第43話 三日
明けの鐘が鳴った。
低い音が旅人用の家の壁を震わせる。エルディアスが目を開けると、向かいの寝台ではラウルがすでに剣帯を締めていた。
「入口を見てくる。朝になって変わったかだけ確かめたい」
「俺も行く」
ニルスが身体を起こし、枕元の記録板を取る。
「昨日は全員で試したんだ。二人で十分だろ」
「そうだな。変わってたら呼べ」
ガルムは寝台へ腰掛けたまま、大きく肩を回した。
「変わってなければ、朝飯を食って村の方を当たろう。何度も境界を押してても仕方ない」
「では、こちらは朝食の準備をしておきます」
クラリスが立ち上がる。
「私も手伝います」
リュシアも外套を畳み、保存食を入れた袋へ手を伸ばした。
「じゃあ私は竈ね」
セルマが毛布を退ける。
「今日は言われる前に動くわよ」
「珍しいな」
「ガルム。朝から喧嘩を売るなら買うけど?」
「褒めたんだ」
「どこがよ」
ラウルとニルスを送り出し、残った五人で朝食を整えた。
火を起こし、水を温める。リュシアが干し肉を切り分け、クラリスは食料の残りを確認していた。
「村で少し買い足した方がいいですね」
「もう?」
セルマが鍋をかき混ぜながら尋ねる。
「すぐ足りなくなるわけではありません。ただ、森へ戻った後の分までここで使う必要もありませんから」
「いつ出られるかも分からんしな」
ガルムが答えた。
「まあ、そんなに急ぐ必要もないか。出られないまま何日もいるのは困るが、今日一日で答えを出せるとも思えん」
「そうですね」
クラリスが頷く。
「原因が分からない以上、焦って手当たり次第に試す方が危険です。村の方々にも生活がありますから、聞けることを一つずつ確かめましょう」
エルディアスは黙って水を飲んだ。
ガルムの言い方が、妙に悠長に聞こえた。
閉じ込められていることを軽く見ているわけではない。クラリスの言うことも間違ってはいない。
それでも、少し引っかかった。
ほどなくしてラウルとニルスが戻ってきた。
「変化なしだ」
ラウルが扉を閉める。
「村の男が一人、普通に森へ出た。俺は昨日と同じところで止まった」
「朝になっても七人は通行不可。村人は通行可能」
ニルスが記録板へ書き足した。
「もう入口はいいだろ。少なくとも、朝夕で何度も確かめる必要はなさそうだ」
「ああ。飯を食ったら村長のところへ行く」
ラウルが席につく。
「昨日頼んだ昔の旅人の話を、何か聞けたか確認する。その後は受付だな。役目については、あそこが一番確かだろう」
「三神様の話も忘れないでよ」
セルマが器を渡しながら言った。
「時間があれば聞く」
「それ、忘れる時の言い方じゃない?」
「お前が忘れさせないだろ」
「分かってるじゃない」
セルマは満足そうに自分の席へ戻った。
◇
朝食を終え、七人は村長の家へ向かった。
中央の広場へ入る。
エルディアスは歩きながら三神像へ目を向けた。
黄色い仮面が正面にある。
最初に村へ入った時と同じだった。
黄色。
その翌朝には赤。
次は青。
そして、今日はまた黄色だった。
エルディアスは歩調を変えなかった。
「昨日頼まれた話だが、何人かには聞けたぞ」
村長は家の前で縄を束ねながら言った。
「昔、かなり大勢の旅人が来たことはあるらしい。商人と護衛で、荷車も何台かあったそうだ」
「人数は?」
ラウルが尋ねる。
「そこまでは誰も覚えてない。八人だったと言う奴もいれば、十人より多かったと言う奴もいる」
「七人以上だったのは確かそうか?」
「ああ。それは間違いないらしい」
「泊まった?」
「何日かいたそうだ。荷を売ったり買ったりしてたんだと。帰る時に何かあったって話は出なかった」
ニルスが記録板へ書き込む。
「人数だけで閉じるなら、その連中でも起きてないとおかしいな」
「そうですね」
クラリスが言う。
「正確な条件までは分かりませんが、少なくとも七人以上というだけでは説明できません」
「役目の方は?」
セルマが尋ねる。
「そこは分からん。何十年も前の話になると、誰が何を言われたかまで覚えてる奴はいなかった」
「なら受付か」
ラウルが言う。
「今の子が知らなくても、前にやってた人間がいるかもしれない」
「それが早そうだな」
村長も頷いた。
「こっちでも引き続き聞いておく。何か思い出した奴がいたら知らせるよ」
「頼む」
七人は村長の家を離れた。
広場を横切る途中、セルマが三神像を見上げる。
「昔の旅人について聞いたら、次は三神様ね」
「先に受付だ」
「分かってるわよ」
「念のためだ」
「ラウルまでガルムみたいなこと言い始めたわね」
「どういう意味だ」
「私が何かする前に止めるところ」
「止められる心当たりがあるんだろ」
「二人とも嫌い」
「そう言いながら普通に話してるだろ」
ニルスが笑う。
エルディアスは会話には入らず、三神像の前を通り過ぎた。
◇
受付の小屋では、盲目の少女が机の上に細い紐を並べていた。
扉の音に顔を上げる。
「おはようございます」
「少し聞きたい」
ラウルが机の前へ進んだ。
「昔の旅人と役目についてだ。お前はいつから受付をしてる?」
「五年くらいです。その前は叔母がしていました」
エルディアスは少女を見た。
同じ答えだった。
――リュシア。
――はい。
――前の受付に会ったことはあるか。
隣に立つリュシアは顔を動かさなかった。
――いいえ。前に受付をしていた方がいることも、今初めて知りました。
「叔母さんは、今も村にいるの?」
セルマが尋ねる。
「はい」
「話を聞けるか?」
ラウルが続けた。
「家にいれば大丈夫だと思います。昔の旅人のことでしたら、私より詳しいはずです」
「場所は?」
少女が答えるより先に、エルディアスは念話を送った。
――屋根に青い布。扉の横に木の鳥。
リュシアから、すぐには返事がなかった。
「広場へ向かう途中に、屋根へ青い布を干している家があります。扉の横に木の鳥が掛かっていますから、すぐ分かります」
少女が言った。
リュシアがエルディアスを見る。
視線だけが一瞬触れ、すぐに戻った。
「分かった。助かる」
ラウルが礼を言う。
「観測者について、お前自身は本当に一度も見たことがないんだよな?」
ニルスが尋ねた。
「はい。私が受付をしてからは、エルさんが初めてです」
「叔母なら?」
「聞いてみないと分かりません。でも、変わった役目が出た時はよく話してくれましたから、観測者という名前なら聞いたことがあると思います」
「なら、その人にも聞こう」
ラウルが言った。
セルマが続ける。
「三神様の昔話に詳しい人もいたわよね?」
「いますよ。広場の向こうに住んでいるお爺さんです」
「詳しい?」
「とても」
「話、長い?」
「長いです」
少女は迷わなかった。
「一つ聞いたら十くらい返ってくる?」
「それくらいだと思います」
「やっぱりいるのね、そういう人」
セルマが笑う。
エルディアスは少女から目を外した。
それも同じだった。
◇
小屋を出て、青い布の家へ向かう。
探す必要はなかった。
エルディアスは場所を覚えている。
曲がる道も、その先に並ぶ家も、どの屋根に青い布が掛かっているかも知っていた。
――エル。
リュシアから声が届いた。
――何だ。
――先ほどの目印は、なぜ知っていたのですか。
――前に聞いた。
――誰からですか。
――あの子だ。
少し間が空いた。
――いつ?
――昨日。
リュシアはそれ以上聞かなかった。
家へ着く。
屋根には青い布が干され、扉の横には木を削った鳥が掛かっていた。
ラウルが戸を叩く。
「はいよ」
中から女の声がした。
出てきたのは、エルディアスが覚えている女だった。
女は七人を見回す。
「見ない顔だね。姪のところに来てた旅人かい?」
「ああ。前に受付をしてたと聞いた」
「ずいぶん昔だけどね。何を聞きたいんだい?」
初めて会う相手への態度だった。
ラウルが事情を説明する。
聞き取りは長く掛からなかった。
七人より多い旅人は過去に来ている。商人と護衛で十人近く、荷車を何台か連れていた。数日泊まり、帰る時には何の問題もなかった。
役目を断った者もいた。
観測者という役目には覚えがない。
細かな言い方は違ったが、エルディアスが覚えている答えと変わらない。
「観測者なんて名前なら忘れないよ」
女がエルディアスを見た。
「何を観測するのか、絶対に聞き返してる」
「本人も分からないらしいわよ」
セルマが言う。
「それじゃ余計に聞くね」
「でしょうね」
「お前も同じだっただろ」
ニルスが口を挟む。
「だって気になるでしょう?」
「だから同じだって言ってる」
ラウルは二人を横目で見てから女へ戻った。
「十分だ。助かった」
「もういいのかい?」
「ああ。覚えてないことまで無理に聞いても仕方ない」
「それなら助かるよ」
女はそう言ってから、セルマを見る。
「三神様のことも聞き回ってるんだって?」
「分かる?」
「姪から聞いたよ。向こうに昔話の好きな爺さんがいる。一つ聞けば十返ってくるから、時間がある時にしな」
「本当に十なのね……」
「多い時はもっとだよ」
「聞く前から疲れてきたわ」
「お前が聞きたいと言ったんだろ」
ラウルが呆れたように言った。
女へ礼を告げ、七人は家を離れた。
広場へ戻る道へ入ったところで、エルディアスは再び念話を送る。
――もう一つ聞く。
――はい。
――大きな獣を神が追い払った昔話を知ってるか。
――いいえ。
返事は早かった。
――何の話ですか。
――三神の話だ。
――村長さんから三神様については聞きましたが、そのような話は聞いていません。
一つなら、契鎖の一度を疑えた。
二つは重ねられない。
少なくとも、リュシアが知らないふりを続けているわけではなかった。
――これから聞く。
――先ほどのお爺さんからですか。
――ああ。
リュシアは短く間を置いた。
――分かりました。
◇
三神の昔話に詳しい老人は、家の前で薪を割っていた。
セルマが声を掛けると、斧を置き、嬉しそうに椅子を持ち出してくる。
「三神様の話か。何が聞きたい?」
「最初に言っておくけど、今日は一つか二つだけね」
「話を聞きに来ておいて注文が多いな」
「一つ聞けば十返ってくるって聞いたのよ」
「誰だ、そんなことを言ったのは」
「近所の人」
「あの女だな。失礼な奴だ」
「違うの?」
「せいぜい七つか八つだ」
「大して変わらないじゃない」
セルマが呆れ、ニルスが笑った。
「それで?」
老人が聞く。
「三柱には、それぞれ決まった役割があるのか知りたいの。赤は火、青は水みたいな」
「ないな」
老人はあっさり答えた。
「赤の神様が雨を降らせる話もある。青の神様が森の獣を追い払う話もあるぞ」
隣にいるリュシアの視線が、エルディアスへ向いた。
セルマは気づかず老人へ身を乗り出す。
「同じ出来事なのに、神様だけ違う話もあるの?」
「ああ。昔、この村へ大きな獣が来た話なんかがそうだ」
「大きな獣?」
「牛より大きくてな。畑を荒らして、家畜まで食った。それを神様が追い払った」
「どの神様が?」
「うちでは赤だ。向こうの家では青だと言う。村長の家は黄だったかな」
「同じ話なのに?」
「昔話なんてそんなものだ」
老人は不思議でもないように笑った。
「獣が来た。神様が助けた。村が残った。そこは同じだ。誰から聞いたかで、助けた神様だけが変わる」
「ほかにもあるのですか?」
リュシアが尋ねた。
「ああ。旱魃の時に水場を教えた神様だったり、森で迷った子供を連れ帰った神様だったりな。家によって赤だったり、青だったり、黄だったりする」
「それで争いにはならないの?」
セルマが言う。
「昔は揉めたこともあるらしいがな。今さらどれが本当かなんて誰も気にせん。三神様のどなたかが助けてくださった。それで十分だ」
老人はそのまま別の昔話へ入りかけたが、セルマが慌てて止めた。
「待って。今日は本当にそこまで」
「まだ一つしか話してないぞ」
「一つ聞いたら増えてるでしょう?」
「増やしてない。補足だ」
「それを増えたって言うのよ」
「若いのに細かいな」
「話が長い人に言われたくないわ」
ラウルが苦笑しながら立ち上がる。
「また必要になったら聞きに来る。今日は助かった」
「次は大魚の話をしてやる」
「覚えてたらね」
セルマが答える。
「忘れるなよ」
「そっちこそ」
老人に礼を告げ、七人は歩き出した。
ラウルとセルマ、ニルスは少し先で、今聞いた話について話している。ガルムとクラリスもその後ろへ続いた。
エルディアスは歩調を落とした。
リュシアも自然に隣へ残る。
――さっきの話ですね。
――ああ。
――エルが先ほど私に尋ねた話と同じでした。
――昨日、あの爺さんからも聞いた。お前も一緒にいた。
リュシアはしばらく黙った。
――受付をしていた叔母さんの家にも。
――ああ。
――あの方にも昨日会った。
――そうだ。
――私は、どちらも覚えていません。
エルディアスは前を歩く六人を見る。
リュシアの答えは二つ。
叔母を知らない。
獣の昔話も知らない。
その一方で、自分の記憶にあった家は実在し、目印も一致した。女もいた。老人が語った話まで同じだった。
偶然で片づけられる数ではなかった。
――何かがおかしい。
――はい。
リュシアの返事に迷いはなかった。
――私も、そう思います。
エルディアスは少し考えた。
叔母でも、昔話でもない。
もっと単純なことを確かめる。
――最後に一つ。
――はい。
――今日は、俺たちがこの村に来て何日目だ。
リュシアは少しも迷わなかった。
――二日目です。




