第25話 平常
依頼を受けた二人は、出発の支度をするためにいったん宿へ戻った。
エルディアスは寝台の上へ背負い袋を置き、水筒、保存食、細い縄、治療薬を順に収めていく。向かいでは、リュシアも青灰色のローブの上から革帯を締め、野営用の布と替えの衣服を手早くまとめていた。
「採集用の袋は、集落で借りられるそうです」
「なら、いらないな」
「一枚は持っていきます。種類を分ける必要があるかもしれませんから」
リュシアは小さく畳んだ布袋を、背負い袋の脇へ差し込んだ。
「薬草には詳しいと思ってた」
「食べられる草や、傷に使う葉なら多少は分かります。ですが、依頼として採るのは初めてです。商品として納めるなら、見分けるだけでは足りないでしょう」
「分からなければ聞けばいい」
「そのつもりです」
「なら問題ないな」
「先ほどから、そう言っています」
リュシアは剣の留め具を確かめ、背負い袋を持ち上げた。旅を続けてきた者らしく荷物は少ないが、野営と戦闘に必要なものは一通り揃っている。
「エルは、その集落へ行ったことがあるのですよね」
「二度ある」
「では、道は任せます」
「迷うような道じゃない」
「そう言う方と歩くのが、一番不安です」
「不安なら前を歩け」
「道を知らない私が前へ出て、何を任されたことになるのですか」
二人は朝二つの鐘が鳴り終わる前に宿を出た。
南門へ続く大通りには、黒碑王墓迷宮の宿営地へ向かう荷車が列を作っていた。木材、杭、樽、縄、組み立て式の棚。王都の紋章が刻まれた箱も多く、道端では兵たちが行き先を振り分けている。
二人はその列から外れ、市外へ向かう旅人や商人に混じった。
門を出てしばらくは、王墓へ続く道と同じだった。王都から来た兵や職人とすれ違い、遠くには増設された宿営地の見張り台が見える。だが分かれ道を南へ進むと、槌を打つ音も号令も次第に遠ざかっていった。
代わりに聞こえるのは、荷車の軋みと馬の蹄、畑の間で鳴く虫の声だった。街道の両側には低い麦畑が広がり、その向こうに農家と小さな林が点在している。地平線まで森しかなかった第二層とは違い、人が切り開いた畑も道も、その先にある家の煙も見えた。
「昨日より、ずいぶん歩きやすいですね」
「平らだからな」
「それもありますが、進んだ分だけ景色が変わります。昨日の階段では、どれほど下りても同じ場所を歩いているようでした」
「あれが長すぎたんだ」
「今日は、きちんと目的地へ近づいている気がします」
「実際、近づいてる」
「そういう当たり前のことが、昨日は分かりませんでした」
前方から来た荷車が速度を落とした。御者台に座る老人がエルディアスを見つけ、片手を上げる。
「お、エル。王墓に住み着いたんじゃなかったのか」
「住んでない」
「毎日のように入ってたんだろ」
「仕事だ」
老人は隣を歩くリュシアへ目を向けた。
「そっちが噂のリュシアさんか」
「はい。リュシアです」
「勇者探しか?」
「今日は薬草です」
「そりゃまた、ずいぶん普通だな」
「そちらが本来の仕事です。勇者を選んだ経験は、まだ一度もありません」
老人は一瞬黙り、それから声を上げて笑った。
「違いねえ。エル、えらく真面目なお嬢さんと組んだな」
「そうだな」
リュシアがエルディアスを見た。
「今のは、褒めていただいたのでしょうか」
「そのつもりだろ」
「では、ありがとうございます」
リュシアが素直に頭を下げると、老人はさらに愉快そうに笑った。
「森の連中にも、その調子で言い聞かせてやれ」
「話を聞く相手なら、そうします」
老人は笑いながら荷車を進めていった。荷台の籠から鶏が一羽だけ顔を出し、リュシアを見て鳴く。
「お知り合いですか」
「前に荷車を護衛した」
「親しそうでした」
「一日一緒にいただけだ」
「一日あれば、仕事ぶりくらいは分かるでしょう」
「狼を追い払っただけだ」
「それを頼まれていたのではありませんか」
エルディアスは答えず、そのまま街道を進んだ。
しばらく歩くと、道端で休んでいた三人組の冒険者が二人へ気づいた。革鎧を着た若い男が仲間へ何かを囁く。三人とも露骨に振り返りはしなかったが、二人が通り過ぎるまで視線が向けられていた。
「まだ見られますね」
「そのうち飽きる」
「そろそろ飽きてもらいたいのですが」
「次に目立つ奴が来れば、そっちを見る」
「早く来てほしいのですか」
「放っておかれる方が楽だ」
リュシアは背負い袋の肩紐を直しながら、先ほどの三人がいた方を振り返った。
「あの方々は、私たちがどこへ向かうと思ったのでしょう」
「王墓だろ」
「この道は反対です」
「途中で気づく」
「薬草採集へ向かったと知れば、少しは見方も変わるでしょうか」
「勇者を選ぶ奴が薬草を採ってたって噂になるだけだ」
「間違ってはいませんね」
昼の鐘が鳴る頃、二人は街道沿いの木陰で休憩を取った。固いパンと干し肉を水で流し込みながら、リュシアは街道の先に見える森へ目を向ける。
「あの森は、どのくらい歩けば抜けるのですか」
「今から行く場所は浅い。奥へ抜けるなら、一日では足りない」
「地図は?」
「猟師が使うものならある」
「道もあるのですよね」
「ああ」
リュシアは手にしたパンを見たまま、しばらく黙った。
「昨日の森にも、いずれ道ができるのでしょうか」
「作らなければ奥へ行けない」
「最初の道は、誰かが作るのですよね」
「俺たちかもしれないな」
リュシアは顔を上げた。
「そう考えると、測量師を待つ理由がよく分かります。昨日は、森が広すぎることばかり気になっていました。ですが、広さより先に、戻る場所を見失わないことを考えなければなりませんね」
「塔は高い」
「森へ入れば見えません。木も高かったですから」
「目印を置く」
「残っているか、戻るたびに確かめる必要もあります。魔物に壊されるかもしれませんし、目印そのものが役に立たない場所もあるでしょう」
「その辺りは、測量師が来てから考えればいい」
「そうですね。今は考えても、実際に入らなければ分からないことばかりです」
エルディアスは残っていた水を飲み、立ち上がった。
「そろそろ行くぞ。今日は薬草だ」
「忘れていません」
昼の鐘を大きく過ぎた頃、目的の集落が見えてきた。低い石垣に囲まれた家が二十軒ほど集まり、その周囲には豆畑と果樹が広がっている。森は集落のさらに南側にあり、畑との間に背の低い草地を挟んでいた。
入口近くの井戸で水を汲んでいた女が二人を見つけ、近くの家へ声を掛ける。ほどなく、日に焼けた顔の男が杖を突きながら出てきた。以前、この辺りの依頼で顔を合わせた集落のまとめ役だった。
「来たのはお前か、エル」
「依頼を見た」
「王墓の下へ潜ってると聞いたから、こんな所には来ないと思ってたぞ」
「調査は止まった」
「それでこっちか。こっちは助かるが、ずいぶん落差があるな」
男はリュシアへ顔を向けた。長い耳と青灰色のローブを見て、わずかに姿勢を正す。
「リュシアさん、だな」
「はい」
「勇者のことは――」
「まだ何も決めていません」
先に答えられ、男は口を閉じた。
「……よく聞かれるのか」
「はい」
「そうか。悪かったな」
「いえ」
男は杖を持ち直し、森の方へ顔を向けた。
「なら、先にこっちの話をしよう。ここじゃ勇者より薬草だ。採りに行った連中が追い返されて、街へ出す分まで足りなくなってる」
「では、そちらを解決しましょう」
男はロガンと名乗り、二人を集落の中央にある共同倉庫へ案内した。
中には薬草を乾燥させるための棚が並んでいるが、半分以上が空いている。奥では、革鎧を着た男女が地図を広げていた。男は短槍を持ち、女は小型の弓を背負っている。二人とも近隣の依頼を中心に受けている冒険者だという。
「ロルフです。こっちはサラ」
槍を持つ男が名乗った。
「エルさんとリュシアさんが来るとは聞いていませんでした」
「誰が来ると聞いた」
「ギルドから二人来るとだけです。王墓の調査に参加した人が、普通の駆除依頼を受けるとは思わなくて」
「俺たちも冒険者だ」
エルディアスが答えると、ロルフは気まずそうに頷いた。
リュシアは地図の前へ進む。
「魔物は牙猿で間違いありませんか」
「はい。見えたのは四匹です」
「追われた方は?」
「三人。転んだ時の擦り傷だけで、牙や爪では傷ついていません」
「荷物は奪われましたか」
「いいえ。青癒草の籠も食料も残っています」
「どこまで追われました?」
ロルフが地図の岩場を指した。
「ここから道を戻って、森の入口より少し手前までです。そこで追うのをやめています」
リュシアは地図を見たまま頷いた。
「食べ物が目的ではなさそうですね」
「縄張りから追い出されたんだと思います」
サラが地図の南側を示す。
「牙猿は、以前ならもっと奥にいました。この辺りまで群れで出てきたことはありません」
「最近、奥で何かありましたか」
「大雨の後に谷が崩れたと、猟師が言っていました」
「巣を移したのかもしれませんね」
ロガンが腕を組む。
「理由は何でもいい。採集する連中を追い回してるんだ。倒せるなら倒してくれ」
「数を見てから決めます」
「駆除の依頼だろ」
「必要なら駆除します。追い払うだけで済むなら、その方が早いでしょう」
ロガンがリュシアを見た。
「ずいぶん細かく聞くんだな」
「知らない場所ですから」
「聞かずに入るよりいい」
エルディアスが言うと、ロガンは肩をすくめた。
「お前がそう言うなら、任せる」
採集場所を案内するため、中年の女が一人同行することになった。マーヤという名で、森へ薬草を採りに入って二十年以上になるという。
エルディアスとリュシアは不要な荷物を共同倉庫へ置き、水と必要な道具だけを持った。先頭をロルフとサラが歩き、その後ろにマーヤ、最後にエルディアスとリュシアが続く。
畑を抜け、草地を越えると、森の入口には細い踏み跡が続いていた。低い枝は切られ、ぬかるみには平たい石が置かれている。人が日常的に歩き、少しずつ整えてきた道だった。
「こちらの森は親切ですね」
リュシアが言った。
「またそれか」
「石が置かれています。枝も払われている。歩いた方が、次に通る方のために残したのでしょう」
前を歩くマーヤが振り返る。
「昔はもっと細い道だったよ。雨が降るたびに石が沈むから、来るたび一つずつ置いていったんだ」
「やはりそうなのですね」
「王墓の森にはないのかい」
「何もありませんでした。塔と丘だけです」
「そんな所へ入るのかい」
「いずれは」
「怖くないのかい」
リュシアは少し考えた。
「怖いですよ」
あまりに素直な返事だったためか、マーヤが振り返ったまま目を瞬かせる。
「平気そうに見えるけどね」
「平気そうに歩くことと、怖くないことは別です。怖いので、戻る道を先に考えます」
「なるほどねえ」
「ただ、今はその森ではなく、こちらの薬草を覚えなければなりません」
森へ入ってしばらくすると、マーヤが道端で足を止めた。細長い葉を付けた草の前へしゃがみ、その隣に生えているよく似た草を指す。
「こっちが青癒草。隣は苦葉草。混ざっても毒にはならないけど、傷薬の効きが落ちる」
リュシアも隣へしゃがみ、二種類の葉を見比べた。
「茎の筋が違いますね」
「青癒草の方が一本多い。葉の裏も滑らかだよ」
リュシアが指先で葉をなぞる。
「確かに。どこまで切ればよいですか」
「外側の葉だけ。根と真ん中は残す」
「袋には重ねても?」
「十枚くらいならね。詰め込むと蒸れる」
「分かりました」
リュシアは小刀で外側の葉を切り、向きを揃えて袋へ収めていく。動作は慎重だが、教えられたことを聞き直す必要はなかった。
「初めてにしては上手だね」
「切る場所が分かれば、難しくはありません」
「剣を使うよりは簡単かい」
「相手が動きませんから」
マーヤが笑った。
「勇者を選ぶ人でも、知らない草はあるんだね」
「勇者を選ぶ役目を与えられても、薬草の見分け方までは増えません」
「そりゃそうだ」
「ですから、知っている方に聞きます」
「素直でいいね」
「間違えて薬草を駄目にするよりはよいと思います」
必要な量だけ採り終えると、一行は森の奥へ進んだ。依頼の主目的は牙猿の群れの確認であり、採集は道が安全かを確かめるためでもある。
最初に見つかったのは、木の幹へ斜めに付いた爪痕だった。樹皮の下がまだ湿り、周囲には細かな木屑が落ちている。
「牙猿ですか」
ロルフが短槍を構え直した。
「たぶんな。高さも合う」
リュシアも爪痕の前へ屈んだ。
「登った跡ではありませんね。同じ場所を何度も引っかいています」
「縄張りの印だろうな」
「思ったより手前まで、自分たちの場所にしたようです」
さらに進むと、道の端に青癒草を束ねた跡があった。切られた葉は散らばり、その上に小さな足跡が重なっている。
エルディアスはしゃがみ込み、足跡の向きを確かめた。
「何匹か分かりますか」
サラが尋ねる。
「ここだけじゃ無理だ。重なってる」
「大きさは二種類以上あります」
リュシアが少し離れた跡を示す。
「こちらは歩幅も違います。同じ一匹ではないでしょう」
「少なくとも三匹。木の上にもいるなら、もっとだ」
ロルフが二人を見比べた。
「エルさんとリュシアさんは、いつもこうやって調べるんですか」
「エルは種類まで見ます。私は、数と新しさを見ています」
「教えてもらったんですか」
「旅をしていれば、足跡くらいは見ます。何の魔物か分からなくても、大きさと数が分かれば、近づくべきかは考えられますから」
「名前を知らなくても?」
「名前を知らなければ逃げられないわけではありません。反対に、名前を知っているから安全とも限りません」
「なるほど……」
「ただ、エルが隣にいるなら、聞いた方が早いです」
「便利に使ってるな」
「頼っています」
言い直したリュシアに、エルディアスが横目を向けた。
「それならいい」
足跡の先へ進むにつれて、道を囲む木々が太くなった。枝葉が重なり、日はまだ高いはずなのに、森の中は薄暗い。
エルディアスは足を止め、全員へ声を落とすよう手で示した。
「ここから採集は止める。マーヤは戻れ」
「もう近いのかい」
「見られてる可能性がある」
リュシアが耳を澄ませ、頭上へ目を向けた。
「鳥が鳴かなくなりましたね」
「サラ、マーヤを集落まで送れ。戻ってくるな」
「私が?」
「弓なら、後ろから追われても対応できる」
サラは一瞬だけ迷い、頷いた。
「分かりました」
「私も残るよ」
マーヤが言った。
「薬草の場所は分かった」
「牙猿がどこへ移ったか、私なら――」
「逃げる時に守る人数が増える」
エルディアスの言葉に、マーヤは口を閉じた。
リュシアが続ける。
「ここから先は、案内をお願いする場所ではありません。十分助けていただきました」
「分かったよ。無茶はしないでおくれ」
「はい。途中で牙猿が現れても、森の外へ出ることを優先してください」
「分かった」
サラとマーヤが来た道を戻っていく。二人の姿が見えなくなるまで、エルディアスは風を細く伸ばし、周囲の音を拾っていた。
「先へ行くぞ」
三人で道を進む。
低い岩が並ぶ場所へ差しかかったところで、頭上から小石が落ちた。地面へ当たり、乾いた音を立てる。
ロルフが短槍を構えた。
「牙猿ですか」
「ああ」
二つ目の石が飛ぶ。
リュシアは身体をずらし、肩へ向かっていた石を避けた。石は青灰色のローブの端を掠め、背後の木へ当たる。
「私が先へ出ます。エルは数を見てください。ロルフさんは、私を追わずにエルの前へ」
「一人で行くんですか」
「私が一番速いです。牙猿がこちらへ集まれば、エルが全体を見られます。抜けたものだけ止めてください」
ロルフはエルディアスを見る。
「それでいい」
「分かりました」
リュシアは剣を抜き、岩場へ向けて歩き始めた。走らない。周囲を警戒しながら、牙猿が姿を見せる距離まで進んでいく。
右側の枝が大きく沈んだ。
「右に二」
エルディアスの声と同時に、牙猿が飛び掛かった。
リュシアは一匹目の爪を身体の横へ流し、すれ違いざまに脇腹を斬った。傷を負った牙猿は着地に失敗したが、すぐに起き上がる。
二匹目は上から頭を狙っていた。リュシアは地面を蹴って後ろへ下がり、そのまま剣先を跳ね上げる。刃が胸元へ入り、牙猿が枝の下へ落ちた。
左から三匹目が走り込んだ。
「左」
リュシアは振り向かなかった。右前へ踏み込む。
左側の地面が盛り上がり、斜めの壁となって牙猿の進路を塞いだ。突然現れた土を避けようとした身体が浮く。
リュシアの剣が、その首元を正確に捉えた。
ロルフが息を呑む。
「今の合図だけで――」
「前を見ろ」
岩の陰から別の牙猿が飛び出していた。
ロルフは小楯で爪を受け、短槍を突き出す。牙猿は身を捻って穂先を避けたが、着地点の土が沈んだ。片脚を取られた牙猿へ、二度目の槍が入る。
甲高い鳴き声が岩場に響いた。
枝の上、岩の向こう、倒木の陰にも牙猿の姿があった。傷を負った一匹と、すでに倒れた三匹を含めて九匹。そのうち一匹だけはひと回り大きく、片方の牙が途中で折れていた。
「九匹です」
リュシアが大きな個体を見た。
「奥にはいない」
エルディアスは風を枝の間へ流し、息遣いと葉の揺れを拾っていた。
「牙の折れた個体を倒します。逃げ道は南へ」
「右と後ろを塞ぐ」
「お願いします」
リュシアが動いた。
牙の折れた個体へ真っ直ぐ向かう。左右から二匹が飛び掛かるが、一匹目の下を潜り、二匹目の腕を斬って速度を落とす。
大きな牙猿が長い前脚を振るった。
リュシアは剣で受けず、身体を沈めて爪の下を抜ける。背後から別の一匹が迫った。
「一歩前」
エルディアスの声に、リュシアが迷わず踏み込む。
踵が地面へ着くより先に、足元がわずかに持ち上がった。土で作られた小さな段差を踏み、リュシアの身体が大きな牙猿の肩近くまで跳ね上がる。
剣が胸元を斜めに走った。
着地したリュシアの背後へ、追ってきた牙猿が飛び込む。
細い根の上へ薄い水が広がった。
牙猿は濡れた根を踏み、身体を横へ滑らせる。リュシアは振り返りざまに剣を返し、その首を斬った。
もう一匹がエルディアスへ向かおうとしたが、ロルフが横から槍を入れた。穂先を避けた牙猿の前へ土の壁が立ち上がる。退路を塞がれたところへ、二度目の槍が胸を貫いた。
大きな牙猿が傷口を押さえながら突進する。
リュシアは正面から迎えた。ぎりぎりまで引きつけ、身体を半歩だけ横へずらす。長い腕がローブの脇を通り過ぎた瞬間、剣先が胸の傷へ深く入った。
大きな牙猿が崩れ落ちる。
残っていた三匹が甲高い声を上げ、木々の間へ逃げ始めた。
「右を塞ぐ」
「はい」
右手の木々の間で白い光が弾けた。牙猿が身を竦め、その反対側へ向きを変える。背後では土が低く盛り上がり、集落へ続く方向を塞いだ。
三匹は開いている南側へ走り出す。
リュシアが距離を空けて追った。追いつかず、見失わない速度で、逃げる方向だけを絞っていく。エルディアスとロルフも後に続いた。
岩場の向こうには浅い谷があり、倒木の根元に黒い穴が開いていた。逃げた牙猿は穴へ向かわず、さらに南へ走り去っていく。
穴の前には食べ散らかされた木の実、小動物の骨、乾ききっていない葉が積まれていた。
「ここですね」
リュシアが足を止めた。
「新しいな」
「寝床の葉がまだ青いです」
ロルフが穴へ近づく。
「逃げた三匹は戻りますか」
「巣が残れば」
エルディアスは小石を穴へ投げた。奥で硬い音が返り、何かが動く気配はない。
「中は空だ」
「塞げますか」
「ああ」
「お願いします」
エルディアスは穴の天井を土で支え、倒木を少しずつ動かした。内部の空洞を埋めるように土を流し込み、最後に倒木を沈める。
リュシアは周囲を見ながら、逃げた牙猿の足跡を確認した。
「三匹とも南へ向かっています」
「追いますか」
ロルフが尋ねた。
リュシアは空を覆う枝葉を見上げる。
「やめておきましょう。谷まで行けば、戻る頃には暗くなります」
エルディアスも頷いた。
「依頼は終わった」
ロルフは短槍に付いた血を拭いながら、二人を見た。
「王墓でも、今みたいに戦っていたんですか」
「相手はもっと大きかったです」
「そうではなくて、ほとんど合図がなかったのに、リュシアさんが動くところへ足場が出ていました」
「エルは私を見ています。私は、エルが何を作れるか知っています」
「それだけで合わせられるんですか」
「長く言っていたら、間に合いませんから」
「前から一緒に戦っていたんですよね」
「初めて会ったのは、第一層の階層主の部屋です」
ロルフは二人を交互に見た。
「本当に?」
「はい」
「それで、あれだけ?」
リュシアは少しだけ首を傾ける。
「何度か失敗しました。今は、前より分かるようになっただけです」
「失敗したようには見えませんでした」
「見えなくなったのなら、少しは上手くなったのでしょう」
エルディアスが埋めた巣の表面を靴先で確かめる。
「戻るぞ」
倒した牙猿から討伐証明となる牙を切り取り、死骸は森の奥へ運んで土へ埋めた。血の匂いを残せば、別の魔物を集落の近くへ呼ぶことになる。
処理を終える頃には、木々の間から差す光が傾き始めていた。
帰路では、新たな牙猿に遭遇しなかった。
森の入口では、先に戻ったサラとマーヤが待っていた。九匹の群れだったことを伝えると、サラは驚き、ロルフが無事であることを確認して息を吐く。
「九匹を三人で倒したの?」
「六匹です。三匹は南へ逃げました」
リュシアが訂正した。
「ロルフさんが二匹、私が四匹です。エルは巣を塞ぎました」
「ロルフ、二匹も倒せたの?」
「どういう意味だ」
「そのままの意味」
「俺だって、やる時はやる」
「周りを見すぎなければね」
ロルフが言葉に詰まる。
リュシアはサラを見た。
「エルも、岩を背にするよう指示していました」
「ほら」
「二人で俺を責めるな」
「責めてはいません。二匹倒していましたから」
ロルフが微妙な顔をする。
「褒められてるんですよね」
「はい」
サラが声を立てて笑った。
集落へ戻ると、森へ入れずにいた採集者たちが共同倉庫へ集まってきた。討伐証明の牙と巣の位置を確認し、翌朝からはロルフとサラの護衛を付けた上で採集を再開することになった。
ロガンは報告を聞き終えると、エルディアスの肩を叩いた。
「相変わらず、頼むと話が早いな」
「九匹いた。南の谷が崩れて、巣を移した可能性が高い」
「また来るか」
「別の群れが来るかもしれない。南へ行く猟師がいたら、谷を見させろ」
「分かった。採集もしばらく護衛付きにする」
依頼完了の署名はその場でもらえたが、夕の鐘までにセレイスへ戻ることはできない。二人は集落の客用小屋を借り、翌朝に出発することになった。
夕食は共同の炊事場で出された。豆と根菜を煮た汁物に、焼いた黒パン。討伐の礼だと言って、干し肉も普段より多く入れられている。
リュシアが長椅子へ座ると、近くにいた子供たちが一定の距離を空けて集まった。話し掛けたいが、腰の剣と、勇者を選ぶという噂のどちらを気にすればよいのか決めかねているようだった。
最初に口を開いたのは、まだ幼い少年だった。
「本当に、馬より速いの?」
「ずっと走れば、馬の方が速いです」
「短かったら?」
「どのくらいですか」
少年は炊事場の外にある井戸を指した。
「ここからあそこまで!」
「それなら、私の方が速いと思います」
周囲の子供たちが一斉に騒ぎ出した。誰かが馬を連れてこようと言い、ロガンに止められる。
「馬をそんなことに使うな。怪我をしたらどうする」
「リュシアは怪我しないよ!」
「馬の心配をしてるんだ」
笑いが起きた。
リュシアは少し残念そうに井戸の方を見た。
「競わなくていい」
エルディアスが言う。
「分かっています。ただ、あの距離なら負けません」
「やりたかったのか」
「少しだけです」
「四匹斬っただろ」
「それは競走ではありません」
少年がリュシアの近くまで寄ってくる。
「勇者も、リュシアが走って捕まえるの?」
「勇者は魔物ではありませんから、追いかけて捕まえることはありません」
「じゃあ、どうやって選ぶの?」
炊事場の声がわずかに静かになった。
リュシアは少年の目線に合わせるよう、少し身体を傾ける。
「まだ、その方法を探しているところです。私が選ぶ相手が満たすべき条件は分かっていますが、条件を満たしているからといって、すぐに選んでよいとは思っていません」
「一番強い人じゃないの?」
「強さは必要だと思います。ですが、一番強い人を選ぶだけなら、私でなくてもできます」
「じゃあ、いい人?」
「それも大切かもしれませんね」
「優しい人?」
「優しいことは大切です」
「頭がいい人?」
「それも必要かもしれません」
「強くて、優しくて、頭がよかったら勇者?」
「それだけで決められるとは思いません」
「じゃあ、何があれば勇者なの?」
リュシアの笑顔が、ほんのわずかに固まった。
「それを確かめようとしているのです」
「どうやって?」
「話したり、一緒に歩いたりして、その方がどのような人かを見ます」
「何回くらい?」
「回数では決められません」
「ずっと分からなかったら?」
「いつかは決めます」
「間違えたら?」
息をつく間もなく続いた問いに、リュシアは笑顔を保ったまま一度だけ瞬いた。
――エル。そろそろ助けてください。
――頑張れ。
――あとで覚えていてください。
「間違えたら、どうするの?」
少年がもう一度尋ねた。
リュシアは膝の上で指先を組み直し、穏やかな笑みを崩さないまま答えた。
「間違えないように、よく考えます。それでも間違えた時は、自分が選んだことから逃げません」
「逃げなかったら、どうするの?」
「できることをします。間違えたままにしないために」
「何をするの?」
リュシアは一瞬だけ言葉に詰まった。
「その時にならなければ分かりません。ですが、分からないから何もしない、とは言わないつもりです」
少年は分かったような、分からないような顔で頷いた。
「じゃあ、今日は何をしたの?」
ようやく問いの向きが変わり、リュシアの笑顔からわずかに力が抜けた。
「森で薬草を採って、牙猿を追い払いました」
「薬草、分かったの?」
「初めは分かりませんでした。よく似た草が隣に生えていたので、マーヤさんに教えていただいたのです」
リュシアは採集袋から青癒草を一枚取り出した。
「これが青癒草です」
「間違えなかった?」
「はい。採った後にも確認していただきましたから、大丈夫です」
リュシアが葉を見せると、子供たちの興味は勇者から薬草へ移った。誰が先に二種類を見分けられるかで騒ぎ始め、マーヤが苦葉草を一枚持ってきて、二種類を並べて見せる。
エルディアスは汁物を口へ運びながら、その様子を眺めていた。王都の天幕で食べるものより味は薄く、肉も固い。それでも、誰がどの部隊に所属しているかも、第二層へ入る資格があるかも聞かれなかった。
食事の後、二人は客用小屋へ入った。寝台が二つと小さな机だけの部屋だったが、雨風を避けて眠るには十分だった。
リュシアは剣を手の届く位置へ置き、青灰色のローブを椅子の背へ掛けた。
「今日は、少し落ち着きました」
「牙猿がいたぞ」
「そうではなくて、依頼が終わった後に、困っていた方の顔が見えました」
「王墓でも見えるだろ」
「人数が多すぎます。誰のための仕事なのか、途中で分からなくなることがあります」
リュシアは寝台へ腰掛け、窓の外を見た。集落の家々から漏れる灯りが、暗い道をわずかに照らしている。
「黒碑王墓迷宮の調査が大切でないとは思いません。ですが、今日のような依頼もなくなりませんね。王都の方々が大勢来ても、薬草を採りに行けなければ、この集落の方は困ります」
「ああ」
「エルは、こういう依頼を何度も受けてきたのですよね」
「それなりにな」
「少し分かった気がします」
「何が」
「セレイスに残っている理由です」
エルディアスがリュシアを見る。
「依頼一つで分かるのか」
「一つではありません。道で会った方も、ロガンさんも、エルを知っていました。エルも、誰がどこにいて、どの道を使うか知っています。長くいるというのは、こういうことなのでしょう」
「街にいれば、そのうち覚える」
「私には、同じ街に長くいたことがありませんから」
リュシアは少し笑った。
「知らない場所へ行くのも好きです。ただ、戻った時に知っている方がいることも、悪くないのだと思いました」
「戻る場所は宿だろ」
「そういう意味ではありません」
「分かってる」
「分かっていて言いましたね」
「ああ」
リュシアは呆れたように息を吐いた。
「それから、まったく助けてくれませんでしたね」
「答えられてただろ」
「答えられたことと、助けが必要なかったことは同じではありません」
「頑張れとは言った」
「あれは助言ではありません」
「頑張っただろ」
「あとで覚えていてください、とも言いました」
「覚えてる」
「それだけですか」
「ああ」
リュシアはエルディアスを見たまま、しばらく黙った。
「エルは、今日の依頼で何か分かりましたか」
「お前は馬と競いたがる」
「あれは、子供たちが期待していたからです」
「止められて残念そうだった」
「少しだけです」
「勇者を選ぶより、競走の方が楽しそうだな」
「競走は終わる場所も勝敗も分かります。比べるまでもなく、こちらの方が気楽です」
◇
翌朝、二人はロガンから署名済みの完了票を受け取り、セレイスへ向けて出発した。
帰り道では、街へ薬草を運ぶ荷車と途中まで一緒になった。積まれた籠には、朝のうちに採られた青癒草が入っている。牙猿の群れがいなくなったことで、数日ぶりに出荷を再開できたという。
昼の鐘を過ぎてセレイスへ近づくと、街道を行き交う人の数が増えた。王都の馬車、武具を積んだ荷車、黒碑王墓迷宮へ向かう冒険者。遠くに城壁が見え始める頃には、集落で過ごした一晩が、ずいぶん静かなものだったように感じられた。
南門を通る際、衛兵が二人の顔を見て、通行証を確かめる前に脇へ寄った。
「エルとリュシアさんか。今日は外から戻ったのか」
「普通の依頼だ」
「牙猿の群れを確認し、六匹を駆除しました。残りは南へ追い、巣も塞いでいます」
リュシアが答えると、衛兵はなぜか二人の装備をもう一度見た。
「そうか。そういう仕事もするんだな」
「冒険者ですから」
「いや、分かってる。分かってるんだが……そうか。牙猿か」
門を抜けた後、リュシアが振り返る。
「納得していませんでしたね」
「勝手に階層主専門にされてる」
「牙猿の駆除も広めてもらった方がよいでしょうか」
「広めなくていい」
「普通の依頼も受ける冒険者だと分かってもらえるかもしれません」
「勇者を選ぶ奴が薬草を採ってたって話になるだけだ」
「それでも、嘘ではありません」
冒険者ギルドへ入ると、午後の依頼を終えた者たちで広間は混み始めていた。
扉の音に何人かが顔を向け、その視線が二人の姿で止まる。以前なら、帰還した冒険者を確認して終わっていた。今は、リュシアの青灰色のローブとエルディアスの顔を見て、黒碑王墓迷宮から戻ったのかと探るような目が向けられる。
二人は構わず受付へ向かった。
「お帰りなさい。現地で一泊されたのですね」
ミュリカが完了票を受け取る。
「牙猿は九匹。六匹を駆除、三匹は南へ。巣は閉鎖……依頼票の目撃数より、だいぶ多かったですね」
「見えたのが四匹だっただけだ」
「こちらも、四匹しかいないとは考えていませんでした」
リュシアが言う。
「そうでなければ、現地の冒険者まで待たせていません」
ミュリカは討伐証明の牙を確かめ、報告書へ目を通した。
「南側の谷が崩れ、群れが移動した可能性あり。後日、猟師が確認予定……問題ありません。依頼完了として処理します」
報酬の革袋が二人の前へ置かれた。王都の調査協力で受け取る額と比べれば小さい。それでも、依頼票に書かれていた仕事を終え、依頼主の署名を持ち帰って受け取る報酬だった。
リュシアは革袋を持ち上げ、中の硬貨が鳴る音を確かめる。
「次の依頼も見ますか」
ミュリカが尋ねた。
「第二層の調査再開については、まだ連絡がありません。測量師の到着も、早くて数日後になるそうです」
「普通の依頼は」
「街道護衛、荷運び、倉庫の害獣駆除、それから壊れた水路の確認があります」
「水路だな」
リュシアも依頼板を見る。
「森の次は水路ですか」
「嫌か」
「いいえ。同じ仕事を続けるより、面白そうです」
「剣はあまり使わないぞ」
「使わずに終わるなら、その方がよいでしょう」
ミュリカが依頼票を外し、二人の前へ置いた。
「市内北側の古い水路です。流量が急に減っています。詰まりか破損かは不明。明日の朝からで構いませんが、内部へ入る可能性がありますので、汚れてもよい装備を用意してください」
リュシアは自分の青灰色のローブを見下ろした。
「これは、汚してよい装備ではありませんね」
「替えを用意しろ」
「薬草採集より、準備が難しそうです」
黒碑も魔王も、次の依頼票には書かれていなかった。
書かれていたのは、古い水路の場所と、減った水を元に戻してほしいという依頼だけだった。




