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第32話 報告

 転移の光が消えると、七人は第二層入口の円形石室へ戻っていた。


 白い照明具に照らされた壁も、脇から螺旋階段へ続く開口部も、出発前と何も変わっていない。だが、戻ってきた七人の装備には森の土と裂爪猿の血が残り、ガルムの大盾には深い爪痕が幾筋も刻まれていた。縁の一部は内側へ歪み、クラリスの白い外衣も肩口を裂かれている。


 エルディアスは転移の感覚が抜けるより先に、隣へ目を向けた。リュシアは剣を鞘へ収め、左手の指を一度開いてから握り直している。呼吸は乱れておらず、歩き方にも傷を庇う様子はない。


 視線に気づいたリュシアが、エルディアスの右肩を見た。


「私は怪我をしていません。エルは、右腕を上げる時に動きが鈍くなっています。先ほどより腫れているのではありませんか」


「動く」


「動くかどうかではなく、悪化しているかを聞いています」


「後で診てもらう」


 その答えで十分だと判断したのか、リュシアはそれ以上追及しなかった。ただし、エルディアスの右側から離れようとはしなかった。


 転移紋の外で待機していた王都の兵が七人を認め、すぐに駆け寄ってくる。


「帰還を確認しました。重傷者はいませんか。こちらで運ぶ必要のある方がいれば、治療所へ知らせます」


「自力で戻れない者はいない。ただ、ガルムの左腕とエルディアスの右肩は、もう一度診てもらった方がいい」


 ラウルは七人の状態を見回してから続けた。


「報告に必要な記録は、塔の中で揃えてある。先に治療と装備の確認を済ませたい。記録は逃げないが、傷は放っておけば悪くなる」


「承知しました。宿営地の治療所へ連絡します」


 兵の一人が石室の外へ走り、別の兵が帰還を知らせる鐘を鳴らした。


 七人は第一層を通り、黒い入口から宿営地へ戻った。まだ明るさの残る広場では、資材を運んでいた兵や職員が作業の手を止めている。全員が戻ったことに安堵する者もいれば、傷ついた盾や採取袋から覗く黒褐色の毛を見て、表情を引き締める者もいた。


 出発前に設けられていた神殿の白い天幕は、すでに片づけられている。治療所には、そこで提供された包帯や治療薬だけが残されていた。


 ガルムは長椅子へ座らされ、クラリスと宿営地の治癒師から左腕を改めて調べられた。盾越しに何度も衝撃を受けた箇所は広い範囲が紫色に変わっていたが、指や肘は問題なく動いている。


「骨に異常はありません。ただ、筋と関節にはかなりの負担がかかっています。今夜から明日にかけて痛みが強くなる可能性がありますから、少なくとも二日は大盾を持たないでください」


 治癒師の説明を聞き、ガルムは壁へ立て掛けられた盾を見た。


「盾が戻るまでには治る」


「盾の修理に合わせて身体が治るわけではありません。先に腕を使えば、その分だけ回復が遅れます」


 クラリスはガルムが言い返す前に、防具職人へ顔を向けた。


「修理には、どの程度かかりますか。外側だけ直して、内部の損傷を残すようなことはしないでください」


「外から見える傷だけなら一日で直せるが、革帯が伸びて縁も歪んでる。板の内側まで割れていないか、いったん全部外して確かめたい。急いでも二日は欲しいな」


「それなら、その二日は腕も休められますね。盾が早く戻っても、治癒師が許可するまでは持たせません」


「俺の盾だぞ」


「あなたの腕も、あなたのものです。だからこそ壊す前に休んでください」


 クラリスは穏やかな声のまま言い切り、患部へ治癒の光を当てた。


 少し離れた場所では、エルディアスが革の上着を右肩まで下ろされていた。石を受けた箇所には拳ほどの青紫色の痣が広がっている。第二層でクラリスが治癒を施したため腫れは抑えられていたが、治癒師が腕を持ち上げると、肩の奥に鈍い痛みが残っていた。


「骨と関節に異常はありません。打撲だけで済んでいますが、治癒術は傷をなかったことにするものではありません。明日までは杖を振り回さず、強い術式も控えてください」


「杖は左でも持てる」


「左手で持てるかどうかを尋ねているのではありません。肩を休ませる必要があると説明しています。この程度で済んだからといって、明日また同じ場所へ石を受けても平気という意味ではありません」


 治癒師は薬を薄く塗り、残りの入った小瓶を差し出した。エルディアスが受け取ろうとするより先に、隣に立っていたリュシアが手を伸ばす。


「夜に熱を持った場合は、私が塗ります。明日も依頼は受けさせませんので、指示されたとおり休ませます」


「俺の予定を勝手に決めるな」


「エルが自分で休むと答えないからです。普通の依頼であっても、戦闘にならない保証はありません。昨日まで水路へ入り、その前には牙猿を相手にしていたことを忘れたのですか」


「忘れてない」


「では、明日は休むと答えてください」


 エルディアスはリュシアの手に収まった薬瓶を見た。返せと言えば返すだろうが、受け取った後も夜まで放置していないか確認されることは分かっている。


「明日は休む」


「分かりました」


 それだけで、リュシアは追及をやめた。薬瓶は自分の荷物へ収めたままだった。


「自分で塗れる」


「右肩の後ろは見えにくいでしょう。必要になれば私が塗ります」


「必要にならなければ?」


「塗りません」


 治癒師は二人のやり取りを聞きながら、エルディアスの上着を戻すよう促した。


 全員の治療と装備の確認を終える頃には、夕の鐘が近づいていた。


 七人は宿営地の中央にある大きな天幕へ案内された。中では王都の連絡官とレナート、それに二人の記録係が待っている。長机の上には第二層の簡易地図が広げられ、採取物を置くための白い布と木箱も用意されていた。


 連絡官は七人が席に着くのを待ち、机の上で手を組んだ。


「全員が帰還されたことを、まず喜ばしく思います。依頼は塔の外周、丘の状態、森との境界までの予備調査でした。負傷者が出たことからも、想定していた以上の危険があったと考えています。現地で記録したものがあれば、提出をお願いします」


「ああ」


 エルディアスは背負い袋から紙の束を取り出し、机へ置いた。


「これが俺たちがまとめた分だ。《暁星》の記録も一緒にしてある」


「すでに一つにまとめられているのですか」


「塔の中で照合した。違いのあるところだけ残してある」


 記録係が紙を受け取り、内容ごとに分けていく。塔の外周と丘の概略図、外壁へ行った確認、森までの距離、地面と爪痕の状態。続いて裂爪猿との戦闘、討伐数と逃走数、各自の消耗品や負傷が記されていた。


 レナートは塔の外壁に関する紙を手に取った。


「土属性の術式では、石や土として認識できる反応が返らなかった。風を表面へ沿わせても流れの乱れはなく、継ぎ目や隙間も確認できない。さらに斧の刃を当てても傷を残すことができなかったのですね」


「力は抑えていたが、ガルムの斧にも壁にも変化はなかった」


 ラウルが答えた。


「火や水、光など、ほかの属性での反応は試していない。依頼は塔を破壊することではなく、外周と出入り口の確認だった。安全性が分からない状態で、強い術式を当てるべきではないと判断した」


「妥当でしょう。塔が階層の構造そのものと結びついている可能性もあります。次に試験を行うのであれば、出力や属性だけでなく、周囲への影響を先に検討する必要があります」


 レナートは外壁の記録を机へ戻し、次の紙へ手を伸ばした。


「塔の外周を一周し、確認できた出入り口は広間へ続く一か所のみ。窓や上部へ登るための構造もなく、外周の大きさは内部の円形広間と大きくは矛盾しない。ただし、歩数と簡易な測定による概算であり、正確な大きさは測量師による再確認が必要、とあります」


「ああ。丘には傾斜があり、歩幅も一定じゃない。今回は、塔の規模が内部の広間と大きく違わないと確認できた程度だ」


 エルディアスの答えに、レナートは頷いた。


「分かりました。正確な測量は、塔周辺と森の安全を確保した後の課題とします。現時点で無理に測量師を同行させる必要はないでしょう」


 塔と丘についての聞き取りは、それで終わった。


 連絡官は森の記録を開き、討伐数の欄を指で追った。


「通常個体十三頭と、それらを統率していた大型個体一頭を討伐。さらに五頭以上が森の奥へ逃走した。群れ全体は、少なくとも二十頭前後だったと推定しているのですね」


「枝葉に隠れて、最後まで姿を見せなかった個体がいる可能性もあります」


 ニルスは地図の森側へ視線を落としたまま説明を続けた。


「石を投げる個体と、地上へ下りて襲う個体が分かれていました。最初は高所から一方的に攻撃し、こちらが結界を使うとクラリスを優先して狙い始めています。盾で正面を塞いだ後は左右と後方へ散り、斜面へ戻る経路を塞ごうとしました。普通の裂爪猿より統率が取れていたのは間違いありません」


「大型個体が指示を出していた根拠はありますか」


「幹を叩くと、周囲の個体が同時に動きを止めたり、位置を変えたりした。大型個体が死んだ後は、残ったものが戦闘を続けずに逃げている。少なくとも、群れの動きをまとめていた個体ではあったはずだ」


 ラウルの答えに、レナートが記録へ目を落とす。


「木や地面を伝う振動への反応についても書かれていますね」


「森へ入る前、落ちた枝が盾へ当たった時にも、樹上の動きが一度止まった。戦闘中に盾を鳴らした時も同じ反応があった」


 エルディアスは記録の該当箇所を示した。


「ただし、使ったのは一度だけだ。逃げた個体が群れへ戻っているなら、次は警戒するかもしれない。確実な対処法としては使えない」


「再現性は不明、という記録はそのためですね。分かりました」


 ガルムが採取袋を机へ置いた。中から取り出された大型個体の爪は、通常個体のものより太く、湾曲した先端だけでも短剣に近い大きさがある。記録係は布越しに爪と毛を受け取り、用意してあった木箱へ収めた。


「大型個体の死体は森の境に残した。近くの木へ、離れた場所からでも分かるよう白い印を付けてある」


 ガルムは続けた。


「次に入るなら、最初にそこを確認した方がいい。死体が残っていれば、別の魔物が寄った痕跡を調べられる。なくなっていれば、どちらへ運ばれたかを見ることができる」


「次回調査の優先事項として記録します」


 連絡官は記録係が書き終えたことを確認し、最後の紙を手元へ引き寄せた。


 そこには森の奥へ向かって、重なる二つの扇形が描かれていた。


「鐘のような音を、一度確認したとあります。報告書では、リュシアさんとニルスさんが別々に方角を示し、その範囲がほぼ一致したとされています。どの程度、明確な音だったのでしょうか」


 リュシアは一度ニルスを見てから答えた。


「小さくはありましたが、聞き間違えるほど曖昧な音ではありませんでした。風で枝や石が偶然ぶつかったような軽い音ではなく、大きな金属を強く打ったように聞こえています。ただ、森の中で何度か反響したため、距離と正確な位置までは判断できません」


「俺も同じだ。鐘の音に近かったが、実物を見ていない以上、本当に鐘だったとは断定できない」


 ニルスは扇形の重なる部分を指した。


「方向はこの範囲です。塔の位置と一度目の調査地点は記録してあるので、別の場所でもう一度聞ければ、発生源のおおよその位置は絞れると思います」


 レナートは扇形の先へ視線を移した。


「塔の周囲には、ほかの建造物も人為的な痕跡も見つかっていません。それでも、これほど明確な金属音が森の奥から聞こえたのであれば、何らかの人工物が存在する可能性はあります。次回は、その方向を重点的に調べるべきでしょう。ただ、皆さんの記録には、鐘の発生源への到達を一度の調査目的にはしないとも書かれています。その点を、どのように考えていますか」


「次に進む向きは、鐘で決める」


 エルディアスは地図上の戦闘地点から、二つの扇形が重なる方向へ指を動かした。


「ほかに手掛かりがない。だが、一度で音のところまで行こうとはしない。森の中へ帰れる道を作って、決めた時刻になれば戻る。鐘が遠ければ、次はその先から進めばいい」


「方向は鐘を基準とし、到達距離は帰還に必要な時間と安全性から判断する、ということですね」


「そうだ」


 連絡官は簡易地図を見ながら、少し考え込んだ。


「鐘を追うのであれば、最初から測量師を同行させた方が正確な経路を記録できるのではありませんか。護衛を追加し、安全を確保することも検討できます」


「人数を増やせば、それだけ安全になる場所ではない」


 ラウルは連絡官へ向き直った。


「森の境だけで二十頭近い群れに囲まれた。中へ入れば視界はさらに悪くなり、木と根の間ではガルムの盾を横へ向けるだけでも道を塞ぐ。戦えない者を増やせば、その者を守るために全体の撤退が遅れる。まずは互いの動きを把握している同じ七人で、戻るための経路を作るべきだ」


「経路の記録だけなら、俺ができる」


 ニルスが引き継いだ。


「木と地面の両方へ印を残します。裂爪猿は枝も石も動かすので、一種類だけでは消された時に判断できません。必要な場所では縄も使いますが、森の中で一直線には張れない。進行方向と実際に歩いた距離を分けて記録し、帰りに一つずつ確認します。測量師を連れていくのは、少なくとも往復できる経路が一本できてからの方がいいでしょう」


「目印を残している間も、誰かが周囲を警戒しなければなりません」


 リュシアは机に広げられた地図を見ながら、落ち着いた声で続けた。


「私たちは前回の戦闘で、それぞれがどこを見て、何を防げるかを確認できました。別の方が加われば、守る位置や撤退時の順番から決め直す必要があります。次回の目的が鐘へ到達することではなく、安全に進める道を作ることであれば、人数を増やさない方が適切だと思います」


 連絡官はレナートへ視線を向けた。


「私も、現段階では同じ構成での継続調査が妥当だと考えます」


 レナートは記録の束へ手を置いた。


「今回の七人は、塔、森、裂爪猿の群れについて、現時点で最も多くの情報を共有しています。別隊を編成すれば、初めから確認をやり直す部分も増えるでしょう。まず帰還経路を確保し、その記録を基に測量師や研究官を同行させる方が、結果的には早いはずです」


「分かりました。第二回調査は、同じ七名による森林内経路の確認として準備します」


 連絡官は記録係へ新しい紙を用意させた。


「内容は、前回の戦闘地点と大型個体の死体を再確認した後、鐘が聞こえた方向へ森林内の経路を延ばす。撤退時刻を事前に定め、到達距離にかかわらず帰還を優先する。途中で再び鐘を確認した場合は、その地点から方角を記録する。これでよろしいですか」


「鐘が鳴った方へ、その都度進路を変えないことも入れてくれ」


 ニルスが言った。


「音を聞くたびに曲がれば、作った道が複雑になる。方向が変わった時は位置を記録し、戻ってから二つの線を比べた方がいい」


「加えておきます」


「出発は早くても二日後だ」


 ラウルはガルムの左腕と、エルディアスの右肩を順に見た。


「盾の修理が終わり、二人の負傷が残っていないことを確認してからにする。予定を先に決めて、無理に合わせるつもりはない」


「俺は明日でも動ける」


「明日は休むと答えたばかりです」


 リュシアがすぐに言ったが、声は強くなかった。


「ガルムさんの盾が戻らない以上、明日入る理由もありません。二日後に肩が痛むようなら、さらに延期します。鐘は一度しか鳴っておらず、明日急いだからといって必ず近づけるものでもないでしょう」


「そこまで言われなくても分かってる」


「分かっているのであれば、問題ありません」


 リュシアはエルディアスの肩から目を外し、連絡官へ向き直った。


 報告の終了が告げられかけたところで、ラウルが片手を上げた。


「一つ確認しておきたい。鐘の報告を王都へ送るのは構わないが、その返事を待たずに別の隊を森へ入れるつもりはないだろうな」


「現時点で、その予定はありません。ただし、報告を受けた王都から追加の調査命令が下る可能性までは否定できません」


「命令が届くまで待っていれば、森の状態は変わる」


 ラウルは机に置かれた大型個体の爪へ目を向けた。


「死体が残っている保証も、逃げた群れが同じ場所にいる保証もない。現地の痕跡を調べるなら、準備が整い次第、同じ七人を先に入れてほしい。大人数の調査隊を編成するのは、その結果を見てからで十分だ」


「その意見も報告へ添えます」


 レナートが答えた。


「私からも、継続性を優先すべきだと記します。王都が鐘に関心を持つことは避けられませんが、関心があることと、準備のない者を急いで入れることは別です」


「ならいい」


 ラウルは椅子から立ち上がった。


 報告はそこで終わった。


     ◇


 翌日の午後、エルディアスとリュシアはギルド長室へ呼ばれた。


 朝には右肩の腫れもいくらか引き、腕を動かした時の痛みも昨日より薄れていた。リュシアは朝食前に痣と腕の動きを確かめ、宿を出る前にも右腕を上げさせている。


 エルディアスもまた、彼女が昨日の戦闘で使った新しい剣と、背負っていた以前の剣の状態を宿で確かめていた。刃こぼれも鞘の歪みもなく、ローブの下にも隠すような傷はなかった。本人が怪我はないと言っていても、自分で確かめるまでは頭から離れなかった。


 ギルド長室の机の向こうにはバルドが座り、その前へ新しい依頼書が置かれていた。王都の連絡官は来ていなかったが、末尾には王立迷宮査察隊とセレイス冒険者ギルド、双方の印が押されている。


「第一回の依頼は完了扱いだ。報酬は下で受け取れる。それと、王都側から次の調査依頼が来た。昨日の報告どおり、鐘の方向へ森の中の経路を作る仕事だ」


 バルドは依頼書を二人の前へ押し出した。


 依頼内容は、黒碑王墓迷宮第二層における森林内経路の予備開拓。


 前回確認した戦闘地点を起点とし、大型裂爪猿の死体と周辺の痕跡を再確認した後、鐘のような音が聞こえた方向へ進む。木、地面、必要に応じて縄を使用し、複数の方法で帰還経路を記録する。


 撤退時刻を事前に定め、到達距離にかかわらず帰還を優先する。鐘が再び確認された場合は、その場から方角を記録するが、音に合わせて進行経路を変更しない。


「昨日話した内容は、ほとんどそのまま入っているな」


 エルディアスが言った。


「現場から七人揃って同じ意見を出したからな。王都側でも、今すぐ別の人員を押し込むのは難しいと判断したらしい。ただし、鐘の正体が分かれば状況は変わる。建造物が見つかれば研究官が入りたがるし、人がいると分かれば王都や神殿まで黙ってはいない」


 バルドは依頼書の参加者欄へ指を置いた。


「今回は前と同じ七人だ。《暁星》の五人は、今朝のうちに署名を済ませている。ラウルは盾の修理が終われば出られると言っているが、ガルムの腕とエルの肩を確認してから日を決めるそうだ」


「エルは昨日より右腕を動かせています。ただ、それだけで森へ入ってよいとは判断できません。出発前にもう一度状態を確認し、痛みが残っているようなら延期します」


 リュシアはそう答えてから、隣のエルディアスを見た。


「誰が確認するんだ」


「私とクラリスさんです。必要であれば、治癒師にも診てもらいます」


「二人もいらない」


「一人で判断するより確実です」


 バルドは口元を少し緩めた。


「お前より話が早いな」


「長いだけだ」


「必要な理由まで説明しています」


 リュシアは依頼書を最後まで読み、報酬と支給物資の欄へ目を通した。


「測量用の縄、木へ印を付ける塗料、地面へ固定する小さな杭が支給されるのですね。ただ、杭は裂爪猿が抜く可能性があります。目印として残すだけでなく、抜かれたことが分かる置き方を決めておく必要がありそうです」


「その辺りはニルスが考えているそうだ。塗料も一色だけではなく、順番に変えて進んだ方向を判断できるようにするらしい」


「それなら、前の印へ戻った時に、どちら側から来たかも確認できますね」


「俺には分からんが、本人はできると言ってた」


 バルドは椅子の背へ寄りかかった。


「出発は明後日の朝を予定している。盾の修理や負傷の具合によっては延期だ。前回は森へ入らない予定で十四頭倒して帰ってきた。今回は初めから森へ入る。予定どおりに進まないことを前提にしておけ」


「分かってる」


「分かっていても、目の前に何か見つかれば進みたくなる。特に今回は鐘という分かりやすい目標がある。着きそうだからもう少し、もう一度鳴るまで待つ、そういう理由で帰る時間を変えるな」


 バルドは二人を順に見た。


「道を作りに行く仕事だ。鐘の正体を持って帰る仕事じゃない。それだけは間違えるな」


「はい。発生源へ到達しなくても、次回につながる経路を残せれば依頼は達成したと判断します」


 リュシアが答える。


「エルが先へ進もうとした場合も止めます」


「俺だけじゃないだろ」


「ラウルさんは撤退を優先する方です。セルマさんは進みたがる可能性がありますが、ラウルさんとクラリスさんが止めます。エルを止めるのは私です」


「役割分担ができてるな」


 バルドが言うと、エルディアスは依頼書を取り、署名欄へ名を書いた。


「受ける」


「報酬も確認せずに決めるな」


「前と同じだろ」


「危険手当が増えてる」


 改めて確認すると、前回と同額の基本報酬に、森林内での経路開拓と魔物遭遇を想定した追加分が記されていた。


「増えてるな」


「だから読めと言ってる」


 エルディアスは筆をリュシアへ渡した。彼女も署名を終え、依頼書をバルドへ戻す。


「神殿からの祈祷はありませんか」


「今回は神殿から祈祷の申し出は来ていない。物資だけは、クラリスを通して届くそうだ」


「必要な物資だけであれば助かります」


「今後もそれで済めばいいがな」


 バルドは署名の揃った依頼書を机の引き出しへ収めた。


「明日は装備と荷物の確認だけにして、明後日の朝に宿営地へ集合だ。延期する場合は、明日の夕方までに連絡する」


 ギルド長室を出ると、大広間には夕方の依頼報告を待つ冒険者たちが集まっていた。《暁星》の姿はない。盾や装備を受け取り、次の調査に必要な物資を整えている頃だろう。


 階段を下りながら、リュシアが声を落とした。


「鐘の先に、何があると思いますか」


「分からん。誰かが鳴らしているかもしれないし、鐘に似た音を出す何かかもしれない」


「誰かがいるのであれば、第二層で暮らしているのでしょうか。塔の周囲には道も建物もありませんでしたが、森の奥だけに生活できる場所がある可能性はあります」


「見なきゃ分からん」


「そうですね。見てもいないことを考え続けても、答えは出ません。ただ、人がいるのであれば、私たちがどこから来たのかを説明する必要があるかもしれません」


「会ってから考えろ」


「エルは、いつもそう言いますね」


「会わないかもしれない」


「その可能性もあります」


 リュシアはそこで話を終えたが、エルディアスは隣を歩く彼女から意識を外さなかった。右肩を気にして歩調を緩めているのか、それとも普段どおりなのか。確かめるように見ていると、リュシアがこちらを向く。


「肩が痛むのですか」


「違う」


「では、何ですか」


「何でもない」


 リュシアは少しだけ目を細めたが、嘘だとは言わなかった。エルディアスが意図的に嘘をつけないことを、彼女は知っている。


「そうですか」


 二人は並んで階段を下りた。


 鐘の正体も、そこまでの距離も、森の中に何があるのかも分からない。


 それでも、次に進む向きだけは決まっていた。


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