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第30話 遠鐘

 七人は丘の斜面を下り始めた。


 塔の周囲はなだらかな草地だったが、森へ近づくにつれて傾斜が強くなり、地表へ露出した石や木の根が増えていく。ガルムは大盾を左腕へ通し、足元を確かめながら先頭を進んでいた。ニルスも短弓を手にしたまま、斜面より森の梢へ視線を向けている。


 エルディアスは何度か振り返った。丘を半ばまで下りても、塔の出入り口はまだ見えていた。斜面には視界を遮るものがなく、この位置からなら帰る方向を見失うことはない。


 森へ入れば話は変わるだろう。


 今回は入らない。境を調べ、足場と見通しを確認する。戻り道に問題がないことまで確かめて、内部の調査は日を改める。ラウルが何度も確認していた方針だった。


 森の手前まで来ると、外周から見ていた印象よりも木々は大きかった。幹は大人が二人で抱えても腕が届かないほど太く、根は地面から大きく盛り上がっている。低木は少ないものの、奥へ進むほど枝葉が重なり、昼の光が急速に薄くなっていた。


 ガルムが森へ入る一歩手前で止まった。


「ここから地面が変わってるな」


 草地は木々の根元を境に途切れていた。森の内側には湿った落ち葉が厚く積もり、その下の土も柔らかい。重い装備で踏み込めば跡は残るが、太い根が多く、走るには向かない地面だった。


 ガルムは大盾の縁で地面を押した。


「下がる時に足を取られそうだ」


「まだ入ってもいないのに、もう逃げる話?」


 セルマが杖を肩から下ろす。


「戻り道を調べに来たんだろうが」


「足場を調べに来たのよ」


「同じだ」


 ラウルは二人を放っておき、森の左右を見渡した。


「ニルス、どこまで見える」


「地面なら五十歩ほど。その先は幹が重なって無理だ。上はもっと悪い」


 ニルスは目を細め、枝葉の間へ短弓を向けた。


「生き物の姿はない。鳥もいないな」


「音もしません」


 クラリスが静かに付け加えた。


 風で梢が揺れる音は聞こえている。それ以外には、鳥の声も獣の足音もない。虫の羽音すら、森の内側からは届かなかった。


 リュシアは境に沿って左へ歩き、太い木の根元へしゃがんだ。


「足跡はありません。ただ、こちらに傷があります」


 ラウルたちも近づく。


 地面から人の背丈を越えた位置に、四本の深い傷が残っていた。刃物で斬ったような直線ではない。何かが曲がった爪を食い込ませ、そのまま幹を登った跡だった。


 裂けた樹皮の内側は、まだ乾ききっていない。


「新しいな」


 ラウルが傷へ触れずに覗き込む。


「一頭ではありません」


 リュシアが傷の重なった箇所を示した。


「同じ木を何頭も使っています。大きさまでは分かりませんが、爪の間隔は人の手より広いです」


「上を歩く猿型か」


 ニルスが顔を上げた。


「裂爪猿なら似た跡を残す。だが、こんな太い木を使う群れは見たことがない」


「見たことがあるなら、習性も分かるの?」


 セルマが尋ねる。


「石を投げる。枝を落とす。弱った相手を上から狙う。頭は悪くない」


「森で会いたくない相手ね」


「森以外では、あまり会わない」


 リュシアが立ち上がった。その視線は、ニルスではなく頭上へ向いていた。


 ――右の奥です。


 声は耳からではなく、エルディアスの内側へ届いた。


 エルディアスは顔を動かさず、リュシアの見ている先を追った。風で揺れている枝とは別に、一本だけ不自然に沈んだ枝がある。何かが上へ乗り、奥へ移ったような動きだった。


 ――何頭だ。


 ――姿は見えていません。一頭以上です。


 エルディアスは杖を抜いた。


「上にいる。右奥だ」


 声に出した途端、ラウルの表情が変わった。


「全員、森から離れろ。丘側へ十歩下がる」


 七人は森へ背を向けず、ゆっくりと後退した。


 ガルムが正面。クラリスとセルマがその後ろへ入り、ラウルとニルスが左右を固める。エルディアスとリュシアは最後尾から森を見たまま下がった。


 三歩。四歩。


 五歩目で、頭上から木の軋む音がした。


 森の奥ではない。境に立つ、すぐ目の前の木だった。


「盾!」


 ラウルの声と、太い枝が折れる音が重なった。


 ガルムが大盾を持ち上げる。人の胴ほどもある枯れ枝が落下し、盾の表面へ激突した。ガルムの膝が沈み、折れた小枝と葉が周囲へ飛び散る。


 クラリスの白い杖が上がった。


 淡い光の膜が五人の頭上へ広がり、降り注ぐ木片を受け止める。


「左上、二頭!」


 ニルスが矢をつがえた。


 枝葉の間から黒褐色の影が飛び出した。長い両腕と曲がった爪。猿に似た顔の口元から、太い牙が突き出している。


 ニルスの矢が放たれた。


 裂爪猿は枝を蹴って横へ飛んだが、矢も空中で軌道を変えた。風に押された鏃が脇腹へ刺さり、裂爪猿が枝から落ちる。


「右から来る!」


 セルマが叫んだ。


 もう一頭が、折れた枝の陰からガルムへ飛びかかる。


 ガルムは頭上の枝を盾で押し退けたばかりだった。大盾を正面へ戻すより早く、裂爪猿の爪が肩口へ迫る。


 光の板が、その間へ滑り込んだ。


 クラリスの結界へ爪が食い込み、甲高い音を立てる。裂爪猿の動きが止まった瞬間、セルマが白木の杖を振った。


 細く絞られた火が、裂爪猿の右腕へ巻きついた。炎は毛皮だけを焼き、枝葉へ広がる前に消える。裂爪猿が腕を引いたところへ、ガルムの大盾が横からぶつかった。


 裂爪猿の身体が地面へ転がる。


 ラウルが踏み込んだ。


 剣身を青白い雷が走る。


 エルディアスは一瞬だけ目を見開いた。雷を扱う魔導士自体が珍しい。それを術式として放つのではなく、剣へまとわせている。


 リュシアも裂爪猿から視線を外し、ラウルの剣を一度だけ見た。


 刃が裂爪猿の胸へ入り、雷が傷口から全身へ広がった。焦げた臭いが立ち、最初の一頭が動かなくなる。


 ニルスが落とした個体も、地面へ着いた直後に立ち上がっていた。脇腹へ矢を刺したまま、低く身体を沈めてクラリスへ向かう。


「一頭抜ける!」


 ニルスが二本目の矢を取る。


 ガルムはラウルの前を塞いでおり、すぐには動けない。クラリスが結界を正面へ向けると、裂爪猿は寸前で地面を蹴り、光の壁を越えようとした。


 セルマが火を放つ。


 炎は裂爪猿を狙わず、その着地点へ細い線を引いた。裂爪猿は空中で身体を捻り、火を避ける。


 避けた先へ、ニルスの矢が飛んだ。


 風に押された鏃が喉へ入る。裂爪猿は地面へ叩きつけられ、そのまま動かなくなった。


「二頭だけじゃないぞ!」


 ガルムが大盾を正面へ戻した。


 森の中で枝が連続して揺れている。右。左。さらに奥。姿は見えなくても、何かが七人を中心に散っていくのが分かった。


「八頭」


 ニルスが枝の動きを追う。


「いや、もっといる。奥にも動いてる」


「丘へ戻る」


 ラウルは即座に決めた。


「ガルムを先頭にする。クラリスは上、セルマは左右を止めろ。倒したものは置いていく」


 七人が陣形を保ったまま、斜面を上がろうとする。


 その動きを待っていたように、森の中から石が飛んできた。


 上からではない。


 拳ほどの石が木々の間から横向きに投げられ、盾のない左右と最後尾を狙っている。


 クラリスが結界を広げた。左側から飛んだ石が光の膜へ当たり、鈍い音とともに弾かれる。


 右から来た石は範囲の外だった。


 エルディアスが風を叩きつける。石の軌道がわずかに逸れ、ラウルの肩を外れて草地へ落ちた。


 続けて三つ。


 その一つが、エルディアスの右肩へ当たった。


 身体が半歩よろめく。骨に響く痛みはあったが、腕は動いた。


 ――右肩。


 ――動く。前を見ろ。


 リュシアは振り返らなかった。確認を終えたように、左前方の木へ視線を戻す。


 森の境から三頭の裂爪猿が飛び出した。


 正面の一頭がガルムへ向かい、残る二頭は左右へ分かれる。


「止める!」


 ガルムが大盾を地面へ下ろした。


 足元の土が盛り上がり、両足と脛当ての周囲を固める。正面から飛び込んだ裂爪猿の爪が大盾へ食い込んだが、ガルムの身体は下がらない。


 裂爪猿が盾へ取りついたまま身体を持ち上げる。その背後から、もう一頭が跳んだ。


「上を越える!」


 ラウルが剣を振る。


 雷を帯びた刃が空中の裂爪猿へ向かったが、届く寸前で身体を捻られた。剣先が毛皮を浅く裂くだけに終わる。


 裂爪猿はそのままクラリスの頭上へ落ちた。


 光の壁が斜めに立ち上がる。


 真正面から止めるのではなく、飛び込んできた身体を横へ流す角度だった。裂爪猿は結界の表面を滑り、セルマの前へ転がる。


「ニルス!」


「見えてる!」


 矢が飛ぶ。


 起き上がろうとした裂爪猿の左目へ鏃が入り、三頭目が倒れた。


 ガルムは盾へ爪を掛けた一頭を押し返しながら、右手の斧を短く振った。裂爪猿は盾の陰へ身体を寄せ、刃を避ける。


「ラウル!」


 呼ばれたラウルは、すでに動いていた。


 ガルムが盾を右へ傾ける。爪を外せない裂爪猿の身体が左へ流れ、空いた脇腹へ雷を帯びた剣が入った。


 四頭目が地面へ崩れる。


 その間に、左へ回った一頭がエルディアスへ迫っていた。


 ――左です。


 ――分かってる。奥にも一頭いる。


 リュシアが剣を抜く。


 エルディアスは迫る裂爪猿ではなく、その背後の木へ杖を向けた。太い根の間から土が盛り上がり、低い足場を二つ作る。


 ――奥を先に落とせ。


 ――こちらは。


 ――止める。


 裂爪猿が爪を振り上げる。


 エルディアスは身体を横へずらし、地面へ短い風を走らせた。枯れ草と土が巻き上がり、裂爪猿の顔を覆う。


 致命傷にはならない。視界を奪えるのも一瞬だけだった。


 その一瞬で、リュシアが走る。


 一つ目の土を踏み、二つ目を蹴る。そこから幹へ足を掛け、地面とほとんど垂直の木を二歩駆け上がった。


 枝の陰に隠れていた裂爪猿が、慌てて後ろへ跳ぶ。


 リュシアの剣が、その左脚を斬った。


 着地を失った裂爪猿が枝から落ちる。途中で別の枝へ爪を掛けたが、傷を負った脚が幹へ届かない。


 ――右へ。


 エルディアスが風を放つ。


 リュシアの身体を運ぶほど強い風ではない。枝を蹴った跳躍をわずかに横へ伸ばし、次の足場へ届かせるだけの補助だった。


 リュシアは落ちかけた裂爪猿の肩へ片足を置き、さらに上の枝へ移った。


 裂爪猿の爪が幹から外れる。


 地面へ落下したところへ、ラウルが剣を振り下ろした。雷が全身を貫き、五頭目が動かなくなる。


「今のを狙ってやったのか?」


 ニルスが矢をつがえながら尋ねた。


「後だ!」


 ラウルが声を飛ばす。


 エルディアスへ向かった裂爪猿が、巻き上げられた土を抜けてきた。爪が杖を狙い、横から振られる。


 エルディアスは杖を引いたが、避けきれない。


 細身の剣が爪を受けた。


 樹上から戻ったリュシアが二人の間へ入り、刃を滑らせるように爪を外側へ流す。力を正面から受けず、そのまま裂爪猿の横を抜けた。


 脇腹へ浅い傷が走る。


 裂爪猿が振り返ろうとしたところで、足元の土が盛り上がった。


 片脚を取られ、身体が傾く。


 リュシアが剣を返し、首へ斬り込んだ。


 六頭目が倒れる。


 彼女は血を払うこともせず、すぐに森へ向き直った。


 ――まだいます。


 ――見えてる。上に四、地面に二。奥は分からん。


 エルディアスは痛む右肩を一度動かした。術式を組むことに支障はない。だがクラリスの結界を外れた石を風で逸らし、リュシアの足場を作り、周囲の土まで動かし続ければ、自分のオドだけでは長く保たない。


 枝葉の奥で、複数の影が再び散った。


 ――借りる。


 ――どうぞ。


 左手の薬指から伸びる黒い糸を通じて、熱を持ったオドが流れ込んだ。


 黒い糸が見えているのは二人だけだった。ラウルたちからは、エルディアスが杖を握り直したようにしか見えない。


 必要な分だけを引き出し、三つの術式へ振り分ける。


 七人の右側へ薄い風の壁を置く。リュシアの足元には次の土の足場を作り、さらに黒い糸を通して彼女の靴へ風を付与する。


 ――足へ通した。いつもより踏み込みが伸びる。


 ――分かりました。


 ――伸ばしすぎるな。


 ――エルが合わせてください。


 ――無茶を言うな。


 念話を交わしている間にも、二人の表情は変わらなかった。


 森から石が飛ぶ。


 右側へ置いた風が軌道をずらし、二つの石を草地へ落とす。左側はクラリスの結界が受け止めた。


「エルディアス、右を任せる!」


 ラウルが叫ぶ。


「やってる!」


 ガルムを中心に、《暁星》の五人が陣形を組み直す。


 クラリスは結界を左と頭上へ絞った。セルマが右側の森へ杖を向け、低い枝の間へ細い炎を走らせる。


 炎は木々を焼かず、枝から枝へ移ろうとした裂爪猿の進路だけを塞いだ。


 一頭が火を避けて地面へ下りる。


 ニルスの矢が飛んだ。


 裂爪猿は横へ跳んだが、矢も風に押されて曲がる。鏃が肩へ突き刺さり、身体が半回転した。


 そこへガルムが踏み込む。


 大盾の縁が胸へ当たり、裂爪猿が地面へ倒れた。斧が首へ振り下ろされ、七頭目が動かなくなる。


 別の二頭が、ガルムの左右から同時に飛びかかった。


「左は俺が取る!」


 ラウルが雷剣を構える。


 右側の一頭はガルムの盾へ爪を掛け、左側の一頭は低く身体を沈めてラウルの脚を狙った。


 ラウルが剣を下へ向ける。


 裂爪猿は寸前で横へ跳び、雷を避けた。


 逃げた先へ、光の壁が現れる。


 クラリスの結界に行く手を塞がれ、裂爪猿が一瞬止まる。セルマの火が背後を横切り、戻る道も閉じた。


「そこ」


 ニルスの矢が胸へ刺さる。


 裂爪猿が倒れきる前に、ラウルの剣が首を斬った。


 八頭目だった。


 右側では、ガルムが大盾へ取りついた裂爪猿を押し返している。爪が盾の縁へ深く食い込み、互いに離れられない。


 裂爪猿が盾の上から身を乗り出し、ガルムの顔へ牙を向けた。


 クラリスが杖を振る。


 小さな光の板が裂爪猿の顎を下から押し上げた。牙が空を噛み、ガルムは盾を大きく右へ捻る。


 裂爪猿の身体が横へ投げ出された。


 セルマの杖先から、針のような火が伸びる。炎が肩口を焼き、裂爪猿の右腕が止まった。


 ガルムの斧が胸へ入る。


「九頭!」


 ニルスが数えた。


「まだ数えるな!」


 ラウルの声と同時に、森の奥で太い木が鳴った。


 何かが幹を叩いている。


 一度。


 二度。


 腹の底へ響くような重い音が森を伝わり、枝葉の間にいた裂爪猿が一斉に動きを止めた。


 静寂は一瞬だけだった。


 すぐに、これまでとは異なる低い唸り声が響く。


 奥の太い枝へ、一回り大きな裂爪猿が姿を現した。


 黒褐色の毛の間から灰色の皮膚が見え、左目から頬へ古い傷が走っている。両腕の爪は小型の短剣ほどもあり、枝を掴むたびに樹皮が深く削れた。


「群れ主だな」


 ガルムが大盾を構え直した。


 通常の裂爪猿は、樹上に少なくとも五頭残っている。仲間を九頭倒されても逃げず、群れ主の周囲へ集まり始めていた。


「丘へ戻るには、あれを抜く必要がある」


 ラウルが森と斜面を見比べる。


 裂爪猿は七人の正面だけにいるのではない。左右の木へ広がり、斜面を上がる七人へ横から石を投げられる位置を取っていた。


「群れ主を落とす。ほかが逃げたら追わない」


「どうやって落とす?」


 ニルスが尋ねた。


 エルディアスは答えず、群れ主の動きを見た。


 幹を叩いた時、周囲の裂爪猿はすべてそちらへ顔を向けた。先ほども、ガルムの盾へ枝が当たった瞬間だけ、樹上の影が動きを止めている。


 音だけではない。


 木と根を伝う振動へ、強く反応している。


「ガルム。盾を鳴らせるか」


「壊れてもいいならな」


「一度でいい。あいつらは大きな音がすると、先にそっちを見る」


 ラウルが群れ主から視線を外さずに尋ねる。


「使えるか?」


「注意を向けさせるだけだ。止まりはしない」


「それで十分だ。ガルムが引く。ニルスは群れ主の右腕。セルマは左側の枝を塞げ。クラリスは着地点を作る」


 短い指示だけで、《暁星》の五人が動いた。


 ガルムが大盾を地面へ立て、斧の背を振り上げる。


 群れ主が枝を蹴った。


 その巨体が頭上へ近づいた瞬間、斧が大盾の中央を叩く。


 耳を打つ金属音が丘へ響いた。


 群れ主の顔が、ガルムへ向く。周囲の裂爪猿も一斉に動きを止めた。


 ニルスの矢が飛ぶ。


 群れ主は爪で払い落とそうとしたが、矢は寸前で下へ沈み、右の前腕へ刺さった。深くは入らない。それでも枝を掴む力が一瞬緩む。


 セルマの火が左側へ走った。


 群れ主が移ろうとしていた枝の表面だけが赤く焼ける。火を避けて身体を捻った先に、クラリスの結界が斜めに現れた。


 群れ主の足が光の膜へ触れる。


 結界は巨体を受け止めなかった。踏み込んだ方向をずらし、身体を森の外側へ滑らせる。


 群れ主が枝から落ちた。


「来るぞ!」


 ガルムが大盾を正面へ戻す。


 群れ主は落下しながら身体を丸め、両爪を盾へ叩きつけた。


 衝撃が地面を揺らした。


 足元を土で固めていたガルムの身体が、それでも一歩押し戻される。大盾の表面へ新たな傷が刻まれ、留め具が軋んだ。


「受けるには重すぎる!」


「なら流せ!」


 ラウルが右側から踏み込む。


 ガルムは両爪を受けたまま盾を傾けた。群れ主の巨体がわずかに左へ流れ、ラウルの雷剣が脇腹へ入る。


 青白い光が毛皮の上を走る。


 通常の裂爪猿なら、それだけで動きを止めていた。


 群れ主は吠え、痙攣する右腕を無理に振った。


 爪がラウルの胸へ迫る。


 光の壁が間へ入った。


 クラリスの結界へ爪が食い込み、表面へ亀裂のような揺らぎが広がる。


「長くは保ちません!」


 セルマの火が群れ主の右手へ巻きついた。


 爪の根元だけを焼かれ、群れ主が腕を引く。ラウルも剣を抜き、一度距離を取った。


 その隙に、樹上へ残っていた裂爪猿が動く。


 三頭が地面へ下り、残る二頭が石を投げた。


「周りを止める!」


 ニルスが群れ主から弓を外し、最も近い一頭へ矢を放つ。


 ガルムは大盾で二頭を受け、クラリスが頭上から来る石を結界で防ぐ。セルマは広い火を使えず、細い炎を左右へ走らせて裂爪猿の進路を削っていた。


 《暁星》の五人が群れ主を落としたことで、今度は残りの裂爪猿が五人を押し込もうとしている。


 ――左の二頭を取ります。


 リュシアが森の境へ身体を向けた。


 ――待て。群れ主がまだ動く。


 ――ラウルたちだけで止められます。


 ――止められるのと、倒せるのは別だ。


 群れ主が地面を蹴った。


 狙いはガルムではない。結界を維持しているクラリスへ一直線に向かっている。


 ラウルが横から追うが、巨体の踏み込みが速い。


 ――借りる量を増やす。


 ――どうぞ。


 黒い糸から、さらにオドが流れ込む。


 エルディアスは右側の風を維持したまま、群れ主の前へ土を隆起させた。


 壁にはしない。


 踏み込もうとした右足の下だけを、一気に持ち上げる。


 群れ主の巨体が傾いた。


 それでも勢いは止まらず、右爪がクラリスへ伸びる。


 ガルムが横から大盾を差し込んだ。


 爪が盾へ当たり、軌道が外れる。クラリスの肩口をかすめた切っ先が、白い外衣だけを裂いた。


「クラリス!」


「傷はありません!」


 返事を聞く前に、ラウルの剣が群れ主の背へ入る。


 雷が走る。


 群れ主は振り返りざまに左腕を振り、ラウルを薙ぎ払おうとした。


 リュシアがその内側へ踏み込んだ。


 爪が動き始めるより早く、細身の剣が左腕の内側を斬る。深い傷ではない。それでも筋を断たれ、爪の軌道が落ちた。


 群れ主がリュシアへ顔を向ける。


 ――下がれ。


 ――まだです。


 ――右から来る。


 エルディアスは土の足場を一つ作った。


 リュシアは群れ主の肩を蹴り、迫っていた別の裂爪猿の頭上へ跳ぶ。靴へ通した風が踏み込みを伸ばし、その身体が爪の先を越えた。


 空中で身体を捻り、裂爪猿の背へ剣を突き立てる。


 刃を抜きながら地面へ下りると、裂爪猿も前のめりに倒れた。


 十頭目。


 もう一頭が、リュシアの着地へ爪を振り下ろす。


 ――左へ半歩。


 リュシアは声が届く前から動いていた。


 爪が地面を抉る。


 彼女の左側へ盛り上がった土が足場となり、身体が低い枝の高さまで上がる。そこから幹を蹴り、裂爪猿の背後へ回った。


 首へ一閃。


 十一頭目が倒れた。


「合図もなしに、どうなってるんだ」


 ニルスが思わず漏らした。


 答える余裕はなかった。


 群れ主がガルムの盾を両腕で掴み、そのまま持ち上げようとしている。ガルムは足元を土で固めていたが、盾ごと前へ引かれ始めていた。


「ラウル、右腕を斬れ!」


「盾の陰で狙えない!」


 群れ主は大盾を身体の前へ引き寄せ、両腕を隠すように抱え込んでいる。ラウルが横へ回ろうとしても、群れ主も盾の向きを変え、剣の届く角度を塞いだ。


 セルマが露出している左腕へ火を放つ。


 群れ主は盾を手放さず、焼かれた腕を強く振った。大盾ごとガルムの身体が横へ動き、固定していた土が砕ける。


 ガルムの足が地面から離れた。


 クラリスの光がその背中を受け止める。完全には支えきれないが、地面へ叩きつけられる勢いを弱めた。


 群れ主が盾を奪い、横へ放り投げる。


 ガルムは斧だけを構えて立ち上がった。


「俺の盾を投げやがったな」


「怒るところはそこなの?」


 セルマが火を撃ちながら言う。


「高かったんだぞ!」


 群れ主が再び幹を叩いた。


 残っていた裂爪猿が樹上から一斉に飛び降りる。


 三頭。


 狙いは盾を失ったガルムと、結界を使い続けているクラリスだった。


 ラウルが一頭を受ける。ニルスの矢が二頭目の腿へ刺さる。三頭目は火を避け、クラリスへ届く位置まで迫った。


 エルディアスは風を放った。


 正面から押し戻すのではない。跳びかかった身体の横へ当て、着地点をずらす。


 裂爪猿がクラリスの横へ落ちる。


 ガルムが斧の柄で顎を打ち上げた。


 セルマの火が胸へ入る。狭く絞られた炎が毛皮を焼き、身体を反らしたところへガルムの斧が振り下ろされた。


 十二頭目が倒れる。


 ラウルと組み合った一頭は、剣を爪で挟んだまま離さない。


「ニルス!」


「そっちを撃ったら、隊長にも当たる!」


「当てるな!」


「簡単に言うな!」


 ニルスが矢を放つ。


 鏃はラウルの横を通り過ぎた。外れたように見えた矢が、背後から吹いた風で弧を描き、裂爪猿の肩へ刺さる。


 爪の力が緩んだ。


 ラウルは剣を引き抜き、雷を帯びた刃で胸を貫いた。


 十三頭目。


 腿へ矢を受けた一頭は、片脚を引きずりながら森へ逃げようとしていた。


「追うな!」


 ラウルが制する。


 ニルスは弓を下ろした。


 群れ主の周囲にいた通常の裂爪猿は、残り二頭まで減っている。二頭は枝へ戻り、戦いへ加わらずに群れ主の様子を見ていた。


 群れ主も、先ほどまでの勢いでは動かなかった。


 右腕へ矢が刺さり、左腕の内側にはリュシアの付けた傷がある。脇腹と背中はラウルの雷剣に焼かれ、セルマの火で左手の毛皮も失われていた。


 それでも、倒れる気配はない。


 低く唸りながら、七人と森の間に立っている。


「森へ戻すな」


 ラウルが言った。


「上へ逃げられたら、また石と枝を使われる」


「盾は向こうだぞ」


 ガルムが離れた場所へ転がった大盾を見る。


「取りに行けるか?」


「俺を誰だと思ってる」


「盾役だ」


「分かってるなら、盾を取らせろ」


 クラリスがガルムの前へ光の壁を作る。セルマが群れ主の右側へ火を走らせ、ニルスは左へ矢を向けた。


 わずかな隙が開く。


 ガルムが走った。


 群れ主は追おうとしたが、ラウルが雷剣を正面へ置く。剣を避けて一歩下がった間に、ガルムは大盾へ辿り着いた。


 革帯へ腕を通し、立ち上がる。


「まだ使える!」


「なら戻れ!」


 群れ主が地面を蹴った。


 今度はガルムではなく、ラウルへ向かう。右爪を低く構え、盾のない相手を一撃で薙ぎ払うつもりだった。


 ラウルは退かない。


 剣へ雷を集め、正面から迎える。


 ――右腕を止める。首へ行けるか。


 エルディアスが念話を送った。


 リュシアは群れ主の左後方へ回り込んでいた。


 ――傷が浅いです。今の剣では一度で断てません。


 ――刃へ風を通す。抵抗を削るだけだ。


 ――お願いします。


 エルディアスは黒い糸を通して、細身の剣へ術式を流した。


 刀身に光は宿らない。炎も立たない。刃の周囲を薄い風が覆い、振り抜く際の抵抗だけを減らす。


 ラウルたちに見える変化はなかった。


 群れ主の右爪と雷剣がぶつかる。


 青白い光が弾け、ラウルの靴が草地を滑った。群れ主も右腕を痙攣させたが、止まらない。左爪を上げ、ラウルの頭上へ振り下ろす。


 ガルムが戻った。


 大盾が横から群れ主へぶつかる。


「二度も持っていけると思うな!」


 群れ主の身体がわずかに傾く。


 クラリスが背後へ光の壁を立てた。後退した群れ主の踵が結界へ当たり、下がる道を失う。


 セルマの火が、群れ主の左手へ集中した。


 傷ついた腕が熱に耐えきれず上がる。


 ニルスの矢が右肩へ入った。


 群れ主の両腕が開く。


 ――今だ。


 リュシアが走った。


 エルディアスが土を一つ盛り上げる。彼女はそれを踏み、ガルムの大盾の縁へ片足を掛けた。


 ガルムは何も聞いていなかった。


 それでも、盾へ乗った重さを感じた瞬間、群れ主へ向けて大盾を押し上げる。


 リュシアの身体が高く跳ねた。


「行け!」


 ガルムの声が背中を押す。


 群れ主がリュシアへ顔を向けた。


 右腕を上げようとするが、ニルスの矢が刺さっている。左腕はセルマの火で動きが遅れ、足元はクラリスの結界に阻まれていた。


 リュシアは空中で身体を捻る。


 風をまとった剣が、左目から頬へ走る古傷の下へ入った。


 刃が毛皮と肉を抜ける。


 首の半ばまで、深い傷が開いた。


 群れ主が吠え、身体を振り回す。


 リュシアは肩を蹴って離れた。着地する先へエルディアスが風を送り、倒れるほどの勢いだけを殺す。


 彼女が草地へ足をつけるのと、ラウルが踏み込むのは同時だった。


 雷を帯びた剣が、開いた首の傷へ入る。


 群れ主の身体を青白い光が貫いた。


 それでも刃は首を断ち切れない。


 群れ主が残った力でラウルへ爪を伸ばす。


 ガルムの斧が右腕へ振り下ろされた。


 爪が地面へ落ちる。


 セルマの火が首の傷を焼き、群れ主が顔を背けた。クラリスの光がその頭部を横から押し戻す。


「もう一度!」


 ラウルが剣を抜いた。


 リュシアも反対側から踏み込む。


 細身の剣と雷剣が、左右から同じ傷へ入った。


 巨体が大きく揺れる。


 群れ主は数歩よろめき、両膝をついた。そのまま前へ倒れ、草地を深く抉る。


 誰もすぐには武器を下ろさなかった。


 群れ主の指が一度だけ動き、地面を掻く。


 それきり、動かなくなった。


 樹上に残っていた二頭の裂爪猿が、甲高い声を上げた。だが飛びかかってはこない。枝から枝へ移り、森の奥へ逃げていく。


「追うな」


 ラウルは剣を構えたまま告げた。


 ニルスとリュシアも武器を向けていたが、追跡はしなかった。


 枝葉の揺れが遠ざかる。


 やがて、森は戦いが始まる前と同じ静けさを取り戻した。


 七人はしばらく周囲を警戒し、ほかに動くものがないことを確認してから、ようやく構えを解いた。


 クラリスが順に傷を確かめる。


 ガルムの左腕には盾越しの衝撃で大きな痣ができ、ラウルの胸当てには爪が浅く走った跡が残っていた。クラリスの外衣も肩口を裂かれているが、皮膚には届いていない。


 エルディアスの右肩も赤く腫れ始めていた。


「骨は?」


 リュシアが尋ねる。


「動く。折れてない」


「そうですか」


 それだけ確認すると、彼女は自分の剣へ目を落とした。刃には欠けも曲がりもない。風の付与はすでに消えている。


 クラリスがエルディアスの肩へ杖を向ける。


「治療します」


「後でいい。先にガルムを見てくれ」


「盾は持てている。俺も後でいい」


 ガルムは大盾の表面を調べていた。幾筋もの深い爪痕が刻まれ、縁の一部が歪んでいる。


「こいつの方が重傷だな」


「盾は治癒できませんよ」


「知ってる」


 ニルスは倒れた裂爪猿を数えていた。


「通常のが十三。大きいのを入れて十四だ」


「逃げた数は?」


 ラウルが尋ねる。


「最後に二頭。途中で奥へ戻ったものが、少なくとも三頭はいる。最初から見えていなかった個体もいるかもしれない」


「群れの総数は二十前後と見た方がいいな」


 セルマは杖先を地面へ向け、火が残っていないか確認していた。燃え移った草や枝はない。焦げた毛皮と血の臭いだけが、森の境に広がっている。


「ここまで群れで動く裂爪猿は、普通なの?」


「数は珍しくない」


 ニルスが群れ主の死体を見る。


「だが、役割を分けてこっちを囲んだ。石を投げる個体と、地面へ下りる個体が入れ替わっていた。あそこまで統率されているのは、俺も初めて見る」


「こちらの動きも見ていた」


 エルディアスは森の木々へ視線を戻した。


「最初はクラリスを狙った。結界を破れないと分かってから、石を左右へ分けて投げた。ガルムの盾を避けるようにもなった」


「魔物だからと、単純な獣として扱わない方がよさそうだな」


 ラウルが記録板へ書き込む。


 ニルスは矢を拾いながら、エルディアスとリュシアを交互に見た。


「それより、二人はいつ合図してたんだ?」


「何の話だ」


「リュシアが木へ上がった時だ。足場が出る前に踏み込んでいただろ。後半も、風が来る位置へ最初から跳んでいた」


「術式が現れてから動いたのでは、間に合いません」


 リュシアが答えた。


「それは分かる。どうして現れる位置が分かるんだ」


「エルが術式を置く場所には、ある程度の癖があります」


 ニルスはエルディアスを見る。


「癖だけで、あそこまで合わせられるのか?」


「リュシアが先に動くから、合わせないと術式が外れる」


「必要な場所へ動いているだけです」


「俺に言わずにな」


「伝えてから動いたのでは遅いのでしょう?」


「そうだが」


 二人のやり取りを聞いていたラウルが、小さく息を吐いた。


「どちらが合わせているにしても、十分な連携だ。動き始めた相手へ、あれだけ正確に補助を通す魔導士も珍しい」


「何度か似たようなことをやってる」


 エルディアスは杖を背へ戻した。


「何度かで、あそこまでなるのか」


 ニルスは納得していない様子だったが、それ以上は聞かなかった。


 リュシアも説明を加えない。


 黒い糸も、念話も、そこを通じて流れたオドも、二人にしか分からない。ラウルたちが目にしたのは、エルディアスが土と風を使い、リュシアがそれを足場に戦ったという結果だけだった。


「今日はここまでだ」


 ラウルが記録板を閉じた。


「森との境、足場、魔物の種類、群れの規模、攻撃方法まで確認した。これ以上進めば、調査ではなく追撃になる」


「中へ入らないという方針も、ぎりぎり守ったわね」


 セルマが森の内側を見る。戦闘の間にリュシアは何度も枝へ上がり、エルディアスも境を数歩越えている。それでも隊列全体で森へ踏み込んだわけではなかった。


「ぎりぎりでも、戻れるうちに戻る」


 ラウルは倒れた裂爪猿を見回した。


「爪と毛だけ採取する。群れ主は位置を記録して残す。血の臭いで別の魔物が来る前に、作業を終わらせろ」


 七人は森へ注意を向けたまま、裂爪猿から最低限の素材を切り取った。持ち帰れない群れ主の死体には、近くの幹へ白い印を残す。次に来た時まで死体が残っているか、ほかの魔物に食われるか、群れの生き残りが運ぶか。それも森の生態を知る手掛かりになる。


 最後にニルスが森の梢を見渡し、ガルムが大盾を背負い直した。


「終わったぞ」


「丘へ戻る」


 ラウルが記録板をしまいかけた時だった。


 森の奥で、鐘が鳴った。


 音は遠かった。幾重もの木々を越えてきたため、耳に届いた時には微かなものになっていた。それでも響きには太い芯があり、深く打ち鳴らされた一音が、力を失わないまま森の静けさを震わせた。


 リュシアとニルスが、ほとんど同時に顔を上げた。


 二人の視線は迷わず、正面よりわずかに左へ向く。木々が幾重にも重なり、その先には何も見えない。塔の外周を一周した時にも、森の中に建物らしい影は見つからなかった。


「……鐘よね」


 セルマが二人の視線を追った。


「ああ」


 ガルムも大盾へ腕を通し直す。


 ニルスは短弓を手にしたまま、梢の揺れと風の向きを確かめた。


「遠い。途中で何度か返っているが、方向はあっちで間違いない」


「私も同じ方向から聞こえました」


 リュシアは森の奥から目を離さずに答えた。


「距離までは分かりません。ただ、塔から響いた音ではありません」


 クラリスが白い杖を握り直した。


「誰かが鳴らしたのでしょうか」


 誰も答えなかった。


 風に揺らされて偶然鳴ったような、軽い音ではない。大きな金属を、何者かが意志を持って一度だけ打ち鳴らした。そう思わせる重さが、消えかけた余韻の中にも残っていた。


 まるで、こちらが森へ近づいたことを知り、その存在を知らせるために鳴らしたような。


 エルディアスは浮かんだ考えを口にはしなかった。今の段階で分かっているのは、鐘に似た音が森の奥から一度だけ届いたことと、リュシアとニルスが示した方角が一致したことだけだ。


「追う?」


 セルマが尋ねた。


「追わない」


 ラウルの返答に迷いはなかった。


「まだ日はあるわよ」


「俺たちは一度戦っている。負傷も消耗もある。音までの距離も、そこへ至る地形も、鳴らしたものの正体も分からない。この状態で新しい目標を追う理由はない」


「少し近づけば、もう一度聞こえるかもしれない」


「その少しが何歩かも分からない」


 セルマは森の奥を見たまま口を閉じた。ラウルはリュシアとニルスの位置へ移り、記録板を再び開く。


「塔から見た方角へ直す。二人とも、もう一度示してくれ」


 ニルスが森へ腕を向けた。リュシアもほぼ同じ方向を指し、わずかな差を確かめるように視線を動かした。


「範囲を持たせるなら、ここからここまでです」


「俺もそれでいい」


 ラウルは地図上の現在地から森の奥へ、細い扇形を書き込んだ。


「鐘のような音を一度確認。発生源と距離は不明。方向のみ二名が一致。これ以上は戻ってから整理する」


 森から二度目の音は届かなかった。


「リュシアが先頭。ニルスは最後尾で森を見ろ。ガルムは中央へ入れ。鐘の方向へ寄らず、来た経路をそのまま戻る」


 七人は森へ背を向けきらないように距離を取り、丘の斜面を上り始めた。リュシアが足元と前方を確かめ、クラリスとセルマが続く。ガルムは大盾をすぐ動かせる位置に置き、ラウルとエルディアスがその後ろへついた。最後尾のニルスだけが、短弓を手にしたまま森を見続けている。


 斜面を上るにつれて、倒れた裂爪猿の姿は草地の起伏に隠れていった。森の境も次第に遠ざかる。それでも枝葉の奥で何かが動いた形跡はなく、逃げた裂爪猿が追ってくる様子もなかった。


 エルディアスは右肩の痛みを確かめながら、一度だけ後ろを振り返った。


 森は静かだった。


 戦いの音も、猿の鳴き声も、鐘の余韻も残っていない。木々が風に揺れ、その奥に何があるのかを隠している。


 丘を半ばまで上ると、塔の出入り口が正面に見えた。来た時と変わらず、灰白色の壁に穿たれた唯一の開口部が、七人を待っている。


「もう一度鳴れば、ここからでも聞こえるかしら」


 セルマが歩きながら言った。


「音の強さが同じならな」


 ニルスは森から目を離さない。


「だが、一度鳴ったからといって、次も鳴るとは限らない」


「誰かが鳴らしたなら?」


「なおさら分からない」


 ラウルは振り返らなかった。


「分からないから、今日は戻る」


 誰もそれ以上は言わなかった。


 七人が塔の内側へ入ると、最後尾のニルスが入口の外へ視線を残し、ガルムも一度だけ森を振り返った。


 二度目の鐘は、鳴らなかった。

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