第47話 六日
明けの鐘が鳴った。
低い音が旅人用の家の壁を震わせ、エルディアスは目を開けた。身体を起こすより先に、向かいの寝台を見る。
ラウルがいた。
毛布から片腕を出し、まだ眠っている。枕元には剣帯が置かれ、鞘も昨日まで見慣れていたものだった。
エルディアスはしばらく目を離せなかった。
昨日の朝、青い仮面が正面を向いた広場で、その身体が冷たくなっているのを見た。クラリスが死を確認し、ガルムたちと遺体を運んだ。三神像の近くには抜き身の剣が落ち、その刃は大きく欠けていた。
その男が今、何事もなかったように寝息を立てている。
ラウルが身じろぎし、目を開けた。
「……何だ」
「いや」
「朝から随分見てるな。俺の顔に何か付いてるか?」
「付いてない」
「なら寝かせておいてくれ」
そう言いながらも、ラウルはもう一度横になることはなかった。欠伸を噛み殺して身体を起こし、枕元の剣帯を腰へ回す。動きにも顔色にも異常はない。
生きている。
それを確認してから、エルディアスは隣へ目を向けた。
リュシアもすでに起きていた。視線が合う。
――今日は何日目だ。
――三日目です。昨日のことも覚えていますよ。
返事に迷いはなかった。
――昨夜の話もか。
――はい。エルが私の知らない日を過ごしていることも、赤、青、黄で別の続きがあるのではないかと話したことも覚えています。
――木剣の話も。
――そこまで確認しますか。
――する。
リュシアはわずかに息を吐いた。
――子供の頃に枝を削って作りました。何度か振ったら折れてしまって、家の裏にある大きな木の根元へ埋めています。父にも母にも話していません。
十分だった。
前の黄色の日にいたリュシアと、今朝のリュシアは繋がっている。二人だけで話した内容だけではない。その会話がなぜ必要だったのかまで覚えている。
――俺には七日目だ。
――昨日は青だったのですね。
――ああ。
少しの間があった。
――何があったのですか。
エルディアスは向かいで上着へ腕を通しているラウルを見た。
――ラウルが死んだ。
リュシアの視線が初めてラウルへ向いた。
――……ラウルさんが?
――三神像の前で見つかった。剣が抜かれてて、刃が欠けてた。欠片は像のすぐ近くに落ちてた。身体に傷はない。クラリスが調べても死因は分からなかった。
リュシアは返事をせず、今そこで普段どおり身支度をしているラウルを見ていた。
――昨日の私も、その場にいたのですか。
――青のお前はな。
――それで、今日は生きている。
――ああ。
それ以上、朝の確認を続ける必要はなかった。
赤では、前の赤の日に起きたことが次の赤へ残っていた。青では、前の青の夜にラウルが始めた行動が、その次の青で死という結果にまで繋がった。そして今朝、黄色のリュシアは前の黄色を昨日として覚え、黄色のラウルは生きている。
三つとも揃った。
◇
朝食の前に、ラウルとガルムが入口を確かめに行った。
もはや七人全員で毎朝同じことを試す必要はない。ニルスも記録板を持ってついていこうとしたが、ラウルに「結果を持ち帰る」と言われ、家に残った。
「それなら、先に食事を作っておきましょう」
クラリスが食料袋を開く。
「今日は私が火を見るわ」
セルマが竈の前へしゃがんだ。
「昨日も見てたでしょう」
「そうだけど、今日は最初から最後まで私がやるって意味よ」
「では、水を取りに行く時は一度火を弱めてください」
「まだ何もしてないでしょう?」
「始める前に確認しています」
「最近、私だけ注意が早くない?」
「最近ではありません」
「もっと前からってこと?」
セルマが振り返ると、ニルスが笑った。
「自覚があるなら話が早い」
「ニルスまでそっちなの?」
「俺は何も注意してないぞ」
「今したでしょう?」
いつもと変わらないやり取りだった。
エルディアスは卓の端へ座り、水を飲んだ。昨日、同じ家にいた五人はラウルのいない食卓を囲んでいた。使われなかった器が一つ残り、会話も少なかった。
今朝は、そのラウルが入口へ歩いている。
ほどなくして扉が開き、ラウルとガルムが戻ってきた。
「変化なしだ。俺もガルムも昨日と同じところで止まった。村の男が一人、普通に森へ出ていった」
「朝になっても通行不可。村人は通行可能、と」
ニルスが記録板へ書き足す。
「毎朝これを書くなら、そろそろ『前日と同じ』で済ませたくなるな」
「後で何が同じだったのか分からなくなりますよ」
クラリスが言った。
「分かってる。だから書いてる」
ラウルは席につき、リュシアから器を受け取った。
「今日はどうするか、一度決め直したい。昨日までで、昔の旅人、役目、岩壁、入口、三神については一通り聞いた。まだ当たってない家を回ってもいいが、同じ話を聞き直すことが増えてきた」
「三神様については、まだ詳しい人がいるかもしれないわよ」
セルマが言う。
「だから聞かないとは言ってない。何を確かめるために聞くのかを先に決める」
「それなら賛成」
「今日は素直だな」
ガルムが干し肉を噛みながら言った。
「私だって何でも先へ行きたいわけじゃないのよ。気になることが残ってるのが嫌なだけ」
「それを先へ行きたいと言うんじゃないか?」
「違うでしょう」
「二人とも、その話は後にしろ」
ラウルが止めた。
そのままエルディアスを見る。
「お前はどう思う?」
「今日は増やさない方がいい」
「同じ意見か」
「ああ。俺とリュシアは別で話したいことがある」
「何についてだ?」
「観測者」
ラウルの表情が少し変わった。
「何か掴んだのか?」
「まだ整理する」
「なら先にそっちをやれ。俺たちは記録をまとめる。昼を過ぎても戻らないなら探しに行くぞ」
「村の中だ」
「村の中でも、今は一人で消えられると困る」
その言葉に、エルディアスはラウルを見る。
本人は何も知らない。
青の自分が一人で広場へ出て、その次の青で死んだことも。
「そうだな」
エルディアスは短く答えた。
食事を終えて立ち上がる前に、もう一つだけ付け加える。
「ラウル」
「何だ」
「三神像には何もするな」
セルマまで顔を上げた。
「何もって?」
「調べるために刃を当てたり、術式を使ったりするな。触って見る程度も、今日はやめておけ」
「理由は?」
ラウルの問いは当然だった。
「まだ言えない」
「危険だと思ってるのか?」
「ああ」
ラウルはすぐには頷かなかった。
「根拠はあるんだな」
「ある。ただ、確かめきれてない」
「俺たちに関係することなら、本当は聞きたいところだが」
「分かってる」
「……分かった。今日は何もしない」
ラウルは四人を見る。
「お前たちもだ。像は見るだけにしろ」
「私は昨日から何もするって言ってないでしょう?」
セルマが不満そうに言った。
「言う前に止めた」
「最近みんなそれね」
「積み重ねだ」
ガルムが言うと、セルマは睨んだが、それ以上は続けなかった。
◇
エルディアスとリュシアは中央の広場を避け、畑の外側から岩壁沿いへ向かった。
村人が薪を積んでいる場所を過ぎ、今は使われていない小屋の裏まで来る。通りからは見えにくく、近くに人の気配もない。以前、二人で記憶の違いについて話した場所からも遠くなかった。
低い石へ腰を下ろすと、リュシアも隣へ座った。
エルディアスは紙を一枚取り出した。
書く必要はないとも思った。もう頭の中では何度も並べている。それでも、今日は一度目に見える形へ置いた方がよかった。
紙の上へ、黄、赤、青と書く。その下へ、もう一度同じ三色を並べ、最後に黄色を足した。
村へ入った日が黄色。その翌朝が赤、その次が青。そこから黄色、赤、青と巡り、今朝また黄色へ戻った。
――順番は崩れていませんね。
――ああ。
それだけなら、仮面が三色の順番で向きを変えているだけとも考えられた。
問題は、その中で起きていたことだった。
エルディアスは、これまで一日ずつ確認してきた内容をもう一度最初から説明することはしなかった。赤では料理を手伝ったことも、直した竈も、治療した傷も次の赤へ残っていた。青では前の青の夜に広場へ向かったラウルが、次の青で死んでいた。そして黄色は、今朝のリュシア自身が証明している。
人の記憶だけが日ごとに入れ替わっているのではない。それぞれの色には、それぞれ前回から積み重なった出来事と結果が存在している。同じ一日を繰り返しているのでもなければ、一つの時間が三日ごとに巻き戻っているわけでもない。
赤には赤の昨日があり、青には青の昨日があり、黄色には黄色の昨日がある。
それぞれが別々に進んでいる。
――三つの歴史。
リュシアが言った。
今度は、エルディアスも否定しなかった。
――ああ。もう、それでいいと思う。
前の黄色の日には、まだ足りなかった。赤だけが続いたように見えても、それが何を意味するのかは分からなかった。青まで確認しても、黄色だけが違う可能性は残っていた。
今は三つすべてが揃っている。
リュシアたちは記憶を失っているのではなく、それぞれ自分がいる歴史の続きを普通に生きている。赤のリュシアにとっては前の赤が昨日であり、青なら前の青、黄色なら前の黄色が昨日になる。他の二つを覚えていないのは、そこでその時間を過ごしていないからだと考えれば、これまでの食い違いはすべて説明できた。
そして、エルディアスだけが三つとも覚えている。
――観測者ですね。
――たぶんな。
受付で告げられた時には、意味の分からない役目だった。村の時刻や天候を記録する仕事でもなければ、何かを見張る場所を与えられたわけでもない。昔の旅人を調べても、観測者という役目を与えられた者は一人も見つからなかった。
だが、三つの歴史をすべて認識している者が自分だけだと分かった後では、名前があまりにもそのままだった。
――三つを観測しているから、観測者。
――そう考えるのが自然だと思います。ただ、役目を与えられたから見えるのか、最初から見える者だったから観測者と判定されたのかまでは分かりません。
――そこは今どうでもいい。
原因と結果の順番まで突き止めなくても、攻略に必要なことは変わらない。
エルディアスは紙の三色を見た。
これまで不自然だったのは、歴史だけではない。
七人が村へ入った後、突然外へ出られなくなった。村人は何事もなく通れる。剣も矢も魔法も境界を越えるのに、自分たちの身体だけが止められる。岩壁を調べても別の出口はなく、過去に何日も滞在した旅人や、自分たちより人数の多い一団も普通に村を出ていた。
何かの条件を満たした七人だけが、この村に閉じ込められた。
その内側で三つの歴史が始まり、七人の中で一人だけ観測者という見たことのない役目を与えられている。
別々の異常として考える方が、もう不自然だった。
――第一層と同じだ。
――階層主の部屋ですか。
――ああ。
第一層のような石造りの広間ではない。壁の向こうに巨大な魔物が待っているわけでもない。畑があり、家があり、人が生まれて暮らしている。
それでも、入った者を閉じ込め、その場所だけの仕組みの中へ置き、何かを終えなければ出さない。
ダンジョンの攻略者として、それを何と呼ぶかは決まっていた。
――この村が、第二層の階層主の部屋だ。
リュシアはしばらく黙っていた。
遠くから、畑を耕す鍬の音が聞こえる。子供の声もした。
あまりにも普通の暮らしが続いている。
だからこそ、気づくまでに時間が掛かった。
――そう考えると、最初に受付で役目を見てもらったことも、ただの村の習慣とは思いにくくなりますね。
――ああ。少なくとも俺の観測者はな。
ラウルたちの役目まで同じ意味を持つのかは分からない。村内警備、修繕、竈、猟、治療、料理人。それらは実際に村で役立つ仕事でもあり、過去の旅人にも似た役目が与えられている。
観測者だけが違った。
過去に例がなく、何をする役目なのか村人にも分からず、その本人だけが三つの歴史を認識している。
閉じ込められた条件にも関わっている可能性は高い。
だが、そこを突き止める必要があるのかと考えると、エルディアスにはもう違う気がしていた。
――どうして閉じたかは、後でもいい。
――出るための条件を探す方が先、ということですか。
――ああ。入口が閉じた理由を全部知っても、開け方が分からなきゃ意味がない。
そこで初めて、考える先が変わった。
今まで探していたのは、閉鎖の原因だった。人数か、役目か、滞在時間か。過去の旅人と自分たちの違いを調べれば、どこかに出口へ繋がる条件が見つかると思っていた。
だが、ここが階層主の部屋なら、考えるべきなのは入口が閉じた理由ではない。
どうすれば、この階層を終えられるのか。
エルディアスは紙の端へ指を置いた。
――三王。
リュシアもすぐに第一層の石碑を思い出した。
勇者が魔王を倒す。
リュシア・フェル・ノルディアが勇者を選ぶ。
三王、勝者の歴史のみが続く。
最後の一文だけは、最初から意味が掴めなかった。
三王とは誰なのか。何に勝つのか。なぜ王ではなく、その「歴史」が続くのか。
この村で赤、黄、青の三神を知った時、「三」という数は引っかかった。それでも、数が同じというだけで三神と三王を結びつけるには足りなかった。
今は違う。
この村には、実際に三つの歴史が存在している。
――前は「三王」の方ばかり見てた。
――はい。ですが今は、「歴史」という言葉にもそのまま当てはまるものがあります。
――ああ。
勝者の歴史のみが続く。
最初に読んだ時なら、戦いに勝った王の治世や、その後の歴史が残るという意味にも取れた。だが今は、三つの歴史が現実に別々の続きを持っている。
そうなると、「歴史」という言葉を比喩として読む必要がなくなる。
――三神が三王かどうかは、まだ分からん。
――はい。
――でも、この三つと石碑が関係ないって考える方が難しくなった。
――私もそう思います。
そこまでは、かなり強く言える。
問題は、その先だった。
エルディアスはしばらく紙を見た後、口にする。
――勝者って何だ。
リュシアはすぐには答えなかった。
――三王のうち、いずれかが勝つという意味には読めます。
――三神が三王なら、赤、青、黄色のどれかか。
――ですが、それなら何をもって勝つのかが分かりません。
村で三神を信仰する者たちは争っていない。赤へよく祈る家もあれば、黄や青を大切にする家もあるが、他の二柱を否定するわけではない。三柱揃って三神だという認識は共通していた。
競争らしいものは、どこにも見えていない。
それでも石碑は「勝者」と書いている。
ならば、まだ見つけていない勝敗の条件がある。
――王じゃなくて、歴史そのものが勝者になるって読み方もできる。
――赤、青、黄のどれかが、ということですか。
――今ならな。前なら考えもしなかった。
もちろん、それも仮説だった。
三王の一人が勝ち、その王に属する歴史が続くのかもしれない。三つの歴史自体が何かの条件を満たして勝敗を決めるのかもしれない。あるいは、その二つが同じことを別の言葉で表している可能性もある。
まだ、どれにも決められない。
――ラウルさんの死は関係するでしょうか。
リュシアが尋ねた。
エルディアスは少し考えたが、首を横へ振った。
――今は繋げない方がいい。
青でラウルが死んだことは事実だった。三神像へ剣を当てた可能性も高い。だが、それによって青が勝ったのか負けたのか、そもそも勝敗に一歩でも近づいたのかさえ分からない。
昔、同じように三神像へ剣を振り下ろして刃を欠けさせた旅人は、翌朝普通に村を出ている。
ラウルとの違いも分かっていない。
大きな出来事だからといって、何でも石碑へ結びつければ考察ではなくなる。
――分かってるのは、青のラウルが死んだ。それだけだ。
――はい。
――勝敗が何か分かるまでは、そこから先は考えない。
リュシアも頷いた。
エルディアスはもう一度、石碑の言葉を思い返す。
その中で、今度は別の一語が気になった。
――勝者の歴史のみが、続く。
――「続く」ですか。
――ああ。
三つの歴史がそれぞれ前回から続いていると分かった今、その言葉は以前より具体的に聞こえる。
赤は続いている。
青も続いている。
黄色も続いている。
現在は三つともだ。
それなのに石碑は、勝者の歴史「のみ」が続くと書いている。
――勝った方だけが続くなら。
エルディアスはそこで一度止めた。
リュシアが静かに続きを言う。
――勝者ではない方は、続かないという意味にも読めます。
――そうだな。
それ以上は分からなかった。
消えるとは書いていない。終わるとも、なくなるとも書かれていない。ただ、勝者の歴史だけが続く。
なら「敗者」とは何なのか。
勝てなかった三王なのか。
三つの歴史のうち、勝者にならなかったものなのか。
そもそも石碑に「敗者」という言葉すらない以上、それを今ここで決める理由もなかった。
――何をすれば勝つ。
――分かりません。
――勝者じゃなかったものは、どうなる。
――それも、今は分かりませんね。
答えは出ない。
だが、どこを考えればいいのかはようやく見えた。
昨日までとは違う。
昨日までは、何が起きているのか分からないまま村の中を探し回っていた。今日は三つの歴史が存在すること、それを観測しているのがエルディアスだけであること、この村全体が第二層の階層主の部屋だと考えるのが最も自然であることまで辿り着いた。
その先に残っているのが、石碑の最後の一文だった。
勝者とは何か。
何をもって勝敗が決まるのか。
そして、勝者の歴史だけが続くとは、実際に何が起きることなのか。
これから調べるべきものは、もうそこだった。
◇
昼の鐘が鳴っても、二人はすぐには立ち上がらなかった。
考えるべきことは一度整理できた。
次は、それをどう扱うかだった。
リュシアが紙から顔を上げる。
――ラウルさんたちには話しますか。
エルディアスはすぐには答えなかった。
青ではラウルが死んだ。
今ここにいる黄色のラウルは、そのことを知らない。
赤の五人も青を知らず、青の五人も赤を知らない。今までそれぞれの歴史は、他の二つで何が起きたのかを知らないまま続いてきた。
その間を情報が移動しているとすれば、エルディアスの記憶だけだった。
――今は話さない。
――三つの歴史があることも?
――ああ。
――理由を聞いても?
――俺が話したら、そいつらの行動が変わる。
今朝すでにラウルへ三神像に手を出すなと伝えた。前の黄色の日にはなかった情報だ。青でラウルが死んだことを知っているからこそ、エルディアスは今の黄色へ一つの結果を持ち込んだ。
それは必要だった。
分かっている危険を黙って見ているつもりはない。
だが、すべてを話すことは別だった。
――勝敗が何で決まるか分からん。
――はい。
――別の歴史の情報を渡すことが、それに関係ないとも分からない。
観測者という役目が、単に三つを眺めるためだけに存在するのかも分からない。得た情報を別の歴史へ持ち込むことまで含めて役目なのか、むしろ不用意に混ぜてはいけないのか。
何も分からないうちに、赤にも青にも黄色にも同じ情報を渡してしまえば、三つの歴史はそれまでとは違う動きを始める。
それが攻略に必要なことなら、いずれやればいい。
今は、その判断材料がない。
――でも、危険なことは伝える。
リュシアが言った。
――ああ。像に手を出すな。一人で動くな。そういうのは言う。
――理由として、別の歴史で何があったかまでは話さない。
――今はな。
リュシアはしばらく考えていた。
――皆さんを信用していないからではないのですね。
――違う。
ラウルたちはここまで何度も危険を一緒に越えてきた。戦闘でも調査でも、判断を任せられることは分かっている。
だからこそ、答えのない話だけを渡したくなかった。
三つの歴史がある。
別の歴史では誰かが違うことをしている。
青ではラウルが死んでいる。
その事実だけを知らせれば、当然その先を知りたくなる。自分は別の歴史で何をしているのか。そこでは誰が生き、誰が死んでいるのか。どの歴史が勝者になるのか。今いる歴史を勝たせるには何をすればいいのか。
エルディアスには答えられない。
それどころか、その問いを持たせること自体が各歴史の動きを変える。
――話す必要が出たら話す。
――分かりました。
少し間を置いてから、リュシアが続ける。
――私には?
エルディアスは隣を見る。
――何が。
――これから赤や青で起きたことを、私は全部聞くのでしょうか。
その問いは考えていなかったわけではない。
むしろ、ラウルたちへ話すかどうかを考え始めた時から、同じ問題がリュシアにもあることには気づいていた。
これまでは、リュシアの記憶を確かめるために別の歴史のことを話す必要があった。木剣の話まで使って、エルディアスが本当に自分の知らない日を過ごしていると理解してもらった。
だが、その確認は終わった。
三つの歴史があることは、もうリュシアの証言を一日ずつ取り直さなくてもいい。
――全部は話さない。
リュシアは驚いた様子を見せなかった。
――同じ理由ですね。
――ああ。お前だって、聞けば動きが変わる。
――そうですね。
納得は早かった。
そのまま終わるかと思ったが、リュシアは一つだけ付け加えた。
――ただし、私や皆さんの命に関わるとエルが判断したことは話してください。
――それは話す。
――エル自身のこともです。
――俺もか。
――当然でしょう。
――分かった。
――今、少し考えましたね。
――気のせいだ。
――そういうことにしておきます。
エルディアスは紙を折り畳んだ。
秘密を増やしたいわけではない。
だが、今の自分は三つの歴史の間で唯一情報を持ち越している。その意味が分かるまでは、知ったことをそのまま別の歴史へ流すべきではなかった。
◇
旅人用の家へ戻ると、卓の上には何枚もの紙が広げられていた。
ラウルたちは、これまで村で調べたことを内容ごとに分けているらしい。昔の旅人、役目、入口、岩壁、三神。ニルスが記録を整理し、クラリスは自分たちで確認した事実と村人から聞いただけの話を分けていた。
「戻ったか」
ラウルが顔を上げる。
「随分長かったな。昼は食ったのか?」
「ああ」
「何か分かった?」
セルマがすぐに尋ねた。
「少しな」
「観測者のこと?」
「それもある」
「何を観測する役目なの?」
エルディアスは一瞬だけ考えた。
「まだ話さない」
「またそれ?」
「セルマ」
ラウルが止めた。
「でも気になるでしょう?」
「俺も気になる。だから聞き方を変える」
ラウルはエルディアスを見る。
「俺たちが今知らないと危ないことはあるか?」
「ああ」
「朝言った、三神像に手を出すなって話か」
「それと、一人で動くな。何か変だと思ったら、どんなことでも俺にも言ってくれ」
「お前にも?」
「観測者だからだ」
ラウルはしばらく黙った。
「そこは理由になるのか?」
「今の俺にはなる」
「説明は?」
「まだしない」
セルマが口を開こうとしたが、今度はガルムが先に制した。
「待て」
「何よ」
「エルがここまで言うのは珍しい」
ガルムはエルディアスへ顔を向ける。
「危険があるのは確かなんだな」
「ああ」
「なら俺はそれでいい。像を触らず、一人で歩かなければ済む話だ」
「ガルムは気にならないの?」
「気にはなる。だが、今聞かなきゃ死ぬ話じゃないなら後でいい」
「そういう言い方をされると、余計に気になるんだけど」
「お前は何を言っても気になるだろ」
「それはそうだけど」
セルマは不満そうだったが、引き下がった。
ラウルはまだ考えている。
「一つだけ聞く」
「何だ」
「俺たちの誰かが、すでにその危ないことをしたのか?」
エルディアスの脳裏に、青い広場が浮かんだ。
冷えたラウルの身体。
欠けた剣。
その事実を今のラウルへ伝えれば、黄色はさらに変わる。
「可能性はある」
「誰だ」
「今は言わない」
「そこまで隠すか」
「ああ」
ラウルはエルディアスをしばらく見ていたが、やがて息を吐いた。
「分かった。ただ、俺たちが判断するのに必要になったら、その時は話せ」
「それは分かってる」
「ならいい」
完全に納得したわけではない。それでも、ラウルはそこで追及を止めた。
「こっちは大したものは増えてない。むしろ一度整理して、聞いてないことより、もう分かってることの方が増えた」
ニルスが記録板を指で叩いた。
「人数だけで閉じた可能性は低い。何日か泊まった旅人も普通に帰ってる。役目を断った奴もいる。村人は入口を自由に通る。岩壁から出られる場所もない。観測者の前例だけは、今のところ一件もなし」
「三神様の話も、家によって細かいところは違うけど、大きく増えたものはないわ」
セルマが三神についてまとめた紙を寄せる。
「だから明日から、何を探せばいいのか決めたいところだったのよ」
エルディアスは卓に並んだ紙を見る。
朝までなら、自分も同じことを考えていただろう。
過去の旅人と自分たちの違い。
村から出られなくなった条件。
観測者という役目。
だが、今はもう少し先を見ている。
「今日はこれ以上増やさなくていい」
ラウルが頷く。
「俺もそう思ってる。明日から何を見るかは?」
「考えてる」
「観測者と関係するのか?」
「ある」
「また説明なしか」
「ああ」
ラウルは苦笑した。
「分かった。今日は整理だけにする」
七人は夕方まで記録をまとめた。
エルディアスも手伝ったが、自分だけが知る赤と青の出来事は書かなかった。今いる黄色で確認できる内容だけを、ほかの六人と同じ紙へ残した。
◇
灯りが消えた後も、エルディアスはしばらく眠れなかった。
今日、新しく見つけたものはほとんどない。
村人から新しい伝承を聞いたわけでも、閉じた入口に変化が起きたわけでもない。
それでも、昨日までとは見えているものが違った。
三つの歴史が存在する。それぞれが別の昨日から続き、エルディアスだけが三つすべてを覚えている。観測者という役目は、おそらくそのためにある。そして、自分たちが閉じ込められているこの村そのものが、第二層の階層主の部屋だと考えれば、これまでばらばらだった異常の多くが一つに繋がる。
そこまでは、もう何度も考え直す必要はなかった。
残っているのは、その先だ。
三王、勝者の歴史のみが続く。
エルディアスは暗い天井を見た。
勝者とは何なのか。
何をもって勝つのか。
勝者がいるなら、勝者ではなかったものは何になるのか。
そして、勝者の歴史だけが「続く」とは、実際に何が起きることなのか。
答えは一つも出ていない。
だが、問いはようやく定まった。
昨日まで探していたのは、この村から出る方法だった。
明日から探すべきものは違う。
この階層が、何をもって勝敗を決めるのか。
まずは、それを知らなければならなかった。




