第37話 集落
二度目に目を覚ました時、森の上には薄い朝の光が差し始めていた。
エルディアスは野営布の上で身体を起こし、まだ眠気の残る目を擦った。火はすでに消され、土の窪みには灰だけが残っている。最後の見張りだったニルスは倒木の端に立ち、セルマとクラリスもそれぞれ森の別方向を見ていた。
「起きたか」
ニルスが振り返る。
「ああ。何かあったか」
「何もない。枝が何度か揺れた程度だ。近づいてきたものも、人の声もなし。橋の方も変わってない」
「結局、何も来なかったのね」
セルマは白木の杖を肩へ載せた。
「何も来なかったことを残念がらないでください」
クラリスが返す。
「残念とは言ってないでしょう。第二層で初めて野営したのに、本当に何もなかったと思っただけよ」
「何もなかったなら、それが一番です」
「分かってるわよ。ちゃんと眠れたし」
「途中で一度、寝言を言っていました」
「私が?」
「はい」
「何て?」
「聞き取れませんでした」
「なら、言わなくてもよかったんじゃない?」
「寝言を言っていたことは事実ですから」
セルマは何か言い返そうとしたが、起き上がったガルムの方を見てやめた。
「俺は盾を蹴ってないぞ」
「誰も聞いてない」
ニルスが答える。
「昨日、記録すると言っていただろう」
「蹴ったらな。何もなかったなら書かん」
「ならいい」
「そっちは気にしてたのね」
セルマが笑うと、ガルムは大盾を持ち上げて革帯の位置を確かめた。
少し遅れてラウルとリュシアも起きる。リュシアは外套を整えた後、いつものように剣をわずかに鞘から引き、引っ掛かりがないことを確かめて戻した。
森には朝の光が差している。それでも鳥の声はなく、虫の羽音も聞こえない。明るくなった分だけ、何も鳴いていないことがかえって目立った。
ラウルはニルスの砂時計を受け取り、記録板へ残された印を確認した。
「夜の長さは?」
「外と比べる基準がないから、何とも言えない。砂時計自体は普通に落ちてる。見張りの交代も予定した分だけ取れた」
「昨日みたいに、空だけが急に進んだ感じは?」
「少なくとも夜中には分からなかった。木の下じゃ月や星もほとんど見えないからな」
「戻ってから確認するしかないか」
「ああ。向こうで何刻経っていたか分かれば、少しは比較できる」
ラウルは砂時計を返した。
「なら、今ここで考えても増えるものはない。朝飯を済ませて出る。先に橋と水を確認するぞ」
昨夜の残りの保存食を食べ、七人は野営地を片づけた。火を使った窪みには土を戻し、灰の中に熱が残っていないことを確かめる。縄と野営布を回収し、周囲へ置いた荷物も一つずつ数えた。
最後にクラリスが七人の顔色と動きを見た。
「睡眠は十分とは言えませんが、体調に問題がある方はいませんか。頭痛や吐き気、普段と違う強い疲労感があれば、今のうちに言ってください」
「俺はない」
ガルムが大盾を背負う。
「私も大丈夫よ。地面で寝た分、少し背中が固いくらい」
「それは私も同じです」
クラリスはラウルとニルスにも確認し、最後にエルディアスとリュシアを見る。
「問題ない」
「私もありません」
「では進めます。ただし、昨日は予定外の野営になっています。今日も戻る時間を変えるようなことはしないでください」
「俺に言ってるのか?」
ラウルが尋ねる。
「全員にです。特に、目的地らしいものが見つかった場合に」
セルマがクラリスを見る。
「どうしてそこで私を見るの?」
「見ていません」
「今、見たでしょう」
「全員を見ました」
「最後が私だっただけ?」
「そうです」
「ならいいけど」
ラウルは七人が荷物を背負ったことを確認し、野営地を出た。
橋までは遠くない。
昨夜は暗くなる前に少し戻っただけだったため、水音を辿るまでもなく、ほどなく木々の間から沢が見えてきた。朝の光を受けた水面は澄んでおり、昨日と同じ速さで流れている。
二本の丸太も、そのまま残っていた。
ニルスとリュシアが先に周囲を確認する。夜の間に増えた大きな足跡はなく、橋の両端へ寄せられた石も動いていない。
「少なくとも、俺たちが寝ている間に何か大きなものが渡った跡はないな」
ニルスがしゃがみ、岸の土へ目を近づけた。
「小さい跡は?」
セルマが隣から覗き込む。
「それらしいのはある。ただ、昨日からあったものか分からん。橋の周りは俺たちも歩いてるからな」
「水はどうする?」
ラウルに尋ねられ、エルディアスは沢の上流へ目を向けた。
「少し見る」
七人全員で動く必要はない。エルディアスとリュシア、ニルスの三人が沢沿いを上流へ進み、残る四人は橋の周囲へ残った。
沢は浅く、底の小石まで見えている。水面に油のようなものは浮いておらず、鼻へ近づけても腐臭や薬品のような臭いはしない。上流へ少し進んでも、動物の死骸や大きな淀みは見つからなかった。
「見た範囲では普通ですね」
リュシアが言った。
「ああ。ただ、それだけだ」
エルディアスは杖を向け、水を掌ほどの量だけ持ち上げた。流れから離れた水は透明で、細かな砂がわずかに混じるだけだった。
「毒が混じっていても、これじゃ分からない」
「飲まない方がいいか?」
ニルスが尋ねる。
「残ってる水で今日の分は足りるだろ」
「ああ。無駄に使わなければな」
「なら使わない。帰りにもここを通る」
「試料だけ持って帰りますか?」
リュシアが尋ねる。
「そうする」
エルディアスは空いていた小瓶へ沢の水を入れ、栓を閉めた。
三人が橋へ戻ると、ガルムが丸太の端へしゃがみ込んでいた。ラウルの許可を得たらしく、今度は両手で揺らしている。
「どうだ?」
「腐ってはいない。表面も削ってあるから、見た目より足は置きやすい。ただ、二人並んで渡る幅じゃないな」
「ガルムが乗って平気なら、私たちは大丈夫そうね」
セルマが言う。
「まだ乗ってない」
「今日は止められてないでしょう?」
「順番に確認してる」
ニルスも丸太へ近づき、削られた上面と両端を見た。
「濡れてる場所は滑る。渡るなら一人ずつだ。向こう側へ着いたら、そのまま前へ進まずに周囲を確認する」
「俺が先に行く」
ラウルが言った。
「いや、俺だ」
ガルムが立ち上がる。
「盾を背負ったお前が渡れれば、強度の確認にもなる」
「なら最初からそう言え」
「昨日は暗くなる方が先だった」
ガルムは大盾を背へ固定し直し、二本の丸太へ片足ずつ置いた。体重を掛けても大きく沈むことはない。中央まで進むとわずかに軋んだが、両端を押さえる石も動かなかった。
対岸へ着くと、ガルムはすぐに盾を下ろし、前方と左右を確認した。
「問題ない。来い」
一人ずつ橋を渡る。
エルディアスが最後に対岸へ着いた時には、ラウルたちはすでに道の入口へ集まっていた。
昨日、沢のこちら側から見た時にも明瞭だった踏み跡は、近くで見るとさらに分かりやすかった。両側の落ち葉に比べ、中央だけ土が露出している。木の根を避けるように緩く曲がり、低い枝は人の頭より上まで払われていた。
「これはもう獣道とは書かないぞ」
ニルスが記録板へ線を引く。
「道でいい」
「人が作った道?」
セルマが尋ねる。
「人かどうかはまだ書かん。橋を作れて刃物を使う何かが、継続して通ってる道だ」
「随分長い言い方ね」
「記録はそういうものだ」
「村まであったら、人が作った道に直すの?」
「その村にいるのが人ならな」
「まだそこを疑うのね」
「確認してないからだ」
セルマは前方を見て笑った。
「私は家が出てくる方に賭けるわ」
「何を賭けるんだ」
ガルムが尋ねる。
「何も決めてないわよ」
「なら賭けになってない」
「今から決めてもいいけど」
「歩くぞ」
ラウルが会話を切り上げた。
隊列は昨日と同じように組んだ。ただし、道がはっきりしているため、ニルスは目立つ塗料を使わなかった。曲がりの大きな場所だけ位置を記録し、必要なら目につきにくい小さな印を残す。誰かが日常的に使っている道へ、赤や青の塗料を塗り続ける必要はないという判断だった。
歩き始めて間もなく、人の手が入った痕跡はさらに増えた。
道の脇には細い切り株が幾つもある。新しいものと古いものが混ざり、一度伐った場所から伸びた若木を再び切った跡もあった。根が大きく盛り上がっている場所には、足を掛けやすいよう平たい石が置かれている。
「ここまで来ると、森の中というより街道に近いですね」
クラリスが足元を見ながら言った。
「街道と言うには狭いがな」
ラウルは前方へ続く踏み跡を見る。
「荷車は通れそうにない」
「小さい荷車ならどうでしょう」
リュシアが道幅を見た。
「車輪の跡はない」
ニルスが答える。
「今のところは、人が歩いて使う道だな。荷を運ぶとしても背負うか、獣に載せるくらいだ」
「獣の足跡は?」
「ある。だが、古い」
「人の靴跡も増えているように見えます」
リュシアが少し先の地面を示した。
柔らかな土の上に、いくつもの跡が重なっていた。大きさも形も揃っていない。踵の広いもの、細いもの、底の端だけが残っているもの。昨日見つけた一つの靴跡とは違い、一人だけがここを通ったとは考えにくかった。
ニルスがしゃがむ。
「少なくとも三種類はあるな。もっと重なってるかもしれん」
「同じ人が靴を替えた可能性は?」
セルマが聞く。
「ある」
「じゃあ人数は分からない?」
「ああ。ただ、一人が何種類も靴を履き替えて同じ道を何度も歩いた、と考えるより、何人かが使ってると考える方が自然だ」
「ようやく人がいる方へ寄ってきたわね」
「人だとはまだ言ってない」
「そこだけは譲らないのね」
「見つけたら言う」
その言葉から、それほど時間は掛からなかった。
先頭のリュシアが歩みを止めた。
左手が上がる。
七人の足音が同時に消えた。
「どうした?」
ラウルが声を落とす。
リュシアは前方ではなく、木々の上を見ていた。
「煙です」
言われてから、エルディアスにも見えた。
枝葉の隙間から覗く空へ、細い灰色の筋が上がっている。一つではない。少し離れた場所にも、さらにその右にも、同じような煙が見えた。風に流されながらも、根元はほとんど同じ位置から立ち上がり続けている。
「火事じゃないな」
ガルムが言う。
「森が燃えているなら、もっと広がるでしょう」
クラリスも煙の形を追った。
「複数の場所から、ほぼ同じくらいの細さで上がっています」
「竈か焚き火か」
ラウルが前を見る。
「近いな」
ニルスは煙と道の方向を確認し、記録板へ線を加えた。
「道の先だ。少なくとも大きくは外れてない」
セルマは煙を見上げたまま、今度は軽口を挟まなかった。
「今もいるのね」
「その可能性は高いです」
リュシアが答える。
「昨日の切り口だけでなく、煙が上がっているのであれば、少なくとも火を使っている者が今この先にいるはずです」
「そこでようやく『者』になったのね」
「煙が一つだけなら別の可能性も考えますが、道の先から複数上がっていますから」
「そういうところは本当に慎重ね」
ラウルが七人を見る。
「ここからは間隔を詰める。武器は抜かなくていい。ただし、すぐ動けるようにしておけ。向こうを見つけても勝手に近づくな」
「向こうから来た場合は?」
セルマが尋ねる。
「まず話す。言葉が通じるなら、それが一番早い」
「襲われない限り、こちらから武器は向けないということですね」
クラリスが確認する。
「ああ。こっちが七人で武装してることは忘れるな。相手が人なら、見つけた側より見つけられた側の方が警戒する」
「盾も背負ったままの方がいいか」
ガルムが尋ねる。
「そのままでいい。手に持てば、それだけで構えてるように見える」
「分かった」
七人は再び歩き始めた。
道は少しずつ広くなった。二人が並んでも枝へ触れない程度になり、地面もさらに踏み固められている。途中には薪として使うためだろうか、枝を落とした木がまとまって生えていた。切り株の傍らには細かな木屑が散り、まだ色の新しいものもある。
やがて、森の静けさの中へ別の音が混じった。
乾いた音だった。
何か硬いものが木へ当たり、少し間を置いてまた鳴る。
コン。
間を置き、もう一度。
セルマが目を見開く。
「斧?」
「そう聞こえる」
ガルムが答えた。
「一定じゃない。木を割ってる時の音に近いな」
「近い?」
「薪割りをしたことくらいある」
「ないとは言ってないでしょう」
「顔が言ってた」
「今日はそれを私に返すのね」
「二人とも」
ラウルが前を見たまま呼ぶ。
「声を落とせ」
「分かってるわよ」
セルマも素直に従った。
木を打つ音は続いている。
そのほかにも、遠くで人の声らしいものが一度だけ聞こえた。言葉までは分からない。誰かが呼び、それに別の声が返したようだった。
七人の歩みがさらに慎重になる。
しばらく進むと、道の先に岩が見え始めた。
最初は大きな露岩だと思った。だが近づくにつれ、それが横へ長く続いていることが分かる。灰黒い岩壁が木々の向こうへ立ち上がり、左右へ伸びていた。高さは森の木々に迫り、上端には低い草が張り付いている。
「崖か」
エルディアスが見上げる。
「ああ」
ニルスは左右へ視線を走らせた。
「道は正面へ続いてる」
「壁にぶつかってるように見えるけど」
セルマが言った。
「少し右へ曲がってるな」
ラウルが先へ進み、すぐに足を止めた。
岩壁には切れ目があった。
向かい合った崖の間を、道が奥へ抜けている。荷を背負った者が行き交うには十分な幅があるものの、森の中に比べれば左右を岩壁に挟まれた狭い場所だった。
通路の地面には、これまでよりはっきりした靴跡が残っている。
「この先だな」
ラウルはすぐには入らなかった。
「ニルス、何か見えるか」
「ここからじゃ曲がった先までは無理だ。上も岩に遮られてる」
「リュシア」
「先に見ます」
リュシアは岩壁の切れ目へ近づいた。剣には触れたままだが抜かない。身体を完全に通路へ出さず、右側の岩陰から奥を覗く。
その動きが止まった。
数秒経っても戻らない。
「どうした?」
エルディアスが尋ねる。
リュシアは奥を見たまま答えた。
「……家があります」
「家?」
セルマが聞き返す。
「はい。一軒ではありません」
ラウルがリュシアの横まで進み、同じように岩陰から奥を見る。
少しの間、何も言わなかった。
「村だな」
ガルムが一歩出かける。
「待て。一人ずつ見ろ」
ラウルに止められ、七人は位置を変えながら岩壁の切れ目の先を確認した。
狭い岩の間を抜けた先で、森は途切れていた。
まず見えたのは畑だった。低い柵で区切られた畝が道の左右へ広がり、その向こうに何軒もの家が並んでいる。石を積んだ低い基礎に木の壁を載せ、傾斜のある屋根を葺いた、ごく普通の家だった。
ただし、ここから見通せるのは入口に近い一角だけだった。道は畑の間を抜けて家々の中へ続いているが、その先は建物や木立に遮られ、村の奥までは見えない。
煙は、そこにある家々の屋根から上がっていた。
「本当に家だったわね」
セルマが声を落としたまま言う。
「まだあるぞ」
ニルスが畑の方を示す。
鍬を持った男が、一人で畝の間を歩いていた。
少し離れた場所では、頭に布を巻いた女がしゃがみ込み、籠へ何かを摘み取っている。入口に近い家の脇では別の男が切り株の前に立ち、薪へ斧を振り下ろしていた。
先ほど聞こえていた音の正体だった。
家の間から子供が二人飛び出した。何かを追いかけているらしく、片方が走り、その後ろをもう一人が追う。近くにいた女が声を掛けると、二人は一度だけ止まり、それから今度は歩いて家の陰へ消えていった。
「……人だな」
ガルムが言った。
「はい」
クラリスも入口に近い家々を見ている。
「見える方々は、普通の人族に見えます」
長い耳も、獣の耳も見当たらない。背丈や体格、衣服も、セレイス周辺の集落で見かける者たちと大きくは違わなかった。
「人族ですね」
リュシアも確認する。
「ずっとここに住んでいるのでしょうか」
「畑まであるなら、昨日今日来た連中じゃないだろうな」
エルディアスは家と畑を見た。
洗ったらしい布が家の脇に干されている。薪は壁際へ積まれ、畑の端には水を入れるための桶も並んでいた。どれも一時的な野営地で用意するものではない。
「普通すぎない?」
セルマが呟いた。
「何を想像してたんだ」
ニルスが尋ねる。
「もっと何かあるでしょう。ここ、第二層の森の奥よ。塔から何日もかけて道を作って、裂爪猿や鎧猪までいて、その先で人が普通に畑を耕してるのよ?」
「それを普通とは言わんだろ」
「だから、見た目の話よ」
セルマは畑にいる男を見る。
「セレイスから少し離れた村だと言われても、ここだけ見たら信じるわ」
「ここまで来る道を忘れればな」
ラウルは岩壁の間から村を観察していた。
「向こうはまだこっちに気づいてない」
畑の男は鍬を振るい、薪を割る男もこちらを見ていない。子供たちはすでに家の陰へ消えている。
「どうする?」
ガルムが尋ねる。
「まだ出ない。少し見る」
ラウルは即答した。
「人がいることは分かった。だが、俺たちが何者に見えるかは別だ。武装した七人で、いきなり村へ入る必要はない」
「こちらが先に見つけただけですものね」
クラリスが言う。
「向こうからすれば、森から突然現れることになります」
「話しかけるなら、武器に手を掛けたままはやめた方がよさそうです」
リュシアは剣から左手を離した。
エルディアスも杖を下げる。
「入口に見張りはいないのか?」
ガルムが尋ねる。
「少なくとも、ここから見える場所にはいない」
ラウルが答えた。
「柵もないわね」
セルマが畑の端を見る。
「畑を囲ってる低いものはあるけど、村を囲う柵ではないでしょう?」
「そう見えるな」
ニルスは記録板へ今いる位置を書き加えた。
「道はこのまま村へ入ってる。昨日見つけた靴跡も、切られた枝も、橋も、全部ここへ繋がったと考えてよさそうだ」
「それなら、鐘も?」
セルマの言葉で、数人が同時に村へ視線を戻した。
「まだ聞いてない」
ニルスが言う。
「でも、方向はここなんでしょう?」
「ああ。これまで取った範囲なら、この村は全部その中に入る」
「村の中に鐘があるかもしれないということですね」
リュシアが言った。
エルディアスは入口付近を見直した。
最初は家々と畑ばかり見ていたため気づかなかった。
岩壁の切れ目を抜けたすぐ先、道から少し外れた場所に、家の屋根より高い木組みが立っている。
「……あれじゃないか」
エルディアスが示した先へ、全員の視線が集まった。
太い柱を二本立て、その上へ横木を渡した簡素な鐘楼だった。
横木から、大きな鐘が一つ吊られている。
「近いな」
ガルムが言った。
「村の奥じゃないのね」
セルマも鐘楼を見る。
「森へ音を届かせるためか?」
「用途までは分からん」
ニルスは記録板と鐘楼を見比べた。
「ただ、今まで聞いた方向とは合う」
「形も、大きさも十分です」
リュシアが言った。
「鳴れば分かります」
「都合よく今鳴ってくれるかしら」
「鐘に聞け」
「その話、前にもしたわね」
村人たちは変わらず生活を続けていた。
鍬を持った男が畝の端で腰を伸ばし、近くの家へ何か声を掛ける。薪を割っていた男は次の木を切り株へ置いた。こちらへ向かってくる者はいない。
しばらく待っても、鐘楼の周囲には誰もいなかった。
「鳴らないわね」
セルマが小さく言う。
「鳴るまで待つつもりはないぞ」
ラウルが答える。
「分かってる。ここまで来れば、あることは確認できたもの」
「同じ鐘かは確かめたいけどな」
ニルスは記録板を閉じずにいた。
その時、家の間から一人の男が出てきた。
手には何も持っていない。
男は畑の脇を通り、そのまま入口近くの鐘楼へ向かって歩いてくる。
「誰か来る」
リュシアの声で、全員が岩陰から身体を出しすぎないよう位置を変えた。
男はこちらへ向かっているわけではなかった。
鐘楼の前まで来ると、横から垂れている縄へ手を伸ばす。
ニルスが目を細めた。
男が縄を引いた。
大きな鐘が揺れる。
次の瞬間、強い金属音が崖の間へ響いた。森の中で聞いていたものより、ずっと近い。反響に削られる前の、低く澄んだ音が岩壁へぶつかり、森の奥へ抜けていく。
長い余韻が残った。
畑にいた村人が一度だけ顔を上げる。薪を割っていた男も手を止めたが、誰も驚いてはいない。いつものことなのだろう。音が消えると、それぞれがまた仕事へ戻っていった。
「これです」
リュシアが鐘楼を見たまま言った。
「ああ」
ニルスも迷わなかった。
「間違いない。森で聞いてた鐘だ」
何日も森の中で方角だけを追ってきた鐘は、人族の暮らす村の入口で鳴っていた。




