第31話 整理
塔の内側へ戻っても、ラウルはすぐには転移紋へ向かわなかった。
「ニルスは入口を見ていてくれ。クラリスは負傷の確認。ガルムは盾を下ろせ。セルマは触媒の残りを数えてくれ」
短い指示を受け、《暁星》の四人が動き出す。
ニルスは開口部の脇に立ち、短弓を手にしたまま丘と森を見渡した。セルマは白木の杖を床へ置き、腰の袋から残った触媒を取り出している。ガルムは大盾を壁際へ下ろしたが、森側へ身体を向けたまま左腕の革帯を緩めた。
クラリスは治療鞄を開き、最初にガルムの左腕を確認した。盾越しに何度も衝撃を受けた箇所は、広い範囲が紫色に変わっている。
「骨に異常はなさそうです。ただ、しばらく強く動かさないでください」
「盾は持てる」
「持てることと、持ってよいことは別です」
「帰るまでは持つ」
「では、必要になるまで背負っていてください」
クラリスは患部へ治癒の光を当て、次にラウルの胸当てへ残った爪痕を調べた。金属の表面を浅く削られただけで、その下までは届いていない。
セルマとニルスには傷がなく、リュシアの剣やローブにも目立った損傷はなかった。クラリス自身の外衣は肩口を裂かれているが、皮膚には触れていない。
最後に、クラリスはエルディアスの前へ来た。
「右肩を見せてください」
「動く。折れてない」
「それは先ほど聞きました。今度は治療します」
石を受けた箇所は、丘を上っている間にも腫れが増していた。クラリスが腕を前後へ動かし、骨と関節に異常がないことを確かめる。
「打撲です。治癒をかけますが、今日は無理に使わないでください」
「杖を持つくらいなら問題ない」
「戦わないでください、と言っています」
「そのつもりはない」
「先ほども、森へ入るつもりはありませんでした」
エルディアスは返す言葉を探したが、実際に戦闘になった以上、反論できなかった。
肩へ淡い光が広がる。鈍い痛みが薄れ、腕を動かした時の重さもいくらか軽くなった。
「完全には消していません。帰還してから、腫れが残っていればもう一度治療します」
「ああ」
クラリスは治療鞄へ道具を戻し、七人を見回した。
「全員、転移と帰還には支障ありません。ただし、同じ規模の戦闘をもう一度行えば、治癒へ回すオドはかなり減ります」
「戦闘はしない」
ラウルは即座に答えた。
「ここで記録を揃えて戻る」
転移紋の近くへ腰を下ろし、記録板を床へ置く。セルマとガルムも壁際から離れ、ニルスは入口を見張ったまま聞こえる位置へ移った。
エルディアスも背負い袋から紙を取り出した。
塔の外周と丘については、歩きながらすでに書き込んでいる。ニルスが測量縄で取った距離や、外壁へ風を沿わせた結果も、各自の記録に残されていた。外周を一周して確認した内容を、ここでもう一度話し直す必要はない。
ラウルはエルディアスの紙と自分の記録板を並べ、違いのある箇所だけを確認した。ニルスが測った位置を加え、ガルムが確認した斜面の状態と、セルマが術式を使った範囲を書き足していく。
森の境で調べた地面と爪痕、裂爪猿との戦闘、討伐数と逃走数についても、先ほど現地で確認した内容をそのまま移した。群れ主を残した場所には印を付け、次に訪れた時の確認事項として残す。
「戦闘の順番を全部書く必要はない」
ラウルが言った。
「次に役立つ動きだけでいい。石を投げる個体と地上へ下りる個体が分かれていたこと。結界役を優先して狙ったこと。盾で止められないと分かってから、左右と後方へ攻撃を散らしたこと」
「幹を叩いた合図もだな」
エルディアスが付け加える。
「盾を鳴らした時にも、一度そちらを見た。音そのものより、木や地面を伝う振動に反応している可能性がある」
「次も使える?」
セルマが尋ねた。
「一度見せた」
エルディアスは答えた。
「生き残りが同じ群れへ戻るなら、次は警戒するかもしれない」
「なら、確実な対処法としては書かない方がいいな」
ラウルは記録へ短く付け加えた。
「反応を確認。一度のみ有効。再現性は不明」
「随分と慎重ね」
「使えると思って失敗するよりいい」
「そこは否定してないわよ」
最後に、鐘の方角を示す扇形が二枚の紙へ写された。
リュシアとニルスが森の前で示した範囲は、ほぼ一致している。ただし、音が何度か反響していたこともあり、その線上に発生源があるとは断定できない。
「鐘のような音を一度確認。方向のみ二名が一致。距離、発生源、鳴った高さは不明」
ラウルが読み上げる。
「人工物や人の存在の可能性は?」
クラリスが尋ねた。
「報告には入れない」
エルディアスが答えた。
「確かに可能性はある。だが、見てない」
「そうだな」
ラウルも同意し、その下へ線を引いた。
確認を終えると、セルマが自分の紙へ最後の文字を書き込み、ラウルへ渡した。ニルスも入口から離れずに記録板だけを差し出し、クラリスは負傷と消耗品の一覧を添える。ガルムの紙には、森の境で確認した足場と、大盾に受けた攻撃の方向が簡単に残されていた。
ラウルはそれらを順に重ね、エルディアスへ差し出した。
「これが、俺たちが記録した分だ」
エルディアスは紙の束を見た。
「俺に渡すのか」
「何を言ってる。お前たちの調査だろう」
そこで、エルディアスは依頼の形を思い出した。
第二層の予備調査を依頼されたのは、エルディアスとリュシアだった。《暁星》は二人の護衛と支援として同行している。王都が《暁星》だけで先へ進むことを嫌って作った名目ではあるが、依頼書の上では変わらない。
塔の外周を歩いている間は、エルディアスも自分で記録を取っていた。だが、森へ近づいてからは、隊列も撤退も戦闘も、ほとんどラウルの声で動いていた。
緊急時には最初に危険を認識した者が声を上げる。《暁星》への指示はラウルが行い、全体の進退は相談して決める。事前にそう確認していたはずだった。
実際には、ラウルが危険を認識し、指示を出すと、五人だけでなくエルディアスまで自然に従っていた。
指揮を任せた覚えはない。
それでも気づけば、任せていた。
「忘れてたな」
エルディアスが言うと、セルマが笑った。
「自分の依頼だってことを?」
「途中からな」
「俺たちへ命令する必要はないと言ったはずだ」
ラウルが言う。
「そのお前が、全員に命令してただろ」
「危険だったから指示を出した。それに従うかは、そっちが決めればいい」
「従わない理由がなかった」
「なら問題ない」
ラウルは当然のように答えた。
ガルムもクラリスも、それを特別なこととは考えていないらしい。セルマは触媒を袋へ戻し、ニルスはすでに森の見張りへ戻っている。
「リュシアは覚えてたのか」
エルディアスが隣へ尋ねる。
「はい」
「なら、途中で言え」
「調査は進んでいましたし、指揮にも問題はありませんでした。思い出させる必要があるとは思いませんでした」
「最後に記録だけ渡されて思い出したぞ」
「戻る前に思い出せたので、よかったのではありませんか」
「よくはないだろ」
「次は忘れないようにしてください」
エルディアスは紙の束を受け取った。
《暁星》側にも控えは残されている。だが、彼らが確認したことも、戦闘中に気づいたことも、隠さずすべてこちらへ渡されていた。
ラウルが成果を自分たちだけのものにするつもりなら、そもそもこの場で記録を揃える必要はない。依頼の形が王都の都合で作られたものだと分かっていても、受けた以上は守るらしい。
「指揮役としては、十分に信頼できました」
リュシアがラウルへ言った。
「そうか」
ラウルは満足そうに頷いた。
「なら、勇者候補としても少しは前へ進んだか?」
「それは別です」
返事は早かった。
「指揮は評価したんだろう」
「はい。戦闘中の判断も、撤退の判断も適切だったと思います」
「強さも見せた」
「それも確認しました」
「人をまとめることもできる」
「その点も分かりました」
「随分と材料は揃ったと思うが」
「あなたについて知る材料が増えたことと、勇者として選ぶことは同じではありません」
ラウルは少し考えた。
「候補から外れたわけではない?」
「候補に入れたとも言っていません」
「そこからか」
「最初からです」
セルマが肩を揺らして笑った。
「でも、知る材料は増えたって言われたじゃない。前よりは進んでるんじゃない?」
「そう考えておこう」
「都合よく受け取らないでください」
クラリスが静かに言う。
「選ぶのは俺じゃない。受け取り方くらいは自由だろう」
「誤解したまま話を広めなければ、自由です」
リュシアが答えた。
「広めない。次も直接聞く」
「同じ回答になると思いますよ」
軽くいなされても、ラウルは気を悪くした様子を見せなかった。むしろ、最初にギルドで尋ねた時より、わずかに手応えを得たような顔をしている。
「次の話をするか」
ラウルは笑みを収め、床に広げた地図へ視線を戻した。
「今日の依頼範囲は、ここまでで終わりだ。塔の外周、丘、森との境、魔物の存在と危険性は確認した。戻って報告すれば、依頼としては完了になる」
「鐘を放っておくの?」
セルマが尋ねた。
「今日追わないことと、次も調べないことは別だ」
エルディアスは鐘の方角を示す扇形へ指を置いた。
「次に入るなら、森の中へ進める道を調べる。ただし、鐘の発生源まで行くことを目的にはしない」
「方向は分かってるのに?」
「方向しか分かってない。距離が分からないものを目標にすれば、どこで引き返すか決められなくなる」
「音を追って向きを変え続ければ、帰る方向も失う」
ニルスが入口から口を挟んだ。
「森へ入れば塔も見えない。最初に進行方向を決めて、途中で鐘が鳴っても、その場で位置を記録するだけにした方がいい」
「まず、今日の戦闘地点を確認する」
エルディアスは群れ主を残した印を指した。
「死体が残っているか、何かに運ばれたか。それを見てから森へ入る。道は一本に絞り、一定の間隔で目印を残す。帰還に必要な時間を先に決めて、そこから逆算して進む」
「目印は一種類では足りないな」
ラウルが言った。
「裂爪猿は石も枝も動かす。地面だけ、木だけでは消される可能性がある」
「木と地面の両方へ残す。見通しが悪ければ、縄も使う」
ニルスが自分の測量縄へ目を向けた。
「ただし、一直線に張るのは無理だ。根と幹を避ければ、距離の記録と方角の記録は分ける必要がある」
「次は測量師も入れる?」
セルマが尋ねる。
「まだ早い」
ラウルが答えた。
「今日の群れが森の境にいただけとは限らない。守る人数が増えれば、撤退も遅くなる」
「同じ七人で先に道を作る?」
「依頼が出ればな」
エルディアスは答えた。
「少なくとも、大人数を先に入れるのは勧めない。森で同じように囲まれれば、人数が多いほど互いの動きを邪魔する」
「王都は鐘を聞けば、すぐ調べたがるだろう」
ガルムが言う。
「だから、先に報告へ書く」
ラウルは新しい紙を取り出した。
「鐘の確認を理由に、準備のない追跡は行わない。次回は帰還経路の確保を優先する。大人数での進入は、安全な経路を確認してから。それが俺たちの意見だ」
「俺たち?」
エルディアスが尋ねる。
「違うなら言え」
「同じだ」
「なら、お前の報告へ入れておけ」
「また俺か」
「調査の主体だろう」
「今度は覚えてる」
エルディアスは受け取った記録を背負い袋の奥へ収めた。
鐘の正体は分からない。誰かが鳴らしたのか、何かが鐘に似た音を出したのか、それさえまだ確かではない。
それでも、次に何を調べるべきかは決まった。
音の先へ急ぐのではなく、先へ進んでも戻れる道を作る。その途中で再び鐘が鳴れば、別の位置から方向を記録する。
「整理は終わりだ」
ラウルが紙を畳み、立ち上がった。
ニルスが最後に丘と森を確認する。追ってくる影はなく、二度目の鐘も鳴らなかった。
七人は荷物を整え、広間の中央にある転移紋へ集まった。クラリスが人数を数え、ガルムは傷ついた大盾を背負い直す。
「戻るぞ」
床の線へ淡い光が走る。
エルディアスは、背負い袋に収めた紙の束へ一度だけ手を触れた。
《暁星》が見たものも、リュシアが聞いたものも、エルディアスが調べたものも、そこにはすべて残されている。
第一回の調査は、それで終わった。




