第42話 二日
明けの鐘が鳴った。
低い音が旅人用の家の壁を震わせる。エルディアスが目を開けると、向かいの寝台ではラウルが剣帯を手に取っていた。ガルムも身体を起こし、大きく肩を回している。
「朝飯の前に、入口へ寄ってくる」
ラウルが言った。
「一晩経って変わるものなら、今見れば分かる」
「俺も行こう」
ガルムが立ち上がる。
「二人でいい。全員で試す必要はない」
「結果だけ聞くのも落ち着かんだろ」
寝台の端で靴を履いていたニルスが口を挟んだ。
「どうせ起きた。俺も行く」
「でしたら、私も行きます」
リュシアが外套を羽織る。
「結局みんな行く流れ?」
毛布を退けたセルマが周囲を見回した。
「私は朝食を先にしてもいいのだけれど」
「そう言いながら、もう起きていますね」
クラリスが言う。
「鐘で起こされたのよ。あれだけ近ければ嫌でも目が覚めるわ」
「では待っていますか?」
「それは嫌」
「なら決まりだな」
ラウルは苦笑し、剣帯を締めた。
朝になれば入口をもう一度確かめる。その判断自体におかしなところはない。昨日の夕方にも似た話はしていた。
七人は簡単に身支度を整えて外へ出た。
村はすでに動き始めていた。井戸では若い女が桶へ水を汲み、少し離れた家の軒先では男が籠を積み重ねている。畑へ向かう者もいたが、道を歩く顔ぶれは昨日とは違っていた。
受付の小屋を過ぎ、鐘楼の脇まで来る。
岩壁の切れ目の前には、背負い籠を置いた女がいた。中には小さな鎌と布袋が入っている。七人を見ると、女は少し驚いたように眉を上げた。
「こんな朝早くから、どうしたの?」
「入口を確かめに来た」
ラウルが答える。
「ああ。出られないって話か。まだ駄目なの?」
「これから試す」
「そう。私は森へ行くけど、先に通った方がいい?」
「頼めるか」
「いいよ。茸を採りに行くだけだから」
女は籠を背負い、岩壁の切れ目へ歩いていった。そのまま何の抵抗もなく村の境を越え、森側へ出る。
少し進んだところで振り返った。
「普通だけど?」
「ああ。助かった」
「帰りは昼を過ぎると思うよ」
「入口で何か変わったことがあったら教えてくれ」
「分かった。でも、毎日通ってるけど、変だと思ったことはないね」
女はそう言って森へ入っていった。
今度はラウルが境界へ進む。
岩壁の間には何もない。森から流れ込む風も、そのまま村の中へ抜けている。
一歩進む。
次の足が止まった。
身体を前へ倒しても、それ以上は進まない。押し返される感触があるわけでもなく、ただ森側への移動だけが成立しなくなる。
ラウルは数秒試し、すぐに力を抜いた。
「駄目だな」
「代わるか?」
ガルムが尋ねる。
「いや。条件が変わってないことが分かれば十分だ」
「村人は通れる。俺たちは通れない。そこも変わらず、か」
ニルスが記録板へ短く書き込む。
「少なくとも、夜を越えれば解除されるものではなさそうですね」
クラリスが境界を見る。
「ああ。戻ろう。飯を食ったら村の方を当たる」
七人は入口を離れた。
広場へ差しかかったところで、エルディアスは三神像へ目を向けた。
足は止めなかった。
三体の像は変わらず台座の上に立っている。赤、黄、青の仮面も同じだった。
ただ、正面にある色が違う。
青。
最初に村へ入った時は黄色だった。
昨日は赤だった。
今日は青い仮面が広場へ続く道を向いている。
「エル」
隣からリュシアが呼ぶ。
「何だ」
「また像を見ていましたね」
「見ただけだ」
「そうですか」
リュシアも一度だけ三神像へ目を向けたが、それ以上は聞かなかった。
◇
朝食を済ませると、ラウルは卓へ広げたニルスの記録を眺めた。
「入口は変化なし。なら、何が俺たちと今までの旅人で違うのかを詰めたい」
「人数、滞在、役目」
ニルスが記録を指で追う。
「まずはその辺りか」
「受付の子に聞いてみた方が早くない?」
セルマが言った。
「あの子、旅人が来るたびに役目を見てるんでしょう。村の人より、誰が何人で来たか覚えてるかもしれないわ」
「俺もそう思ってた」
ラウルが頷く。
「昔から受付をしてるかも聞ける。本人が知らなければ、前にやってた奴がいるかもしれん」
「三神についても聞きますか?」
クラリスが尋ねる。
「受付で昔話まで聞く必要はないだろう。詳しい奴がいるなら紹介してもらえばいい」
「それなら話が早いわね。私はそっちも聞きたい」
「分かってる。順番にやるぞ」
「急かしてないでしょう?」
「今のうちに言ってる」
「信用ないわね」
「積み重ねだろ」
ガルムに言われ、セルマが眉を寄せる。
「あなたまで言うの?」
「事実だ」
エルディアスは卓の上の記録へ目を落とした。
受付の少女に昔の旅人について聞く。三神の昔話を知る者がいれば、それも当たる。
昨夕にも似た話は出ていた。
それを今、初めて考えたように話しているようにも聞こえる。
少しだけ引っかかった。
だが、入口が変わらなかった以上、朝の結果を踏まえて今日の順番を決め直しているだけとも取れる。わざわざ昨日の話を持ち出す必要もない。
「エル?」
ラウルがこちらを見ていた。
「何だ」
「他に聞いておきたいことは?」
「観測者」
「ああ。それは外せないな」
「過去にも出た役目か。それだけは聞け」
「分かった」
エルディアスは立ち上がった。
「行くぞ」
受付の小屋では、盲目の少女が机の上に細い紐を並べていた。結び目を指先で確かめながら長さを揃えている。
扉が開く音に顔を上げた。
「おはようございます。皆さん、今朝も入口へ行っていたのですね」
ラウルが足を止めた。
「分かるのか?」
「皆さんの足音は覚えました。それに、鐘楼の方から戻ってくるのが聞こえていましたから」
「そうか」
「まだ出られませんでしたか?」
「ああ。変わらない」
「そうですか……」
少女は少し声を落とした。
「それで、今日は何を聞きに来たのですか?」
「昔の旅人についてだ」
ラウルが机の前へ進む。
「お前はいつからここで受付をしてる?」
「五年くらいです。その前は叔母がしていました」
「それなら、その五年でいい。俺たちみたいに何人かまとまって来た旅人を覚えてるか?」
「まとまって、ですか?」
「五人とか六人とかだ」
少女は少し考えた。
「五人ならあります。六人も、一度あったと思います」
「七人は?」
「そこまでは覚えていません。皆さんが来た時には多いと思いましたけれど、人数を記録しているわけではありませんから」
「役目は全員見るんだよな?」
「はい。村へ来た旅人の方にはお願いしています」
「言われた役目を断る奴もいる?」
「いますよ。急いでいる方もいますし、自分にはできないと言う方もいます」
「断ったら何か困るのか?」
「いいえ」
少女は不思議そうに首を傾げた。
「役目は、その方に向いていることが分かるだけですから。必ずしていただくものではありません」
クラリスが少女へ顔を向ける。
「役目を断ったために村から出られなくなった方や、具合が悪くなった方はいましたか?」
「私は知りません。その日のうちに帰った方もいます」
「そうか」
ラウルが腕を組む。
「観測者は?」
ニルスが尋ねた。
少女の答えは早かった。
「エルさん以外にはありません」
「一度も?」
「はい。少なくとも、私が受付をするようになってからは初めてです。何をする役目なのか分からなくて困りましたから、間違えないと思います」
「叔母なら知ってる可能性は?」
「聞いてみないと分かりません。でも、変わった役目が出た時はよく話してくれていました。観測者という名前なら、私も聞いたことがあると思います」
「その叔母に話を聞けるか?」
「家にいれば大丈夫だと思います」
「場所を教えてくれ」
「広場へ向かう途中に、屋根へ青い布を干している家があります。扉の横に木の鳥が掛かっていますから、すぐ分かります」
「助かる」
少女はそこで少し考えた。
「昔の旅人についてでしたら、もっと年上の方にも聞いてみた方がよいかもしれません」
「誰かいるの?」
セルマがすぐに反応する。
「広場の向こうに、昔話が好きなお爺さんがいます。旅人のことをどれくらい覚えているかは分かりませんけれど、三神様のお話ならたくさん知っています」
「その人の家も教えて」
少女が小さく笑った。
「三神様のことも気になっているのですね」
「分かる?」
「村へ来た方は、三神像を見ると聞くことがあります。赤と黄と青で見た目も違いますから」
「それなら普通なのね」
「はい。珍しいことではありません」
セルマは少し拍子抜けしたように肩を落とした。
「何よ。そのくらい珍しがらせてくれてもいいのに」
「何を期待してるんだ」
ニルスが言う。
「別に。何か特別な話があってもいいでしょう?」
「聞く前から決めるな」
「分かってるわよ」
少女から二軒の場所を教えてもらい、七人は小屋を出た。
◇
青い布を干した家へ向かう途中、道の先から大きな音がした。
木が倒れる音に続いて、山羊の鳴き声が響く。
「待て! そっちへ行くな!」
少年が一人、道へ飛び出してきた。その横を山羊が走り抜ける。
ラウルが足を止めた。
「ニルス、右」
「分かった」
ニルスが道の反対側へ回り込む。山羊は二人を避けるように進路を変えたが、その先にはガルムがいた。
「こっち来るぞ」
「見えてる」
ガルムは無理に捕まえようとせず、両腕を広げて道を塞ぐ。行き場を失った山羊が止まり、追ってきた少年が首に掛かった縄を掴んだ。
「捕まえた……!」
「強く引くな。暴れる」
ガルムが言う。
「ゆっくり戻せ」
「う、うん。ありがとう!」
少年が山羊を連れて戻っていく。
道の奥では、柵の一部が外側へ倒れていた。中年の男が傾いた柱を押さえながらこちらを見ている。
「悪い! 助かった!」
「柵が倒れたのか?」
ガルムが近づく。
「柱が腐ってたらしい。山羊が身体を擦りつけたら、そのままいった」
ガルムは柱の根元へしゃがみ込んだ。指で木を押すと、湿った部分が簡単に崩れる。
「これじゃ立たんな」
「替えの柱はあるんだが、一人じゃ山羊を戻しながら直せなくてな」
「持ってこい」
「いいのか?」
「ここまで来たんだ。放っていってまた逃げたら面倒だろ」
男が笑う。
「受付で修繕って言われたの、あんただったか?」
「ああ」
「ならちょうどよかった」
「役目がなくても手伝う」
「そりゃそうか」
男は納屋へ柱を取りに走った。
セルマが傾いた柵を見る。
「こういう時には便利ね、あの役目」
「頼む相手を決めるにはな」
リュシアが答える。
「ガルムさんが修繕に向いていると分かっていれば、声を掛けやすいのでしょう」
「私は竈だったから、竈で何かあれば呼ばれるってことね」
「壊すなよ」
ガルムが振り返らずに言う。
「私が壊すとは言ってないでしょう?」
「先に言っておく」
「二人とも私の扱いが雑じゃない?」
エルディアスは何も言わず、ガルムの横へ立った。
「支えるか」
「頼む」
新しい柱を入れ、土を固める。ガルムが位置を決め、エルディアスとラウルが柱を押さえた。ニルスは外れた横木を戻し、リュシアとクラリス、セルマは少年と一緒に山羊を柵へ戻していく。
作業そのものは長く掛からなかった。
「これで大丈夫だ」
ガルムが柱を揺らす。
「他の柱も根元を見た方がいい。一本腐ってるなら、隣も同じくらい古いだろ」
「そこまで分かるのか?」
「見れば分かる」
「じゃあ後で全部見るよ。本当に助かった」
男は家から小さな袋を持って戻ってきた。
「礼だ。干した果物が入ってる」
「いらん」
「そう言うと思ったから七人で食えるくらい持ってきた」
「話を聞け」
「聞いた上で持ってきたんだよ」
ラウルが笑い、袋を受け取った。
「なら、ありがたくもらう」
「おい」
「断っても押しつけられるぞ」
男が大きく頷く。
「分かってるじゃないか」
「こういうのには慣れてる」
「どういう慣れ方よ」
セルマが言う。
「冒険者をやってれば時々ある」
ラウルは袋を背負い袋へ入れた。
「行くぞ。予定より遅れた」
受付をしていた少女の叔母は、教えられた家にいた。
五十を越えたくらいの女で、戸口に掛かった木の鳥を膝へ載せ、切れかけた紐を結び直している。七人が近づくと手を止めた。
「見ない顔だね。姪のところに来ていた旅人かい?」
「ああ。少し話を聞きたい」
ラウルが答える。
「前に受付をしていたと聞いた」
「昔の話だよ。何を知りたいんだい?」
家の前に置かれた長椅子を借り、何人かは壁際へ立つ。
「昔、七人以上で来た旅人を覚えてるか?」
「七人以上?」
女は少し考え込んだ。
「一度、ずいぶん多い連中が来たことがあったね。商人と護衛が一緒だった」
「何人くらい?」
「八人か九人……いや、もっといたかもしれない。荷車が三台あって、入口が人と馬でいっぱいになったのを覚えてる」
「十人近くいた可能性もある?」
「あるね。七人よりは多かったと思うよ」
「村に泊まったか?」
「泊まった。荷を売るのに何日か掛かってたからね」
「帰る時は?」
「普通に帰ったよ」
女は即答した。
「そんな大人数が入口で立ち往生したなら忘れないさ。荷車ごと出ていった」
ニルスが記録板へ書き込む。
「全員、役目も見た?」
「見たはずだよ。受付だったんだから」
「珍しい役目は?」
「何だったかなあ。荷運びや料理人はいた気がするけど、全部までは覚えてないよ」
「観測者は?」
女がエルディアスを見る。
「それが、あんたの役目?」
「ああ」
「ないね」
「言い切れるのか?」
「そんな名前なら覚えてるよ。何をする人なのか分からなくて、私は絶対に聞き返す」
セルマが小さく笑う。
「確かに」
「笑うところか?」
「だって、私も聞き返したもの」
「お前は何でも聞くだろ」
「失礼ね。分からないことだけよ」
「多いんだろ」
「ニルスまで言う?」
女が二人を見て笑った。
「仲がいいねえ」
「そう見えるなら多分間違ってるわ」
「そこまで否定するなよ」
ラウルが話を戻す。
「役目を断った旅人は?」
「いくらでもいたよ。朝に来て、飯だけ食べて、そのまま出ていく人だっている。役目を聞いたからって村で働く決まりじゃない」
「その辺りは今も同じらしいな」
「昔から変わってないよ」
ラウルはニルスの記録を覗いた。
「これで人数はかなり薄くなったな」
「ああ。七人だから閉じた、は考えにくい」
ニルスが答える。
「役目を言われたこと自体も同じだ」
「残る違いは観測者か」
ガルムが言う。
「今分かっている中では、です」
クラリスが補う。
「ほかにも、私たちが気づいていない違いがあるかもしれません」
「そうだな。そこは決めつけない」
ラウルは女へ顔を戻した。
「助かった。十分だ」
「もういいのかい?」
「ああ。覚えてないことを無理に思い出してもらっても仕方ない」
「それなら助かるよ。年を取ると、昔の人数まで正確に答えろと言われるのが一番困る」
「あなた、まだそこまで年寄りじゃないでしょう」
セルマが言う。
「そういうことを言う子は好きだよ」
「ほら」
「調子に乗るな」
ラウルが立ち上がった。
「そうだ。三神の昔話に詳しい爺さんがいると聞いたんだが」
「ああ。向こうの奥に住んでる爺さんだろ」
女が笑う。
「あれに聞くなら覚悟した方がいいよ。一つ聞けば十返ってくる」
「本当にそんなに?」
セルマが顔をしかめる。
「お前が聞きたがったんだろ」
「聞きたいのと、一日中聞きたいのは違うわよ」
「なら最初に短く頼め」
「そうする」
◇
三神の昔話に詳しいという老人は、話を聞きたいと伝えると本当に嬉しそうな顔をした。
「三神様か。どの話がいい?」
「まだ何も聞いてないわよ」
セルマが言う。
「だから選ばせてやろうと思ってな。森の獣、水場、大火事、迷い子、豊作――」
「待って。一つずつ出さなくていいから」
「注文が多い娘だな」
「私たち、三柱がそれぞれどんな神様なのか知りたいの」
「どんなと言われても、三神様は三神様だ」
「赤は火、青は水、みたいな違いはないの?」
「ないな」
老人はあっさり答えた。
「赤の神様が雨を降らせた話もあるし、青の神様が森の獣を追い払った話もある」
「逆じゃないの?」
「何がだ?」
「色の印象」
「神様に色の印象を押しつけるな」
「妙にもっともらしいことを言うわね」
ニルスが笑った。
「それなら、三柱で同じような話があるのか?」
「ああ。あるぞ」
老人は膝を叩く。
「昔、この村に大きな獣が来た。牛より大きくて、畑を荒らし、家畜まで食った。それを神様が追い払った」
「どの神様が?」
「うちでは赤だ」
「うちでは?」
「向こうの家じゃ青だと言う。村長の家は黄だったかな」
「同じ出来事なのに?」
「そうだ」
老人は不思議でもないように答えた。
「昔話なんてそんなものだ。誰から聞いたかで少しずつ変わる」
リュシアが老人を見る。
「出来事そのものは、どの家でも同じなのですか?」
「大体はな。獣が来た。神様が助けた。村は残った。そこは変わらん」
「神様だけが違う?」
「そういう話はいくつかあるぞ。旱魃の時に水場を教えたのが赤だったり黄だったり、森で迷った子供を連れ帰ったのが青だったり赤だったりな」
「それで揉めないの?」
セルマが尋ねる。
「昔は揉めたらしい」
「やっぱり」
「だが、何代も経てばどうでもよくなる。三神様のどなたかが助けてくださった。それで村が残ったならいいだろう、とな」
「三柱が争った話は?」
エルディアスが尋ねた。
老人は目を瞬いた。
「三神様同士が?」
「ああ」
「聞いたことないな」
「どれか一柱が勝つ話は?」
「何に勝つんだ?」
「残りの二柱に」
老人はますます不思議そうな顔をした。
「どうして三神様がそんなことをする?」
「知らないから聞いてる」
「なら、ないな。少なくとも俺は知らん」
三王。
勝者の歴史のみが続く。
村で伝わる三神の話とはまだ繋がらない。
その一方で、同じ出来事について赤、黄、青で異なる話が残っている。
――少し気になりますね。
リュシアの声が内側へ届く。
――ああ。
――同じ出来事で、違う神が語られていることがです。
――昔話ならある。
――はい。ですから、今はそれ以上ではありません。
――覚えておけ。
――もちろんです。
ラウルも何か考えていたらしい。
「三神像は、いつからある?」
「いつから?」
老人が首を傾げる。
「広場の像だ。誰が作った?」
「そんな昔のことは知らんな。俺の爺さんが子供の頃にもあったそうだから、相当古いぞ」
「修理したことは?」
「聞いた覚えはない」
「雨風に晒されてるだろ」
「そう言われればそうだな。だが、俺が見てる限りは昔から変わらん」
セルマが少し身を乗り出す。
「欠けたりもしないの?」
「ないなあ」
老人はそこで何かを思い出したのか、口元を緩めた。
「そういえば、昔は旅人が像を叩いたなんて話もあったな」
「叩いた?」
ラウルが聞き返した。
先ほどまでより声がわずかに低かった。
「ああ。俺が子供の頃に聞いた話だ。もっと昔に来た旅人が、酒を飲んで三神様の前で騒いだらしい。何が気に入らなかったのか、剣を抜いて像へ振り下ろしたんだと」
「罰当たりね」
セルマが言う。
「そうだろう? 村の連中が慌てて取り押さえたらしい」
「像は?」
ラウルが尋ねた。
「何ともなかったそうだ。傷一つつかなかったとか。逆に剣の刃が欠けたと聞いたぞ」
ラウルが三神像のある方角へ目を向ける。
「石像に剣を振って、剣の方が?」
「そういう話だ。昔話に近いから、どこまで本当かは知らんがな」
「その旅人はどうなった?」
クラリスが尋ねた。
「どうもならんよ。酔いが覚めたら随分謝ったらしい。翌朝には村を出ていったはずだ」
「普通に?」
「普通にだ。神様に罰を当てられて死んだなんて話なら、もっと面白く残ってるだろ」
「面白く、ですか」
「昔話なんて、そういうものだ」
クラリスは少し困った顔をした。
セルマがラウルを見る。
「塔みたいね」
「何がだ?」
「傷がつかないところ。ガルムが斧を当てても、塔の壁には跡が残らなかったでしょう?」
ラウルはすぐには答えなかった。
「似てるとは限らん」
「それはそうだけど」
「塔はダンジョンの構造物だ。こっちは村の神像だ」
「だから、本当にただの神像なのかって話でしょう?」
ニルスも老人から三神像の方角へ目を移す。
「材質が普通の石じゃない可能性はあるな」
「調べるの?」
セルマが尋ねた。
「今ここで決める話じゃない」
ラウルは老人へ戻る。
「ほかに、像について変な話は?」
「変な話?」
「壊れたとか、動いたとか、急に増えたとか」
「ないな。ずっと三柱だ」
「向きを変えることは?」
エルディアスが口を挟んだ。
老人が不思議そうにこちらを見る。
「向き?」
「いや。何でもない」
「祭りの時に飾りを付けるくらいはするが、像を動かしたなんて聞いたことはないぞ。あんなもの、何のために動かすんだ」
「そうか」
エルディアスはそれ以上聞かなかった。
ラウルも口を閉じた。
老人は少し待ってから、自分で次の話を始めようとする。
「ほかには大魚を釣った話もあってな――」
「今日はそこまで」
セルマがすぐに止めた。
「何だ。ここから面白いのに」
「十分聞いたわよ」
「まだ一つと少しだ」
「その一つが長いの」
「若いのに気が短いな」
「話が長い人に言われたくないわ」
ラウルが苦笑しながら立ち上がった。
「また必要になったら聞きに来る。助かった」
「次は大魚の話をしてやる」
「覚えてたらね」
セルマが答える。
「忘れるなよ」
「そっちこそ」
老人に礼を告げ、七人は歩き出した。
少し進んだところでセルマが口を開く。
「ねえ、やっぱり気になるでしょう?」
「何がだ」
ラウルが尋ねた。
「三神像よ。大昔からあって、雨風に晒されても欠けない。剣で斬っても傷がつかない」
「老人が聞いた昔話だ」
「でも、塔の壁も傷がつかなかった」
「だから同じとは限らんと言っただろ」
「分かってるわよ」
セルマは少し考えてから続けた。
「ただ、普通の石像じゃないなら、三王と関係ある可能性も少し上がらない?」
「少しはな」
ラウルはあっさり認めた。
「でも、村人が何代も祀ってるものだ。怪しいから斧で割ってみよう、とはならん」
「私もそこまでは言ってないでしょう?」
「お前なら言いかねないから先に言った」
「本当に信用がないわね」
「壊れないなら叩いても平気なんじゃないか?」
ガルムが言った。
セルマがすぐに振り返る。
「ガルムまでそっち?」
「そういう意味じゃない」
ガルムは眉を寄せた。
「昔の旅人が本当に剣を振って傷一つなかったなら、材質を確かめる方法はあるだろうと言っただけだ。削れない程度に触れるとか、土の術式で反応を見るとか」
「それならエルの方が向いてるわね」
視線が集まる。
「俺を見るな」
エルディアスが言った。
「調べられない?」
「石なら土で多少は分かる。塔は何も返さなかった」
「ほら」
「何が、ほら、だ」
「比べられるじゃない」
「村の神像だぞ」
「分かってるわよ。勝手にやれとは言ってない」
ラウルが会話を切った。
「今はいい。まず昼に戻る。今日分かったことをまとめてからだ」
七人は旅人用の家へ戻った。
◇
昼食には保存食と、朝にもらった干し果物を分けた。
ニルスが記録板を卓へ置く。
「十人近い旅人が泊まって、普通に帰った例がある。人数だけを原因にするのはかなり無理がある」
「七人という数そのものに意味がある可能性まで消えたわけではありませんが、優先度は下げてよいでしょう」
クラリスが答える。
「受付で役目を見てもらったことも同じだ。断った奴も帰ってる」
ガルムが干し果物を一つ取った。
「今分かってる中で、俺たちだけにあるのは観測者か」
「そればかり見ても仕方ない」
ラウルが答える。
「初めてだから怪しい。それ以上はまだない」
「三神像は?」
セルマが尋ねた。
ラウルはすぐに答えず、卓の端へ置かれた記録板へ目を落とした。
「分からん」
「さっきより慎重ね」
「何がだ」
「老人の話を聞く前なら、同じ数というだけだって言って終わりそうだったもの」
「傷がつかないって話が増えた」
「気にはなってるのね」
「ああ」
ラウルは否定しなかった。
「ただ、昔話をそのまま信じるつもりもない」
エルディアスが水を飲みながら口を開く。
「確かめるなら、まず見ればいい」
「近くで?」
「ああ。台座も含めてな。触らなくても分かることはある」
「なら午後に一度見るか」
クラリスがラウルを見る。
「村の方には一声掛けた方がよいと思います。祈るだけではなく、近くで調べるのであれば」
「そうだな」
「壊さない範囲ならいいでしょう?」
セルマが尋ねる。
「お前は何もしなくていい」
「どうしてよ」
「火を出すからだ」
「出さないわよ」
「出す必要もない」
「まだ出すと言ってないでしょう?」
「なら問題ない」
「話が通じてるようで通じてないわね」
昼食を終えると、七人は一度広場へ向かった。
村長に三神像を近くで見てもよいかと尋ねると、怪訝そうな顔はされたものの、触れたり傷つけたりしないのであれば構わないと言われた。
三体の像は、近くで見ても古かった。
石の衣には細かな凹凸がある。苔こそほとんど付いていないが、新しく作られたものには見えない。赤、黄、青の面だけは石とは違う材質で、表面は滑らかだった。
正面には青い面がある。
エルディアスは台座の縁へしゃがみ込んだ。
「どう?」
セルマがすぐ横から覗き込む。
「まだ何もしてない」
「見れば分かることがあるって言ったでしょう?」
「見る時間くらい寄越せ」
「セルマ、少し離れてください」
クラリスに言われ、セルマは渋々一歩下がった。
エルディアスは台座と像の境目を見る。三体の足元は台座から削り出したようにも見えたが、継ぎ目がまったくないわけではない。
「普通の石に見える?」
ラウルが尋ねた。
「見た目だけならな」
「塔は?」
「見た目から違った」
「じゃあ同じではない?」
「見た目が違うだけだ」
「まだ何も分からないってことね」
セルマが言う。
「そう言ってる」
ガルムは腕を組んだまま像を見上げていた。
「老人の言う剣の跡もないな」
「何十年も前なら、普通の石でも削れた場所が風化して分からなくなることはあります」
クラリスが答える。
「剣が欠けたというところまで本当かも分かりません」
「昔話だものな」
ニルスが言った。
ラウルは青い仮面から、像の胴、台座へ順に視線を移した。
「エルディアス。術式を使えば何か分かるか?」
「土を流せば、石なら多少は返る」
「像を壊す?」
「その程度じゃ壊れない」
「村長に聞くか」
「そこまでやるの?」
セルマが尋ねる。
「やるなら勝手にはやらん」
ラウルは村長の家へ向かおうとしたが、クラリスが止めた。
「今すぐ必要でしょうか」
「何がだ?」
「像が普通の石であるかどうかを確認しても、それだけで村から出られるわけではありません。観測者についても、まだ叔母さん以外へ十分に聞いたわけではありませんし、入口以外の確認も残っています」
「……そうだな」
ラウルは一度三神像を見上げ、それから離れた。
「今日は後回しだ」
「意外と素直ね」
セルマが言う。
「必要な順番の話だ」
「分かってるわよ」
午後は村の中を分かれて見て回った。
ニルスとリュシアは畑の周辺を歩き、獣の出入りする痕跡を確認した。ラウルとガルムは数日分の食料を買い足しながら、入口以外に村外へ通じる道がないか村人へ尋ねる。クラリスとセルマは井戸や共同小屋、怪我人が出た時に使う場所などを教えてもらった。
エルディアスはラウルたちと途中まで歩いた後、一人で広場へ戻った。
三神像を見るためではない。
少なくとも、そのつもりだった。
村の中心を通れば、どこへ行くにも近い。それだけだ。
青い面が正面を向いている。
朝から変わっていない。
エルディアスは歩調を落とさず、そのまま通り過ぎた。
◇
夕方、七人は旅人用の家へ戻った。
新しく見つかった出口はない。ニルスとリュシアが確認した畑の端には小動物の足跡があったが、岩壁の外へ続くものではなかった。壁際を掘った跡も一つあったものの、小さな獣が土を掻いただけで、すぐ岩に当たって終わっている。
「結局、今日分かったのは人数と役目くらいか」
ガルムが言った。
「三神についても増えたでしょう?」
セルマが返す。
「昔話が増えた」
「それも情報よ」
「像が傷つかないって話もな」
ニルスが記録板へ目を落とす。
「ただし、伝聞。実物は未確認」
「わざわざそこまで書くの?」
「後で誰かが読んで、本当に剣で傷つかないと決まったと思ったら困るだろ」
「そういうもの?」
「そういうものだ」
ラウルは椅子へ座ったまま、少し考えていた。
「エルディアス」
「何だ」
「塔の壁の時、ガルムの斧はどのくらい当てた?」
「刃を置いて、少し力を掛けた程度だ。叩きつけてはいない」
「それでも傷はなかった」
「ああ」
「土の反応もなかったな」
「あれは石として拾えなかった」
「普通の建造物じゃない?」
「普通ではないだろうな」
セルマが二人を見比べる。
「まだ昼の話を考えてたの?」
「少しな」
ラウルが答える。
「三神像が塔と同じだと言いたいわけじゃない。ただ、もし普通の石じゃないなら、村の信仰とは別に、ダンジョンの構造物として考える必要があるかもしれん」
「だったら明日、村長に頼んで術式を試せばいいんじゃない?」
「そうだな」
ガルムが頷く。
「許可が出るなら、その方が早い」
「でも、土の反応が返ったら?」
セルマが尋ねる。
「普通の石だった。それだけだ」
「返らなかったら?」
「考える材料が一つ増える」
ラウルはそこで話を切った。
「今日はもういい。明日の朝に入口を見て、それでも駄目なら続ける」
クラリスが頷く。
「焦って試す必要はありません。昔の旅人が像を叩いた後に帰れたという話も、像を叩いたから帰れたという話ではありませんから」
「ああ。そこは分かってる」
「念のためです」
「俺までセルマ扱いか?」
「どういう意味よ」
「勝手に試しそうだと言われた気がした」
「私はまだ勝手に何も試してないでしょう?」
「今のところはな」
「ラウルまでそれを言う?」
少し笑いが起こった。
夕食を終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。
七人は明日の方針を簡単に確認し、それぞれ寝台へ戻った。朝は入口。変化がなければ、観測者についてもう少し聞き取りを続ける。三神像について何か試す場合も、村長には話を通す。
それ以上を決める材料はない。
灯りを落とす。
しばらくすると、室内には寝息と時折寝返りを打つ音だけが残った。
エルディアスはまだ眠っていなかった。
目を閉じてはいたが、朝から何度か覚えた小さな引っかかりが頭の隅に残っていた。
ラウルたちの話し方。
同じようなことを、もう一度確かめているように思えたこと。
だが、今日聞いた相手は昨日とは違う。新しく分かったことも多い。村人の行動も、昨日とはまったく違っていた。
気にするほどのものではない。
そう考えていると、布の擦れる音がした。
目を開ける。
ラウルが寝台から起き上がっていた。
外套を羽織り、壁際に置いていた剣帯を腰へ回している。
「どこ行く」
声を抑えて尋ねると、ラウルがこちらを見た。
「起きてたのか」
「ああ」
「少し歩いてくる」
「今から?」
「眠れん」
ラウルは留め具を確かめた。
「昼の話が頭に残ってる」
「三神像か」
「ああ」
返事は早かった。
「さっき明日にするって言っただろ」
「何か試すわけじゃない。近くで一度見てくるだけだ。昼は人も多かったからな」
「一人で?」
「村の中だぞ。広場まで行くのに七人で動く必要はない」
それはそうだった。
村には魔物の気配もない。家々にはまだ灯りの残っているところもあり、危険を考えるような距離でもない。
「戻る時に起こすなよ」
「善処する」
「する気ないだろ」
「寝てろ」
ラウルは小さく笑い、扉へ向かった。
「ラウル」
「何だ?」
「村の中だけにしろ」
「そのつもりだ」
扉が静かに開き、閉じる。
足音が遠ざかっていく。
エルディアスはしばらく暗い天井を見ていたが、やがて目を閉じた。




