何人かで交代してるって話は聞いたことがある。ただ、誰がどの時刻を担当してたかまでは残してないな。森にいた頃から関わってる場所でもあるし、調べる価値はあると思う」
「なら午後は鐘楼からだな」
ラウルが立ち上がった。
「一軒ずつ回り続けるより、まず仕組みを聞いておこう。そこから比べられる相手が増えるかもしれない」
◇
入口近くの鐘楼には、七人が最初に村を見つけた日に鐘を鳴らしていた男がいた。
日に焼けた顔に短い髭を生やした中年の男で、あの日は森から姿を見せた七人へ最初に声を掛け、村の中まで案内した人物でもある。今日は鐘楼の脇へ腰を下ろし、古くなった縄の一部を新しいものへ繋ぎ直していた。
「また鐘か。最初に来た時も随分気にしてたが、まだ何かあるのか?」
七人を見るなり男が笑う。
「今度は音じゃなく、鳴らしてる人間のことを聞きたい。毎日お前が全部やってるわけじゃないんだろ」
「ああ、そういう話か。俺を入れて何人かで回してるよ。畑に出る奴も森へ行く奴もいるから、前の日に都合を見て決めるんだ。朝から夕まで同じ奴がやる日もあれば、途中で代わる日もある」
「今日の昼はお前だったな」
「さっき鳴らしたんだから、見てなくても分かっただろ。朝は別の奴だ。夕は俺が鳴らす」
男は結び直していた縄を引き、継ぎ目の具合を確かめた。
「誰が鳴らしたかまで記録するつもりか?」
「必要ならな。明日の朝は誰だ」
「それも俺だよ。夕を鳴らした後に縄を確かめておけば、朝は来て引くだけで済むからな。そんなところまで調査の役に立つとは思わなかったが、見たいなら好きに見ればいい」
セルマが鐘楼を見上げる。
「朝って、時刻はどう決めてるの? きっちり決まってるわけじゃないのよね」
「空だよ。東が白んで、そろそろ畑へ出られるくらいになったら鳴らす。曇ってれば少し前後するが、昔から大体同じ頃だ。昼と夕だって似たようなもので、村で暮らしてりゃ身体で分かるようになる」
ラウルが尋ねた。
「誰も鐘を鳴らせなかった日はあるのか? 担当が寝坊したとか、具合が悪かったとか」
「俺が知ってる限りじゃ、鐘そのものが鳴らなかった日はないな。寝坊すれば誰かが起こしに来るし、病気なら代わりがやる。村の連中も鐘を目安にして動いてるんだから、誰もそのままにはしないさ」
話している間にも、男の態度に不自然なところはなかった。
エルディアスは鐘楼を見上げた。赤や青で誰がどの鐘を鳴らしていたのか、すべてを覚えているわけではない。音そのものは毎日聞いていたが、鐘番の顔まで確かめたことの方が少なかった。
だから今のところ、この男が他の歴史と違うとは言えない。
「明日の朝、見に来てもいいか」
「好きにすればいいけど、本当に鐘を鳴らすだけだぞ。わざわざ寝る時間を削ってまで見るほど面白いものじゃない」
「俺たちには必要かもしれない」
「そうか。なら下から見てる分には止めないよ。ただ、近くで聞くなら耳は塞いどけ。森で聞くのとは違うからな」
男はそう言って、また縄へ手を戻した。
◇
夕の鐘を聞いて旅人用の家へ戻ると、七人は今日確認したことを卓の上へ広げた。
青で使徒だった女を含め、これまで何度か会った者に明確な違いは見つかっていない。鐘番についても、明日の朝をあの男が担当すると分かっただけで、それ自体は何人かで交代している仕事として説明できる。
それでも、エルディアスは明け方に鐘楼を見るつもりだった。
「前に三神像が切り替わるところを見る案は止めただろ。今回は大丈夫なのか?」
ラウルが尋ねる。
「像は見ない。鐘楼だけだ」
「そういう意味じゃない。これまでと違うことをして朝を迎えることになるって話だ」
エルディアスは少し黙った。
青のラウルが夜に一人で広場へ出た翌朝、三神像の近くで死んでいたことは今も頭から離れていない。何が死の原因だったのか分からない以上、それまでは夜に新しいことを試すのを避けていた。
だが、状況はもう変わっている。
「青で使徒を見つけた。向こうは俺が観測者だと知ってて、先に殺そうとしてきた。このまま何もせず朝を迎える方が安全だとは、もう言えない」
「俺もそう思う。ただし一人で行くのはなしだ」
ラウルは少し考えてから続けた。
「明けより前に全員で起きて、鐘楼の近くで待つ。鐘番が普通に仕事をして終わるなら、それを見て戻ればいい。何か起きたとしても七人いれば対応できる。わざわざ危険を増やす必要はないから、鐘楼へ登ったり像へ近づいたりはしない。それでどうだ?」
「いい」
「全員で起きるのね……」
セルマが少し嫌そうな顔をした。
「今から早く寝ればいいだろ」
ガルムが言う。
「そういう問題じゃないのよ。明け前に起こされて、何もありませんでしたっていうのが一番疲れるの」
「何かあった方が嫌だろ」
「当たり前でしょう。何もない方がいいけど、何もないなら寝ていたいって言ってるの」
ニルスが記録板を片づけながら苦笑した。
「明日は起こすから諦めろ。見つからなかったら昼に少し休めばいい」
「絶対よ。ラウル、調査だからってそのまま村を一周するとか言わないでよ」
「使徒が見つからなければ考える」
「ほら、もう怪しいじゃない」
いつもと変わらないやり取りを聞きながら、エルディアスは卓へ残された鐘番の記録へ目を落とした。
明日の朝、あの男が鐘を鳴らす。
今のところ、それだけだった。
◇
空がまだ暗いうちに、七人は旅人用の家を出た。
村は眠っている。家々の窓にはほとんど灯りがなく、道にも人影はない。風が屋根の間を抜ける音と、どこかの家畜が身じろぎする気配だけが聞こえていた。
三神像のある広場へは近づかず、家並みの外側を回って入口側へ向かう。受付の小屋を通り過ぎた時にも、中から物音は聞こえなかった。
鐘楼へ着いた時、鐘番はまだ来ていなかった。
「やっぱり早すぎたんじゃない?」
セルマが声を落とす。
「東はもう少し明るくなってる。そう長くはない」
ニルスの言葉どおり、岩壁の上に見える空は夜の黒からわずかに色を失い始めていた。
七人は鐘楼から少し離れた道端で待った。見張るために隠れているわけではない。相手がただの村人なら、物陰から姿を窺う方が余計に不自然だった。
やがて家々の間から足音が聞こえた。
昨日の男だった。厚手の上着を羽織り、眠気を残した顔で鐘楼へ歩いてくる。七人が揃っていることに気づくと、その場で一度足を止め、それから呆れたように笑った。
「本当に来たのか。昨日も言ったけど、鐘を鳴らすだけだぞ。こんな朝早く七人で待たれてると、こっちが何か試されてるみたいで落ち着かないな」
「見るだけだ。邪魔はしない」
「それならいいけどな」
男は鐘楼へ入り、壁際に垂れた太い縄を手に取った。昨日継ぎ直した箇所を何度か引いて確かめ、それから空を見上げる。まだ少し早いと判断したのか、縄へ片手を添えたまま待つつもりらしい。
昨日と何も変わらない。
少なくとも、そう見えた。
エルディアスは男の横顔を見ながら考えた。
このまま鐘を鳴らし、何も起きなければそれで終わる。ただ、何も聞かずに帰れば、昨日までと同じものしか見られない。
「昨日、一つ聞き忘れた」
「鐘を見るだけじゃなかったのか?」
男は苦笑して振り返った。
「まあいい。何だ?」
「使徒って言葉についてだ。昨日から村の連中に聞いて回ってる」
「ああ、その話か。俺も神様の使いって意味くらいしか知らないぞ。この村にそういう役目があるって話なら聞いたことはない」
「青では見つけた」
男の表情は変わらなかった。
エルディアスは続ける。
「自分から使徒だと名乗った。青の神に仕えて、青を守ってるとも言ってた」
「それで、あの女を殺したのか?」
誰もすぐには動かなかった。
男自身も、口にしてから動きを止めている。
鐘楼から垂れた縄だけが、朝の風にわずかに揺れていた。
ラウルがゆっくり剣の柄へ手を掛ける。ガルムも背負っていた大盾へ手を回し、ニルスは男から視線を外さないまま短弓へ指を添えた。
エルディアスは男を見た。
「俺は女だとは言ってない」
沈黙が続いた。
やがて男は、握っていた縄から手を離した。
「なるほどな。こいつは厄介だ」
眠気の残っていた顔から、普段の気安さが消えていく。
「お前も使徒か」
「そこまで分かってるなら、わざわざ聞く必要もないだろ。観測者っていうのは、随分と面倒な役目らしい」
首筋へ一本の亀裂が走った。
「構えろ!」
ラウルの声で七人が動いた。
ガルムが大盾を下ろし、ニルスは短弓を抜く。セルマとクラリスが互いに邪魔にならない距離を取り、リュシアは右手で鞘を押さえながら左手で剣を抜いた。
男の皮膚へ走った亀裂は頬から胸元まで広がり、その表面が薄い殻のように剥がれていく。下から現れた肌は人のものではない灰色へ変わっていたが、青の使徒ほど身体は大きくならず、細い輪郭を残したまま全身の筋肉だけが硬く締まっていった。
最後に顔を覆ったのは、黄色い仮面だった。
「黄か」
「そういうことだ」
使徒が答えるのとほとんど同時に、村から人の気配が消えた。
家も道も鐘楼も残っている。道端に置かれた籠も、受付の小屋も変わらない。それなのに、少し前まで遠くの家から聞こえていた生活の音が一斉に途絶え、窓にも道にも誰一人見えなくなっていた。
「青の時と同じだ」
エルディアスが告げると、ラウルは周囲を一度だけ確認して剣を抜いた。
「なら、それは後で調べる。今はこいつを逃がすな」
黄の使徒は七人を順に見た後、頭上の鐘へ顔を向けた。
「朝から面倒なことになったな。もう少し寝ててくれれば、今日は何も起きなかったのに」
「それを信用できないから来たんだろ」
「そうか。それなら仕方ない」
使徒は構えるのではなく、鐘楼から一歩離れた。
次の瞬間には走り出していた。
「逃げるぞ!」
ニルスの矢が飛ぶ。黄の使徒は進行方向を変えず、上体を沈めるだけで鏃をかわし、そのまま家々の間へ続く道へ入ろうとした。
ガルムが先回りして大盾を立てる。
「ここは通さん!」
正面からぶつかる直前、使徒は地面を蹴って横へ跳んだ。細い身体が盾の端を抜け、別の道へ入ろうとしたところへラウルが踏み込む。
青白い雷が剣身を走った。
黄の使徒は剣を受けず、身体を反らして紙一重で避けた。そのまま反撃へ移ることもなく、間合いを切るために後ろへ下がる。
「本当に戦う気があるの?」
セルマが杖を向ける。
「あるさ。ただ、今ここで全員を倒す必要もない」
細く絞られた火が使徒の逃げ道を塞いだ。使徒は炎へ踏み込まず、また別の道へ向きを変える。
エルディアスはその先へ低く土を起こした。膝にも届かない程度の段差だったが、全速で走る足を乱すには足りる。使徒は手前で気づいて跳び、その着地点へリュシアが入った。
――速いです。
――硬さは。
――確かめます。
リュシアが踏み込む左足へ風を重ねる。途中から伸びた間合いに使徒の反応が一瞬遅れ、左手の剣が脇腹を浅く走った。
灰色の表面へ傷が開き、細く血が散る。
――斬れます。硬くはありません。
使徒は傷を確かめようともせず距離を取った。ただし村の奥へ逃げ切ろうとはせず、鐘楼が見えなくなるほど離れる前に向きを変え、別の道から入口側へ戻ろうとする。
その動きを見て、ラウルがすぐに指示を飛ばした。
「ニルスは鐘楼側を塞げ。ガルムは広場へ抜かせるな。セルマは家を巻き込まない程度に逃げ道を潰してくれ」
「分かったわ。本人に当てるより、通れない場所を作ればいいのね」
「ああ。こいつが逃げるつもりなら、逃げる先を減らす」
ニルスは鐘楼の見える側へ移りながら矢を放ち、ガルムは大盾を斜めに構えて道幅を潰した。セルマも大きな火を使わず、使徒が足を向けた先へ先回りするように炎を走らせる。
それでも黄の使徒は無理に突破しようとはしなかった。逃げ道が塞がれるたびに方向を変え、七人の間へ深く踏み込むことも、誰か一人を追って戦列を崩すこともない。
エルディアスは左手薬指から伸びる黒い糸へ意識を向けた。
――借りる。
――はい。必要なだけ使ってください。
糸を通してリュシアのオドが流れ込んでくる。青の使徒との戦いで何度も繰り返したため、もう扱いに迷うことはない。必要な分だけを受け取り、足止めの土と仲間の動きを補う風へ分けた。
逃げる先へ低い障害を作り、使徒が避ければ風で味方の間合いを伸ばす。大きな術式ではないが、ガルムとラウルが追いつくための一瞬を作り、ニルスの矢を避けられる方向も少しずつ減らしていった。
黄の使徒が、また空を見た。
東はかなり明るくなっている。
それから鐘楼へ目を向けた。
エルディアスは使徒の動きを追いながら、これまでにも同じ仕草を何度か見ていたことに気づいた。村の奥へ逃げられる場面があっても深くは入らず、鐘楼から離れすぎない位置を保っている。
「こいつ、鐘を気にしてる」
「自分が鳴らす役目だからじゃないの?」
セルマが使徒の進路へ火を置きながら答えた。
「それだけなら、逃げる時まで近くに残る必要はない。最初から俺たちを倒そうともしてない」
ラウルも気づいたらしく、使徒から目を離さないまま言う。
「朝まで粘るつもりか」
「そう見える」
「朝になったら何がある?」
「それは分からん。ただ、こいつは知ってる」
黄の使徒が低く笑った。
「そこまで見えるなら自分で考えろよ。青の奴みたいに、何でも喋ってやるほど親切じゃない」
「なら捕まえてから聞く」
ラウルが剣を構え直す。
「朝までにできるならな」
使徒はそう言うと、今度は真っ直ぐ鐘楼へ向かった。
「縄を切れ!」
ラウルの声に、ニルスは迷わず狙いを変えた。一本目の矢が太い縄を掠め、何本かの繊維を裂く。続く二本目へエルディアスが風を添えると、鏃は同じ箇所へ重なった。
縄が切れ、重い端が鐘楼の床へ落ちる。
「これなら少なくとも、あれを引いて鳴らすのは無理でしょう」
セルマが言った。
黄の使徒は切れた縄を一度見ただけだった。
焦った様子はない。
「縄を切ればどうにかなると思ってるなら、それでいいさ」
エルディアスはその言葉を聞きながら、青の最後を思い出した。
使徒が死んだ後、位置も距離も分からなくなり、最後には視界が途切れた。次に気づいた時には今の黄だった。その間に鐘がどうなっていたのかも、誰が鳴らしたのかも見ていない。
「こいつを朝まで残すな」
エルディアスが言うと、ラウルは理由を聞かなかった。
「最初からそのつもりだ。逃げ道を全部潰すぞ」
そこから七人の動きが変わった。
使徒を追い回すのではなく、鐘楼から遠ざけるように位置を取り、逃げ道を順に塞いでいく。ガルムが正面を押さえ、ニルスが左右へ矢を置き、セルマの火が大きく回り込める道を消す。エルディアスは足元へ土を置きながら、必要な時だけ風でラウルやリュシアの間合いを伸ばした。
黄の使徒は速かった。それでも七人全員を相手に逃げ続ければ、いずれどこかで一歩が遅れる。
ガルムの盾を避けたところへラウルが入り、雷をまとった剣が右腕を浅く裂いた。退いた先ではニルスの矢が腿を掠め、さらに左側からリュシアが踏み込む。
使徒は彼女の剣だけは大きく避けた。
――私を警戒しています。
――青でどこまで見られてたのか分からん。連携も知られてるつもりでいけ。
――分かりました。なら、避ける方向はこちらで作ります。
リュシアは無理に追わず、使徒が逃げたくなる側だけを空ける。そこへエルディアスが土を置き、ニルスの矢が重なった。
使徒が初めて大きく体勢を崩す。
ラウルの剣が迫り、受けきれないと見た使徒が身体を捻った。刃は肩口を裂いただけに終わったが、雷が灰色の身体を走り、片膝が地面へ落ちる。
「押せ!」
ガルムが大盾を前へ出した。
使徒は盾の正面から逃げようとして、途中で動きを変えた。
黄色い仮面の奥の視線が、エルディアスへ向く。
観測者。
青の使徒も最後までそこを狙っていた。
黄も同じなら来る。
そう考えた直後、使徒は地面を蹴った。
ガルムの盾を迂回し、ニルスが放った矢を腕で払う。セルマの火を踏まないぎりぎりの位置で身体を沈めると、そのままエルディアスへ真っ直ぐ距離を詰めてきた。
「エル、下がれ!」
ラウルが後ろから追う。
エルディアスは足元へ二つの土の隆起を作った。一つ目を使徒が跳び越え、二つ目へ着地したところへ正面から風をぶつける。速度は落ちた。それでも止まらない。
――右へ。
リュシアの声が届く。
エルディアスが身体を右へ逃がすと、使徒も追うように進路を変えた。その間へリュシアが入る。
いつもと同じだった。
エルディアスへ届く前に敵の進路へ剣を差し込み、外へ逸らす。そのための踏み込みへ、エルディアスも風を重ねていた。
左手の剣が使徒の右肩へ深く入った。
だが、黄の使徒は避けなかった。
刃が入ったまま、さらに一歩踏み込んだ。
リュシアの表情が変わる。
――離れろ!
エルディアスは風を反転させたが、その時には使徒の左腕がリュシアの胴へ回っていた。
狙いは最初からエルディアスではなかったのかもしれない。
リュシアが剣を抜いて距離を取ろうとするより早く、使徒は自分の肩へ刺さった刃ごと彼女の身体を引き寄せた。至近距離から脇腹へ叩き込まれた膝でリュシアの身体が折れ、そのまま足が地面から離れる。
黄の使徒は身体を捻り、鐘楼の石積みへ向けて全力で投げた。
受け身を取れる体勢ではなかった。
リュシアの背中が石の角へ激突し、鈍く重い音が響いた。跳ね返った身体はそのまま地面へ落ち、剣を握っていた左手から力が抜ける。
「リュシア!」
エルディアスの声が響いた。
同時に、左手薬指から流れ込んできたものに息が詰まった。
痛みでも、苦しさでもない。身体の内側から逃げ場を奪われ、その先にあるものだけを否応なく理解させられるような感覚だった。
死。
黒い糸の向こうにそれがある。
逃げられない。避けられない。もうすぐそこへ落ちるのだと身体の奥から突きつけられるような、理屈のない恐怖が左薬指から流れ込み、胸の内側まで一気に広がった。
「クラリス!」
誰が叫んだのかも分からなかった。
クラリスが駆け寄り、地面へ倒れたリュシアの横へ膝をつく。首筋へ指を当てた後、すぐに位置を変え、胸元へ手を置いて顔を近づけた。
いつもなら傷を確認すればすぐに治癒へ入るクラリスが、そこで一瞬動きを止めた。
「どうだ!」
「待ってください!」
強い声が返ってくる。
クラリスは白い杖を取り出し、リュシアの胸元から腹部へ治癒の光を流した。淡い光は確かに身体を包んでいるのに、普段の治療のような反応が見えない。もう一度首筋へ指を当てたクラリスの顔から、血の気が引いていった。
「……息が、分かりません」
エルディアスは左手を強く握った。
黒い糸は消えていない。そこから流れ込む恐怖も途切れておらず、リュシアから念話が返らなくても、その一点だけは疑いようがなかった。
「死んでない」
クラリスが顔を上げる。
「分かるのですか?」
「ああ。死んでない。まだ繋がってる」
何が繋がっているのか、クラリスには説明していない。それでもエルディアスの声に迷いがないことだけは伝わったらしく、すぐにリュシアへ視線を戻した。
「分かりました。なら治療を続けます。ですが、エルディアスさんは使徒を止めてください。こちらへ来させないで」
その言葉で、エルディアスはようやく顔を上げた。
黄の使徒も無傷ではない。右肩にはリュシアの剣が深く入り、ラウルの雷を受けた腕も焼けていた。リュシアを投げた反動で体勢も崩し、鐘楼から少し離れた場所へ片膝をついている。
その正面にはラウルが立ち、ガルムが大盾で右側の逃げ道を塞いでいた。ニルスもすでに矢をつがえ、セルマの杖には次の火が集まっている。あと一度押し込めば、倒せるところまで追い詰めていた。
それでもエルディアスの意識は、使徒だけへ向かなかった。
左手薬指から伸びる黒い糸は消えておらず、その向こうからは先ほどから絶え間なく恐怖が流れ込んでいる。リュシアから念話は返らず、クラリスにも呼吸を確かめられない。それでも糸が残っている以上、死んではいない。そのことだけはエルディアスに分かった。
――リュシア。
声を送ったが、返事はない。
もう一度呼ぼうとした、その時だった。
鐘が鳴った。
低く大きな音が頭上から落ち、鐘楼だけでなく周囲の家々まで震わせる。使徒を囲んでいた五人も一瞬だけ動きを止め、最初に顔を上げたニルスが、鐘楼の床へ落ちたままの縄を見た。
「縄は切ったぞ。誰も触ってない!」
太い縄は先ほど矢で断った位置から垂れ、床の上へ横たわっている。鐘楼の中にも、それを代わりに引いた者はいない。それなのに頭上の鐘だけが大きく揺れ、その余韻がまだ村の中を這っていた。
黄の使徒も鐘を見上げる。
「時間だ」
「まだ終わってない!」
ラウルは迷わなかった。鐘が何を意味するのか分からなくても、目の前の敵をここで逃がすつもりはないらしく、雷をまとわせた剣を手に踏み込む。セルマも使徒の退路へ火を走らせ、ガルムが大盾を押し出すと、ニルスは逃げる先を潰すように矢を放った。
エルディアスも杖を上げようとしたが、その瞬間にも黒い糸から恐怖が流れ込み、視線が倒れたリュシアへ引き戻された。クラリスは治癒の光を絶やさず流し続けているものの、リュシアの身体には目に見える反応がない。胸が動いているのかさえ、この距離からでは分からなかった。
使徒を倒すべきだった。
それでも足は、使徒ではなくリュシアへ向いた。
数歩しか離れていない。距離も今度は正しく見えている。クラリスの隣まで行けば手が届き、黒い糸も確かにそこへ続いている。
「エル!」
背後からラウルの声が飛んだ。
エルディアスは振り返らず、倒れたリュシアへ手を伸ばした。あと少しで届く。
そう思ったところで、二度目の鐘の余韻が身体を抜けた。
視界が途切れた。




