第51話 戦列
青い仮面の使徒が、六人の位置を確かめながら距離を詰めてくる。
先ほどまでのように、エルディアスへ一直線に向かってくる気配はなかった。ガルムが大盾をどちらへ傾けているかを見て、その右後方にいるニルスへ一度顔を向け、セルマの杖先に残る火と、クラリスが結界を出せる位置まで順に確かめている。最後にリュシアへ青い仮面を向けると、そのまま何かを測るようにわずかに首を傾げた。
「来ないなら、こっちから撃つぞ」
ニルスが短弓を引き絞ったまま言う。
「待て。向こうもそれを見てる」
「いつまで待つ?」
「来るまでだ」
答えた直後、使徒が動いた。
正面ではなく、左へ大きく回り込むように走り出す。ガルムも大盾を向け直し、ニルスがその動きへ合わせて射線を変え、セルマも戻る側へ火を置こうと杖を振ったが、使徒はエルディアスへ向かうどころか、そのまま通り沿いの家へ突っ込んだ。
「何を――」
セルマの声より早く、灰色の拳が家の軒を支えていた太い柱へ叩き込まれた。乾いた破砕音とともに柱が中央から折れ、上に載っていた軒と屋根の一部が大きく傾く。板と土を重ねた程度の屋根とはいえ、人が下敷きになれば無事では済まない量が、セルマとクラリスのいる側へまとめて落ちてきた。
「下がれ!」
ガルムが駆けた。
セルマは火を消しながら横へ跳び、クラリスも白い杖を胸元へ引き寄せて退いたが、二人が完全に抜けるより屋根が落ちる方が早い。ガルムはその間へ身体を滑り込ませると、頭上へ大盾を向けた。
太い梁が盾の中央へ落ち、重い衝撃にガルムの両膝が沈む。その上から折れた板と土が次々に降り注いだが、大盾を地面へ落とせば自分だけは避けられる状況でも、背後の二人が抜けるまでは腕を下ろさず、肩と背中まで使って盾を支え続けた。
「早く出ろ!」
「もう出てる!」
セルマが屋根の端を抜け、クラリスも最後の一歩を踏み出す。
「ガルムさん、もう離してください!」
その声にようやく大盾が傾いた。
同時に、崩れた家の反対側から使徒が現れた。
最初から屋根で誰かを押し潰すことだけが狙いではなかったのかもしれない。大盾を頭上へ固定させ、ガルムが自由に動けなくなるなら、それで十分だった。
ガルムも使徒の姿を認めたが、頭上にはまだ梁が載っている。盾を正面へ戻すより早く、灰色の身体が地面を蹴り、その横腹へ勢いのままぶつかった。
金属が激しく鳴った。
大盾ごと押し飛ばされたガルムの身体が崩れた屋根材の上を滑り、向かいの家の壁へ背中から叩きつけられる。盾は途中で腕から外れ、地面を何度か跳ねてから通りの端で止まった。
「ガルム!」
ニルスの矢が使徒へ飛ぶ。
使徒は振り返りもしなかった。矢を肩で受け、浅く突き刺さったままガルムへもう一歩近づこうとする。その間へセルマの火が横から走り、灰色の腕そのものを焼くように細く絞られた炎が二人を隔てたことで、ようやく大きく身体を引いた。
その隙にクラリスがガルムのところまで走り、起き上がろうとする身体を押さえる。
「動かないでください」
「動ける」
「では左腕を上げてください」
ガルムは左腕へ力を入れたものの、肘から先がわずかに動いただけだった。すぐに顔が歪み、背中を壁へ戻す。
「……上がらん」
「肩を傷めています。もう盾は持てません」
「右なら――」
「持てても止められません。肋骨も傷めている可能性がありますから、そのまま動かないでください」
クラリスは外衣の上から肩と脇腹を確かめると、すぐに白い杖を取り、ガルムの左肩から胸へ淡い光を広げた。
「治せるか」
「今すぐ戦える状態には戻せません。骨まで傷めていれば、ここで無理に動かす方が危険です」
「くそっ……」
ガルムは使徒を睨みつけたまま、右手で地面を叩いた。
エルディアスはそちらへ行けなかった。ガルムが倒れた瞬間から、使徒は再びこちらを見ている。ただし、もうエルディアスだけではなく、その間に立っていたものが一つ消えたことを確かめるように、ニルス、セルマ、リュシアへと順に視線を移していた。
――盾を狙ってきました。
リュシアの声が届く。
――ああ。
――偶然ではないと思います。
エルディアスもそう見ていた。ガルムへ正面から何度ぶつかっても完全には抜けられなかった。それなら盾を受けなければならない状況を作り、動けなくなったところを別方向から叩けばいい。
少なくとも、使徒はそこまで戦い方を変えてきている。
「ニルス、距離を取れ。セルマはガルムたちの前へ火を置け。クラリスへ近づけるな」
「ああ」
「分かったわ」
ニルスは返事をしながら右へ移り、短弓を引いたまま使徒との間を広げた。セルマもガルムたちの前へ炎を細く残し、クラリスは治癒を続けながら、必要ならその位置から結界を出せるよう白い杖を手元へ戻した。
その配置を見た使徒が、今度はニルスへ向かった。
「俺か!」
ニルスは走りながら一射した。矢は使徒の胸元へ向かったが、灰色の身体がわずかに捻られ、鏃は脇を擦って後ろへ抜ける。続く二本目は風に押されて途中で軌道を変え、逃げた先の腿へ向かったものの、使徒はそれを避ける代わりに腕で受け、そのまま速度を落とさず追ってくる。
「止まらないぞ!」
「足を狙え!」
「狙ってる!」
ニルスが横道へ逃げると、使徒もその後を追った。ただし真っ直ぐ距離を詰めるのではなく、わずかに外側へ膨らみながら走っており、エルディアスが二人の間へ低い土の段差を幾つも起こしても、一つ目は跳び越え、二つ目は踏み砕いた。
そのまま進むと思ったところで、使徒が突然横へ向きを変え、道端に置かれていた小さな荷車へ肩からぶつかった。横倒しになった車体と積まれていた木箱や籠が通り一杯へ転がり、逃げていたニルスの進路を塞ぐ。
「何して――」
ニルスは迷わず荷車の横へ足を掛け、その上を越えようとした。風を使えば十分届く高さだったが、使徒もそれを待っていたように横倒しの車体を強く蹴った。
「ニルス、跳ぶな!」
声が届くより、身体が浮く方が早かった。
車体が地面を滑って着地点へずれ、空中のニルスは風で身体を捻って直撃を避けたものの、予定していた場所へ足を下ろせず、片足だけで無理に着地する。
そこへ使徒が回り込んだ。
ニルスは短弓を盾代わりに上げたが、横から振り抜かれた灰色の腕は弓だけで受け止められるものではなく、その身体ごと外へ弾き飛ばした。
地面へ落ちた右脚が、荷車の車輪と石畳の間へ挟まる。
鈍い音がした。
「っ……!」
ニルスの顔から血の気が引いた。
それでも使徒は止まらず、倒れたニルスへ踏み込もうとする。その横へリュシアが入り、左手の剣を首元へ走らせた。
青い仮面がすぐにリュシアへ向き、使徒は追撃を捨てて腕を上げた。風をまとった刃が灰色の表面を削り、すでに傷のある肩口へ浅く食い込んだが、リュシアは無理に押し込まず、反対の腕が振られるより先に剣を抜いてエルディアスの側へ戻った。
――ニルスさんの脚が。
――見えてる。
「クラリス!」
「分かっています!」
治癒を途中で切ったクラリスがガルムから立ち上がり、ニルスのところへ向かおうとする。
「行くな!」
エルディアスは咄嗟に止めた。
二人の間には、まだ使徒がいる。
クラリスもすぐに気づき、足を止めた。
「セルマ、道を作れ!」
「もうやってる!」
セルマが両手で杖を握ると、それまで細く抑えていた火が一気に太くなった。使徒とニルスの間を地面すれすれに走らせるのではなく、近づけばそのまま身体を焼くつもりで肩ほどの高さまで炎を立ち上げる。
使徒が大きく後ろへ跳ぶ。
「今!」
クラリスは炎の反対側から回り込み、倒れているニルスへ駆け寄ると、その脚へ手を伸ばした。
「触ります。動かさないでください」
「見れば分かる……駄目だ。右は立てない」
ニルスは上半身を起こしたまま、荷車の下から抜いた脚を見た。膝より下が不自然に曲がっているわけではないが、足首へ体重を掛けようとしただけで激しい痛みが走るらしく、すぐに歯を食いしばる。
「骨を傷めています。動かさないでください」
「弓は引ける」
「座ったままならです」
「ならここから――」
「駄目です。次に狙われれば避けられません」
「でも三人減るぞ」
「分かっています。だからこそ、ここから動かないでください」
クラリスの声が少し強くなった。
ニルスは使徒を見た。その少し向こうでは、ガルムも壁へ背を預けたまま左腕を動かせずにいる。
「……悪い」
「謝るくらいなら、じっとしてください」
クラリスはニルスの脚へ治癒を始めた。
これで、前に出られるのは三人になった。ガルムとニルスは意識こそあるが戦列へ戻せず、クラリスも二人を放置して前線へ加わることはできない。必要なら結界を出せるとしても、治療を続けながら届く範囲に限られる。
エルディアスの左にリュシア、右にセルマが残る。
「さっきより、随分寂しくなったねえ」
炎の向こうから使徒の声がした。
セルマの火を大きく迂回し、青い仮面がゆっくり三人へ向き直る。
「誰のせいよ」
「私のせいに決まってるだろう?」
「そういうところだけ素直なのね」
セルマは言い返しながらも、先ほどより強く杖を握っていた。額には汗が浮いており、ここまで何度も火を使い続けた消耗は隠せていない。
エルディアスも同じだった。自分のオドだけなら、すでに術式を絞らなければならないところまで来ている。
左手薬指から伸びる黒い糸へ意識を向ける。
――リュシア。
――はい。
――もう少し借りる。
――どうぞ遠慮なく。
黒い糸を通じて流れ込む量を増やし、途中で切ろうとしていた土と風の術式を維持したまま、リュシアの靴と剣へ残していた付与にもオドを回した。扱える術式そのものが強くなったわけではないが、一つを使うために別の一つを切らずに済むだけでも、今の状況では大きい。
エルディアスは足元へ広げた土を維持しながら、崩れた家の屋根へ薄く水を染み込ませていく。セルマの火がどこまで広がるかを気にして攻撃を止めさせるより、燃えて困る場所だけ先に湿らせておけばいい。
セルマが横目でそれを見る。
「水まで使う余裕あるの?」
「お前が遠慮せず撃てるくらいにはな」
「そういうことなら、最初から言いなさいよ」
「家ごと焼くなよ」
「分かってるわよ!」
杖頭の火が大きくなる。
使徒もそれを見た。
「さっきまでと随分違うねえ」
「盾も弓もなくなったからな」
「じゃあ次は、その火を消せばいいのかい?」
「やってみろ」
使徒が走る。
今度はセルマへ向かった。
「私!?」
「下がるな!」
「分かってる!」
セルマは杖を振り、進路を狭めるためではなく、真正面から来る灰色の身体へ細く圧縮した炎を叩きつけた。使徒は腕を交差させて青い仮面を守りながら走り続け、表面を覆う灰色が赤く焼け、肩口から煙が上がっても速度を落とさない。
「効いてないじゃない!」
「効いてる。そのまま続けろ!」
「どこがよ!」
「避けてない!」
避けられないのではない。セルマを止めるためなら、焼かれる方を選んでいる。
エルディアスは使徒の足元へ土を起こした。すぐに一歩外へずれた先へもう一つ、さらに逃げる位置へ三つ目を置き、直進を諦めた使徒が横へ大きく跳んだところで、リュシアへ声を送る。
――右へ。
――はい。
リュシアが着地点へ走る。
使徒もすぐに気づき、セルマから目を離してリュシアへ腕を振った。剣を受けようとしたのではなく、踏み込んでくる身体そのものを叩き落とすつもりらしい。
――まだ。
エルディアスは靴への風を抑えた。
リュシアは通常の速度のまま相手の腕が届く直前で身体を沈め、脇を抜ける。使徒が先ほどまでの加速を待って早く腕を振った分だけ、後から剣を入れる隙間が開いた。
――今。
風を強める。
地面を蹴ったリュシアの身体が一気に伸び、背後へ回った剣が焼けた肩口へ深く食い込んだ。
使徒が、初めてはっきりと苦痛の声を漏らした。
それでも振り返りざまに腕が飛ぶ。リュシアは剣を抜いて下がったものの完全には避けきれず、拳が外套の肩を掠めて身体を横へ流した。片手を地面へつき、そのまま勢いを殺して立ち上がる。
――怪我は。
――肩を掠めただけです。動けます。
――なら追うな。戻れ。
――はい。
リュシアはすぐにエルディアスの側へ戻った。
使徒は追ってこなかった。右肩から胸へ、これまでで最も深い傷が伸び、セルマの火で表面も焼けたことで、片腕の動きがわずかに遅くなっている。
「効いてるじゃない」
息を整えながらセルマが言う。
「だから言っただろ」
「もっと分かりやすく効きなさいよ」
「本人に言え」
「聞こえてるよ」
使徒から返事が来た。
「なら少しくらい倒れたら?」
「嫌だねえ」
「でしょうね!」
セルマがもう一度杖を振る。
使徒は今度こそ火を避けた。
その逃げた身体へエルディアスが横から風を当てる。最初の頃なら少し流す程度だったが、今は避ける方向を選ばせてから押せる。セルマの炎から左へ逃げた身体へ右から風を当てれば、使徒は自分で選んだ進路からさらに外へ押し出される。
その先には、先ほど倒された荷車があった。
使徒が車体へ片足を掛けて踏み越えようとしたところへ、セルマの火が反対側へ走る。前には火、後ろにはエルディアスの風、横には崩れた車体があり、使徒は初めてその場で足を止めた。
――行けるか。
――行きます。
リュシアが走った。
青い仮面が彼女を向く。何度も傷を入れてきた剣、途中から伸びる踏み込み、刃と靴へ絡む風。そのすべてを、使徒はすでに知っている。
深く傷ついた右側を庇い、リュシアの加速へ備えるように左腕が前へ出た。
エルディアスは靴への付与を強めない。
――そのまま。
リュシアも加速せず、通常の踏み込みのまま距離を詰める。
使徒がわずかに後ろへ下がった。先ほどまでなら、ここから半歩だけ間合いが伸びてくる。その剣先を避けるために取った距離だった。
その半歩が余った。
リュシアは剣を振らず、そのまま使徒の左を抜ける。
青い仮面が彼女を追い、身体が捻られた。
そこで初めて、エルディアスは踏み直した右足の下だけ土を崩す。大きな穴ではなく、靴一足分にも満たない浅い崩れだったが、身体を回し終えるはずだった一歩が遅れるには十分だった。
「セルマ!」
「今度はどこ!?」
「顔!」
「最初からそう言いなさい!」
火が横から飛ぶ。
使徒は咄嗟に青い仮面を腕で覆った。
――戻れ。
すでに外へ抜けていたリュシアが反転する。
今度は靴へ風を通した。一歩目からではない。使徒がセルマの火へ顔を向け、土へ取られた右足を引き抜こうとした、その瞬間だけ踏み込みを伸ばす。
リュシアが戻ってくることに気づいた使徒が腕を下ろした時には、もう間合いの内側だった。
剣が走った。
肩でも脇腹でもない。青い仮面そのものへ、左から右へ斜めに刃が通る。
甲高い音が響き、リュシアの剣が弾かれた。
だが、青い仮面の左側には一本の亀裂が走っていた。目の穴から頬へ伸びた亀裂が途中で枝分かれし、次の瞬間には小さな青い欠片が地面へ落ちる。
使徒の動きが止まった。
仮面の下から、人の肌が覗いている。
ほんの一部にすぎない。それでも、その下に先ほどまで普通の村人として言葉を交わしていた女の顔が残っていることは分かった。
セルマも息を呑み、少し離れた場所ではニルスが地面へ片手をついたまま顔を上げていた。ガルムも壁際からこちらを見ている。
リュシアは追わず、エルディアスの前まで戻って剣を構えた。
――剣は。
――刃こぼれはありません。まだ使えます。
――お前は。
――問題ありません。
いつもと変わらない答えだった。
エルディアスはそこで初めて、自分の呼吸がかなり速くなっていることに気づいた。リュシアから借りたオドをいくつもの術式へ回せても、それを組み替え、切り替えながら戦い続けるエルディアス自身の集中と身体まで際限なく保てるわけではない。
隣ではセルマも肩で息をしている。
使徒の傷は増え、仮面にも亀裂が入った。
それでも倒れてはいない。
そしてこちらには、もう盾も弓も、前線へ回せる結界もなかった。
「……三人か」
セルマが使徒から目を離さず呟く。
「クラリスはいる」
「治療から離せないでしょう」
「そうだな」
「なら三人よ」
使徒がゆっくりと顔を上げた。
割れた仮面の隙間から覗く片目が、最初にセルマを見て、それからリュシアへ移り、最後にエルディアスで止まる。
先ほどまでの余裕はない。
だが、それはこちらも同じだった。
使徒が一歩踏み出す。
エルディアスは杖を持ち直し、黒い糸を通じて借りたオドを土と風の術式へ回し続けた。
まだ、終わっていない。




