第24話 測量
最初に動いたのは、隊長だった。
「斥候は丘の外周を確認しろ。ただし森には入るな。騎士四名が同行。残りは塔と広間を調べる。広間側は階段、中央の紋様、外壁沿いに分かれろ。必ず二人以上で行動しろ」
呆然としていた者たちが、命令を受けてようやく動き始めた。斥候は二手に分かれ、騎士を伴って丘の左右へ進む。広間へ戻った者たちも、広い石床を横切りながら、中央の紋様と壁際へ散っていった。
エルディアスも丘の斜面へ目を向けた。
草に覆われた傾斜は、それほど急ではない。下りようと思えば難しくはなさそうだったが、その先には森が迫っている。丘の周囲だけが円形に切り開かれたように木々から離れており、塔を中心とした空白を形作っていた。
森の手前に道らしいものはない。草を踏み分けた跡も、荷車の轍も見当たらなかった。
「塔の周囲だけ、木が生えていませんね」
隣に立ったリュシアが言った。
「丘だからじゃないか」
「それだけなら、低木や若い木があってもよいはずです。草は生えているのに、塔から一定の範囲には一本もありません。誰かが刈っているようにも見えませんし、森の側から広がってこない理由があるのでしょう」
「土が違うのかもしれない」
「確かめるなら掘る必要がありますね。ただし、第一層の階層主を見た後では、地面の下に根がないと確認できるまで安心できません」
「掘ったら出てくるかもな」
「縁起でもないことを言わないでください」
リュシアは足元へ視線を落とした。風に揺れる草の間から、ところどころ黒い土が見えている。少なくとも第一層の石床とは違い、見た目には外の草地と変わらなかった。
前方から魔導士の声が上がった。
「空間術式への明確な反応はありません。風と光にも、既知の幻術に見られる揺らぎは確認できません」
「幻ではないということか」
騎士の一人が尋ねる。
「少なくとも、通常の幻術で覆われているようには見えません。ただし、ダンジョンそのものが作った空間であれば別です。空も森も実在していて、それらを含めた空間全体が外界から切り離されている可能性があります」
「つまり、分からないと」
「確認できた範囲を報告しています。見えているものが、単純な幻ではない可能性が高いということです」
魔導士は不満そうに答え、今度は杖を地面へ向けた。
隊長は森を見たまま、調査官へ尋ねる。
「方位は取れるか」
「試しています」
調査官の一人が、手のひらほどの円盤を取り出していた。細い針を中央に浮かせた方位具で、本来なら一定の方向を示すはずのものだった。
だが、針は止まらない。
ゆっくり回ったかと思えば逆へ戻り、わずかに震えてから別の方向へ傾く。調査官は場所を変え、円盤の向きも変えたが、結果は同じだった。
「磁石式は安定しません。魔力式も同様です」
「太陽は使えないのか」
「この空の太陽が、外と同じ位置を同じ速さで動く保証がありません。一日の動きを観測すれば基準にはできるかもしれませんが、現時点で方位を決める材料にはなりません」
「塔を中心にすればよいのではありませんか」
リュシアが言った。
近くにいた調査官が彼女を見る。
「塔の出口がある側を仮に南と定める方法です。実際の方位とは無関係でも、塔からどちらへ進んだかは記録できます。森へ入った後も、進んだ距離と曲がった方向を測り続ければ、帰路を割り出す助けになるでしょう」
「理屈の上では可能です。ただし、歩数だけでは足りません。地面の傾きや倒木を避けるたびに距離がずれますし、方位具も使えないとなれば、測量縄と標識を置きながら進む必要があります」
調査官は森を見渡した。
「今日持ち込んだ道具では、丘の周囲を記録するのが限界です」
「見えているだけでも、かなり先までありますね」
「見えるから測れるわけではありません。遠方に位置の異なる目標が複数あれば距離を割り出せますが、目印になる高所も、森の切れ目も見当たりません。木々の高さもほとんど揃っています。地形の高低すら、ここからでは判別しにくい」
エルディアスは目を細めた。
確かに、緑の広がりにはほとんど変化がない。遠くにわずかな濃淡はあるものの、それが丘なのか、木々の種類が違うだけなのか判断できなかった。
「川も見えないな」
「これだけの森なら、どこかに水源はあるはずです」
リュシアが答える。
「地下かもしれない」
「森全体へ届くほどの地下水があるのなら、それはそれで地形に影響が出るでしょう。川が木々に隠れているだけかもしれませんし、ここから見えない低地を流れている可能性もあります」
「水を探すだけでも地図が要るな」
「地図を作るために進み、その途中で水を探すことになるのでしょう。順序が逆にも思えますが、森ではそうせざるを得ません」
別方向を確認していた斥候たちが戻ってきた。
「丘の外周に人工物なし。斜面の途中までは草地です。森との境まで、およそ百歩」
「反対側も同じです。塔を中心に、ほぼ円形に草地が広がっています。足跡や糞は見つかりませんでした」
「森から何か出てきた形跡もないのか」
「確認できません」
隊長は報告を聞き、森へ向き直った。
「生き物の声は」
全員が黙った。
風が丘を渡り、草と遠くの梢を揺らしている。葉が擦れる音は聞こえるが、鳥の声も、獣の鳴き声もない。
「聞こえません」
斥候が答えた。
「静かすぎるな」
「風で聞き取りにくいだけではありませんか」
若い騎士が言う。
「森の中まで入らなければ断定はできん。ただ、ここから見える空に鳥が一羽もいないのは確かだ」
斥候の言葉を受け、何人かが空へ目を向けた。
雲は流れている。空そのものに不自然さはない。しかし、その下を横切る影は一つもなかった。
「魔物もいないなら、調査は楽になる」
別の騎士が言った。
「何もいないとは限らない」
エルディアスが答えると、周囲の視線が集まった。
「これだけ広ければ、姿を見せずに近づける場所はいくらでもある。森の中から丘を見ている奴がいても、こっちからは分からない」
「気配はありますか」
隊長が尋ねる。
「ない。だから何もいないとは言えない」
「広いだけなら、まだよいのですが」
リュシアが森を見ながら言った。
「広さだけでも十分に問題だろう」
「はい。ですが、これだけの森が一つの環境として存在しているなら、そこに棲むものも一種類とは考えにくいでしょう。外の森と同じなら、場所によって地形も植生も変わります。水場には水場の生き物がいて、木の密集した場所には別のものがいる。すべてが魔物である必要はありませんが、何も知らずに進めば、危険な区域へ入ったことに気づけないかもしれません」
隊長はしばらく森を見つめた。
「第一次調査で森へ入る予定は、もともとない」
「正しいと思います」
「ずいぶん素直だな」
「未知の階層へ来た初日に、帰路も確かめず森へ入るべきだとは思いません。塔が見えている間は戻れるとしても、木々の中へ入ればすぐに見失うでしょう。方位具も使えないのであれば、なおさらです」
「塔はあれだけ高い」
騎士の一人が見上げた。
「森の中からも見えるんじゃないか」
「木の下から真上を見ても、枝葉に遮られます」
斥候が答える。
「見えたとしても、塔がどちらにあるか分かるだけです。どの方向へどれだけ離れたかまでは判断できません」
「一直線に進めばいい」
「木も崖も避けずに進めるならな」
騎士は森を眺め、言葉を引っ込めた。
調査官が塔を見上げる。
「上へ行ければ、森全体の形を確認できるのですが」
窓も外壁の凹凸もない。入口は地上の広間へ通じる一つだけで、外から上へ進める場所はなかった。
「中の階段なら上まで続いてる」
騎士が冗談めかして言った。
「同じ時間をかけて戻るつもりならな」
別の者が返す。
誰も本気で提案したとは思っていなかった。それでも、長い螺旋階段を思い出したのか、何人かの顔に疲れが戻った。
「帰りも、あれを上るのでしょうか」
リュシアが小声で尋ねる。
「そのつもりで食料を残してる」
「分かっています。ただ、下りるのと上るのとでは負担が違います。途中で野営できる場所もありませんし、今から戻れば円形石室へ着く頃には相当な時間が経っているでしょう」
「もっと長いかもしれない」
「励まそうとしているのでなければ、黙っていてください」
エルディアスは塔の入口へ目を向けた。
広間の内部では、残っていた魔導士と調査官が壁や床を調べている。外へ出た時には光と森へ意識を取られていたが、入口の円形石室にあったものと似た紋様も残されている。
「中を見てくる」
「私も行きます」
二人は開口部を抜け、再び広間へ入った。外光が届くのは壁際からしばらくの範囲までで、その先には王都から持ち込まれた照明具が間隔を空けて置かれている。中央の紋様まではなお距離があり、エルディアスたちは調査を続ける騎士や魔導士の間を抜けて石床を進んだ。
紋様の周囲では、魔導士と調査官が床へ膝をつき、幾重もの円と細い文字を調べていた。周囲には調査器具が置かれ、刻まれた文字の一部には淡い魔力が流れている。その一人が二人に気づき、顔を上げた。
「ちょうど呼ぼうと思っていました」
「先ほどは反応していなかっただろ」
「今も起動してはいません。ただ、入口の円形石室で調べた時にはなかった反応があります。こちらへ到達したことで、何かが変わった可能性があります」
魔導士は紋様へ触れないよう、杖の先を円の外側へ向けた。
「形も、文字の並びも、入口にあった紋様とほぼ同じです。完全な写しではなく、一部の向きが反転しています」
「対になっているということですか」
リュシアが尋ねる。
「その可能性が高いと考えています。こちらから入口の円形石室へ移動するための術式かもしれません」
「階段を上らずに済むのですね」
リュシアの声がわずかに明るくなった。
「動けば、ですが」
「期待するくらいはよいでしょう。これだけ似た紋様が階段の両端にあるのですから、無関係とは考えにくいと思います」
「両方に罠を置いたのかもしれない」
エルディアスが言う。
「今は階段を上るより、こちらの可能性を信じたい気持ちがあります」
「疲れてるな」
「多少は」
魔導士が二人を見比べた。
「反応の中心は、この内側です。人が立つことを前提とした広さに見えます。ただし、何をきっかけに起動するのかは分かりません」
広間へ戻った隊長が報告を聞き、紋様の前へ立った。
「入口の石室を意識すればよいのか」
「可能性はあります。黒い入口で行き先を意識する仕組みに近いのかもしれませんが、この紋様が同じ方式だという保証はありません」
「触れる必要は」
「刻まれた線を不用意に踏むことになりますので、試すなら中央へ立つだけにしてください」
「失敗した時はどうなる」
「何も起こらないか、別の場所へ移るか、術式が暴発するかです」
「役に立たん説明だな」
「未知の術式を調べていますので」
試すかどうかで長い議論はなかった。
このまま階段を上ることはできる。しかし、この紋様が入口の石室と広間を結んでいるなら、今後の第二層調査では長い降下と登り返しを省ける。確認せずに帰る理由はなかった。
最初に試す役目は、王都の斥候の一人が引き受けた。
「円形石室をできるだけ明確に思い浮かべてください。中央の紋様や照明具、階段の開口部まで」
「余計な場所を考えない方がいいんだな」
「おそらくは」
「不安になる答え方だ」
斥候は装備を整え、紋様の中央へ立った。
何も起こらない。
「石室を意識していますか」
「している」
「もっと強く」
「白い照明具と、壁際の荷物と、階段の入口まで思い出している」
床の円に淡い光が走った。
外側から内側へ向かって文字が順に輝き、斥候の姿が揺らぐ。次の瞬間には、音もなくその場から消えていた。
広間に残った者たちが紋様を見つめる。
光はすぐに消えた。
「成功したと考えてよいのでしょうか」
リュシアが言う。
「失敗して別の場所へ行ったかもしれない」
エルディアスが答えた。
「少しは安心させる言い方をしてください」
「確認するまで同じだ」
「確認するには、誰かが後を追う必要がありますね」
隊長は騎士と魔導士を一人ずつ選んだ。
「二人で行けるかも確認する。向こうで斥候の無事を確かめろ。入口側の紋様が動くようなら、一人をこちらへ戻せ」
二人が中央へ立ち、円形石室を意識する。今度は先ほどより早く紋様が光り、二人の姿が同時に消えた。
待つ間、誰も口を開かなかった。
外から吹き込む風が広間を抜け、森の匂いを運んでくる。紋様には何の変化もない。
やがて床の線が再び光った。
中央に人影が浮かび、最初に送られた斥候が姿を現す。
「入口の円形石室へ移動しました。負傷なし。後から来た二人も無事です」
「向こうの紋様は」
「こちらへ来た者が消えた直後から、薄く光っていたそうです。中央に立って、この広間を意識したら戻れました」
広間の空気が緩んだ。
安堵の息を吐く者もいれば、階段の入口を振り返ってから肩の力を抜く者もいる。
「固定された二か所を結ぶ術式と考えてよさそうです」
魔導士が紋様へ目を落とした。
「入口の石室と、この広間です。どちらか一方だけでは反応せず、両方へ人が到達したことで使えるようになったのかもしれません」
「別の場所へも行けるのか」
隊長が尋ねる。
「そのような反応はありません。少なくとも現時点では、この二つの紋様が互いを結んでいると考えるべきです」
「次から階段を通らずに来られるのですね」
リュシアが言った。
「黒い入口から第二層入口の円形石室へ入り、そこから紋様を使えば、この広間まで来られます」
「階段は最初の一度だけか」
エルディアスが振り返る。
「この転移紋が動き続けるなら、ですが」
「止まる可能性もあるのですか」
「ダンジョンの中にある術式です。確実に動き続けるとは断言できません。毎回、退路を確認してから進む必要があります」
「それでも、毎回あの階段を使うよりはよいでしょう」
「それは同意します」
隊長は丘に残っていた者たちへ帰還の合図を出した。外周の確認を終えた斥候と騎士たちが開口部へ戻り、広間中央の転移紋へ集まるまでにはしばらくかかった。
その間に、調査官は記録と採取した土をまとめ、帰還の順番を決めていく。最初に記録と試料を送り、続いて調査官と魔導士、騎士たちが数人ずつ紋様へ入ることになった。
最後に斥候がもう一度丘を一周し、変化がないことを確かめた。
森は静かなままだった。
結局、魔物の姿も、人工物も、生き物の声も確認できなかった。丘の上から見えたものは、塔と、森と、空だけである。
それでも、何もなかったとは誰も考えていなかった。
調べられた範囲が、あまりにも狭い。
地平線まで続く森林の前では、丘の周辺を見回った程度の調査は、入口から数歩進んだのと変わらなかった。
転移紋へ入る直前、リュシアはもう一度外を振り返った。
「どうした」
「次に来た時も、同じ景色なのでしょうか」
「森が動くと思うのか」
「可能性としてです。外の森なら、数日で地形が変わることはありません。ですが、ここはダンジョンです。道が現れたり、木々の位置が変わったり、今は見えないものが塔へ近づいてきても不思議ではありません」
「記録は取った」
「比較できますね」
「変わってなければ終わりだ」
「変わっていないことを確認するのも調査です」
「調査官みたいになってきたな」
「褒めていますか」
「別に」
リュシアは不満そうにエルディアスを見たが、すぐに転移紋の中央へ進んだ。
二人を含む最後の一団が、第二層入口の円形石室を意識する。
床から淡い光が立ち上がり、森の匂いと温かな風が消えた。
次に足元を感じた時、周囲には王都から持ち込まれた照明具の白い光が満ちていた。
第二層入口の円形石室だった。
先に戻った者たちが壁際へ寄り、到着した者の人数を確認している。中央の転移紋は淡く光っていたが、最後の一団が離れると、文字も円も元の石床へ戻った。
「全員帰還」
調査官の報告に、隊長が頷いた。
「地上へ戻る。転移紋と第二層の状況は、宿営地でまとめる」
一行は既定の帰還手順を取り、黒い入口の外へ出た。長い階段を下りてから相当な時間が経っており、地上の光はすでに傾き始めていた。
宿営地では、帰還を待っていた者たちが集まり、持ち帰った記録と証言を書き取っていく。第二層が広大な森林であること、塔の丘以外に目印が見当たらないこと、方位具が安定しないこと、円形石室と塔の広間を結ぶ転移紋が利用できたことが順に報告された。
黒い入口の機構に変化はなかった。
第二層を意識して黒い入口を通れば、到着するのはこれまでどおり螺旋階段上部の円形石室である。そこから床の転移紋を使うことで、塔の広間へ移動できる。帰還時には、広間の転移紋から円形石室へ戻る。
長い螺旋階段は、二つの転移紋を繋ぐために最初の一度だけ通る必要があったらしい。
それが確認されても、第二層の調査がすぐ再開されることはなかった。
日が落ちる前に開かれた協議で、隊長は紙の中央へ塔を示す丸を描いた。その周囲へ丘の外周を加え、さらに外側を森として塗る。
地図と呼ぶには、あまりにも情報が少なかった。
「現在把握している第二層は、これだけだ」
隊長が紙を指す。
「丘の外周と、森の境まで。森の奥行きも地形も、水源も魔物も不明。方位具は使えず、遠方の目印もない」
調査官が続けた。
「通常の探索隊だけでは地図を作れません。測量師と標識用の資材が必要です。進路を固定するための縄、杭、樹木へ残す印、距離を測る器具も不足しています。森へ入るなら、帰路を維持する班を別に置くべきでしょう」
「人数を増やせばよいのではないか」
騎士の一人が尋ねる。
「増やした人数が全員迷えば、被害が増えるだけです」
調査官は即答した。
「部隊を分けるにも、互いの位置を共有する方法がありません。どこまで進んだか分からず、合流できなければ、森の中に孤立した集団を増やすことになります」
「塔から真っ直ぐ進めば戻れる」
「木を避けずに歩けるなら可能です」
紙の上へ、調査官が一本の線を引いた。
「実際には倒木や崖、沼、密集した藪を避けるたびに進路が曲がります。魔物に遭遇して移動すれば、さらにずれるでしょう。方位具を使えない以上、後方へ目印を残し続けなければなりません」
隊長は腕を組み、紙を見下ろした。
「測量師を王都へ要請する。森林と未踏地の地図作成に慣れた者を優先しろ。必要な道具と資材も書き出せ」
「塔の周辺調査はどうしますか」
「王都の人員で続ける。丘の外周、塔の広間、転移紋の確認までだ。森には入らない」
そこで、ギルド側の担当者が口を開いた。
「現在、前線組へ出している調査協力依頼は」
「森の内部へ進む準備が整うまで保留してくれ」
隊長はエルディアスとリュシアへ視線を向けた。
「二人の能力を必要としないという意味ではない。今は戦える者を増やすより、迷わず進み、戻るための準備が先だ。塔と丘の確認だけなら、王都の調査隊で足りる」
「分かった」
エルディアスが答える。
リュシアも頷いた。
「異論はありません。今日の装備で森へ入っても、調査より帰路の確保に人手を取られるでしょう。測量の準備が整ってから進むべきです」
「準備ができ次第、ギルドを通じて改めて依頼を出す」
「予定は」
「分からん。王都から測量師を呼び、道具を揃え、こちらへ移動させる必要がある。明日明後日という話ではない」
協議が終わる頃には、宿営地の各所で照明具に火が入っていた。
第二層へ向けた作業が止まったわけではない。記録の整理、転移紋の監視、道具の手配、人員の選定が始まり、王都の者たちはむしろ忙しさを増している。
だが、エルディアスとリュシアがそこに残る理由はなくなった。
◇
翌朝、二人は冒険者ギルドの依頼板の前に立っていた。
黒碑王墓迷宮に関する依頼票が並ぶ区画には、新しく「第二層内部調査・一時保留」と書かれた札が掛けられている。その下には、測量師と補助人員の到着を待って再開する予定であることが記されていた。
隣には、以前から変わらない通常依頼が並んでいる。
街道沿いに出る小型魔物の討伐。漁村までの荷車護衛。森の浅い場所で採れる薬草の採集。倉庫へ入り込んだ害獣の駆除。壊れた水路の確認。
エルディアスは依頼票を上から順に見た。
「急に普通になりましたね」
リュシアが隣で言った。
「元からこっちが普通だ」
「分かっています。ですが、王都の調査隊と階層主を相手にする日が続いた後では、薬草採集という文字だけで落ち着いて見えます」
「採るか」
「採集ですか」
「嫌なら害獣」
「嫌とは言っていません。ただ、エルが薬草採集を選ぶとは思いませんでした」
「ついでに討伐もある」
エルディアスが一枚の依頼票を外した。
セレイスから半日ほど離れた集落の依頼だった。周囲の森で薬草を集める者が、小型の魔物に追われることが増えている。群れの位置を確認し、必要なら駆除するという内容である。
報酬は、王都から提示された定額契約とは比べるまでもない。
それでも、エルディアスは迷わず受付へ持っていった。
「これにする」
ミュリカは依頼票を受け取り、内容を確認した。
「お二人で受けるのですか」
「駄目か」
「駄目ではありません。ただ、昨日まで王都の第一次調査隊に参加していた二人が、翌朝には薬草採集者の護衛を受けているので、切り替えが早いと思っただけです」
「暇になった」
「第二層内部の調査は保留ですからね。こちらとしては助かります。王都が来てから、通常依頼を受ける人が減っていますので」
ミュリカは処理を終え、依頼票の控えを差し出した。
「今日出発しても、集落へ着くのは昼の鐘を大きく過ぎます。現地で一泊する可能性もありますので、準備してください」
「分かった」
リュシアが控えを受け取る。
「森の規模は、第二層ほどではありませんよね」
ミュリカが一瞬だけ黙った。
「セレイス周辺の森が地平線まで続いていたら、今頃この街は港町ではなく森の中です」
「そうですね」
「リュシアさん、少し疲れていますか」
「階段を長く下りたせいかもしれません」
「今日は普通の道ですから、安心してください」
ギルドを出ると、朝の大通りには荷車と人が行き交っていた。
港からは積荷を運ぶ声が聞こえ、店先では商人が品物を並べている。王都の兵も歩いているが、街のすべてが黒碑王墓迷宮だけのために動いているわけではない。
漁へ出る船があり、街道を進む荷車があり、森へ薬草を採りに行く者がいる。
エルディアスにとっては、以前からあったセレイスの日常だった。
「準備して出るぞ」
「はい」
二人は宿へ向かった。
第二層には、地平線まで続く森が残されている。
測量師が到着し、道を失わずに進むための準備が整うまで、無理に踏み込む必要はない。
その間にも、セレイスにはセレイスの仕事があった。




