第52話 決着
青い仮面の使徒が一歩踏み出した。
右肩から胸へ伸びた傷は深く、セルマの火を受けた灰色の表面もところどころ赤黒く焼けている。仮面には目元から頬へ亀裂が走り、その隙間から以前受付にいた女の肌がわずかに覗いていた。それでも使徒はすぐには襲いかからず、セルマの杖、リュシアの剣、エルディアスの足元を順に見ながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。
「……まだ立つのね」
セルマが肩で息をしながら杖を構え直した。
「そっちが立ってるうちはねえ」
「本当にしぶといわね」
「お互い様だろう?」
返ってきた声にも、先ほどまでの余裕はなかった。
エルディアスは使徒から目を離さないまま、残る戦力を頭の中で数え直した。ガルムは左肩を痛め、肋骨にも傷がある可能性があって大盾を持てない。ニルスも右脚へ体重を掛けられず、クラリスは二人の治療から離せない。前へ残っているセルマにも、ここまで火を使い続けた疲労がはっきり見えていた。
長くは続けられない。
だが、それは向こうも同じだった。
――来ます。
リュシアの声が届く。
――狙いは。
彼女は使徒の視線と重心を追い、すぐには答えなかった。
――まだ読めません。三人とも見ています。
エルディアスにも同じように見えた。最初の使徒なら観測者だけを狙って踏み込んできたが、今は違う。セルマが杖を動かせば火の方向を探り、リュシアが半歩出れば靴と剣へ視線を移す。エルディアスが杖先を下げただけでも地面を確認し、土が起こる前から踏み込む位置を変えていた。
ガルムの盾を正面から抜けないと知れば、家を壊して盾を頭上へ固定させた。ニルスには荷車を使って退路を塞ぎ、リュシアの踏み込みも、途中から風で速度が変わることまで覚えている。
こちらの手を覚えるたび、使徒の対処は正確になっていた。
その代わり、見なければならないものも増えている。
使徒が身体を沈めた。
今度はセルマへ向かう。
「また私!?」
セルマが正面から火を放った。進路を塞ぐための細い炎ではなく、使徒そのものへ絞った火だったが、青い面は腕を上げて仮面を守りながら横へ抜ける。エルディアスがその先へ土を起こすと、地面が盛り上がり始めた時点で踏み込む場所を変え、待ち構えていたリュシアへ左腕を振った。
リュシアは剣で受け止めず、刃の腹を腕へ添えて軌道だけを逸らした。使徒の腕が脇を抜ける間に身体を外へ逃がし、追撃せずにエルディアスの左側へ戻る。
使徒も追わない。
三人を視界へ収められる位置まで下がり、またこちらの出方を窺っている。
「完全に見られてるじゃない」
「見れば分かる」
「分かってるなら、もう少し何とかならないの?」
「同じものを見せても無理だな」
「それなら違うことをしてよ」
セルマに言われ、エルディアスは使徒の動きを見ながら考えた。
違うこと。
新しい術式を使えるわけではない。扱えるものは今までと同じ土と風と水で、リュシアへ通せる付与も変わらない。オドが増えたからといって、使える魔法そのものが強くなるわけでもなかった。
なら、変えられるのは使い方だけだ。
これまでリュシアへ通した風は、ほとんどが踏み込みを伸ばすために使っている。剣にも重ねてはいるが、使徒が最も強く警戒しているのは、途中から変わる彼女の間合いだった。
――リュシア。
――はい。
――次は足を伸ばさない。
――先ほどと同じですね。
――違う。止める方に使う。
リュシアの視線が、ほんの一瞬だけこちらへ動いた。
――私を、ですか。
――前へ出た後だ。向こうがお前の速さに合わせて動いたら、そこで止める。
リュシアは使徒へ視線を戻した。
――分かりました。どこで止まるかは。
――お前が決めろ。
少し間があった。
――では、合わせてください。
――そのつもりだ。
セルマが二人のやり取りを知るはずもなく、杖を構えたままエルディアスを見る。
「今度は何か思いついた?」
「一つだけな。まださっきくらいの火は出せるか」
「一回なら。二回目も出せなくはないけど、期待しないで」
「一回残せ。今は小さくていい」
「また待つの?」
「ああ」
「本当に待つの好きね」
「突っ込む方が好きなら代わるか?」
「遠慮するわ」
使徒が二人の会話を聞いていたのか、割れた仮面をわずかに傾けた。
「何をするか、今度は教えてくれないのかい?」
「教えても覚えるだろ」
「もう遅いと思うけどねえ」
「なら勝手に考えろ」
使徒が動いた。
正面へ数歩走ったところでセルマへ向きを変え、彼女が杖を上げるより先にまたエルディアスへ戻る。こちらが狙いを読み切る前に何度も進路を変えながら、それでも少しずつ距離を削ってくる。
リュシアが前へ出た。
使徒の顔がすぐに彼女へ向く。
左手の剣が低い位置から上がり、リュシアは使徒の右側へ斬り込んだ。青い面は深く傷ついた肩を庇いながら左腕を振り、剣ではなく踏み込んでくる身体を先に叩こうとする。
リュシアの速度が上がることを待った動きだった。
だが、エルディアスは靴へ風を足さない。
使徒もそれを見て、振り始めた腕の軌道を途中で変えた。先ほど仮面を割られた時と同じように、加速しないことまで利用してくると考えたのだろう。
リュシアはそのまま前へ出た。
左腕が迫る。
剣を届かせるには、もう半歩必要だった。
――今です。
リュシアから声が届く。
エルディアスは靴へ通していた風の向きを反転させた。
前へ出る身体を、後ろから押すのではない。
正面から受け止める。
リュシアの踏み込みが急に止まった。
使徒の腕だけが、その前を通り過ぎる。
彼女は足を止めた反動を使って身体を沈め、その腕の下へ入ると、すでに深く裂けている右肩から胸へ剣を走らせた。
灰色の身体が大きく揺れた。
刃は新しい場所を斬ったのではない。何度も傷を重ねてきた場所へ沿って入り、使徒が身体を引くより先にさらに裂け目を広げる。
女の喉から声が漏れた。
それでも左腕が返ってくる。
――下がります。
今度はエルディアスが言う前だった。
リュシアが剣を抜きながら後ろへ跳ぶ。使徒も逃がすまいと一歩追ったが、エルディアスが風を後ろから重ねると、リュシアの身体は追ってきた腕の先から一気に離れた。
使徒は追撃を止めた。
胸元へ手を当てる。
指の隙間から赤いものが流れた。
「今のは……知らなかったねえ」
「全部見せる理由はないだろ」
「まだ残してたのかい?」
「今考えた」
青い面の向こうから、小さな笑い声が聞こえた。
「本当に嫌な男だねえ」
「よく言われる」
「私には言われてなかったでしょう?」
「今増えた」
使徒は笑ったが、その声は長く続かなかった。右肩から胸へ伸びた傷を押さえる腕にも力が入らなくなっている。
セルマが少しだけ杖を下げた。
「効いた?」
「ああ」
「今度は分かりやすいわね」
「だからって休むな」
「休んでないわよ」
使徒も休ませるつもりはなかったらしい。
胸元から手を離した直後、今度は一気に距離を詰めてきた。
狙いはリュシアだった。
先ほどの一撃を危険だと判断したのか、それともエルディアスが彼女のオドを使っていることまで見抜いているのかは分からない。ただ、今までのように途中で狙いを変えず、剣を持つリュシアへ真っ直ぐ向かってくる。
――来ます。
――見えてる。
――今度は止めなくて結構です。
――分かった。
使徒の右腕は遅い。
左腕が先に来る。
リュシアはそれを待っていたように剣を立て、刃ではなく鍔に近い部分で腕の内側を押した。力で受ければ押し負けるため、振られた方向へ自分も動きながら軌道だけを外し、そのまま使徒の左側へ回る。
使徒も身体を捻って追った。
リュシアが一歩下がる。
追う。
もう一歩。
また追う。
その間にも、リュシアは使徒の右肩から目を離していなかった。右腕を上げようとするたびに傷が開き、左側へ身体を回す時だけ踏み込みが浅くなる。
――右側が遅れています。
――見えてる。
――次で入ります。
――剣か。
――はい。足は自分で行きます。
エルディアスは黒い糸を通じて流れ込むオドの一部を、靴から剣へ回した。
使徒が左腕を振る。
リュシアは今度も避けたが、外へ逃げずに懐へ近づいた。
青い面がすぐに反応し、遅れていた右腕を無理に持ち上げる。
それを見て、リュシアはさらに一歩入った。
距離が近すぎて、長く振る剣ではない。
左手を胸元へ引きつけ、短く突き出す。
――今。
剣へ通していた風を強めた。
切っ先が一気に伸びる。
使徒の右腕が間に入るより早く、すでに開いていた胸の傷へ刃が滑り込んだ。
身体が止まった。
今度は浅くない。
リュシアの剣が半ばまで沈み、使徒の背中が大きく反った。それでも女は倒れず、残った左腕でリュシアの外套を掴もうとする。
リュシアは剣を抜こうとしたが、深く入った刃が一瞬遅れた。
――離れろ。
――抜けません。
エルディアスは使徒の左腕へ風を叩きつけた。
振り払えるほどの力ではない。それでもリュシアの肩へ伸びていた指先をわずかに外へずらすには足りた。
リュシアは身体を捻り、剣を引き抜く。
使徒の手が青灰色の外套を掠め、布だけを浅く裂いた。
リュシアが離れる。
その場に残った使徒は、二歩追おうとして片膝をついた。
「今度こそでしょう」
セルマが荒い息の合間に言った。
「まだだ」
「まだなの?」
使徒は地面へ片手をついている。
立ち上がろうと腕へ力を入れたところで胸の傷から血が流れ、身体が一度大きく揺れた。それでも膝を押し上げ、ゆっくりと立つ。
「……本当にしぶといわね」
「それ、さっきも聞いたよ」
「まだ立つからでしょう?」
「なら……まだ言われても仕方ないねえ」
声は掠れていた。
それでも使徒は立ち上がった。
青い面がセルマを見て、リュシアを見て、最後にエルディアスへ向く。
もう三人すべてを警戒するような余裕はなかった。
観測者だけを見ている。
――エルを狙っています。
――ああ。
――止めます。
――無理に入るな。
――それは、向こう次第です。
エルディアスは返事をしなかった。
使徒が地面を蹴る。
先ほどまでより遅い。それでも傷ついた人間が受けられる速さではなく、途中で進路を変えることもなくエルディアスへ向かってきた。
セルマが杖を上げる。
「撃つわよ!」
「まだ残ってるのか」
「一回は残せって言ったの、そっちでしょう!」
セルマの杖頭へ火が集まった。
使徒も気づいたが、避けなかった。
そのままエルディアスへ向かってくる。
「セルマ、右肩!」
「そこね!」
圧縮された火が走った。
正面ではない。
すでに何度も斬られ、灰色の表面が開いている右肩から胸へ炎が直撃する。
使徒の身体が大きく傾いた。
焼かれながらも一歩を踏み出したが、右腕は完全に下がり、左腕だけがエルディアスへ伸びる。
エルディアスは杖を向けた。
土を起こす。
足元ではなく、使徒の左側だけを腰ほどまで盛り上げた。完全に塞ぐ壁ではないが、横へ逃げるなら一度回らなければならない。
右にはセルマの火が残っている。
使徒は止まらなかった。
正面を選んだ。
エルディアスは風を正面から当てる。傷を負う前なら押し切られた力でも、今は踏み込みが一瞬だけ鈍る。
その横からリュシアが来た。
使徒も気づいた。
左腕をエルディアスからリュシアへ向ける。
――そのまま。
エルディアスは靴へ風を通さなかった。
リュシアも速度を変えず、使徒が振る腕の外を取る。
避けた先で剣を返す。
使徒が身体を回す。
今度は剣へも風を足さない。
相手が覚えたものを何も使わず、リュシア自身の剣だけで入る。
青い面が一瞬遅れた。
左手の刃が、胸の傷へもう一度入った。
深く突き込まず、横へ斬り抜く。
使徒の身体が止まった。
リュシアはそのまま外へ抜け、振り返る。
しばらく、誰も動かなかった。
使徒は立ったままだった。
右肩は落ち、左腕も下がっている。胸元から流れる血が灰色の身体を伝い、足元の石畳へ落ちていた。
やがて右膝が沈んだ。
続いて左膝もつく。
割れた青い仮面へ、さらに細い亀裂が走った。
一つ、欠片が落ちる。
頬の部分が剥がれ、その下から人の顔が覗いた。
以前受付に座っていた時と同じ女の顔だった。
リュシアは剣を構えたまま近づかない。エルディアスも杖を下ろさず、セルマも最後の火を使い切った杖を両手で握っている。
使徒がゆっくり顔を上げた。
「これで……青は終わりだ」
掠れた声だった。
エルディアスはその言葉を聞き逃さなかった。
「終わる?」
「ああ。ここから先は……もうない」
第一層の石碑へ刻まれていた文字が頭へ浮かぶ。
三王、勝者の歴史のみが続く。
赤、黄、青。それぞれに別の続きがあることまでは確かめた。目の前の女は青を守る使徒だと名乗り、青で続けばいいとも言っていた。
「……続かない?」
「そういうことさ」
「どういう意味だ」
使徒はわずかに口元を歪めた。
「観測者なんだろう?」
息をするたび、声が弱くなる。
「自分で……見な」
それ以上は答えなかった。
石畳へついていた腕から力が抜け、身体がゆっくりと横へ崩れる。残っていた青い仮面が地面へ当たり、亀裂から小さな欠片が転がった。
リュシアはすぐには近づかなかった。剣の届く距離を保ったまま胸元と指先を見て、しばらく待っても動きが戻らないことを確かめる。
――呼吸がありません。ただ、まだ触らない方がよいと思います。
――ああ。そのまま見てろ。
――言われなくてもそうします。
返事は落ち着いていたが、剣を下ろす気配もなかった。
「クラリス!」
エルディアスが呼ぶと、少し離れた場所からすぐに声が返った。
「聞こえています! 二人とも意識はありますが、まだ動かせません!」
「そのまま治療を続けろ。こっちへ来なくていい」
「分かりました!」
ガルムもニルスも生きている。クラリスも無事だった。セルマは杖へ手を添えたまま荒い呼吸を整え、リュシアの外套にも新しい裂け目が増えているものの、三人ともすぐに倒れるような傷は負っていない。
使徒は動かない。
戦いは終わったはずだった。
それでも、誰も武器を下ろさなかった。
最初に異変へ気づいたのはリュシアだった。
――エル。動かないでください。
それまでとは違う言葉に、エルディアスは足を止めた。
――何があった。
――まだ分かりません。ですが、何か変です。
リュシアは剣を構えたまま、周囲へゆっくり視線を動かしている。
――音が遠くなっています。
言われてから、エルディアスも気づいた。
セルマの荒い呼吸も、少し離れた場所でクラリスがガルムたちへ何かを話す声も聞こえている。しかし、どれも薄い壁を何枚も挟んだ向こうから届いてくるように妙に遠い。崩れた家から垂れた布は風に揺れているのに、その布が壁へ擦れる音だけが聞こえなかった。
「……何?」
セルマも周囲を見回した。
「急に静かになってない?」
「静かになったんじゃない。音はしてる」
「じゃあ、どうしてこんなに遠いのよ」
「俺に聞くな」
エルディアスは答えながら倒れた使徒へ視線を戻し、今度は見え方までおかしくなっていることに気づいた。
石畳へ落ちた青い仮面の欠片は、使徒の顔から腕一本分ほど離れたところにある。それを見れば位置は分かるのに、拾おうとした時に何歩進めば届くのかを考えると、急に自信がなくなった。
近いようにも見える。
通りの向こうにあるようにも見える。
瞬きをしても変わらなかった。
「エルディアス!」
クラリスの声が飛んだ。
振り返ると、壁際にいるガルムとニルス、その間で治療を続けているクラリスは確かに見える。誰も先ほどの位置から動いていないはずなのに、ひどく近く感じた直後には、走っても届かないほど遠くにいるようにも見えた。
「そっちは何かありましたか!」
クラリスの口が動く。
声が耳へ届くまで、わずかに間があったような気がした。
「動くな! 二人から離れるな!」
「分かりました!」
今度の返事は、すぐ耳元で聞こえた。
セルマが眉を寄せる。
「今の、近すぎない?」
「ああ」
「クラリスはあそこにいるのよね?」
「見えてる」
「そういう意味じゃなくて……」
セルマもどう説明すればいいのか分からないらしく、途中で言葉を切った。
使徒が死んだ直後に始まった以上、無関係とは思えない。
青は終わりだ。
ここから先は、もうない。
使徒が最後に残した言葉が頭へ戻る。
だが、それが今の異変を指しているのか、それともまったく別のことなのか、確かめる相手はもう動かない。
――エル。
リュシアから再び声が届いた。
エルディアスは左を見た。
彼女はそこにいた。
先ほどまでと同じ位置に立ち、左手に剣を握ってこちらを見ている。それなのに、一瞬だけ距離が分からなかった。手を伸ばせば届きそうにも、何歩も離れているようにも感じる。
――そっちもか。
――はい。エルが見えていますが、目で見える距離がおかしいです。こちらへ来ないでください。
――お前も動くな。
――そのつもりです。
リュシアは自分の足元を確認すると、剣先をゆっくり石畳へ下ろした。見た目ではまだ少し届かない位置で、金属が石へ触れる小さな音がする。
彼女の眉が寄った。
――見えている位置と合いません。
エルディアスも杖先を地面へ下ろす。
同じだった。
まだ指一本ほど空いているように見えたところで、硬い感触が杖から返ってくる。
それ以上試すのをやめた。
――下手に動かない方がいいな。
――はい。少なくとも、何が変わっているのか分かるまでは。
今度はリュシアの判断だった。
エルディアスは左手薬指へ意識を向ける。
黒い糸は残っていた。
目では距離を測れなくなっているリュシアへ、いつもと同じように伸びている。その長さまで正しく見えているのかは分からないが、途中で途切れてはいない。
――糸は。
エルディアスが尋ねるより先に、リュシアも自分の左手へ視線を落とした。
――あります。こちらからもエルへ繋がっています。
――なら今は、それを見失うな。
――エルもです。
言い返す余地はなかった。
通りの奥で、何か重いものが倒れる音がした。
エルディアスとセルマが同時に顔を向ける。
何も倒れていない。
少なくとも、そう見えた。
「今の、どこ?」
セルマが尋ねる。
「向こうだと思った」
「私は後ろに聞こえたわよ」
家々は残っている。戦いで壊れた屋根も、横倒しになった荷車も、道端の桶や木箱も、形そのものは変わっていない。
それなのに、一度目を離すたび位置が曖昧になった。
視線を向けている間はそこにある。別の場所を見てから戻すと、先ほどより少し近くなったように感じる。音も同じで、遠くから聞こえたものが次の瞬間には耳元へ移り、その逆も起きた。
エルディアスは倒れた使徒へもう一度目を向けた。
割れた青い仮面が見える。
女の身体もそこにある。
そのはずだった。
瞬きをする。
何も変わっていない。
それでも、何を見ているのか確信が持てなくなった。
青い欠片だったはずのものが妙に大きく見え、その隣に倒れている女の身体が遠ざかる。もう一度見直すと、今度はすべてが元の位置へ戻っているように見えた。
――エル。
リュシアの声が届く。
――いる。
反射的に答えた。
少し間があってから、彼女が続ける。
――今、私も同じことをしようとしていました。
――何をだ。
――エルがまだ同じ場所にいるか、確かめようと。
黒い糸は繋がっている。念話も届いている。それでも視界の中にいる相手が、先ほどと同じ位置に立っているのか分からなくなり始めていた。
エルディアスは糸の先から目を離さなかった。
――分からなくなったら、先に声を送れ。
――エルもです。勝手にこちらへ来ないでください。
――分かった。
今度は素直に答えた。
その直後、何かがずれた。
地面が揺れたわけではない。光が変わったわけでも、風が止まったわけでもなかった。それでも、つい今まで見ていた景色が、ほんのわずかに別の場所へ置き直されたような感覚があった。
リュシアも気づいたらしく剣を構え直し、セルマも何かを探すように周囲を見回す。
「……今の、何?」
誰も答えられなかった。
エルディアスは倒れた使徒の方へ目を戻す。
青い仮面があった。
そう思った。
次の瞬間には、それが仮面だったのか、女の顔だったのか、それとも別の青い何かを見ていたのか、自信がなくなった。
黒い糸だけは、まだリュシアへ伸びている。
エルディアスがその先を確かめようと目を凝らしたところで、視界が途切れた。




