第36話 野営
野営場所を決めると、七人は暗くなりきる前に荷物を倒木の内側へ運び込んだ。
横倒しになった大木は、根元の土ごと持ち上がって壁のようになっている。その反対側には二本の太い木が立ち、前方だけが比較的ひらけていた。完全に囲われているわけではないが、何もない森の中よりは警戒する方向を絞れる。
橋からは来た道を少し戻っている。それでも流れる水の音は途切れず、森の静けさの中では思った以上にはっきりと聞こえていた。
リュシアとニルスが確認した周囲の痕跡にも、その後変化はない。エルディアスは倒木の内側へもう一度土の術式を薄く流し、地面の状態を確かめた。大きく沈む場所も、根の下に空洞が広がっている様子もない。
「寝る場所としては問題なさそうだ」
「では、火を使う場所を決めましょう」
クラリスが荷物から野営布を取り出しながら言った。
「根の近くは避けた方がよいですね。乾いているところもありますから」
「そこならどう?」
セルマが前方の地面を杖の先で示した。落ち葉が積もっているものの、倒木や立木からはある程度離れている。
「そのまま燃やすなよ」
エルディアスは杖を向け、風で落ち葉を左右へ退けた。露出した土を浅く窪ませ、周囲を低く盛り上げる。
「これでいい」
「私も落ち葉の上へそのまま火を出したりしないわよ」
「分かってる」
「では、どうして毎回言われるのかしら」
「信用の積み重ねだろ」
セルマがラウルを見る。
「今日は森を燃やしていないわよ」
「ああ」
「それだけ?」
「事実だろ」
「褒める気はないのね」
「野営地を燃やさず一日を終えるところまでいけば考える」
「まだ終わってないものね」
セルマは不満そうだったが、土の窪みへ集めた細い枝へ杖を向けた。小さな火が灯り、乾いた木へ移っていく。
ガルムは二本の立木の間へ細い縄を渡し、濡らしたくない外套や布を掛けられるようにしていた。大盾は倒木の脇ではなく、自分が横になった時にもすぐ手が届く位置へ立て掛ける。
「盾までそんな近くに置くの?」
セルマが尋ねた。
「夜中に何か来てから探したくない」
「寝返りを打ったら当たりそうだけど」
「当たらん」
「自信があるのね」
「今まで盾を蹴って目を覚ましたことはない」
記録板へ野営地の位置を書き込んでいたニルスが顔を上げた。
「今夜やったら記録しておく」
「いらん」
「第二層での初めての野営だぞ。何が役に立つか分からない」
「盾を蹴った回数が何に役立つ」
「次から置く位置を変えられる」
「お前までセルマみたいなことを言うな」
「どういう意味よ」
火の周囲に小さく笑いが起きた。
その間にも森は暗さを増していた。エルディアスが日の傾きに気づいた頃にはまだ枝葉の隙間に明るさが残っていたが、それから森が闇へ沈むまで、思っていたほど時間は掛からなかった。
ニルスは腰の砂時計を火のそばへ置いた。
「これも数えておく。昼間と同じように時間が進むとは限らないからな」
「朝がいつ来るかも分からないのね」
セルマが暗い空を見上げた。
「今のところ、太陽そのものは動いていました」
クラリスが食料を分けながら答える。
「日が沈んだ以上、朝も来ると考える方が自然でしょう。ただ、夜の長さまで外と同じとは限りません」
「なら、今夜は砂時計で区切る」
ラウルは火の向こうへ腰を下ろした。
「俺とガルム。次がエルディアスとリュシア。最後をニルス、セルマ、クラリスにする。夜明けが早ければ、その時点で全員起こす」
「最後だけ三人?」
「七人だからな」
「私だけ寝ていてもよくない?」
「決めた直後に一人減るな」
「冗談よ」
「お前の場合は確認が必要だ」
「本当に信用が増えてないわね」
「昼間に増やした分を夜に減らすな」
ガルムの言葉に、セルマは肩をすくめた。
夕食は保存食だけで済ませた。固いパンと干し肉、乾燥させた豆と野菜を湯で戻したもの。街で食べるものと比べれば味気ないが、一日歩いた身体には温かいものが入るだけで随分違った。
「橋の水は使わないの?」
セルマが自分の水筒を振る。
「今日は使わない」
エルディアスが答えた。
「持ってきた分で足りる。明るくなってから確かめればいい」
「見たところは普通だったけど」
「第二層で、見ただけで普通だと決める気か?」
「そう言われると自信がなくなるわね」
「明日調べる」
ラウルが話を締めた。
「今夜は進まない。何か見つけても、野営地を捨てて追うことはしない。人の声が聞こえた場合はすぐ全員を起こせ。魔物なら数と方向を確認してからだ」
「一人で確かめに行かない、も入れておいて」
セルマが言った。
「主にお前向けだな」
「自分から言ったでしょう?」
「進歩したな」
「今のは褒めたのよね?」
「ああ」
セルマはようやく満足したようだった。
食事を終えると、火をさらに小さくした。完全に消すことも考えたが、日が落ちてから気温は思った以上に下がっている。森の湿気もあり、動かずにいると身体が冷えた。外から野営地が見つかりやすくならない程度に火を残し、周囲への光も抑える。
最初の見張りを受け持つラウルとガルムを残し、ほかの五人は横になった。
地面は固すぎず、野営布を一枚敷けば眠れないほどではない。だが、どこかに必ず細い根が走っている。エルディアスは二度身体の位置を変え、ようやく背中へ当たらない場所を見つけた。
少し離れた場所では、セルマがまだ何か言っている。
「こっち、根があるんだけど」
「少しずれろ」
「ずれたら今度は石があるのよ」
「どければいいだろ」
「ガルム、取って」
「自分で取れ」
「もう見張りが始まってるから?」
「始まってなくても取らん」
やがて声も途切れた。
水音だけが残る。
森は昼よりもさらに静かだった。鳥も鳴かず、虫の羽音もない。時折風が通り抜け、頭上の葉をまとめて揺らす。その音が収まると、かえって静けさが深くなった。
エルディアスは目を閉じた。
◇
肩へ触れられ、目を開けた。
「交代だ」
ラウルがしゃがんでいる。
「ああ」
エルディアスは身体を起こした。
火は熾火に近くなり、赤い光が土の窪みの中で弱く明滅している。少し離れた場所では、リュシアもすでに起きていた。外套を肩へ掛け、剣の位置を確かめている。
「何かあったか」
「何もない。あっちで一度、枝が続けて揺れた。近づいては来なかった」
ラウルが森側を指す。
「風か?」
「分からん。姿は見てない。場所だけ覚えておけ」
「ああ」
ガルムも大盾を下ろしながら口を挟んだ。
「水音も変わってない。橋の方からも何も来ていない」
「分かりました。休んでください」
リュシアが答えた。
「何かあれば起こせ」
「そのために交代したんだろ」
エルディアスが言うと、ラウルは小さく笑って横になった。
しばらくして、二人の呼吸もほかの三人と同じように静かになった。
エルディアスは倒木の端へ座り、杖を膝の上へ置いた。
リュシアは少し離れたところで、橋へ続く方向を見ている。互いに別の方向を受け持ち、時折視線だけで周囲の異常がないことを確かめた。
しばらく会話はなかった。
風が木々の間を抜け、頭上で枝が擦れ合う。
リュシアがその音を聞いて、少しだけ顔を上げた。
「夜の森にいると、故郷を思い出します」
エルディアスは森から目を離さなかった。
「そうか」
「似てはいませんが」
リュシアは自分から続けた。
「私の故郷の森は、もっと明るいです。人が暮らしていますから、低い枝は払われていますし、踏み固められた道もあります。沢から水を引いた場所もあって、夜でも水音が聞こえていました」
「ここより賑やかそうだな」
「鳥も虫もいますから。夜になれば静かにはなりますが、ここほど何も聞こえなくなることはありません」
リュシアは暗い梢を見上げた。
「子供の頃は、それが森なのだと思っていました。旅に出てから、人が暮らすために随分手を入れていたのだと分かりました」
「家も森の中か?」
「はい。地上にもありますし、太い枝の上に造られたものもあります。私の家は地上でした。母が高い場所をあまり好まなかったので」
「エルフでもそういうのがいるんだな」
「いますよ」
リュシアがこちらを見る。
「エルは、エルフなら皆、木の上で暮らしていると思っていたのですか」
「そこまでは思ってない」
「少しは思っていた顔ですね」
「見たことがないからな」
「いつか別の里へ行くことがあれば、見られると思います」
自分の故郷へ、とは言わなかった。
エルディアスもそこには触れなかった。
リュシアは再び森へ顔を向ける。
「故郷そのものが嫌いなわけではありません。よい場所だと思います。ただ、私はあまり馴染めませんでした」
少し置いて、言葉を続けた。
「魔法を使えませんでしたから」
声はいつもと変わらなかった。
「里では、魔法を使えることが特別ではありません。子供でも、できることから覚えていきます。指先へ明かりを灯したり、水を少し動かしたり、落ち葉を風で集めたり。その程度なら、誰もできることを疑いません」
火の中で、細い枝が崩れた。
「私も最初は、そのうちできると思っていました。周囲も同じだったと思います。まだ幼いから。覚えるのが遅いだけ。術式との相性が悪いのかもしれない。そう言われるたびに、別の方法を試しました」
「それでも駄目だった」
「はい。一度も」
リュシアは自分の右手を軽く開いた。
「何か一つくらいは、と長い間思っていました。ですが、何もありませんでした」
それを悲しむような言い方ではなかった。何度も確かめ、もう変わらないものとして受け入れた事実を並べているだけだった。
「両親も随分探してくれました。里の治癒師だけではなく、外から術式に詳しい方を呼んだこともあります。父が触媒を買ってきたこともありました」
そこで、リュシアはほんの少し口元を緩めた。
「高かったと思います。結果は何も変わりませんでしたが」
「責められたか?」
「いいえ。一度も」
返事は早かった。
そのままリュシアは続けた。
「父も母も、私を大切にしてくれていたと思います。だから、余計に困りました。何度試しても駄目なのに、次ならできるかもしれないと言われる。私が諦めても、二人はしばらく諦めませんでした。私のためにしていることは分かっていたので、もうやめてほしいとも言いにくかったのです」
リュシアの声はやはり淡々としていた。
「やがて何も試さなくなりました。その時は、少し安心しました。ですが、それからは私の前で魔法の話を避けるようになりました。母が火を使う時も、父が木を切る時も、私が近くにいると少し気にするのです。普通に使えばよいのに」
「気を遣われた」
「はい。私のためだと分かっているので、それも嫌だとは言えませんでした」
リュシアは一度言葉を切った。
「里のほかの方も似たようなものでした。最初は教えようとしてくれます。できないと分かれば、今度はその話をしなくなる。悪意があった方ばかりではありません」
むしろ、その方が困ったのだろう。
エルディアスはそう思ったが、口には出さなかった。
「剣を習い始めた時は、楽でした」
リュシアが続ける。
「できない理由を誰も探しませんでしたから。できなければ練習する。できるようになれば、その分だけ次へ進む。それだけでした」
「お前にはそっちの方が合ってそうだな」
「私もそう思います」
返事には迷いがなかった。
「それで外へ出たのか?」
「それだけではありません。里の外を見たかったのも本当です。ただ、残りたいとは思いませんでした」
エルディアスはそれ以上尋ねなかった。
水の音が続く。
ややあって、リュシアが自分から口を開いた。
「両親には、たまに手紙を送っています」
「そうか」
「父も母も、今も里にいるはずです。兄弟はいませんので、私が出てからは二人で暮らしています」
「なら、心配はしてるだろうな」
「していると思います」
リュシアは少しだけ目を伏せた。
「父も母も、私を大切にしてくれていました。それは疑っていません。ただ、一緒に暮らしていた頃より、離れている方がお互いに楽なのだと思います」
それ以上は続けなかった。
エルディアスも何も尋ねず、森へ視線を戻した。
しばらく二人とも黙っていた。
やがてリュシアが、ふとエルディアスへ目を向ける。
「エルは?」
「何がだ」
「ご家族です」
エルディアスの指が、杖の上で止まった。
「私の話ばかりしてしまいましたから」
リュシアはそれ以上理由を付けなかった。
「エルのご家族は?」
一瞬だった。
考えるより先に、言葉が出た。
「……遠い昔のことだからな。もう、あまり憶えてない」
言い終えた後で、エルディアスは動かなかった。
水が流れている。風も吹いている。火も変わらず、赤く揺れている。
それなのに、自分の声だけが妙に耳へ残った。
エルディアスは左手へ目を落とした。
黒い糸は、いつもと変わらずリュシアへ伸びている。
言えた。
その事実が遅れて胸へ落ちた。
顔を上げると、リュシアがこちらを見ていた。
目が合う。
彼女は何も尋ねなかった。ほんの少し眉を下げただけだった。
「……すみません」
「何でお前が謝る」
「聞きたくないことを聞いたのだと思います」
「そんなことは――」
声が、そこで途切れた。
続きを言おうとしても、言葉にならない。息はできる。喉が塞がったわけでもない。ただ、その先だけが声にならなかった。
エルディアスは口を閉じた。
リュシアの目がわずかに見開かれ、それから静かに伏せられた。
何かを確かめるように左手を見ることも、問い返すこともしない。
そこに何があったのかを探るような視線ではなかった。
先ほどの何気ない問いが、思っていたよりもずっと深いところへ触れてしまった。そのことだけを受け止めているように見えた。
「……もう聞きません」
リュシアは森へ視線を戻した。
「……ああ」
エルディアスも前を向く。
水の流れる音が、二人の間を埋めていた。
しばらくして風が通り、頭上の葉がざわめく。リュシアはその音へ顔を上げ、いつものように森の奥へ目を凝らした。
エルディアスも杖を膝に置いたまま、反対側を見張る。
二人の間を結ぶ黒い糸も、何もなかったように夜の中へ伸びていた。




