第30話 遠鐘
七人は丘の斜面を下り始めた。
塔の周囲はなだらかな草地だったが、森へ近づくにつれて傾斜が強くなり、地表へ露出した石や木の根が増えていく。ガルムは大盾を左腕へ通し、足元を確かめながら先頭を進んでいた。ニルスも短弓を手にしたまま、斜面より森の梢へ視線を向けている。
エルディアスは何度か振り返った。丘を半ばまで下りても、塔の出入り口はまだ見えていた。斜面には視界を遮るものがなく、この位置からなら帰る方向を見失うことはない。
森へ入れば話は変わるだろう。
今回は入らない。境を調べ、足場と見通しを確認する。戻り道に問題がないことまで確かめて、内部の調査は日を改める。ラウルが何度も確認していた方針だった。
森の手前まで来ると、外周から見ていた印象よりも木々は大きかった。幹は大人が二人で抱えても腕が届かないほど太く、根は地面から大きく盛り上がっている。低木は少ないものの、奥へ進むほど枝葉が重なり、昼の光が急速に薄くなっていた。
ガルムが森へ入る一歩手前で止まった。
「ここから地面が変わってるな」
草地は木々の根元を境に途切れていた。森の内側には湿った落ち葉が厚く積もり、その下の土も柔らかい。重い装備で踏み込めば跡は残るが、太い根が多く、走るには向かない地面だった。
ガルムは大盾の縁で地面を押した。
「下がる時に足を取られそうだ」
「まだ入ってもいないのに、もう逃げる話?」
セルマが杖を肩から下ろす。
「戻り道を調べに来たんだろうが」
「足場を調べに来たのよ」
「同じだ」
ラウルは二人を放っておき、森の左右を見渡した。
「ニルス、どこまで見える」
「地面なら五十歩ほど。その先は幹が重なって無理だ。上はもっと悪い」
ニルスは目を細め、枝葉の間へ短弓を向けた。
「生き物の姿はない。鳥もいないな」
「音もしません」
クラリスが静かに付け加えた。
風で梢が揺れる音は聞こえている。それ以外には、鳥の声も獣の足音もない。虫の羽音すら、森の内側からは届かなかった。
リュシアは境に沿って左へ歩き、太い木の根元へしゃがんだ。
「足跡はありません。ただ、こちらに傷があります」
ラウルたちも近づく。
地面から人の背丈を越えた位置に、四本の深い傷が残っていた。刃物で斬ったような直線ではない。何かが曲がった爪を食い込ませ、そのまま幹を登った跡だった。
裂けた樹皮の内側は、まだ乾ききっていない。
「新しいな」
ラウルが傷へ触れずに覗き込む。
「一頭ではありません」
リュシアが傷の重なった箇所を示した。
「同じ木を何頭も使っています。大きさまでは分かりませんが、爪の間隔は人の手より広いです」
「上を歩く猿型か」
ニルスが顔を上げた。
「裂爪猿なら似た跡を残す。だが、こんな太い木を使う群れは見たことがない」
「見たことがあるなら、習性も分かるの?」
セルマが尋ねる。
「石を投げる。枝を落とす。弱った相手を上から狙う。頭は悪くない」
「森で会いたくない相手ね」
「森以外では、あまり会わない」
リュシアが立ち上がった。その視線は、ニルスではなく頭上へ向いていた。
――右の奥です。
声は耳からではなく、エルディアスの内側へ届いた。
エルディアスは顔を動かさず、リュシアの見ている先を追った。風で揺れている枝とは別に、一本だけ不自然に沈んだ枝がある。何かが上へ乗り、奥へ移ったような動きだった。
――何頭だ。
――姿は見えていません。一頭以上です。
エルディアスは杖を抜いた。
「上にいる。右奥だ」
声に出した途端、ラウルの表情が変わった。
「全員、森から離れろ。丘側へ十歩下がる」
七人は森へ背を向けず、ゆっくりと後退した。
ガルムが正面。クラリスとセルマがその後ろへ入り、ラウルとニルスが左右を固める。エルディアスとリュシアは最後尾から森を見たまま下がった。
三歩。四歩。
五歩目で、頭上から木の軋む音がした。
森の奥ではない。境に立つ、すぐ目の前の木だった。
「盾!」
ラウルの声と、太い枝が折れる音が重なった。
ガルムが大盾を持ち上げる。人の胴ほどもある枯れ枝が落下し、盾の表面へ激突した。ガルムの膝が沈み、折れた小枝と葉が周囲へ飛び散る。
クラリスの白い杖が上がった。
淡い光の膜が五人の頭上へ広がり、降り注ぐ木片を受け止める。
「左上、二頭!」
ニルスが矢をつがえた。
枝葉の間から黒褐色の影が飛び出した。長い両腕と曲がった爪。猿に似た顔の口元から、太い牙が突き出している。
ニルスの矢が放たれた。
裂爪猿は枝を蹴って横へ飛んだが、矢も空中で軌道を変えた。風に押された鏃が脇腹へ刺さり、裂爪猿が枝から落ちる。
「右から来る!」
セルマが叫んだ。
もう一頭が、折れた枝の陰からガルムへ飛びかかる。
ガルムは頭上の枝を盾で押し退けたばかりだった。大盾を正面へ戻すより早く、裂爪猿の爪が肩口へ迫る。
光の板が、その間へ滑り込んだ。
クラリスの結界へ爪が食い込み、甲高い音を立てる。裂爪猿の動きが止まった瞬間、セルマが白木の杖を振った。
細く絞られた火が、裂爪猿の右腕へ巻きついた。炎は毛皮だけを焼き、枝葉へ広がる前に消える。裂爪猿が腕を引いたところへ、ガルムの大盾が横からぶつかった。
裂爪猿の身体が地面へ転がる。
ラウルが踏み込んだ。
剣身を青白い雷が走る。
エルディアスは一瞬だけ目を見開いた。雷を扱う魔導士自体が珍しい。それを術式として放つのではなく、剣へまとわせている。
リュシアも裂爪猿から視線を外し、ラウルの剣を一度だけ見た。
刃が裂爪猿の胸へ入り、雷が傷口から全身へ広がった。焦げた臭いが立ち、最初の一頭が動かなくなる。
ニルスが落とした個体も、地面へ着いた直後に立ち上がっていた。脇腹へ矢を刺したまま、低く身体を沈めてクラリスへ向かう。
「一頭抜ける!」
ニルスが二本目の矢を取る。
ガルムはラウルの前を塞いでおり、すぐには動けない。クラリスが結界を正面へ向けると、裂爪猿は寸前で地面を蹴り、光の壁を越えようとした。
セルマが火を放つ。
炎は裂爪猿を狙わず、その着地点へ細い線を引いた。裂爪猿は空中で身体を捻り、火を避ける。
避けた先へ、ニルスの矢が飛んだ。
風に押された鏃が喉へ入る。裂爪猿は地面へ叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
「二頭だけじゃないぞ!」
ガルムが大盾を正面へ戻した。
森の中で枝が連続して揺れている。右。左。さらに奥。姿は見えなくても、何かが七人を中心に散っていくのが分かった。
「八頭」
ニルスが枝の動きを追う。
「いや、もっといる。奥にも動いてる」
「丘へ戻る」
ラウルは即座に決めた。
「ガルムを先頭にする。クラリスは上、セルマは左右を止めろ。倒したものは置いていく」
七人が陣形を保ったまま、斜面を上がろうとする。
その動きを待っていたように、森の中から石が飛んできた。
上からではない。
拳ほどの石が木々の間から横向きに投げられ、盾のない左右と最後尾を狙っている。
クラリスが結界を広げた。左側から飛んだ石が光の膜へ当たり、鈍い音とともに弾かれる。
右から来た石は範囲の外だった。
エルディアスが風を叩きつける。石の軌道がわずかに逸れ、ラウルの肩を外れて草地へ落ちた。
続けて三つ。
その一つが、エルディアスの右肩へ当たった。
身体が半歩よろめく。骨に響く痛みはあったが、腕は動いた。
――右肩。
――動く。前を見ろ。
リュシアは振り返らなかった。確認を終えたように、左前方の木へ視線を戻す。
森の境から三頭の裂爪猿が飛び出した。
正面の一頭がガルムへ向かい、残る二頭は左右へ分かれる。
「止める!」
ガルムが大盾を地面へ下ろした。
足元の土が盛り上がり、両足と脛当ての周囲を固める。正面から飛び込んだ裂爪猿の爪が大盾へ食い込んだが、ガルムの身体は下がらない。
裂爪猿が盾へ取りついたまま身体を持ち上げる。その背後から、もう一頭が跳んだ。
「上を越える!」
ラウルが剣を振る。
雷を帯びた刃が空中の裂爪猿へ向かったが、届く寸前で身体を捻られた。剣先が毛皮を浅く裂くだけに終わる。
裂爪猿はそのままクラリスの頭上へ落ちた。
光の壁が斜めに立ち上がる。
真正面から止めるのではなく、飛び込んできた身体を横へ流す角度だった。裂爪猿は結界の表面を滑り、セルマの前へ転がる。
「ニルス!」
「見えてる!」
矢が飛ぶ。
起き上がろうとした裂爪猿の左目へ鏃が入り、三頭目が倒れた。
ガルムは盾へ爪を掛けた一頭を押し返しながら、右手の斧を短く振った。裂爪猿は盾の陰へ身体を寄せ、刃を避ける。
「ラウル!」
呼ばれたラウルは、すでに動いていた。
ガルムが盾を右へ傾ける。爪を外せない裂爪猿の身体が左へ流れ、空いた脇腹へ雷を帯びた剣が入った。
四頭目が地面へ崩れる。
その間に、左へ回った一頭がエルディアスへ迫っていた。
――左です。
――分かってる。奥にも一頭いる。
リュシアが剣を抜く。
エルディアスは迫る裂爪猿ではなく、その背後の木へ杖を向けた。太い根の間から土が盛り上がり、低い足場を二つ作る。
――奥を先に落とせ。
――こちらは。
――止める。
裂爪猿が爪を振り上げる。
エルディアスは身体を横へずらし、地面へ短い風を走らせた。枯れ草と土が巻き上がり、裂爪猿の顔を覆う。
致命傷にはならない。視界を奪えるのも一瞬だけだった。
その一瞬で、リュシアが走る。
一つ目の土を踏み、二つ目を蹴る。そこから幹へ足を掛け、地面とほとんど垂直の木を二歩駆け上がった。
枝の陰に隠れていた裂爪猿が、慌てて後ろへ跳ぶ。
リュシアの剣が、その左脚を斬った。
着地を失った裂爪猿が枝から落ちる。途中で別の枝へ爪を掛けたが、傷を負った脚が幹へ届かない。
――右へ。
エルディアスが風を放つ。
リュシアの身体を運ぶほど強い風ではない。枝を蹴った跳躍をわずかに横へ伸ばし、次の足場へ届かせるだけの補助だった。
リュシアは落ちかけた裂爪猿の肩へ片足を置き、さらに上の枝へ移った。
裂爪猿の爪が幹から外れる。
地面へ落下したところへ、ラウルが剣を振り下ろした。雷が全身を貫き、五頭目が動かなくなる。
「今のを狙ってやったのか?」
ニルスが矢をつがえながら尋ねた。
「後だ!」
ラウルが声を飛ばす。
エルディアスへ向かった裂爪猿が、巻き上げられた土を抜けてきた。爪が杖を狙い、横から振られる。
エルディアスは杖を引いたが、避けきれない。
細身の剣が爪を受けた。
樹上から戻ったリュシアが二人の間へ入り、刃を滑らせるように爪を外側へ流す。力を正面から受けず、そのまま裂爪猿の横を抜けた。
脇腹へ浅い傷が走る。
裂爪猿が振り返ろうとしたところで、足元の土が盛り上がった。
片脚を取られ、身体が傾く。
リュシアが剣を返し、首へ斬り込んだ。
六頭目が倒れる。
彼女は血を払うこともせず、すぐに森へ向き直った。
――まだいます。
――見えてる。上に四、地面に二。奥は分からん。
エルディアスは痛む右肩を一度動かした。術式を組むことに支障はない。だがクラリスの結界を外れた石を風で逸らし、リュシアの足場を作り、周囲の土まで動かし続ければ、自分のオドだけでは長く保たない。
枝葉の奥で、複数の影が再び散った。
――借りる。
――どうぞ。
左手の薬指から伸びる黒い糸を通じて、熱を持ったオドが流れ込んだ。
黒い糸が見えているのは二人だけだった。ラウルたちからは、エルディアスが杖を握り直したようにしか見えない。
必要な分だけを引き出し、三つの術式へ振り分ける。
七人の右側へ薄い風の壁を置く。リュシアの足元には次の土の足場を作り、さらに黒い糸を通して彼女の靴へ風を付与する。
――足へ通した。いつもより踏み込みが伸びる。
――分かりました。
――伸ばしすぎるな。
――エルが合わせてください。
――無茶を言うな。
念話を交わしている間にも、二人の表情は変わらなかった。
森から石が飛ぶ。
右側へ置いた風が軌道をずらし、二つの石を草地へ落とす。左側はクラリスの結界が受け止めた。
「エルディアス、右を任せる!」
ラウルが叫ぶ。
「やってる!」
ガルムを中心に、《暁星》の五人が陣形を組み直す。
クラリスは結界を左と頭上へ絞った。セルマが右側の森へ杖を向け、低い枝の間へ細い炎を走らせる。
炎は木々を焼かず、枝から枝へ移ろうとした裂爪猿の進路だけを塞いだ。
一頭が火を避けて地面へ下りる。
ニルスの矢が飛んだ。
裂爪猿は横へ跳んだが、矢も風に押されて曲がる。鏃が肩へ突き刺さり、身体が半回転した。
そこへガルムが踏み込む。
大盾の縁が胸へ当たり、裂爪猿が地面へ倒れた。斧が首へ振り下ろされ、七頭目が動かなくなる。
別の二頭が、ガルムの左右から同時に飛びかかった。
「左は俺が取る!」
ラウルが雷剣を構える。
右側の一頭はガルムの盾へ爪を掛け、左側の一頭は低く身体を沈めてラウルの脚を狙った。
ラウルが剣を下へ向ける。
裂爪猿は寸前で横へ跳び、雷を避けた。
逃げた先へ、光の壁が現れる。
クラリスの結界に行く手を塞がれ、裂爪猿が一瞬止まる。セルマの火が背後を横切り、戻る道も閉じた。
「そこ」
ニルスの矢が胸へ刺さる。
裂爪猿が倒れきる前に、ラウルの剣が首を斬った。
八頭目だった。
右側では、ガルムが大盾へ取りついた裂爪猿を押し返している。爪が盾の縁へ深く食い込み、互いに離れられない。
裂爪猿が盾の上から身を乗り出し、ガルムの顔へ牙を向けた。
クラリスが杖を振る。
小さな光の板が裂爪猿の顎を下から押し上げた。牙が空を噛み、ガルムは盾を大きく右へ捻る。
裂爪猿の身体が横へ投げ出された。
セルマの杖先から、針のような火が伸びる。炎が肩口を焼き、裂爪猿の右腕が止まった。
ガルムの斧が胸へ入る。
「九頭!」
ニルスが数えた。
「まだ数えるな!」
ラウルの声と同時に、森の奥で太い木が鳴った。
何かが幹を叩いている。
一度。
二度。
腹の底へ響くような重い音が森を伝わり、枝葉の間にいた裂爪猿が一斉に動きを止めた。
静寂は一瞬だけだった。
すぐに、これまでとは異なる低い唸り声が響く。
奥の太い枝へ、一回り大きな裂爪猿が姿を現した。
黒褐色の毛の間から灰色の皮膚が見え、左目から頬へ古い傷が走っている。両腕の爪は小型の短剣ほどもあり、枝を掴むたびに樹皮が深く削れた。
「群れ主だな」
ガルムが大盾を構え直した。
通常の裂爪猿は、樹上に少なくとも五頭残っている。仲間を九頭倒されても逃げず、群れ主の周囲へ集まり始めていた。
「丘へ戻るには、あれを抜く必要がある」
ラウルが森と斜面を見比べる。
裂爪猿は七人の正面だけにいるのではない。左右の木へ広がり、斜面を上がる七人へ横から石を投げられる位置を取っていた。
「群れ主を落とす。ほかが逃げたら追わない」
「どうやって落とす?」
ニルスが尋ねた。
エルディアスは答えず、群れ主の動きを見た。
幹を叩いた時、周囲の裂爪猿はすべてそちらへ顔を向けた。先ほども、ガルムの盾へ枝が当たった瞬間だけ、樹上の影が動きを止めている。
音だけではない。
木と根を伝う振動へ、強く反応している。
「ガルム。盾を鳴らせるか」
「壊れてもいいならな」
「一度でいい。あいつらは大きな音がすると、先にそっちを見る」
ラウルが群れ主から視線を外さずに尋ねる。
「使えるか?」
「注意を向けさせるだけだ。止まりはしない」
「それで十分だ。ガルムが引く。ニルスは群れ主の右腕。セルマは左側の枝を塞げ。クラリスは着地点を作る」
短い指示だけで、《暁星》の五人が動いた。
ガルムが大盾を地面へ立て、斧の背を振り上げる。
群れ主が枝を蹴った。
その巨体が頭上へ近づいた瞬間、斧が大盾の中央を叩く。
耳を打つ金属音が丘へ響いた。
群れ主の顔が、ガルムへ向く。周囲の裂爪猿も一斉に動きを止めた。
ニルスの矢が飛ぶ。
群れ主は爪で払い落とそうとしたが、矢は寸前で下へ沈み、右の前腕へ刺さった。深くは入らない。それでも枝を掴む力が一瞬緩む。
セルマの火が左側へ走った。
群れ主が移ろうとしていた枝の表面だけが赤く焼ける。火を避けて身体を捻った先に、クラリスの結界が斜めに現れた。
群れ主の足が光の膜へ触れる。
結界は巨体を受け止めなかった。踏み込んだ方向をずらし、身体を森の外側へ滑らせる。
群れ主が枝から落ちた。
「来るぞ!」
ガルムが大盾を正面へ戻す。
群れ主は落下しながら身体を丸め、両爪を盾へ叩きつけた。
衝撃が地面を揺らした。
足元を土で固めていたガルムの身体が、それでも一歩押し戻される。大盾の表面へ新たな傷が刻まれ、留め具が軋んだ。
「受けるには重すぎる!」
「なら流せ!」
ラウルが右側から踏み込む。
ガルムは両爪を受けたまま盾を傾けた。群れ主の巨体がわずかに左へ流れ、ラウルの雷剣が脇腹へ入る。
青白い光が毛皮の上を走る。
通常の裂爪猿なら、それだけで動きを止めていた。
群れ主は吠え、痙攣する右腕を無理に振った。
爪がラウルの胸へ迫る。
光の壁が間へ入った。
クラリスの結界へ爪が食い込み、表面へ亀裂のような揺らぎが広がる。
「長くは保ちません!」
セルマの火が群れ主の右手へ巻きついた。
爪の根元だけを焼かれ、群れ主が腕を引く。ラウルも剣を抜き、一度距離を取った。
その隙に、樹上へ残っていた裂爪猿が動く。
三頭が地面へ下り、残る二頭が石を投げた。
「周りを止める!」
ニルスが群れ主から弓を外し、最も近い一頭へ矢を放つ。
ガルムは大盾で二頭を受け、クラリスが頭上から来る石を結界で防ぐ。セルマは広い火を使えず、細い炎を左右へ走らせて裂爪猿の進路を削っていた。
《暁星》の五人が群れ主を落としたことで、今度は残りの裂爪猿が五人を押し込もうとしている。
――左の二頭を取ります。
リュシアが森の境へ身体を向けた。
――待て。群れ主がまだ動く。
――ラウルたちだけで止められます。
――止められるのと、倒せるのは別だ。
群れ主が地面を蹴った。
狙いはガルムではない。結界を維持しているクラリスへ一直線に向かっている。
ラウルが横から追うが、巨体の踏み込みが速い。
――借りる量を増やす。
――どうぞ。
黒い糸から、さらにオドが流れ込む。
エルディアスは右側の風を維持したまま、群れ主の前へ土を隆起させた。
壁にはしない。
踏み込もうとした右足の下だけを、一気に持ち上げる。
群れ主の巨体が傾いた。
それでも勢いは止まらず、右爪がクラリスへ伸びる。
ガルムが横から大盾を差し込んだ。
爪が盾へ当たり、軌道が外れる。クラリスの肩口をかすめた切っ先が、白い外衣だけを裂いた。
「クラリス!」
「傷はありません!」
返事を聞く前に、ラウルの剣が群れ主の背へ入る。
雷が走る。
群れ主は振り返りざまに左腕を振り、ラウルを薙ぎ払おうとした。
リュシアがその内側へ踏み込んだ。
爪が動き始めるより早く、細身の剣が左腕の内側を斬る。深い傷ではない。それでも筋を断たれ、爪の軌道が落ちた。
群れ主がリュシアへ顔を向ける。
――下がれ。
――まだです。
――右から来る。
エルディアスは土の足場を一つ作った。
リュシアは群れ主の肩を蹴り、迫っていた別の裂爪猿の頭上へ跳ぶ。靴へ通した風が踏み込みを伸ばし、その身体が爪の先を越えた。
空中で身体を捻り、裂爪猿の背へ剣を突き立てる。
刃を抜きながら地面へ下りると、裂爪猿も前のめりに倒れた。
十頭目。
もう一頭が、リュシアの着地へ爪を振り下ろす。
――左へ半歩。
リュシアは声が届く前から動いていた。
爪が地面を抉る。
彼女の左側へ盛り上がった土が足場となり、身体が低い枝の高さまで上がる。そこから幹を蹴り、裂爪猿の背後へ回った。
首へ一閃。
十一頭目が倒れた。
「合図もなしに、どうなってるんだ」
ニルスが思わず漏らした。
答える余裕はなかった。
群れ主がガルムの盾を両腕で掴み、そのまま持ち上げようとしている。ガルムは足元を土で固めていたが、盾ごと前へ引かれ始めていた。
「ラウル、右腕を斬れ!」
「盾の陰で狙えない!」
群れ主は大盾を身体の前へ引き寄せ、両腕を隠すように抱え込んでいる。ラウルが横へ回ろうとしても、群れ主も盾の向きを変え、剣の届く角度を塞いだ。
セルマが露出している左腕へ火を放つ。
群れ主は盾を手放さず、焼かれた腕を強く振った。大盾ごとガルムの身体が横へ動き、固定していた土が砕ける。
ガルムの足が地面から離れた。
クラリスの光がその背中を受け止める。完全には支えきれないが、地面へ叩きつけられる勢いを弱めた。
群れ主が盾を奪い、横へ放り投げる。
ガルムは斧だけを構えて立ち上がった。
「俺の盾を投げやがったな」
「怒るところはそこなの?」
セルマが火を撃ちながら言う。
「高かったんだぞ!」
群れ主が再び幹を叩いた。
残っていた裂爪猿が樹上から一斉に飛び降りる。
三頭。
狙いは盾を失ったガルムと、結界を使い続けているクラリスだった。
ラウルが一頭を受ける。ニルスの矢が二頭目の腿へ刺さる。三頭目は火を避け、クラリスへ届く位置まで迫った。
エルディアスは風を放った。
正面から押し戻すのではない。跳びかかった身体の横へ当て、着地点をずらす。
裂爪猿がクラリスの横へ落ちる。
ガルムが斧の柄で顎を打ち上げた。
セルマの火が胸へ入る。狭く絞られた炎が毛皮を焼き、身体を反らしたところへガルムの斧が振り下ろされた。
十二頭目が倒れる。
ラウルと組み合った一頭は、剣を爪で挟んだまま離さない。
「ニルス!」
「そっちを撃ったら、隊長にも当たる!」
「当てるな!」
「簡単に言うな!」
ニルスが矢を放つ。
鏃はラウルの横を通り過ぎた。外れたように見えた矢が、背後から吹いた風で弧を描き、裂爪猿の肩へ刺さる。
爪の力が緩んだ。
ラウルは剣を引き抜き、雷を帯びた刃で胸を貫いた。
十三頭目。
腿へ矢を受けた一頭は、片脚を引きずりながら森へ逃げようとしていた。
「追うな!」
ラウルが制する。
ニルスは弓を下ろした。
群れ主の周囲にいた通常の裂爪猿は、残り二頭まで減っている。二頭は枝へ戻り、戦いへ加わらずに群れ主の様子を見ていた。
群れ主も、先ほどまでの勢いでは動かなかった。
右腕へ矢が刺さり、左腕の内側にはリュシアの付けた傷がある。脇腹と背中はラウルの雷剣に焼かれ、セルマの火で左手の毛皮も失われていた。
それでも、倒れる気配はない。
低く唸りながら、七人と森の間に立っている。
「森へ戻すな」
ラウルが言った。
「上へ逃げられたら、また石と枝を使われる」
「盾は向こうだぞ」
ガルムが離れた場所へ転がった大盾を見る。
「取りに行けるか?」
「俺を誰だと思ってる」
「盾役だ」
「分かってるなら、盾を取らせろ」
クラリスがガルムの前へ光の壁を作る。セルマが群れ主の右側へ火を走らせ、ニルスは左へ矢を向けた。
わずかな隙が開く。
ガルムが走った。
群れ主は追おうとしたが、ラウルが雷剣を正面へ置く。剣を避けて一歩下がった間に、ガルムは大盾へ辿り着いた。
革帯へ腕を通し、立ち上がる。
「まだ使える!」
「なら戻れ!」
群れ主が地面を蹴った。
今度はガルムではなく、ラウルへ向かう。右爪を低く構え、盾のない相手を一撃で薙ぎ払うつもりだった。
ラウルは退かない。
剣へ雷を集め、正面から迎える。
――右腕を止める。首へ行けるか。
エルディアスが念話を送った。
リュシアは群れ主の左後方へ回り込んでいた。
――傷が浅いです。今の剣では一度で断てません。
――刃へ風を通す。抵抗を削るだけだ。
――お願いします。
エルディアスは黒い糸を通して、細身の剣へ術式を流した。
刀身に光は宿らない。炎も立たない。刃の周囲を薄い風が覆い、振り抜く際の抵抗だけを減らす。
ラウルたちに見える変化はなかった。
群れ主の右爪と雷剣がぶつかる。
青白い光が弾け、ラウルの靴が草地を滑った。群れ主も右腕を痙攣させたが、止まらない。左爪を上げ、ラウルの頭上へ振り下ろす。
ガルムが戻った。
大盾が横から群れ主へぶつかる。
「二度も持っていけると思うな!」
群れ主の身体がわずかに傾く。
クラリスが背後へ光の壁を立てた。後退した群れ主の踵が結界へ当たり、下がる道を失う。
セルマの火が、群れ主の左手へ集中した。
傷ついた腕が熱に耐えきれず上がる。
ニルスの矢が右肩へ入った。
群れ主の両腕が開く。
――今だ。
リュシアが走った。
エルディアスが土を一つ盛り上げる。彼女はそれを踏み、ガルムの大盾の縁へ片足を掛けた。
ガルムは何も聞いていなかった。
それでも、盾へ乗った重さを感じた瞬間、群れ主へ向けて大盾を押し上げる。
リュシアの身体が高く跳ねた。
「行け!」
ガルムの声が背中を押す。
群れ主がリュシアへ顔を向けた。
右腕を上げようとするが、ニルスの矢が刺さっている。左腕はセルマの火で動きが遅れ、足元はクラリスの結界に阻まれていた。
リュシアは空中で身体を捻る。
風をまとった剣が、左目から頬へ走る古傷の下へ入った。
刃が毛皮と肉を抜ける。
首の半ばまで、深い傷が開いた。
群れ主が吠え、身体を振り回す。
リュシアは肩を蹴って離れた。着地する先へエルディアスが風を送り、倒れるほどの勢いだけを殺す。
彼女が草地へ足をつけるのと、ラウルが踏み込むのは同時だった。
雷を帯びた剣が、開いた首の傷へ入る。
群れ主の身体を青白い光が貫いた。
それでも刃は首を断ち切れない。
群れ主が残った力でラウルへ爪を伸ばす。
ガルムの斧が右腕へ振り下ろされた。
爪が地面へ落ちる。
セルマの火が首の傷を焼き、群れ主が顔を背けた。クラリスの光がその頭部を横から押し戻す。
「もう一度!」
ラウルが剣を抜いた。
リュシアも反対側から踏み込む。
細身の剣と雷剣が、左右から同じ傷へ入った。
巨体が大きく揺れる。
群れ主は数歩よろめき、両膝をついた。そのまま前へ倒れ、草地を深く抉る。
誰もすぐには武器を下ろさなかった。
群れ主の指が一度だけ動き、地面を掻く。
それきり、動かなくなった。
樹上に残っていた二頭の裂爪猿が、甲高い声を上げた。だが飛びかかってはこない。枝から枝へ移り、森の奥へ逃げていく。
「追うな」
ラウルは剣を構えたまま告げた。
ニルスとリュシアも武器を向けていたが、追跡はしなかった。
枝葉の揺れが遠ざかる。
やがて、森は戦いが始まる前と同じ静けさを取り戻した。
七人はしばらく周囲を警戒し、ほかに動くものがないことを確認してから、ようやく構えを解いた。
クラリスが順に傷を確かめる。
ガルムの左腕には盾越しの衝撃で大きな痣ができ、ラウルの胸当てには爪が浅く走った跡が残っていた。クラリスの外衣も肩口を裂かれているが、皮膚には届いていない。
エルディアスの右肩も赤く腫れ始めていた。
「骨は?」
リュシアが尋ねる。
「動く。折れてない」
「そうですか」
それだけ確認すると、彼女は自分の剣へ目を落とした。刃には欠けも曲がりもない。風の付与はすでに消えている。
クラリスがエルディアスの肩へ杖を向ける。
「治療します」
「後でいい。先にガルムを見てくれ」
「盾は持てている。俺も後でいい」
ガルムは大盾の表面を調べていた。幾筋もの深い爪痕が刻まれ、縁の一部が歪んでいる。
「こいつの方が重傷だな」
「盾は治癒できませんよ」
「知ってる」
ニルスは倒れた裂爪猿を数えていた。
「通常のが十三。大きいのを入れて十四だ」
「逃げた数は?」
ラウルが尋ねる。
「最後に二頭。途中で奥へ戻ったものが、少なくとも三頭はいる。最初から見えていなかった個体もいるかもしれない」
「群れの総数は二十前後と見た方がいいな」
セルマは杖先を地面へ向け、火が残っていないか確認していた。燃え移った草や枝はない。焦げた毛皮と血の臭いだけが、森の境に広がっている。
「ここまで群れで動く裂爪猿は、普通なの?」
「数は珍しくない」
ニルスが群れ主の死体を見る。
「だが、役割を分けてこっちを囲んだ。石を投げる個体と、地面へ下りる個体が入れ替わっていた。あそこまで統率されているのは、俺も初めて見る」
「こちらの動きも見ていた」
エルディアスは森の木々へ視線を戻した。
「最初はクラリスを狙った。結界を破れないと分かってから、石を左右へ分けて投げた。ガルムの盾を避けるようにもなった」
「魔物だからと、単純な獣として扱わない方がよさそうだな」
ラウルが記録板へ書き込む。
ニルスは矢を拾いながら、エルディアスとリュシアを交互に見た。
「それより、二人はいつ合図してたんだ?」
「何の話だ」
「リュシアが木へ上がった時だ。足場が出る前に踏み込んでいただろ。後半も、風が来る位置へ最初から跳んでいた」
「術式が現れてから動いたのでは、間に合いません」
リュシアが答えた。
「それは分かる。どうして現れる位置が分かるんだ」
「エルが術式を置く場所には、ある程度の癖があります」
ニルスはエルディアスを見る。
「癖だけで、あそこまで合わせられるのか?」
「リュシアが先に動くから、合わせないと術式が外れる」
「必要な場所へ動いているだけです」
「俺に言わずにな」
「伝えてから動いたのでは遅いのでしょう?」
「そうだが」
二人のやり取りを聞いていたラウルが、小さく息を吐いた。
「どちらが合わせているにしても、十分な連携だ。動き始めた相手へ、あれだけ正確に補助を通す魔導士も珍しい」
「何度か似たようなことをやってる」
エルディアスは杖を背へ戻した。
「何度かで、あそこまでなるのか」
ニルスは納得していない様子だったが、それ以上は聞かなかった。
リュシアも説明を加えない。
黒い糸も、念話も、そこを通じて流れたオドも、二人にしか分からない。ラウルたちが目にしたのは、エルディアスが土と風を使い、リュシアがそれを足場に戦ったという結果だけだった。
「今日はここまでだ」
ラウルが記録板を閉じた。
「森との境、足場、魔物の種類、群れの規模、攻撃方法まで確認した。これ以上進めば、調査ではなく追撃になる」
「中へ入らないという方針も、ぎりぎり守ったわね」
セルマが森の内側を見る。戦闘の間にリュシアは何度も枝へ上がり、エルディアスも境を数歩越えている。それでも隊列全体で森へ踏み込んだわけではなかった。
「ぎりぎりでも、戻れるうちに戻る」
ラウルは倒れた裂爪猿を見回した。
「爪と毛だけ採取する。群れ主は位置を記録して残す。血の臭いで別の魔物が来る前に、作業を終わらせろ」
七人は森へ注意を向けたまま、裂爪猿から最低限の素材を切り取った。持ち帰れない群れ主の死体には、近くの幹へ白い印を残す。次に来た時まで死体が残っているか、ほかの魔物に食われるか、群れの生き残りが運ぶか。それも森の生態を知る手掛かりになる。
最後にニルスが森の梢を見渡し、ガルムが大盾を背負い直した。
「終わったぞ」
「丘へ戻る」
ラウルが記録板をしまいかけた時だった。
森の奥で、鐘が鳴った。
音は遠かった。幾重もの木々を越えてきたため、耳に届いた時には微かなものになっていた。それでも響きには太い芯があり、深く打ち鳴らされた一音が、力を失わないまま森の静けさを震わせた。
リュシアとニルスが、ほとんど同時に顔を上げた。
二人の視線は迷わず、正面よりわずかに左へ向く。木々が幾重にも重なり、その先には何も見えない。塔の外周を一周した時にも、森の中に建物らしい影は見つからなかった。
「……鐘よね」
セルマが二人の視線を追った。
「ああ」
ガルムも大盾へ腕を通し直す。
ニルスは短弓を手にしたまま、梢の揺れと風の向きを確かめた。
「遠い。途中で何度か返っているが、方向はあっちで間違いない」
「私も同じ方向から聞こえました」
リュシアは森の奥から目を離さずに答えた。
「距離までは分かりません。ただ、塔から響いた音ではありません」
クラリスが白い杖を握り直した。
「誰かが鳴らしたのでしょうか」
誰も答えなかった。
風に揺らされて偶然鳴ったような、軽い音ではない。大きな金属を、何者かが意志を持って一度だけ打ち鳴らした。そう思わせる重さが、消えかけた余韻の中にも残っていた。
まるで、こちらが森へ近づいたことを知り、その存在を知らせるために鳴らしたような。
エルディアスは浮かんだ考えを口にはしなかった。今の段階で分かっているのは、鐘に似た音が森の奥から一度だけ届いたことと、リュシアとニルスが示した方角が一致したことだけだ。
「追う?」
セルマが尋ねた。
「追わない」
ラウルの返答に迷いはなかった。
「まだ日はあるわよ」
「俺たちは一度戦っている。負傷も消耗もある。音までの距離も、そこへ至る地形も、鳴らしたものの正体も分からない。この状態で新しい目標を追う理由はない」
「少し近づけば、もう一度聞こえるかもしれない」
「その少しが何歩かも分からない」
セルマは森の奥を見たまま口を閉じた。ラウルはリュシアとニルスの位置へ移り、記録板を再び開く。
「塔から見た方角へ直す。二人とも、もう一度示してくれ」
ニルスが森へ腕を向けた。リュシアもほぼ同じ方向を指し、わずかな差を確かめるように視線を動かした。
「範囲を持たせるなら、ここからここまでです」
「俺もそれでいい」
ラウルは地図上の現在地から森の奥へ、細い扇形を書き込んだ。
「鐘のような音を一度確認。発生源と距離は不明。方向のみ二名が一致。これ以上は戻ってから整理する」
森から二度目の音は届かなかった。
「リュシアが先頭。ニルスは最後尾で森を見ろ。ガルムは中央へ入れ。鐘の方向へ寄らず、来た経路をそのまま戻る」
七人は森へ背を向けきらないように距離を取り、丘の斜面を上り始めた。リュシアが足元と前方を確かめ、クラリスとセルマが続く。ガルムは大盾をすぐ動かせる位置に置き、ラウルとエルディアスがその後ろへついた。最後尾のニルスだけが、短弓を手にしたまま森を見続けている。
斜面を上るにつれて、倒れた裂爪猿の姿は草地の起伏に隠れていった。森の境も次第に遠ざかる。それでも枝葉の奥で何かが動いた形跡はなく、逃げた裂爪猿が追ってくる様子もなかった。
エルディアスは右肩の痛みを確かめながら、一度だけ後ろを振り返った。
森は静かだった。
戦いの音も、猿の鳴き声も、鐘の余韻も残っていない。木々が風に揺れ、その奥に何があるのかを隠している。
丘を半ばまで上ると、塔の出入り口が正面に見えた。来た時と変わらず、灰白色の壁に穿たれた唯一の開口部が、七人を待っている。
「もう一度鳴れば、ここからでも聞こえるかしら」
セルマが歩きながら言った。
「音の強さが同じならな」
ニルスは森から目を離さない。
「だが、一度鳴ったからといって、次も鳴るとは限らない」
「誰かが鳴らしたなら?」
「なおさら分からない」
ラウルは振り返らなかった。
「分からないから、今日は戻る」
誰もそれ以上は言わなかった。
七人が塔の内側へ入ると、最後尾のニルスが入口の外へ視線を残し、ガルムも一度だけ森を振り返った。
二度目の鐘は、鳴らなかった。




