第34話 痕跡
六つ目の赤い主要道標を背にしてから、七人は来た道を戻り続けていた。
往路で時間を掛けて残した印は、帰路ではよく目立った。赤い主要道標から次の簡易目印を見つけ、その先でもう一つを確認する。木の低い位置へ引いた斜線も、根の陰へ隠した杭も、今のところ失われてはいない。
先頭を歩くガルムとリュシアが周囲を確認し、その後ろでニルスが記録板と目印を照合する。セルマとクラリスが中央へ入り、ラウルとエルディアスは左右と後方へ注意を向けていた。
「帰りは随分楽に感じるわね。行きは次の印を付ける場所を探すたびに止まっていたのに、今は見つけて確認するだけでしょう?」
セルマが前方の木に残る斜線を見ながら言った。
「確認するだけ、と思うなよ。木の印だけ見て通り過ぎたら、杭が抜かれていても気づかない。帰りに全部残っているところまで確かめて、初めて次もこの経路を使える」
「分かってるわよ。今のところ全部あるから、行きより楽だと言っただけでしょう?」
「それならいい」
「ニルスは、何を言っても最後に一つ注意を足さないと気が済まないの?」
「お前に言う時はな」
「どうして私だけなのよ」
少し前を歩いていたガルムが振り返らずに答えた。
「理由を聞く必要があるのか?」
「ガルムまでそっちなの?」
「前へ置いたら調べるために止まり、後ろへ置いたら前へ出たがる。これまでのお前を見ていれば分かる」
「今日は一度も勝手に進んでないでしょう」
「だから誰も止めてない」
「なら褒めてもいいんじゃない?」
「塔まで戻ったら考える」
「あなたまでラウルみたいなことを言い始めたわね」
ガルムが低く笑った。
クラリスは二人のやり取りを聞きながらも、木の上へ何度か視線を向けている。裂爪猿の気配はない。それでも、前回この森で何が起きたかを知った後では、枝が風で揺れるたびに全員が一度は目を向けていた。
五つ目の青い主要道標が近づく。二度目の鐘を聞いた場所だった。
ニルスは幹へ付けた青い印と、その根元から離して隠した杭を確認した。どちらにも異常はない。
「ここも残ってる。鐘を聞いた位置の記録もそのままだ」
「また鳴ると思う?」
セルマが森の奥へ顔を向ける。
「分からん」
「今日は二度目が聞けたんだから、帰りにもう一度くらい鳴ってもよさそうじゃない?」
「鐘に予定を聞いてくれ」
「聞こえるなら聞くわよ」
「返事が来たら先に教えてくれ」
「その時はニルスより私の方が役に立つわね」
「鐘と話せるなら認める」
セルマが何か言い返そうとしたところで、前を歩いていたリュシアが足を止めた。左手が静かに上がる。
軽口が途切れた。
「どうした?」
ラウルの声が低くなる。
リュシアは足元を見ていた。
「行きには、こうなっていなかったと思います」
彼女の前には、七人が踏み分けた落ち葉が続いている。往路で同じ場所を通ったため、柔らかな地面にはガルムの大きな靴跡や、細いリュシアの足跡が重なって残っていた。
その一部を、横から別の跡が横切っている。
形は崩れていた。落ち葉が押し退けられ、その下の湿った土へ浅い窪みがいくつか続いている。蹄なのか足なのかまでは判別できない。
ニルスがしゃがみ込んだ。
「確かに、行きにはなかったな」
「覚えているの?」
「全部の地面を覚えてるわけじゃない。だが、こっちは俺たちの跡の上に乗ってる」
ニルスはガルムの靴跡を指した。大きく沈んだ踵の縁を、細長い窪みが横切っている。後から踏まれた部分だけが崩れ、土の色も周囲より濃い。
「俺たちが通った後だ」
ラウルも近くへ寄ったが、跡の中へは踏み込まなかった。
「何が通った?」
「まだ分からん。ここだけじゃ形が取れない」
ニルスは横方向へ目を動かした。
「向こうから来て、俺たちの経路を横切ってる。少なくとも、七人の誰かが帰りに付けた跡じゃない」
「裂爪猿でしょうか」
クラリスが尋ねた。
「違うと思う。あいつらなら、地面へ下りた時にも指と爪が残る。これはもっと平たい」
「では、別の魔物ですか」
「それもまだ分からん」
リュシアは跡ではなく、その先へ目を向けていた。
「枝も動いています」
七人が通ってきた方向とは直角に近い位置で、低い枝が何本か片側へ押されている。折れてはいないが、葉の向きが乱れ、下の落ち葉も薄くなっていた。
「何かが、こちらからあちらへ抜けたように見えます。大きなものではないと思いますが、同じ場所を一度だけ通ったのか、それ以前から使われていたのかまでは分かりません」
「追う?」
セルマが尋ねた。
「追わない」
ラウルは即答した。
「今は帰路だ。位置だけ残す」
「私もそう思います」
リュシアは枝の向こうから視線を戻した。
「私たちが奥へ進んでいる間に何かが通ったのであれば、まだ近くにいる可能性があります。ですが、何か分からないまま経路を外れて追えば、戻るために作った道から離れることになります」
「分かってるわ。聞いただけよ。ただ、行きにはなかったものが帰りに増えていたら、気にはなるでしょう?」
「それは全員同じだ」
ラウルは周囲の木々を見た。
「ニルス、記録だけ取れ。長く止まらない」
「ああ」
ニルスが板へ書き込み始める。
その時だった。
右手の森で、太い枝が強く揺れた。
一度ではない。低い位置から順に枝葉が押し分けられ、何かが地面を走ってくる。
リュシアが剣へ手を掛けた。
――右です。
――見えてる。
エルディアスも杖を抜く。
「右から来る!」
ニルスが立ち上がる。
「大きいぞ!」
木々の間から灰褐色の巨体が飛び出した。
猪に似ていた。だが、肩はガルムの胸元近くまであり、頭から背へかけて硬い皮膚が幾重にも盛り上がっている。前へ湾曲した二本の牙が低い枝を弾き、落ち葉を巻き上げながら一直線に突っ込んでくる。
「鎧猪だ!」
ニルスが叫んだ。
鎧猪は七人の隊列へ正面から向かってきたのではない。横切ろうとしていた。
だが、木々の間から飛び出した先に七人がいたことで、巨体がわずかに向きを変えた。狙われたのは、先頭側にいたガルムだった。
ガルムは大盾を正面へ向けなかった。
「受けるな!」
ラウルの声が飛ぶより早く、盾の左端だけを鎧猪へ向けて身体を斜めにする。
牙が盾の表面へ当たり、重い衝撃が響く。
ガルムの足が滑ったが、鎧猪の勢いを正面から止めることはしない。盾の面を傾けたまま、巨体を進んできた方向へ流す。
鎧猪が七人の間を抜けた。
ガルムとリュシアが前方へ残され、残る五人との間を灰褐色の巨体が横切っていく。
「分かれた!」
クラリスが声を上げる。
「そのままでいい! 無理に詰めるな!」
ラウルが止めた。
鎧猪は勢いを殺せないまま太い幹へ肩をぶつけた。幹が大きく揺れ、上から葉が降る。
それでも倒れない。頭を振り、後ろ脚で地面を掻いた。
「一頭だけじゃない!」
セルマの声に、全員が反対側を見る。
先ほどと同じ場所から、もう一頭が飛び出した。一頭目より小さい。それでも人よりは重い。
今度は中央に残った五人へ向かってくる。
「セルマ、火は横だ!」
「分かってる!」
セルマの白木の杖から火が走った。
鎧猪を焼くためではない。その顔の横、低く垂れた枝の先だけを一瞬強く燃やす。
急に現れた熱と光へ鎧猪が顔を背けた。走る方向がずれる。
「クラリス!」
「はい!」
淡い光の板が斜めに立った。真正面から受け止める壁ではない。向きを変えた鎧猪の肩が光の面へ触れ、そのまま外側へ滑る。
巨体がラウルの横を抜け、後ろにいたエルディアスへ向かう。
――来ます。
――分かってる。
エルディアスは鎧猪ではなく、その前の地面へ杖を向けた。落ち葉の下の土が片側だけ沈む。
深い穴ではない。走っている前脚の高さを、わずかにずらすだけだった。
鎧猪の右脚が沈み、巨体が傾く。完全には転ばなかったが、真っ直ぐ走れなくなる。
エルディアスは横へ退いた。
鎧猪がすぐ脇を通り過ぎる。
その側面へ、リュシアが入った。いつの間にかガルムの横から戻っている。
樹上へは上がらない。
低く身体を沈め、横を通り抜ける鎧猪の後脚へ新しい剣を走らせる。硬い背とは違い、脚の内側には刃が通った。
鎧猪の後脚が崩れ、巨体が地面へ横倒しになって落ち葉を大きく巻き上げる。
「離れてください!」
リュシア自身も斬った直後には距離を取っている。
倒れた鎧猪が頭を振った。長い牙が地面を抉り、身体を起こそうとする。
「ニルス、今なら通る!」
「見えてる!」
矢が飛んだ。
樹上の裂爪猿へ撃った時のように、大きく軌道を曲げる必要はない。剥き出しになった前脚の付け根へ、真っ直ぐ鏃が入った。
鎧猪がさらに暴れる。
ラウルが横へ回り、剣身に青白い雷が走った。
頭側へは入らず、倒れた身体の横から首の下へ刃を突き込む。
雷が傷口から全身へ走り、巨体が激しく痙攣した。そのまま力を失う。
「もう一頭!」
ガルムが叫ぶ。
最初の鎧猪が幹から離れていた。
再びこちらへ向かってくる。だが、一頭が倒れたのを見たためか、先ほどのように一直線には来ない。低い唸り声を上げながら足を止め、牙を左右へ振る。
ニルスが矢をつがえた。
「撃てる」
「待て」
ラウルが止める。
鎧猪はしばらく七人を見ていた。
やがて身体を反転させる。来た方向とは別の木々の間へ飛び込み、枝を押し分けながら遠ざかっていった。
「追うな」
今度は誰も異を唱えなかった。
枝の揺れが遠ざかるまで、七人は武器を下ろさなかった。森が再び静かになる。鳥の声もない。逃げた鎧猪が折った枝の音だけが、しばらく奥から響いていた。
「負傷は?」
ラウルが周囲を見回す。
「ありません」
リュシアが答え、そのままガルムへ目を向けた。
「ガルムさんは最初の一頭を盾で受けています。真正面ではありませんでしたが、左腕は確認した方がよいと思います」
「受けたんじゃない。流した」
「衝撃がなかったとは言っていません」
「痛みも痺れもないぞ」
クラリスが治療鞄へ手を掛ける。
「では、確認して何もなければ終わります。盾を下ろしてください」
ガルムは一度ラウルを見た。
「俺を見るな」
「助けを求めたわけじゃない」
「なら下ろせ」
「お前もそっちか」
ガルムは諦めたように大盾を下ろした。
クラリスが腕を調べる横で、セルマは倒れた鎧猪を眺めている。
「本当に真っ直ぐ来るのね。裂爪猿みたいに周りへ回ろうともしなかったわ」
「鎧猪は走り始めたら細かく曲がれない。頭と背中は硬いが、脚と腹は普通に刃が通る。森で相手にするなら、正面へ立たない方がいい」
「先に言ってほしかったわね」
「姿を見る前に鎧猪だと分かるなら言ってる」
「それもそうね」
「それに、今の一頭目はこっちを襲うために待ってた動きじゃない。走ってきた先に俺たちがいたんだと思う」
セルマが鎧猪の出てきた森を見る。
「では、驚かせたのはお互い様?」
「向こうがどう思ったかまでは知らん」
「二頭目は明らかにこっちへ来たでしょう」
「一頭目が走ったから続いたのかもしれないし、倒された仲間を見て襲ったのかもしれない。そこまでは分からん」
クラリスはガルムの左腕から手を離した。
「異常はありません。盾にも、新しい傷はありますが使用には問題なさそうです」
「だから言っただろ」
「確認して分かったことです」
「結果は同じだ」
「違います」
「それ、さっき私とガルムがしてた話に似てない?」
セルマが口を挟む。
「似ていません」
クラリスは即答した。
ガルムが何か言いかけたが、ニルスが突然しゃがみ込んだため、そちらへ注意が移った。戦闘の前に見つけた、横切る痕跡の近くだった。
「どうした?」
ラウルが尋ねる。
「さっきの跡だ」
鎧猪が走り抜けたことで、周囲の落ち葉が大きく散っている。地面には新しい蹄の跡がいくつも刻まれていた。
その形は明瞭だった。二つに割れた蹄。
最初に七人の往路を横切っていた細長い窪みとは、明らかに違う。
「鎧猪じゃなかったな」
エルディアスが言う。
「ああ」
ニルスは蹄跡から少し離れた湿った土を見た。
「こっちへ来てくれ」
全員が近づくが、ニルスが手で止める。
「そこから見ろ。踏むな」
落ち葉が剥がれた地面に、一つだけ形の違う窪みが残っていた。
踵がある。
そこから前へ平たく伸び、先端がわずかに広がっている。
靴だった。
完全な形ではない。それでも、獣の足跡ではないことは分かる。
セルマから先ほどまでの軽い表情が消えた。
「靴……よね?」
「ああ」
ニルスは隣の地面へ目を移した。
「もう一つある。薄いが、同じ向きだ」
「私たちのものではありませんか」
クラリスが七人の足元を見た。
「違う。ここを見ろ」
ニルスは最初の靴跡を指した。
靴跡の踵が、別の足跡の端を踏んでいる。下になっているのは、大きな靴底の跡だった。
ガルムが自分の靴を見る。
「俺のか?」
「大きさと形は合う。行きに付けたやつだろう」
「つまり」
セルマが言いかけて止まる。
ニルスが頷いた。
「俺たちがここを通った後で付いた」
誰もすぐには言葉を続けなかった。
七人は六つ目の道標まで進み、そこから戻ってきた。その間に、靴を履いた何者かが、この場所で七人の経路を横切っている。
「一人ですか」
リュシアが尋ねる。
「分からん。この地面で形が取れるのは二つだけだ。ほかにいても、乾いたところを通れば残らない」
「向きは?」
ラウルが尋ねる。
ニルスは靴跡から、押された枝の方向へ目を移した。
「七人の道を横切って、森の奥へ向かってる」
リュシアも同じ先を見る。
「枝の乱れも続いています。ただ、追えば私たちの帰還経路から外れます」
「ああ」
ラウルの返事は短かった。
「追わない」
セルマは靴跡を見たまま、すぐには顔を上げなかった。
「今度は、本当に誰かいるのね」
「靴を履くものがいる」
ニルスが訂正する。
「それを誰かって言うんじゃないの?」
「人族とは限らない」
「人族だけを人って呼んだつもりはないわよ」
セルマはリュシアへ一度目を向けた。
「少なくとも、これを鎧猪や裂爪猿の足跡だとは言わないでしょう?」
「それは言いません」
リュシアは靴跡を見た。
「刃物を使うか、言葉が通じるか、どこかに住んでいるかまでは分かりません。ただ、履物を使う存在がこの森を移動している可能性は高いと思います」
「しかも、俺たちが奥にいた間にな」
ガルムが森を見た。
「向こうは俺たちに気づいていたと思うか?」
「それも分からない」
ラウルが答える。
「足跡を見つけたのかもしれない。道標を見たのかもしれない。何も気づかず横切っただけかもしれない。今決める必要はない」
「では、この位置を記録して帰るのですね」
クラリスが尋ねる。
「ああ。相手が何者であれ、追いかけて接触する必要はない。こちらは武器を持った七人だ。向こうが話の通じる相手なら、後ろから跡を追って現れる方が余計に警戒される」
「そうですね」
リュシアは頷いた。
「接触するのであれば、追跡の途中ではなく、こちらも相手も姿を確認できる状況の方がよいと思います。それに、今は帰還時間を優先すると決めています」
「異論なし」
セルマも杖を下ろした。
「ここまで分かれば、今日無理に答えまで見つける必要はないわ」
「珍しいな」
ガルムが言う。
「どういう意味?」
「ラウルに止められる前に、自分で言った」
「私だって何でも追いかけるわけじゃないわよ。魔物ならともかく、話が通じるかもしれない相手でしょう? いきなり七人で追い回すほど趣味は悪くないわ」
「その判断を毎回してくれれば、こっちも楽なんだがな」
「してるわよ。皆が私より慎重なだけ」
「やっぱり変わってないな」
「何がよ」
ガルムの口元が少し緩んだ。
ニルスは二人のやり取りを聞きながら、靴跡と横切った方向を記録板へ書き込んでいた。
その手が止まった。
森の奥から、低い音が届く。
ゴォン。
七人が一斉に顔を上げた。
一度目より、二度目より、はっきりしていた。大きな金属を強く打ったような音が、木々の間を通って響く。
余韻が幾重にも返り、やがて森の静けさへ溶けていく。
リュシアとニルスが同じ方向を見ていた。
「前の二度より近く聞こえます」
リュシアが言う。
「方向も取りやすい」
ニルスは記録板を持ち直した。
「反響はあるが、今までより狭く取れる」
セルマは二人の視線の先を追った。
その途中に、先ほどの靴跡がある。
爪先が向いている先も、ほとんど同じだった。
「今度はさすがに、偶然で片づけるのは難しくない?」
「靴跡を付けたやつが鐘を鳴らしたとは限らない」
ニルスが答える。
「そこまで言ってないわよ。靴を履いた何かが進んだ先と、鐘の方向が重なっている。それは事実でしょう?」
「ああ。それは記録できる」
「なら十分」
クラリスも森の奥を見た。
「少なくとも、次に調べる理由は増えましたね。鐘だけでなく、この森を移動している何者かの存在も確認する必要があります」
「ただし、今日は帰ります」
リュシアが続ける。
「鐘が近く聞こえたことも、靴跡が同じ方向へ向いていることも、今ここで経路を外れる理由にはなりません。むしろ何者かがいる可能性が高くなったのであれば、準備せずに近づくべきではないと思います」
「その通りだ」
ラウルは剣を鞘へ収めた。
「ニルス、位置と方向を残したら戻る。鎧猪の死体もそのままだ」
「素材は?」
セルマが尋ねる。
「いらない。今日は魔物の素材を取りに来たわけじゃない。それに血の臭いが強くなる前に離れた方がいい」
「それには賛成。さっきの一頭が戻ってくるかもしれないものね」
「鎧猪だけとも限らん」
ガルムが大盾を構え直した。
「その言い方は嫌ね」
「森だからな」
ニルスが記録を終える。
七人は再び帰還用の隊列へ戻った。靴跡を踏まないよう少しだけ避け、それまでと同じ経路を進む。
途中の主要道標も、簡易目印も残っていた。新しい痕跡は見つからず、それきり、鐘は鳴らなかった。
森の境へ戻り、木々の向こうに丘の明るさが見え始めた時、セルマがようやく大きく息を吐いた。
「こうして戻ってくると、今日は道標を付けていただけのはずなのに、随分いろいろ見つけた気がするわね」
「付けていただけ、ではない」
ニルスが言う。
「その道標があったから、帰りに同じ場所を通れた。行きに何がなかったかも分かった」
「靴跡のこと?」
「ああ。適当に森を歩いていたら、いつ付いた跡か分からなかった」
セルマは少し考えてから頷いた。
「それなら、行きに時間を掛けて道標を残した意味はあったのね」
「だから最初からそう言ってるだろ」
「理屈では分かってたわよ。今の方が、何のためだったのか実感できただけ」
「最初から実感してくれ」
「実際に役に立つところを見ないと、分からないこともあるでしょう?」
「それは否定しない」
森を抜けると、七人は丘の斜面を上がった。頭上にはまだ青い空が残り、灰白色の塔がその中へ伸びている。
エルディアスは途中で一度だけ振り返った。
森の外からでは、靴跡が残っていた場所は見えない。道らしいものも、建物も煙もない。木々が並んでいるだけだった。
見える景色は、森へ入った時と何も変わっていない。
それでも、七人が知っていることは一つ増えていた。
七人が六つ目の道標まで進んでいる間に、靴を履いた何者かが彼らの帰り道を横切っていた。
その爪先は、鐘の鳴る方角を向いていた。




