↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
35/55

第33話 道標

 二日後の朝、黒碑王墓迷宮の宿営地には、前回と同じ七人が集まっていた。


 ガルムの大盾は深い爪痕を埋められ、内側へ歪んでいた縁も元の形へ戻されている。補修した箇所だけ金属の色がわずかに違っていたが、革帯と内側の板まで交換され、腕を通して動かしても軋む音はしなかった。


 クラリスは盾より先に、ガルムの左腕を調べていた。袖を捲らせ、肘と手首を曲げ伸ばしさせてから、治りかけている痣の周囲へ指を当てる。


「昨日、治癒師から問題ないと言われたそうですが、今朝になって痛みが戻ったり、腕へ力を入れた時だけ違和感が出たりしていませんか」


「ない。盾を構えても、押されるくらいの力を掛けても平気だった」


 ガルムは確かめさせるように大盾を持ち上げ、正面へ構えた。そこから左右へ動かし、縁を地面へ下ろしてクラリスを見る。


「これなら、前回と同じように使える。腕より先に盾の方を心配した方がいいくらいだ」


「修理を終えたばかりの盾を、もう壊す前提で話さないでください。戦闘中に痛みや痺れが出た場合は、我慢せずに知らせてくださいね」


 クラリスは完全に納得したわけではなさそうだったが、それ以上は止めなかった。治療鞄を閉じる前に、今度はエルディアスへ顔を向ける。


「次は右肩です。動く、という説明だけでは足りませんので、前、横、後ろの順に腕を上げてください」


「昨日も同じことをしただろ」


「昨日治っていたからといって、今日も同じ状態とは限りません。寝ている間に腫れが戻ることもあります」


 エルディアスは面倒そうに右腕を持ち上げた。前から頭上まで上げ、横へ開き、そのまま後ろへ回す。肩の奥にわずかな重さは残っているが、痛みと呼ぶほどではない。


 クラリスが患部へ指を当てる横で、リュシアも腕の動きを見ていた。


「途中で止めたり、肩を庇って身体ごと動かしたりはしていませんでした。昨日よりよくなっているように見えます」


「最初から問題ないと言ってる」


「エルが問題ないと言う時は、動けるという意味でしかないことがあります。調査へ入ってよい状態かどうかは、別に確認する必要があります」


 リュシアが落ち着いた調子で言うと、クラリスも小さく頷いた。


「熱も腫れも残っていません。強く押した時の痛みもないようですから、私も森へ入ることに支障はないと判断します。ただし、同じ場所へもう一度石を受ければ、今度も打撲だけで済むとは限りません」


「石を受けないようにする」


「前回も、そのつもりだったはずです」


 クラリスに静かに返され、エルディアスは反論せず上着を戻した。


 ラウルは二人の確認が終わるのを待ってから、宿営地の職員から受け取った物資を地面へ並べた。測量縄が二巻、細い縄が三巻。木へ印を残すための白、青、赤の塗料と、先端を尖らせた短い杭が束ごとに分けられている。杭を打つ小槌のほか、記録板と紙も追加されていた。


 神殿の天幕も旗もない。治療薬と包帯を収めた箱だけが、クラリス宛てに届けられていた。


「今回は、本当に物資だけなのね」


 セルマは辺りを見回してから、どこか安心したように息を吐いた。


「前回の祈祷そのものは、四半鐘も掛かっていません」


 クラリスが箱の中身を確認しながら答える。


「時間の問題ではないのよ。見物人の前に並ばされて、頭の上に大きな紋章まで出されると、森へ入る前から妙に疲れるでしょう」


「セルマでも、人に見られて疲れることがあるんだな」


 ニルスが意外そうに言うと、セルマは白い塗料の瓶を手にしたまま顔を向けた。


「どういう意味? 私だって、見せるつもりのない時まで見られたいわけではないわよ」


「見せるつもりの時はあるのか」


「必要ならね」


「何に必要なのかは聞かないでおく」


「聞いてから決めなさいよ」


 二人のやり取りを聞き流しながら、ラウルは地面へ物資を分けた。


「話は歩きながらでもできる。先に、道標の付け方を揃えるぞ。森の中で各自が別の印を付け始めれば、帰りに混乱する」


 ニルスが塗料の瓶と杭を受け取り、地面へ幾つかの丸と、それらを繋ぐ線を描いた。大きな丸を白、青、赤の順に塗り、その間へ短い斜線を幾つも加えていく。


「三色を使うのは、一定の距離を進んだ場所や、大きく進路を変えた場所へ置く主要な道標だけだ。最初を白、次を青、その次を赤にして、また白へ戻す。主要道標の間には、前の印を見失わない間隔で簡易目印を残す」


「簡易目印にも、塗料を使うの?」


 セルマが地面の斜線を指す。


「幹の低い位置へ短い斜線を一本だけ引く。主要道標より小さく、横線や縦線とは形を変える。木へ塗れない場所では、小杭か短い縄を使う。全部を記録板へ書く必要はないが、主要道標の間に幾つ置いたかは記録する」


 ニルスは白い丸の両側へ、横線と縦線を書き加えた。


「主要道標は、戻る方向へ向いた面に横線を二本、進む方向へは縦線を一本。木の近くには杭も埋める。大きく曲がる場所なら、根へ縄を結んで結び目を戻る方角へ向ける。帰りは簡易目印を追い、主要道標へ着くたびに、距離と方角が記録どおりか確かめる」


「木を一周するように塗った方が、離れた場所から見つけやすくない?」


「どちらから来たか分からなくなる。見つけやすくても、向きが読めなければ半分しか役に立たない。それに、裂爪猿が樹皮ごと削る可能性もあるから、木の印だけには頼らない」


 ニルスは杭を一本取り、図に描いた木から戻る方向へ三歩ほど離した位置へ突き立てる真似をした。


「杭は木の根元ではなく、少し離れた場所へ斜めに打つ。頭は地面へ出さず、落ち葉を戻して隠す。木の印が消されても、決めた方向へ三歩進めば杭か、その跡が残る」


「抜いた後で穴まで埋められたら、どうするの?」


 セルマがさらに尋ねると、ニルスは少し呆れたように眉を上げた。


「裂爪猿が印の意味を理解して、杭を探して抜き、穴まで埋めると分かったら、その時に別の方法を考える。起こるかどうかも分からないことへ、最初から全部備えるのは無理だ」


「目印は、必ず残るものとして使うのではないのですね」


 リュシアは図と杭を見比べながら確認した。


「消されたことに気づくためにも、複数の方法を重ねる。木と地面が両方残っていればそのまま進み、一方だけなら周囲を調べ、両方なければ経路が変えられた可能性を考える、ということでしょうか」


「ああ。主要道標の位置と、その間に残した簡易目印の数が記録と合わなければ、途中で何かが失われている。印だけを見て進むのではなく、歩いた距離と曲がった向きも合わせて見る」


 ニルスの説明を聞き終え、ラウルは七人の位置を順に見た。


「森までは前回と同じ隊列で進む。戦闘地点を確認した後は、リュシアとガルムが前。ニルスが目印を付けている間は、俺とエルディアスが左右、セルマが後方、クラリスが中央から全体を見る」


「私が前ではなく、後ろなの?」


 セルマは意外そうに自分を指した。


「前へ出て、何をするつもりだ」


「何か見つけた時に、すぐ調べられるでしょう。魔力の反応があれば、後ろから人を避けて進むより早いわ」


「見つけた者が声を掛ければ済む。お前を前へ置くと、調べるために止まる回数が増える」


「まだ何も見つけていないのに、止まると決めつけないでくれる?」


 不満そうなセルマに、ガルムが大盾を背負いながら低く口を挟んだ。


「前回、塔の壁を見ただけで何度火を使おうとしたか忘れたのか。後ろなら、少なくとも全員を追い越して触りに行くまでに止められる」


「火を使おうとしたのではなく、熱への反応を確かめようとしたのよ」


「同じだ」


「違うでしょう」


「森を燃やさなかった分だけ、前よりは信用している」


 ラウルが淡々と言うと、セルマは白木の杖を肩へ担ぎ直した。


「それを信用が増えたと言われても、あまり嬉しくないわね」


「増えているだけましだろ」


 ニルスが笑う。


「この調子で、次は前に置いてもらえるくらい増やすわ」


「今日一日で使い切るなよ」


 出発前から続く軽口をガルムが打ち切り、七人は黒い入口へ向かった。


     ◇


 第二層の広間から外へ出ると、塔の周囲には前回と変わらない空が広がっていた。


 日の位置はまだ低く、草の先には朝露が残っている。森から吹く風は冷たく、丘の斜面を上って灰白色の外壁へぶつかっていた。


 鳥の声はない。


 前回、裂爪猿の群れを倒した後と同じ静けさが、森の上へ広がっている。


 ニルスは腰に付けた小さな砂時計を取り出し、砂が上へ溜まっていることを確かめた。


「森の境へ着いてから時間を測る。砂が落ち切るたびに返し、何度返したかも記録する。往路と同じだけ帰路へ残し、折り返しを決めた後は、何を見つけても変えない。鐘が鳴った場合も、その場で方向を記録するだけだ」


「前回より近く聞こえても、進路は変えないのね」


 セルマは森を見たまま念を押した。先ほどの軽口とは違い、声には確認する響きがある。


「音の大きさだけで距離は分からない」


 ラウルは短く答えた後、言葉を補った。


「近く聞こえたからといって曲がり、その先でまた別の方向から聞こえれば、戻る経路が複雑になる。人の声や明確な危険があれば別だが、鐘だけなら記録を優先する」


「誰かが助けを求めていた場合まで無視するつもりはない、ということね。それなら分かったわ」


「ただし、声を聞いた者が一人で向かうのは認めない。何が聞こえても、先に全員へ伝えろ」


 セルマが頷くのを確認し、ラウルは斜面へ向き直った。


 七人は丘を下り始めた。


 森へ近づくにつれて、前回の戦闘で折れた枝や焼けた毛の跡が見えてくる。草地には血が黒く乾き、エルディアスが土の術式で盛り上げた箇所も完全には崩れていなかった。


 裂爪猿の死体が倒れていた場所には、骨と毛が点々と残っている。


 十三頭いた通常個体のうち、形を保ったまま残っているものは三頭だけだった。その三頭も腹や脚を食い荒らされ、周囲の草へ黒褐色の毛が散っている。残る個体は森側へ引きずられたらしく、地面に細長い血の跡と、草が倒れた筋が続いていた。


「逃げた裂爪猿が、仲間の死体を取りに戻ったのかしら」


 セルマは杖を構えたまま、森と地面を交互に見た。


「足跡を見るまでは決められない。別の魔物が来た可能性もある」


 ニルスは死体へ近づく前に、周囲を一周するように歩いた。乾いた血の上へ大小の足跡が幾つも重なっている。長い指と爪の形は、前回戦った裂爪猿のものとよく似ていた。


「少なくとも、裂爪猿は戻っている。森からここへ出てきて、死体の周囲を何度も動いた後、また森へ入っているな」


「ほかの魔物の跡はありませんか」


 リュシアはニルスから少し離れた場所へしゃがみ、草の倒れ方を確認した。


「ここから見える範囲にはない。ただ、死体を食ったのが全部裂爪猿だとは限らない。足跡が重なって消えている場所もある」


「自分たちの仲間を食べることもあるのですか」


「群れによる。死体を森へ運ぶものもいるし、その場へ残すものもいる。食うところも見たことはあるが、どの裂爪猿も同じとは言えない」


 ニルスは断定を避けながら、森へ続く血の跡を目で追った。


 前回、白い印を付けた木は残っていた。幹に塗られた色も、雨や風で薄くなった様子はない。


 その少し先に、群れ主の死体が横たわっている。


 前回倒れた位置から、森側へ身体一つ分ほど動いていた。太い左腕が前へ伸び、爪が土へ食い込んでいる。右腕の先は前回斬られた時のまま爪を失い、腰と脚の周囲には縄で引いたような跡が残っていた。複数の裂爪猿が森へ運ぼうとしたことが分かる。


 しかし、巨体を完全に引き込むことはできなかったらしい。腹部と片脚だけが食い荒らされ、頭と胸、左腕はほぼそのまま残っている。


 ガルムは大盾を構えたまま死体の周囲を回り、森側へ続く跡を確認した。


「一頭で引いた跡じゃない。左右から何頭かで掴んでいる。途中で諦めた後も、何度かここへ戻ってきたようだな」


「爪で引っかいた傷も増えています」


 クラリスは死体へ触れず、胸と肩に残る新しい傷へ目を向けた。


「生きているか確かめようとしたのか、起こそうとしたのか。それとも、食べるために皮を裂こうとしたのかは分かりませんが」


「そこまで考えてやったのか、ただ動かないものを引っかいただけなのかも分からん」


 ラウルは森の枝へ注意を向けたまま答える。


「確かなのは、生き残りがここへ戻り、死体を森へ持ち込もうとしたことだ。運べなかった後も、すぐにこの場所を捨ててはいない」


 リュシアが群れ主の左手へ視線を落とした。


「爪の間に、新しい樹皮が挟まっています。前回はなかったと思いますが、森へ引かれた時に木へ当たったのでしょうか」


 ニルスも横から覗き込み、しばらく考えた。


「その可能性はある。死体を引く途中で、爪が根や幹に引っ掛かったのかもしれない。わざと掴ませたと考えるには、まだ材料が足りないな」


「死体の手を使って木を掴ませたとしたら、随分器用ね」


 セルマが顔をしかめる。


「だから、そこまでは言ってない。今は可能性を増やすより、残っている痕跡を記録する方が先だ」


 ニルスは群れ主の位置と引きずられた距離を書き込み、周囲の足跡も簡単な図へ移した。


 エルディアスは死体から少し離れ、丘側の地面を見渡した。足跡は多いが、確認できるものに丘へ向かった跡はない。死体の周囲へ残った裂爪猿の足跡は、いずれも森側へ戻っていた。


「丘側へ続く跡はない。少なくとも、死体を運ぼうとした連中は森とここを往復しただけだ」


「前回も、群れ主を倒した後はそれ以上追ってきませんでした。今回も丘側へ向かった跡がないのなら、森から大きく離れることを避けているのでしょうか」


「群れ主を失って退いただけかもしれない。今はどちらとも言えない」


 エルディアスの答えを聞き、ラウルは森の境に沿って左右を見た。


「ここから入れば、死体の臭いがしばらく残る。前回の群れが近くにいるなら、出入りも多いはずだ。三十歩ほど右へ移り、別の場所から森へ入る。最初の進行方向は変えず、中へ入ってから鐘の方角へ戻す」


「迂回した距離と向きは、入口から記録しておく。砂時計もここから動かすぞ」


 ニルスは砂時計を返し、流れ始めた砂を確かめた。


 戦闘地点と群れ主の死体を記録し、前回残した白い印にも薄れや損傷がないことを確認する。


 七人は死体から距離を取り、森の境に沿って右へ進んだ。


 三十歩ほど離れた場所で、ニルスが足を止める。正面には太い木が二本並び、その間だけ根の盛り上がりが低かった。大盾を横へ向けなければ、ガルムも通ることができそうだった。


「ここなら、盾を構えたまま出入りできる。戦闘になっても、入口で詰まることはなさそうだ」


 ニルスが木々の間を見ながら言うと、セルマも横から森を覗き込んだ。


「道には見えないけれど、ほかよりは開いているわね。邪魔な枝を切っておいた方が、帰りやすくない?」


「最初から道を広げれば、こちらが通った場所を遠くから教えることになる。今は人が通れる場所を選び、切らずに済む枝は残す」


「鐘の方角へまっすぐ進めなくても?」


「戻れない近道より、戻れる遠回りを選ぶ。そのための調査だ」


 ニルスは境に立つ木の、塔側へ向いた面へ白い横線を二本引いた。反対側には縦線を一本描き、戻る方向へ三歩下がった位置で、根の脇へ杭を打つ。頭が土の下へ隠れるまで小槌で沈め、落ち葉を薄く戻した。


「これが一つ目の主要道標だ。ここから先は簡易目印を繋ぎ、数百歩進むか、大きく進路を変える場所へ着いたら次の主要道標を置く」


 エルディアスは記録板へ塔の開口部、戦闘地点、森林への進入口を線で繋いだ。


 リュシアとガルムが、木々の間へ慎重に入った。ラウル、クラリス、エルディアス、セルマが続き、最後にニルスが白い印を確認してから森へ足を踏み入れる。


 境を越えただけで、足元の感触が変わった。湿った落ち葉が靴の下で沈み、その下には太い根が幾重にも走っている。丘から差し込む光は数本の木を越えたところで急速に弱まり、前方は昼間とは思えないほど暗かった。


 リュシアは歩調を落とし、根の間へ足を置いた。


「この先は、ガルムさんの盾が通れる幅があります。ただ、右側の根を越える時だけは、身体と盾を斜めにしなければ枝へ当たります」


「その間は正面を塞げない。先に向こう側を確認してもらえるか」


「分かりました。私が越えた後、合図をするまで待っていてください」


 リュシアは根へ足を掛け、音を立てずに向こう側へ下りた。頭上と左右を確認してから片手を上げると、ガルムも大盾を斜めにして根を越える。


 残る五人も順に進んだ。


 森へ二十歩ほど入ったところで振り返ると、塔はすでに見えなくなっていた。木々の間に丘の明るさが残っているだけで、灰白色の外壁も開口部も幹に遮られている。


「外から見た時より、木の重なりが深いな。これだけ近くても、塔が完全に隠れるとは思わなかった」


 ラウルは来た方向を確かめた後、前へ向き直った。


「入口の白い印は見えますが、その先の丘までは分かりません。ここから先は、目印がなければ視界だけで戻るのは難しくなりそうです」


 クラリスが杖を胸元へ構えながら言う。


「なら、最初の簡易目印はここだ」


 ニルスは幹の低い位置へ、白い斜線を短く一本引いた。主要道標の太い線とは明らかに大きさが違う。来た方向から見えることを確認し、記録板へ一つ目と書き込んだ。


 そこからは、直前の簡易目印を見失わない位置で次を残した。木のない場所では根の脇へ小杭を打ち、大きな倒木を回り込む時には細い縄を結ぶ。印を付けている間、ほかの六人は動きを止め、ガルムとリュシアが前方、ラウルが右、エルディアスが左を見張る。セルマは来た方向へ杖を向け、クラリスは中央から全員の位置を確かめていた。


 森は静かだった。


 風は枝葉を揺らしている。それでも丘から聞こえていた草の擦れる音は弱まり、代わりに太い幹同士が遠くで軋む音が、ときおり低く響いた。


「今のところ、上に移動するものは見えません。枝の沈み方も、風の範囲に収まっています」


 リュシアは頭上を見たまま、全員へ聞こえる程度に声を落とした。


「地面にも新しい足跡はない。ただ、前回逃げた個体がこちらを見ている可能性は残る。姿がないことを、安全だとは考えるな」


 ラウルの注意に全員が頷き、ニルスが小槌をしまった。


 七人は再び進み始めた。


 鐘が聞こえた方角へ向かうには、少しずつ左へ戻す必要がある。しかし正面には幹が重なり、その間を太い根が壁のように塞いでいた。


 ニルスは記録板の線と左右の地形を見比べた。


「左は根が高すぎる。リュシアなら越えられても、ガルムと盾が通れない。いったん右へ回り、向こうで左へ戻す」


「鐘から離れる方向へ行くのね」


 セルマは左側の根を見上げたが、先ほどまでのように不満だけを口にすることはなかった。


「でも、全員が通れない場所を道にしても仕方がない。遠回りした距離も記録できるなら、その方がいいのでしょうね」


「分かってきたじゃないか」


 ニルスが少し笑うと、セルマは杖の先で前方を示した。


「何度も説明されたからよ。忘れないうちに進みましょう」


 七人は根の低い右側へ回り込んだ。地面はわずかに下っており、落ち葉の下へ水が溜まっている。リュシアが先に足を置き、沈み方を確かめた。


「水があるのは表面だけで、その下には硬い土があります。ただ、ガルムさんが中央を踏めば水が上がり、後ろの方が足を取られるかもしれません。左の根を渡ってください」


「盾が枝へ当たりそうだな」


「私が押し上げます。通り終えるまで、身体を起こさないでください」


 リュシアが低い枝を両手で押し上げ、ガルムが大盾を斜めにして根を渡る。盾の縁が枝へ触れかけたが、音を立てずに抜けることができた。


「もう離して構いません」


「助かった。帰りも同じ場所を通るなら、枝へ印を付けておいた方がいいかもしれん」


「木の目印とは別に、通過時の注意として記録します」


 ニルスはガルムとリュシアのやり取りを聞きながら、板へ短く書き加えた。


 一つ目の主要道標が見えなくなってからも、簡易目印は途切れずに続いた。木へ引いた斜線、根元へ隠した杭、倒木へ結んだ縄。その数が十を超えたところで、進路は大きな根を避けて左へ曲がり、再び鐘が聞こえた方角へ近づいた。


 ニルスは周囲の地形と測量縄の記録を確かめ、太い木の前で足を止める。


「ここを二つ目の主要道標にする。入口からは何度か曲がっているが、全体としては予定した方向へ進めている」


 塔側へ青い横線を二本、進行方向へ縦線を一本描く。戻る側へ三歩進んだ場所には杭を埋め、主要道標の間に残した簡易目印の数と、進路を変えた回数を記録した。


 七人はその先も、同じ作業を繰り返した。


 ただし、最初の時ほど一つの目印へ時間は掛からない。リュシアとガルムが進める場所を選び、ニルスが直前の印を見失わない位置へ斜線を残す。残る四人は周囲を警戒し、クラリスが全員の距離を見ていた。


 歩くだけなら、もっと速く進める。


 だが、大盾を構えたまま通れる幅を探し、退く時にも使える足場を選び、枝葉の動きと地面の痕跡を確かめながら進まなければならない。狭い場所を抜けるたび、帰路で誰がどの順番に通るかも記録へ加えた。


 三つ目の赤い主要道標は、地面がわずかに窪み、複数の根が交差する場所へ置かれた。大きく右へ回り込む必要があったため、木と杭に加えて、低い根へ短い縄を二重に巻いた。結び目は塔へ戻る方向へ向けられている。


「ここは一番大きく曲がった場所だ。木、杭、縄の三つを残す。縄だけがなくなっていても、結び目を付けた根の傷は確認できるはずだ」


「三つすべてが残ることを期待するのではなく、一つでも違えば立ち止まって調べるのですね」


 リュシアが確認すると、ニルスは縄の端を短く切った。


「ああ。目印を追うことだけに集中すると、動かされた時に気づけない。主要道標の色、そこまでの簡易目印の数、距離、曲がった向きが記録と合っているかも見る」


「裂爪猿が、目印を動かす可能性を考えているの?」


 セルマが赤い線を眺めながら尋ねる。


「枝を落とし、石を投げ、こちらの役割を見て攻撃する相手だ。印の意味まで理解するかは分からないが、目立つものを壊す程度なら考えておいた方がいい」


「疑い始めると、何も信じられなくなりそうね」


「だから記録と複数の印を使う。全部を疑うためではなく、どこまでなら信じられるかを確かめるためだ」


 セルマは縄と赤い印を見比べ、今度は言い返さなかった。


 砂時計はすでに一度落ち切り、ニルスによって返されていた。


 四つ目の白い主要道標を置いた頃には、森へ入ってから二時間近くが過ぎていた。


 途中に残した簡易目印は六十を超えている。塔のある丘はもちろん、一つ前の赤い主要道標さえ見えない。来た道を振り返っても、白い斜線を付けた幹や小杭が一つずつ木々の間へ続いているだけだった。


「ここまで来ると、印がなければ私には戻る方向が分からないわ」


 セルマは白い横線の向こうに続く簡易目印を見た。


「リュシアやニルスなら、今でも塔の方角が分かるの?」


「塔そのものの位置を感じているわけではありません」


 リュシアは来た道を振り返り、最後に曲がった方向を確かめた。


「今歩いた経路を覚えているので戻れますが、戦闘で大きく動いたり、別の場所へ回り込んだりすれば曖昧になる可能性があります。平常時に分かることと、いつでも迷わないことは同じではありません」


「俺も同じだ。今なら曲がった回数と向きを覚えているが、森の中で追われながら同じ判断ができるとは限らない」


 ニルスは記録板の線を指で追った。


「だから、分かるうちに道を残している。目印が必要になるのは、余裕を失った後だからな」


 セルマは少し考え、白い印の下へ視線を落とした。


「なら、私も主要道標の色くらいは覚えておく。行きが白、青、赤で、それを繰り返す。帰りには順番が逆になる。その途中で色が飛んだり、同じ色が続いたりしていれば、何かがおかしいということね」


「それだけでも違う。帰りに色を聞かれて、全部白だったと言わなければ十分だ」


「そこまで馬鹿ではないわよ」


「確認は大事なんだろ?」


 ニルスに自分の言葉を返され、セルマは口を閉じた後、わずかに笑った。


「覚えていたのね」


「都合のいい言葉だったからな」


 短いやり取りを終え、ラウルは前方へ視線を戻した。


「続けるぞ。折り返しまでには、もう少し距離を稼ぎたい。ただし、急いで目印の間を広げるな」


 さらに進むと、木々の間に裂爪猿の爪痕が現れ始めた。


 森の境で見つけたものより浅く、古い傷だった。一本の木だけではなく、周囲の幹へ高さの違う痕が残っている。地面には黒く乾いた糞と、割れた木の実の殻も落ちていた。


「群れが、普段から使っていた場所のようです」


 リュシアは傷へ触れず、枝の重なりを見上げた。


「地上の足跡は古いものばかりですが、樹上だけを移動しているなら、こちらより速く先回りできます。前回逃げた個体が残っていれば、すでに私たちを見つけていても不思議ではありません」


「一度戦って負けた相手へ、すぐ同じ方法で来るとは限らないな」


 ニルスは短弓を上へ向け、矢をつがえずに枝の隙間を追った。


「こちらの人数も、役割も、使った術も見られている。群れ主を失った後で、正面から襲わず追うだけに変えた可能性もある」


「こちらが帰るまで待って、目印を壊すことも考えられますね」


 クラリスが静かに付け加える。


「警戒している間に姿を見せなければ、帰路で一つずつ確認するしかありません。見張られていることを前提にしつつ、見えない相手を追って隊列を崩さないようにしましょう」


「前回使った振動への反応も、次は警戒されていると思った方がいい」


 エルディアスは幹と根を見た。


「盾を鳴らせば止まると決めつけるな。一度効いた手を、次も同じ形で使うのは危ない」


 ガルムは修理した大盾へ一度目を向け、低い声で返した。


「次は別の方法にしてくれ。直ったばかりの盾を、試しに鳴らす気はない」


「戦わずに済むなら、それが一番だ」


 ラウルは前方の木々の隙間を示した。


「左側が少し開いている。鐘の方角へ戻せそうか」


 ニルスは記録板へ引いた線と、木々の間を見比べた。


「少し左へ行けば、最初に決めた方向へ戻る。ただし、あの大きな根を越える間は進路が見えにくい。根の手前と向こう側へ簡易目印を置き、その先の開けた場所を五つ目の主要道標にする」


「主要道標の色は青ね」


 セルマが先に答えると、ニルスは小さく頷いた。


「白、青、赤、白と来たから、次は青だ。色の順番は合っている」


 大きな根を越える前後へ白い斜線を残し、根の向こうへ短い縄を結ぶ。そこからさらに進み、周囲を見渡せる太い幹の前へ五つ目の主要道標を置いた。


 塔へ戻る側へ青い横線を二本、進行方向へ縦線を一本。木から三歩戻った位置へ杭を埋め、四つ目からの距離と、その間に残した簡易目印の数を記録する。


 ニルスが記録板へ顔を落とした時、リュシアが左前方を見た。


 ほぼ同時に、ニルスの手も止まる。


 二人の変化に気づき、ラウルは声を抑えた。


「何か聞こえたのか」


 返事より先に、森の奥で鐘が鳴った。


 太く、重い一音だった。


 前回より近いのか、森の中で聞いたためなのかは分からない。低い響きは幹から幹へ渡り、足元の根まで震わせるように広がった。枝葉の間で何度か返りながらも、最初に届いた方向だけは失われていない。


 リュシアは左前方へ顔を向けたまま、余韻が消えるのを待った。


「前回、森の境で聞いた方向より左です。今進もうとしていた向きよりも、さらに左から届いたように聞こえました」


 ニルスも同じ方向へ目を凝らし、小槌を地面へ置いた。


「俺もそう聞こえた。ここまで迂回した分を差し引いても、前回の線と完全には重ならない。反響の違いか、最初に取った範囲が広すぎたか、その両方だろうな」


「では、今の位置から線を引けば、発生源の候補を狭められるのですか」


 クラリスが尋ねると、ニルスは記録板を開き、現在地から鐘の方向へ細い線を引いた。


「前回の線と交わる範囲は狭くなる。ただし、森の反響がある以上、交点に鐘があると断定はできない。今分かるのは、次に調べるべき範囲が少し絞れたことだけだ」


「距離は分からないの?」


 セルマの声には、先へ進みたいというより、純粋に確かめたい響きがあった。


「音の強さだけでは無理だ。前回より大きく聞こえたのが距離の差なのか、木々に囲まれていたためなのかも切り分けられない」


 ラウルはニルスの記録を横から確認し、左前方の暗い森へ目を向けた。


「位置と時刻を残せ。主要道標にも、鐘を聞いた地点だと分かる印を加える」


 ニルスは五つ目の青い横線の下へ、小さな円を一つ描いた。記録板にも同じ円を記し、砂時計の残りを確認する。


「進路は、今の鐘に合わせて変えないのね」


 セルマは左前方から目を離さずに尋ねた。


「ああ。今日は鐘への最短経路を探しているのではなく、森の中へ安全に進める経路を一本作っている」


 ラウルは彼女だけでなく、全員へ確認させるように続けた。


「ここで大きく左へ曲がれば、五つ目から経路が分かれる。今日は予定していた次の主要道標まで進み、時間が来たら戻る。帰還後に二度の記録を重ね、次は五つ目か六つ目のどちらから進路を修正するか決める」


「今の道を少し外れて鐘へ近づくより、今日の記録を持ち帰ってから、分岐させる場所を決める方が安全ということですね」


 リュシアが確認すると、ラウルは頷いた。


「そうだ。鐘は逃げるかもしれないが、帰り道を失えば次はない」


「分かったわ」


 セルマは左へ向けかけていた杖を戻した。


「近くに聞こえたので、少しくらい確かめてもよいのではないかと思ったけれど、ここから曲がれば今日作った道が別れるものね。記録した以上、次に回した方がいいわ」


 二度目の鐘も、一度だけだった。


 余韻が消えると、森は再び何もいなかったように静まり返った。


「当初の経路を進む。鐘が聞こえた側ばかり見るな。周囲の警戒へ戻れ」


 ラウルの声で、七人はそれぞれの方向へ注意を戻した。


 リュシアとガルムが先頭に立ち、鐘の方向ではなく、もともと通る予定だった木々の隙間へ進む。左前方にある音の先へ背を向ける形にはならなかったが、近づくために進路を変えることもしなかった。


 五つ目の主要道標から先は、地面へ露出した根が少なくなっていた。代わりに細い幹が密集し、大盾を構えたまま通れる場所は限られている。リュシアが左右へ動いて幅を確かめ、ガルムが実際に盾を向けられる位置を選びながら進んだ。


「右側なら盾を正面へ向けたまま通れます。ただ、途中で二本の木が狭くなっています。攻撃を受けた場合、そこで立ち止まらない方がよいでしょう」


「帰る時には、俺が最後に通る場所になるな」


 ガルムは狭まった幹の間へ大盾を差し入れ、左右へわずかに動かした。


「盾は引っ掛からない。ただ、横へ振る余裕はない。追われた場合は、この手前で一度止めてから抜けた方がいい」


「では、狭い場所の手前と抜けた先へ簡易目印を残します。主要道標は、さらに先へ置いた方がよさそうです」


 ニルスは二人の後ろから通路の幅を書き込み、狭い木々の前後へ斜線を残した。


 そこから先にも簡易目印を繋いでいく。砂時計は二度目に返され、森へ入ってから三時間近くが過ぎようとしていた。日の高さを直接見ることはできないが、枝葉の隙間から落ちる光は、入った時よりわずかに傾いている。


 前方に、周囲より低木の少ない場所が現れた。


 地面は平らではないものの、大きな根の間に七人全員が止まれる空間がある。周囲の木を確認しても新しい爪痕や足跡はなく、鐘が聞こえた側を含め、枝の不自然な揺れも見つからなかった。


 ニルスは記録板と測量縄を確かめ、太い幹へ手を置いた。


「六つ目をここへ置く。入口からの歩行距離は、迂回を含めて三千歩を少し超えた。測量縄の記録とも大きくは違わない。直線ならそれより短いが、初日の経路としては十分だ」


「二つ目以降は、かなり歩いたものね」


 セルマは来た方向へ続く簡易目印を振り返った。


「主要道標だけを見ていると六か所しか進んでいないように思えるけれど、その間へ残した印は随分増えたでしょう」


「六つ目までで、百近くになっている。帰りには、数が合うかも確認する」


 ニルスは赤い塗料を取り出した。


 塔へ戻る側へ横線を二本、先へ進む側へ縦線を一本描く。根元から三歩戻った位置へ杭を斜めに打ち、落ち葉を戻した。五つ目からの距離と方角、途中にある狭い木々の位置も記録板へ加える。


「六つ目だ。白、青、赤、白、青、赤。色の順番にもずれはない」


 ニルスは砂時計を持ち上げた。上側に残る砂は、事前に定めた折り返しまでほとんど残っていない。


「時間もここまでだな。余裕を残すなら、もう戻った方がいい」


 ラウルは赤い道標より先へ続く森を見た。鐘が聞こえた方向は、今いる位置からも左前方にある。だが、そちらへ向かう道はまだ作られていない。


「ああ。今日はここまでにする。次は今日の経路を辿り、二度の鐘の記録を重ねた上で、五つ目か六つ目から進路を左へ修正する」


「帰りには、主要道標だけでなく、途中の簡易目印もすべて確認するのですね」


 クラリスは中央から七人を見回し、負傷者がいないことも確かめていた。


「色、杭、縄だけでなく、周囲の足跡も見る。何かが印へ近づいていれば、帰還後に分かるよう記録へ残す」


 ニルスが小槌と塗料をしまい、短弓を持ち直した。


「隊列はどうする?」


 ガルムが狭い木々へ大盾を向けながら尋ねる。


「ガルムとリュシアが先頭のまま戻る。ニルスは目印を確認しながら中央。セルマはニルスの後ろへ入れ。エルディアスと俺が左右と後方を見る」


 ラウルの指示に、セルマは赤い道標から森の奥へ目を移した。


「帰りに印が消されていたら、すぐ先へ進まず、その場で調べるのね」


「ああ。ただし、止まる場所が危険なら一つ前の主要道標まで戻る。印を探すために散るな」


「分かったわ。今度は調べるために勝手に前へ出たりしないから、後ろに置かなくてもいいでしょう?」


「今日の分の信用は、帰ってから決める」


「まだ増えていないの?」


「使い切っていなければ増える」


 セルマは不満そうに息を吐いたが、今度はラウルの指示どおりニルスの後ろへ入った。


 七人は六つ目の赤い主要道標へ背を向け、来た道を戻り始めた。


 鐘の正体には、まだ届いていない。


 それでも、森の中には三千歩を超える帰り道と、六つ目の道標が残った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。