第49話 八日
明けの鐘が鳴った。
低い音が旅人用の家の壁を震わせ、エルディアスは目を開けた。身体を起こすより先に向かいを見ると、ラウルの寝台は空いている。毛布が乱れているわけでも、夜中に起き出した痕跡が残っているわけでもない。枕元に置かれていたはずの剣帯も、壁際にまとめていた荷物もなく、昨日までそこを使う者など最初からいなかったように空いていた。
昨日の赤では、同じ場所でラウルが目を覚ましていた。その前に見た青では、夜に広場へ出たラウルが翌朝になっても戻らず、三神像の近くで冷たくなっているのを見つけている。
隣で布が擦れた。リュシアも鐘で目を覚ましたらしく、外套へ伸ばしかけた手を止めてエルディアスを見る。
――今日は何日目だ。
リュシアはすぐには答えず、自分の記憶を数えるように少し考えた。
――村へ着いた日を一日目にするのであれば、四日目です。
予想していた答えだった。
――昨日は何があった。
――朝、三神像の近くでラウルさんが亡くなっているのを見つけました。身体に目立った外傷はなく、剣は抜かれた状態で少し離れた場所に落ちていて、刃の一部が欠けていました。その欠片と思われるものが像の近くにありましたが、クラリスさんが調べても死因は分かっていません。
そこで一度言葉を区切り、リュシアは空いた寝台へ目を向けた。
――その後、ラウルさんを岩壁側の貯蔵庫へ運び、入口を確認しました。それから以前三神様の話を聞いた方にも事情を尋ねています。夜まで調べましたが、結局、何が原因だったのかは分かりませんでした。
青も続いている。
前の青でラウルが死に、その死を含んだ一日が、今朝のリュシアには昨日として残っている。赤と黄色だけではなく、これで青も前の同じ色から繋がっていることが改めて確認できた。
――青だな。
――はい。今朝もラウルさんはいませんから、昨日の続きだと考えてよいと思います。
――ああ。
歴史がそれぞれ別に続いていることだけなら、もう何度も確かめている。今日、エルディアスが見るべきなのはそこではなかった。
昨夜の赤で決めたことがある。
同じ人物が、別の歴史では何をしているのかを見る。
これまで村で何度も顔を合わせてきた者は多い。村長、鐘楼の男、盲目の受付、以前受付をしていた叔母、三神の昔話に詳しい老人。それ以外にも、畑や井戸、家畜小屋の近くで何度か見かけた顔がある。一日ごとに仕事が変わることもあれば、たまたま会わない日があってもおかしくはないのだから、一度や二度の違いを理由に誰かを疑うつもりはなかった。
だからこそ、色ごとに重ねて見る必要がある。
――今日は人を見る。
――昨日決めたことですね。
――俺にとってはな。
今のリュシアには昨日の赤の記憶がない。それでも、別の歴史で得た情報を使うことについて、もう一から説明する必要はなかった。
――すでに気になっている方がいるのですか。
――まだいない。
エルディアスは答えてから、少し考え直す。
――いや。正確には、何人かいる。ただ、違いがあったというだけだ。まだ決める材料にはならない。
――分かりました。エルが誰かを気にしているようでしたら、私もその方を見るようにします。
――頼む。
向かいではガルムが身体を起こし、大盾の革帯を確かめ始めていた。ニルスも寝台の脇へ置いていた記録板を取り、セルマとクラリスも毛布を退けて身支度を始める。
六人の朝だった。
◇
朝食の前に入口を見に行ったのは、ガルムとニルスだった。
ラウルが死んだ昨日、六人で決めた通り、一人では動かない。毎朝全員で同じ境界を試す必要まではないが、朝を越えたことで何か変化が起きていないかという確認だけは続けることにしている。
二人が戻ってくるまでに、リュシアとクラリスが保存食を分け、セルマが竈へ火を入れた。エルディアスは卓の端へ座り、これまで村で会った者と、それぞれの色で何をしていたかを頭の中で並べ直していた。
ほどなく扉が開き、ガルムが先に入ってくる。
「変わってない。俺もニルスも昨日と同じところで止まった。村の女が一人、普通に森へ出ていったから、村人だけが通れるところも同じだ」
「朝になっても通行不可。村人は通行可能、と」
後ろから入ったニルスが記録板へ書き足す。
「もうそこは『前日と同じ』でもよくない?」
器を並べていたセルマが言うと、ニルスは書く手を止めずに答えた。
「前日が何だったかを後で辿る時に困る。毎日同じ結果でも、その日に確認したことは残しておいた方がいい」
「毎朝同じことを書いているのに?」
「だから残すんだ。変わった日だけ書いてたら、いつまで同じだったのか分からなくなるだろ」
「真面目ねえ」
「ラウルに何度も言われたからな。記録は、何か起きた後に読み返すものだって」
何気なく出た名前に、ニルスの手が一瞬だけ止まった。
セルマも何も返さない。
昨日までなら、その言葉を口にした本人が同じ卓に座っていた。青の今は空いた席が一つあるだけで、それを誰もわざわざ指摘しなかった。
クラリスが六人へ器を配りながら、少し間を置いて口を開く。
「食事を済ませたら、先にラウルの状態を確認しませんか。冷える場所へ移してありますが、一晩経っています。一度は見ておいた方がよいと思います」
「俺もそのつもりだった」
ガルムが頷く。
「それが終わったらどうする?」
セルマの問いに、ニルスは記録板を閉じた。
「ラウルのことは昨日一日で聞けるところには聞いた。同じ相手へ同じ質問を繰り返したところで、急に答えが増えるとも思えない。だからって調べるのをやめるわけじゃないが、今日は別の見方も必要だろ」
「なら村を回る?」
ガルムがエルディアスを見る。
「昨日、ラウルがいないまま決めたのは、勝手に新しいことを試さないことと、一人で動かないことまでだ。今日何を調べるかは決めてない。何か考えてるんだろ」
「場所じゃなく、人を見る」
「人?」
「この村のどこかに、階層主か、それに繋がるものがいる可能性がある」
セルマが器から顔を上げた。
「昨日まで、そんな話してた?」
「俺は考えてた」
「またそれね。私たちの知らないところで勝手に考察だけ進んでない?」
「話せる根拠がなかったから言わなかっただけだ」
「それで、今はあるの?」
「階層主区画だと考えるなら、何かを倒すか、何かの条件を満たす必要がある。建物や地下を調べてもそれらしいものは見つからなかった。なら、村人として紛れてる可能性も外さない方がいい」
セルマは少し考えたが、先ほどまでの軽い調子では返さなかった。
「村の誰かが魔物かもしれないってこと?」
「そこまで決めない。普通に暮らしてる村人を捕まえて調べるつもりもない。ただ、今まで場所ばかり見てたから、今日は人の動きも見る」
ガルムが確認するように尋ねる。
「変だと思う奴がいても、その場で問い詰めたりはしないんだな」
「ああ。一度違うことをしたくらいで疑えば、村中が怪しくなる。普段何をしてるかを見るだけだ。何か気になることがあっても、一人で追わない」
「それならいい」
クラリスも頷いた。
「村の方々は、ラウルの件でも協力してくださいました。最初から敵だと決めつけるのではなく、これまで見落としていた違いがないか確かめるのであれば、私も反対しません」
「違い、ねえ」
セルマはエルディアスを見る。
「何か知ってるような言い方をするのよね」
「知ってることはある」
「言えない?」
「ああ」
「そこはもう聞いても無駄そうね」
「今さらだろ」
「慣れたくはないけど、少し慣れてきたわ」
セルマは息を吐き、それ以上は追及しなかった。
◇
朝食を終えると、六人は村長の家へ向かった。
ラウルの遺体を置いている貯蔵庫の鍵を借りるためだった。
中央の広場へ入ると、エルディアスは歩きながら三神像を見る。正面を向いているのは青い仮面で、昨日から変わっていない。今朝のリュシアの記憶と合わせても、ここが前の青から続く歴史であることに疑いはなかった。
足は止めない。
今日見るべきものは、像そのものではない。
村長は家の前で縄を束ねていた。事情を話すと、昨日と同じ鍵を腰の束から外してガルムへ渡す。
「俺も行こうか?」
「いや。開けて中を見たらすぐ戻る。鍵もそのまま返す」
「そうか。何かあったら呼んでくれ。村の者にも、しばらくあそこへ近づかないようには言ってある」
「助かる」
岩壁側に造られた貯蔵庫までは遠くない。石造りの低い入口へ鍵を差し込み、重い扉を開けて数段下りると、朝の外気よりも冷たい空気が肌へ触れた。
クラリスが先に入り、昨日と同じ板の上へ横たえたラウルへ近づく。身体を覆っていた布を捲り、顔や首筋、腕の状態を確かめた後、服の上から胸や腹にも触れていった。
「大きな変化はありません。ここは十分に冷えていますから、昨日から急に状態が悪くなった様子もないですね」
「死因が分かるような変化は?」
セルマが少し離れた場所から尋ねる。
「ありません。昨日と同じです。外から確認できる傷もなく、毒と断定できる痕跡も見つかっていません。これ以上は道具もない場所で調べ続けても増えるものは少ないと思います」
クラリスはそう答えながらも、もう一度首筋と頭部を確かめた。
ガルムはラウルの横へ置かれていた剣を手に取り、鞘から半ばまで抜いた。刃の一部が大きく欠けている。その形は昨日見たままで、使った後に新しく傷んだ様子などあるはずもなかった。
「これは持っていく」
ニルスが顔を上げる。
「ここから?」
「ああ。ラウルの身体は冷やしておいた方がいいが、剣までここに置く必要はないだろ。何か確認するたびに貯蔵庫を開けるより、俺たちが持ってた方がいい」
「欠片は俺が持ってる」
ニルスは荷物から小さな布包みを出した。中には昨日、三神像の台座近くから拾った金属片が収められている。
「刃の欠けたところとも合ってる。あとでまた見比べるなら、同じ場所に置いておいた方がいいか」
「俺が剣を持つ。欠片はお前が持ってろ。両方なくすよりましだ」
「なくす前提で分けるの?」
セルマが呆れたように言う。
「そういう意味じゃない」
「分かってるわよ。ガルムが剣を一本増やすと、装備がさらに重そうだと思っただけ」
「一本くらい変わらん」
「あなたの場合、本当に変わらなそうなのが嫌ね」
普段ならラウルが何か口を挟みそうなやり取りだったが、その声はない。
ガルムは剣を鞘へ戻し、自分の荷物へ固定した。クラリスも最後にラウルの顔へ布を戻し、六人は貯蔵庫を出る。
昨日は、同じ扉から出た時に誰もその先のことを考える余裕がなかった。今日も答えが見つかったわけではない。それでも立ち止まっているだけでは何も変わらない以上、別のものを見るしかなかった。
◇
村長へ鍵を返し、広場を抜けて旅人用の家へ戻ろうとしたところで、エルディアスの歩調がわずかに落ちた。
受付の小屋に人影がある。
いつもそこにいる盲目の少女ではなかった。
机の向こうに座っているのは、以前受付をしていた叔母だった。古い木箱を机の上へ広げ、中から細い紐や色褪せた木札を一つずつ取り出している。
屋根に青い布を干している家。扉の横には木を削った鳥が掛けられている。
青の最初の日に訪ねた時、この女はその家にいた。黄色でも同じ家で話を聞き、昨日の赤では家の前へ椅子を出して豆を選り分けていた。少なくとも、エルディアスがこれまで見た日には、受付へ戻って仕事をしている姿はない。
だが、それだけなら何もおかしくはなかった。
以前はこの女が受付をしていたのだから、姪の代わりに座る日があっても不思議ではない。
「今日はあんたなの?」
セルマが先に声を掛けると、女は木箱から顔を上げた。
「ああ。あの子が少し席を外してるんでね。戻るまで見てるだけさ。それに昨日のことが気になって、昔使ってたものを家の奥から引っ張り出してきたところだよ」
「昨日のことって、ラウルの?」
「ほかにないだろう。旅人があんな死に方をしたなんて聞いたことがないからね。昔の連中と何か違うことがなかったか、残ってるものを探してみたんだよ」
セルマは机の上へ並んだ木札を覗き込む。
「何か見つかった?」
「大したものじゃないさ。昔使ってた紐と、役目を書いた札が少し残ってただけだよ。字が消えかけてるのもあるし、誰のものだったかなんてもう分からない」
理由は通っている。
仲間を一人亡くした旅人がいる。以前受付をしていた者が昔の記録を探し、自分に何か分かることがないか調べる。それだけなら、むしろ協力しようとしているようにも見えた。
「観測者はないの?」
セルマが尋ねる。
「それがねえ」
女は木箱の底に残っていた札まで確かめ、小さく首を横へ振る。
「見つからなかったよ。前にも言っただろう。そんな役目を見たことがあるなら忘れないって」
「やっぱり初めてなのね」
「少なくとも、私が受付をしてた頃にはね」
その答えも変わらない。
青で最初に会った時も、黄色で確認した時も、女は観測者など知らないと言った。赤でも同じだった。
女は木札を箱へ戻しながらエルディアスを見る。
「ただ、役目そのものじゃなくて、役目を見た時に使ってた印なら少し残ってる。あんたのを、もう一度見せてもらえないかと思ってね」
「俺の役目を?」
「ああ。観測者なんて初めてだからさ。昔と今で見え方が違うのかもしれないだろう」
エルディアスはすぐには返事をしなかった。
隣にいたリュシアが、代わりに尋ねる。
「一度決まった役目が、後から変わることはあるのですか?」
「私は見たことがないね」
「でしたら、もう一度確認することで何が分かるのでしょう」
「そこまで難しく考えてないよ。見たことがない役目だから気になってる。それじゃ駄目かい?」
女は悪びれた様子もなく笑った。
セルマが少しだけ口元を緩める。
「その気持ちなら、私は少し分かるわ」
「お前と一緒にするな」
エルディアスが言うと、セルマが眉を上げた。
「どういう意味よ」
「そのままだ」
「エル」
ニルスが横から口を挟む。
「嫌なら断ればいい。今のところ、役目をもう一度調べる必要があるとは誰も決めてない」
「ああ」
エルディアスは女を見る。
「どうやって確かめる」
「前と同じだよ。手を借りるだけさ」
女が右手を差し出した。
最初に盲目の少女が七人の役目を確認した時も、手に触れて適性を見ている。方法が同じなら、それ自体を怪しむ理由はなかった。
――どうしますか。
リュシアの声が内側へ届く。
――見る。
――手を出すのですか。
――いや。先に聞く。
「その前に一ついいか」
「何だい?」
「俺の役目を、今まで見たことはないと言ったな」
「ああ」
「何をする役目なのかも分からないと」
「そう言ったよ」
「今も分からない?」
女は少しだけ考え、肩をすくめる。
「名前から想像するくらいならできるさ。観測者っていうんだから、何かを見る役目なんだろう?」
「何を見る」
「そこまでは知らないよ。あんた自身も分かってないんじゃなかったのかい?」
答えにおかしなところはない。
エルディアスは女の顔から、机の上へ広げられた木札へ目を移した。古びた道具を探し出したことも、観測者をもう一度確認したがっていることも、それぞれには理由を付けられる。
「ならいい」
「何だい。妙な聞き方をするね」
「最近、妙なことが多い」
「それはそうだろうさ。仲間まで一人亡くしたんだから」
女の視線がエルディアスから外れ、ガルムへ向いた。
正確には、その背に追加された剣へ。
「ああ。その剣も持ってきたのかい」
ガルムの眉がわずかに動いた。
「分かるのか?」
「昨日、欠けた剣が落ちてたって村中で話になってたからね。あんたが普段使ってる剣とは違うし、あの人のだろう?」
そこまではおかしくない。
ラウルが死んだことは、広場に集まった村人の多くが知っている。剣が抜かれ、刃が欠けていたことも、昨日聞き取りをしているうちに村の中へ広がっていて不思議ではなかった。
女はガルムの背へ目を向けたまま、何気ない調子で続ける。
「青の神様へ振った剣なんだろう? そりゃ、人の剣じゃ傷なんてつかないさ」
誰も、すぐには返さなかった。
ガルムの表情が変わり、ニルスが女を見る。セルマの顔からも、先ほどまでの軽い色が消えた。
女だけが、何が起きたのか分からないように六人を見回す。
「どうしたんだい?」
「誰から聞いた」
エルディアスが尋ねた。
「何を?」
「青へ振ったって話だ」
女の笑みが、ほんのわずかに止まった。
「村で聞いたよ。昨日は皆、その話をしてただろう?」
「誰からだ」
「そこまでは覚えてないねえ。井戸の近くだったか、家へ戻る途中だったか……」
ニルスがゆっくりと記録板を下ろす。
「俺たちは言ってない」
「何をだい?」
「ラウルがどの像へ剣を振ったかだ」
ガルムの声も低くなった。
「というより、俺たちも知らん。剣は像から少し離れた場所に落ちてたし、欠片があったのも台座の近くだ。どの像へ当てたのか、見た奴はいない」
女はガルムを見た。
「知らない?」
「ああ」
「……青い仮面が正面だったから、そう思っただけだよ。昨日、広場へ行けば見えただろう?」
エルディアスは答えなかった。
青い日。この女は、自宅にいるはずだったところからわざわざ受付へ戻り、昔の道具を探し出して観測者をもう一度確認しようとしている。
赤ではそうしなかった。黄色でもそうしなかった。
それだけなら、ラウルが死んだ翌日だからで説明できる。
ラウルの剣が欠けていることを知っているのも、村で噂を聞いたからで済む。
だが、どの像へ剣を振ったのかは違う。
六人ですら知らない。
昨日、老人へ確認した時にも、その点だけは結論が出なかった。ラウル自身が何をしたのかを見ていた者はいないのだから、村人から聞けるはずもない。
そこへ、赤と黄色では見せなかった行動が重なっている。
一つ一つには理由が付けられても、それが同じ色だけで積み重なれば意味は変わる。
――リュシア。
――はい。
――剣。
返事はなかった。
必要もなかった。
リュシアの右手はすでに鞘を押さえ、左手が柄へ掛かっている。まだ抜いてはいないが、エルディアスがもう一言送れば即座に動ける姿勢だった。
「全員、少し離れろ」
エルディアスが言う。
女の眉がわずかに動く。
「誰に言ってるんだい?」
「俺たち全員だ。お前から離れる」
ガルムが一歩前へ出ながら大盾を背から下ろした。ニルスも短弓へ手を掛け、セルマは腰を落として白木の杖を構える。クラリスも治療鞄を身体の後ろへ回し、すぐ動けるよう白い杖を抜いた。
女は六人を順に見た。
最後に、エルディアスへ視線を戻す。
「観測者っていうのは、本当に余計なものまで見るんだねえ」
その口調だけは、先ほどまでと何も変わらなかった。
エルディアスが杖を抜く。
「下がれ!」
女の右手が机へ落ちた。
叩きつけたようには見えなかった。掌が触れただけだったにもかかわらず、古い机は中央から大きく割れ、木箱ごと跳ね上がった。
ガルムが即座に大盾を差し込み、飛び散った板と木札を受ける。細い紐が宙を舞い、砕けた木片が背後の壁へ次々と突き刺さった。
「外へ出ろ!」
盾越しに叫び、ガルム自身も後退する。
六人が受付の小屋から距離を取った。セルマは杖を女へ向けながらも、まだ火を放たない。狭い木造の小屋の中で撃てば、相手を焼くより先に建物へ燃え移る。
砕けた机の向こうで、女が立ち上がった。
肩口から何かが落ちる。
服ではなかった。
皮膚に細い亀裂が走り、それが肩から腕、首筋へ広がる。ひび割れた表面は薄い殻のように剥がれ、その下から人の肌とは思えない灰色のものが露出していった。背丈そのものは大きく変わっていないのに、肩や腕の輪郭が太くなり、石を削り出したような筋が指先まで浮かんでいく。
最後に、顔が変わった。
皮膚の上を覆うように青いものが広がり、目と口の位置へ細い穴だけを残して固まっていく。
三神像で何度も見てきたものと、同じ青い仮面だった。
「……嘘でしょう」
セルマが呟く。
「後だ!」
ガルムが大盾を構え直した。
青い面がゆっくりと動き、六人を見渡す。
次の瞬間、女だったものが床を蹴った。
狙われたのはエルディアスだった。
――左へ。
リュシアの声が届くのと、エルディアスが杖を振るのはほとんど同時だった。土の術式を足元へ走らせ、突進する相手の直前だけ地面を押し上げる。わずかに足を取られたことで軌道が外れ、その横へガルムが大盾を差し込んだ。
激しい衝撃音が響いた。
ガルムは盾ごと押され、両足で地面を削りながら小屋の外まで後退する。
「っ、重い……!」
それでも倒れず、盾の縁を地面へ押しつけて踏み止まった。
ニルスはすでに矢をつがえている。クラリスもガルムの後方へ位置を取り、セルマは木造の小屋から十分に距離が開いたことを確認して杖頭へ火を集め始めた。
金属が鞘を擦る。
リュシアが左手で剣を抜いた。
青い面が、その切っ先へ向く。
偶然の失言から始まった。
まだ何者なのかも、倒せば何が起きるのかも分からない。ただ一つ確かなのは、村人として暮らしていた女が三神像と同じ仮面をまとい、観測者であるエルディアスを真っ先に狙ったことだけだった。
そして今、この場にラウルはいない。
エルディアスが杖を握り直す。
青い仮面をつけたものは、六人を前にもう一度深く身を沈めた。




