第19話 統制
港から王墓へ続く大通りには、荷車が途切れることなく行き交っていた。積まれているのは魚籠や交易品ではなく、乾燥食料、矢束、薬箱、天幕、予備の盾と槍だ。荷車の脇を王都の兵が歩き、道の角には行き先を示す立札が立てられている。王墓方面、宿営地、資材集積所、負傷者搬送所。以前なら酒場や倉庫の名が書かれていた場所に、王都が定めた用途が並んでいた。
宿屋はどこも満室だった。厩には王都から来た馬が詰め込まれ、空き地には荷運びの人夫が集められている。酒場は昼前から席が埋まり、食料品店の棚は品を並べた端から空になった。鍛冶屋の炉は夜になっても火が落ちず、《錆びない鹿》にも鎧や盾の補修を求める兵が列を作っている。
二人が以前から部屋を取っている宿も、新しい客の受け入れを止めていた。先に寝床を確保していなければ、今から街の中で空いた部屋を探すことは難しかっただろう。
金は落ちていた。普段の数倍どころではない額が、毎日街の中を流れている。
だが、笑い声は増えていなかった。
通りの両端には武装した兵が立ち、荷車が通るたびに行き先を確認する。宿屋では宿泊者名簿の提出を求められ、倉庫へ運び込まれる荷には王都の封印が押されていた。巡回の兵とすれ違う住民は、邪魔にならないよう壁際へ寄る。景気の話をする商人も、兵が近づけば自然と声を落とした。
セレイスはもともと騒がしい街だ。港では荷役の怒鳴り声が飛び、酒場の喧嘩が通りへはみ出し、鐘が鳴っても誰かが遅れて店を開ける。それでも街は回っていた。
五年以上ここを拠点にしているエルディアスには、今の整い方がかえって不自然に見えた。
雑然としていたはずの道が空けられ、荷車は決められた側を進み、兵の号令で人の流れが止まる。港町の上から、別の街の形を被せたようだった。
「以前から、これほど兵の多い街だったわけではありませんよね」
隣を歩くリュシアが、通りの先へ目を向けた。補修を終えた青灰色のローブには、左袖口から肩へ新しい銀糸が走っている。腰にあるのは、ひびの入った剣を預けている間だけ、ザックが馴染みの鍛冶屋から借りてきた代わりの細身剣だった。
「港の揉め事に出る兵はいた。こんな数じゃない」
「街の方は儲かっているようですが」
「今はな」
兵と冒険者が滞在する限り、食料も酒も装備も売れる。だが、彼らが去った後まで同じ量の品が動くわけではない。急いで人を雇い、仕入れを増やし、設備を広げた店ほど、その後に残るものも大きかった。
目先の金だけを見ている商人ばかりではない。だからこそ、笑いながらも声を潜めている。
◇
冒険者ギルドの前にも、新しい柵が設けられていた。入口の片側は一般の依頼を受ける者、もう片側は黒碑王墓迷宮へ向かう者に分けられ、王都の職員が入場札を確認している。壁には以前の依頼票を押し退けるように、大きな告知板が掲げられていた。
第一層全域の測量完了。
本日より、指定区域を一般冒険者へ開放する。
階層主区画への立ち入りには、王立迷宮査察隊およびセレイス冒険者ギルドの許可を必要とする。無許可での侵入、戦闘開始条件を満たす行為、許可証の貸与および偽造には罰則を科す。
告知板の前には冒険者が集まり、職員から説明を受けていた。
「第一層が開いたのに、階層主だけは駄目なのか」
若い冒険者が不満そうに言うと、帳面を持った職員が告知板の下段を指した。
「階層主の部屋へ二十四名以下で入り、開始条件を満たすと扉が閉じます。討伐するまで開きません。外からの救援も、途中での退却もできません」
「入る前に数えればいいだろ」
「準備不足の五人で入っても、扉は閉じます」
若い冒険者は口を閉じた。
王都は階層主区画を封鎖した後、人数を変えた入室試験を繰り返し、起動条件の境界と、入室後に人数が変わった場合の反応を確認していた。
「二十五名以上なら、階層主は出現せず、扉も閉じません。ただし、中で人数を減らしても戦闘は始まりません。一度全員が部屋を出て、二十四名以下で入り直す必要があります。人数をごまかして予備の者を待機させても、扉が閉じた後には追加できません」
「それで罰則か」
「全滅した後で、知らなかったでは済みませんので」
職員の説明はもっともだった。準備の足りない者が階層主戦を起動すれば、外から救援することも、途中で退却することもできない。第一層を一般へ開放する以上、階層主区画だけを管理する必要はある。
だが、それだけではない。
「人命保護だけではありませんね」
リュシアが告知板を見たまま言った。
「第二層へ送る戦力を、王都が選ぶためでもある」
「階層主を倒せる者だけを、正式な攻略隊として認めるつもりですか」
「その方が説明はつく。王都の騎士も含めて、一度は同じ条件を通らせるんだろう」
「王都の者だから無条件で降ろすわけではない、と」
「少なくとも建前はな」
ダンジョンでは、入口を通る際に行き先を明確に意識すれば、攻略済みの階層と、その次の階層の入口へ進める。黒碑王墓迷宮では第一層の階層主が討伐されているため、現在選べるのは第一層と第二層までだった。第三層へ進むには、第二層を攻略しなければならない。このダンジョンも同じ仕様であることは、王都の調査ですでに確認されていた。第二層へ進むために、階層主の討伐経験や特別な資格が必要なわけではない。
それでも、第二層は地図もなく、魔獣の強さも、罠の種類も、退路の有無さえ分かっていない。ダンジョン自体は誰も拒まないからこそ、王都は正式な攻略隊に条件を課した。
第一層の階層主を安定して討伐できること。
異なる所属の者を含む編成でも、命令に従い、負傷者を抱えたまま戦線を維持できること。
その条件を満たしたと王都とギルドが認めた部隊だけが、第二層の探索を許される。
無許可で黒い入口を通り、第二層へ進むことをダンジョンそのものが拒むわけではない。監視を抜けて降下することも、物理的には可能だった。
ただし、そうすればギルド規約と王都命令の双方に違反する。救援の対象からも外され、生還しても処分を受ける。
進めないのではない。進めば、その責任をすべて負わされる。
王都は第一層を冒険者へ開放する一方で、その先へ送る者だけは自分たちの基準で選ぼうとしていた。
ギルドの奥には、第一層の地図が張り出されていた。
王都の第三陣と、ギルドから依頼を受けた複数の冒険者パーティーが、数日かけて完成させたものだった。依頼という形ではあったが、街を拠点とする中堅以上のパーティーは一つずつ呼び出され、断りにくい条件で測量へ組み込まれている。
通路には番号が振られ、魔獣の出現地点、崩落箇所、水場、退避に使える小部屋まで書き込まれていた。エルディアスが階層主の部屋へ飛ばされた通路も、床石を剥がして繰り返し調べられている。
だが、転移の罠は再現されなかった。
同じ種類の罠も見つからず、別の探索者が戦闘途中の階層主区画へ送られた例もない。王都の報告書では、発生条件不明の異常事例として残されたままだった。
「時間だ」
エルディアスが告知板から離れる。
◇
階層主戦へ参加する二十四名は、昼の鐘までに王墓前の宿営地へ集まることになっていた。
今回の討伐は、第二層第一次攻略隊候補の実戦確認を兼ねている。同時に、二十四名という大人数を閉鎖された空間で運用し、異なる所属の者たちが一つの指揮系統でどこまで動けるかを確かめる試験でもあった。
王墓へ続く道は、以前より狭く感じられた。道幅そのものは変わっていないが、両側に柵が立てられ、一定間隔で詰所と警備兵が置かれている。王墓の周囲には天幕が並び、武器置き場、治療所、炊事場、職員用の帳場が区画ごとに分けられていた。高い見張り台まで組まれ、遠目には新しい砦が築かれたように見える。
黒い石碑の前には常に兵が立っていた。
刻まれた三つの文は、布で隠されてはいない。
勇者が魔王を倒す。
リュシア・フェル・ノルディアが勇者を選ぶ。
三王、勝者の歴史のみが続く。
訪れる者は誰でも読める。だが、石碑へ近づける距離は決められ、触れることは禁じられていた。写しを取る者も、王都から許可された職員に限られている。
石碑の近くで、参加者の確認が行われていた。
盾を持つ騎士、槍を携えた兵、弓手、魔導士、治癒役。指揮官を含む王都の者だけではなく、第一層の測量に参加した冒険者も混じっている。装備も所属も異なる二十四名が、六人ずつ四つの組に分けられ、腕に同じ色の布を巻いていた。
最後に到着したエルディアスとリュシアを、帳面を持った職員がそれぞれ確認する。
「二十三、二十四。以上です」
「再確認しろ。俺も含めてだ」
職員は指揮官から順に、名簿と顔を一人ずつ照合した。
「二十四名、相違ありません」
査察隊の指揮官は、同じ隊列の中から全員を見回した。年齢は四十を越えている。派手な鎧ではないが、使い込まれた傷があり、立っているだけで周囲の兵が口を閉じた。
「説明を繰り返す。部屋へ入るのは、ここにいる二十四名だけだ。階層主が現れ、扉が閉じた後は、討伐するまで出られない。負傷しても扉へ走るな。開かん。倒れた者は後方へ運び、生存を優先する」
誰も口を挟まなかった。
「人数条件は説明を受けているな。今回は、俺を含む二十四名で起動させる。扉が閉じた後の追加も交代もできない」
指揮官の視線が、所属の異なる参加者たちを順に通る。
「目的は階層主の再討伐だけではない。第二層第一次攻略隊候補としての戦力確認と、閉鎖空間におけるアライアンス運用の試験を行う。個人の武功ではなく、指示への反応、役割の維持、負傷者が出た際の立て直しまで確認する」
王都の騎士も、ギルドから参加した冒険者も、同じ説明を受けている。
「勝手な追撃、持ち場の放棄、命令を無視した術式の使用は評価を下げる。討伐に成功しても、編成として不適格と判断すれば第二層の攻略隊には加えない。王都所属であっても例外ではない」
騎士たちからも異論は出なかった。
今回の二十四名には、すでに第一層の探索や測量で実力を確認されている者が多い。それでも、通路で魔獣を倒すことと、退路のない階層主戦で隊列を保つことは違う。
王都が第二層へ送る者を選ぶ以上、自分たちの騎士も同じ条件で評価したという形は必要だった。初めから王都の者だけを降ろせば、街の冒険者を締め出すための規制だと受け取られる。共通の試験を設け、その結果で選んだことにすれば、少なくとも表向きの公平さは保てる。
エルディアスとリュシアが選ばれたのは、初回討伐の経験があり、階層主の攻撃を実際に知っているためだった。評価試験だからと二人を外し、未経験者だけで全滅しては意味がない。今回は参加者個人の序列を決めることより、編成全体を成立させた上で、誰が第二層へ送れるかを見極めることが優先されている。
「階層主の形状と攻撃は、前回の記録にあるとおりだ。前衛は枝腕と根を押さえ、弓手は三つの目を狙う。魔導士は再生阻害と広域攻撃の迎撃。治癒役は中央後方から動くな」
指揮官の視線が、エルディアスへ向いた。
「グレイヴェル。六属性を扱うが、すべて中級までと聞いている」
「そうだ」
「後方の維持と、状況に応じた補助を任せる。主攻には数えない。無理に火力を出す必要はない」
「その方がいい」
近くにいた王都の魔導士が、わずかにエルディアスへ視線を向けた。侮っているというより、役割を確認しただけの目だった。全属性を扱えても中級まで。突出したオドも持たず、固定パーティーにも属さない地方の冒険者なら、評価としては妥当だった。
「ノルディアは遊撃だ。階層主の注意を引き、胸部の再生箇所を開け。深追いはするな。前回と同じ剣ではない以上、耐久も違う」
「承知しています」
公的な場で、リュシアの口調に迷いはなかった。
作戦説明が終わると、参加者は武器と薬の最終確認に入った。エルディアスは荷物の紐を締め直し、腰の小袋から術具を取り出す。リュシアは少し離れた場所で代剣を抜き、刃の反りと重心を確かめていた。
――エル。
――何だ。
――必要なら、私のオドを使ってください。
エルディアスは手を止めた。
――いいのか。
――使わなければ危険になる場面に限ります。前回のように、いきなり量を誤らないでください。借り物の剣まで壊されると、今度は弁償先が増えます。
――努力する。
――努力ではなく、調整してください。
左手薬指から伸びる黒い糸は、兵や冒険者の身体をすり抜け、リュシアの左手薬指へ結ばれている。
呪いを受け入れたわけではない。エルディアスがしたことを許したわけでもない。それでも、戦闘で必要なものを必要だと判断し、使うことは認める。
――分かった。
――本当に分かっていますか。
――たぶんな。
――今のうちに不安にさせないでください。
黒い入口を抜けると、第一層の通路には灯火石が等間隔に置かれていた。床には進行方向を示す白線が引かれ、分岐ごとに地図と同じ番号札が打たれている。数日前まで未知のダンジョンだった場所が、王都の測量とギルドの人手によって、通行路へ変えられていた。
途中には一般開放を待っていた冒険者の姿もあった。魔獣の素材を狙う者、地図を写す者、初めてのダンジョンを見物する者。だが、階層主区画へ続く分岐には鉄柵が設けられ、許可証を持つ者以外は通れない。
アライアンスが通過すると、背後で柵が閉じられた。
階層主の部屋の前でも、指揮官は自分を含む隊列をもう一度数えた。
「二十四名。入れ」
重い扉の向こうには、以前と同じ広間があった。
壁と床は修復され、砕けていた柱も元へ戻っている。黒い火に焦がされた跡も、エルディアスが起こした土壁も、階層主の根に穿たれた穴も残っていない。部屋そのものが、戦闘前の形へ巻き戻されていた。
指揮官を先頭に、盾役、槍兵、弓手、魔導士、治癒役が順に入って配置につく。エルディアスとリュシアが最後に境界を越えた。
二十四人目の足が床へ着く。
扉が閉じた。
石と石が噛み合う低い音が響き、背後の隙間が完全に消える。床を走る円形の溝へ黒い光が満ち、広間の中央から無数の根が伸び始めた。
根は絡み、捻れ、巨大な幹を形作る。裂けた幹の奥に黒い火が灯り、左右へ太い枝腕が伸びた。上部に三つの赤黒い目が開き、広間を埋める二十四人を順に見回す。
前回と同じ階層主だった。
「構えろ!」
指揮官の声で、盾が一斉に床へ下ろされた。
階層主の枝腕が横薙ぎに振るわれる。前列の騎士たちは盾を重ね、衝撃を受けながらも隊列を崩さなかった。後方から矢が放たれ、三つの目へ向かう。王都の弓手は正確だったが、階層主が幹を捻ると半数が樹皮へ逸れた。
エルディアスは風を一筋だけ送った。
矢の勢いを強めるのではなく、逸れかけた軌道を目の前でわずかに曲げる。三本が左の目へ集まり、一本が赤黒い穴の奥へ突き刺さった。
階層主の顔が左へ傾く。
「左目に集中!」
指揮官が即座に命じた。弓手が次の矢をつがえ、前衛は動いた枝腕を押さえるため半歩前へ出る。
床の根が波打った。
「前へ出るな!」
エルディアスの声が広間へ通る。
前列の一人が足を止めた直後、その前方から根の槍が三本突き上がった。一本が盾の縁をかすめ、その後ろにいた槍兵の腕を浅く裂く。残る二本は空中で互いに絡み合った。
指揮官が根の位置を見て、すぐに命令を変える。
「前列、現位置を保て! 槍は盾越しに突け!」
槍兵が盾の隙間から根を突き、動きを押さえる。腕を裂かれた者も持ち場を離れず、血の流れる腕で槍を握り直した。魔導士の火が根の表面を焼くが、黒い樹皮は内側から盛り上がり、傷を塞ぎ始める。
隊列は崩れていない。
王都の騎士も兵も、命令に従って動いている。冒険者も、自分たちだけで敵を追わず、割り当てられた場所を守っていた。個々の技量は十分に高い。
問題は、階層主の攻撃が一方向から来ないことだった。
根が床を走り、枝腕が盾列を押し、黒い火が後衛まで届く。二十四人がいることで攻撃手段は増えているが、守るべき場所も広がっている。一人の判断が遅れれば、その隙間から隊列全体が崩れる。
「右へ回ります。注意を引きます!」
リュシアは全体へ声を通し、右側から飛び出した。
青灰色のローブが根の間を抜け、階層主の視界へ入る。枝腕が彼女を追い、床から根の槍が伸びた。
――左へ半歩。そのまま前へ。
返事を待つ必要はなかった。
リュシアは根が突き上がるよりわずかに早く左へ滑り、枝腕の内側へ潜り込む。すれ違いざまに節を斬ると、エルディアスは黒い糸を通して剣へ火を送った。
――少し強いです。
――落とす。
刃を覆っていた火が薄くなり、傷口に残る分だけへ絞られる。リュシアは振り返りもせず、同じ箇所をもう一度斬った。黒い樹液が泡立ち、再生しかけていた節の動きが鈍る。
「右の枝腕、節が焼けています! そこへ攻撃を!」
今度は全員へ届く声だった。
「魔導士、同じ箇所を焼け!」
指揮官の命令を受け、王都の魔導士二人が術式を重ねる。リュシアの剣が開いた傷へ火が集中し、枝腕の表面が大きく弾けた。単独では浅い傷も、後続の攻撃を通す入口になる。
近くにいた騎士が、感心したように息を吐いた。二人の間には合図らしい言葉がなかった。それでも、リュシアが斬る瞬間には火が剣へ宿り、火勢が強ければ次の一撃までに必要な量へ調整されている。
長く組んだ相手でも、ここまで噛み合う者はそういない。
階層主が裂けた幹を開いた。
――黒い火。右へ振ります。
階層主の三つの目を見上げながら、リュシアの声が頭の内側へ届く。
――分かった。
「黒い火が右へ来る! 中央は動くな!」
エルディアスが全体へ叫ぶ。
「右列だけ盾を上げろ!」
指揮官の命令が重なる。
黒い炎が広間を斜めに横切った。右列の盾が受け、魔導士の防壁が熱を押さえる。盾の縁から漏れた火が一人の腕を焼いたが、兵は声を上げながらも盾を下ろさなかった。
エルディアスは床へ薄く水を広げ、砕けた石と粉塵が熱風に巻き上げられるのを防ぐ。さらに風を上方へ流し、盾の裏へ溜まる熱と煙を逃がした。
右列の兵は咳き込みながらも、持ち場を離れない。
階層主の根が、今度は後衛の足元へ回り込む。
――治癒役の右後ろです。
「後衛、左へ二歩!」
エルディアスが声を上げると同時に、土を起こした。壁ではなく、低い畝を幾重にも並べる。床を這う根は畝へ乗り上げるたびに進路を曲げられ、治癒役へ真っ直ぐ届かなくなった。
後衛が移動した直後、元いた場所から根の先端が突き上がる。
王都の魔導士がエルディアスを見る。先ほどまで術式の階級と火力を見ていた目が、床に並ぶ土の畝と、そこへ誘導された根の流れを追っていた。
大きな術式ではない。どれも低級か中級で組めるものだった。
だが、水は粉塵を抑えたまま消えず、風は弓手の射線と盾裏の熱を同時に流し、土は後衛への根を逸らし続けている。その上で、リュシアの剣から火も落ちていなかった。
階層主が枝腕を床へ叩きつけた。
衝撃で盾列が揺れ、右端の騎士が姿勢を崩す。足元から伸びた根が盾の下へ潜り込み、騎士の脚へ巻きついた。
「右端!」
槍兵が根を切ろうとする。
「切るな、持ち上げる!」
エルディアスは根の下へ土の楔を作った。床との間にわずかな隙間が生まれ、締め上げる力が弱まる。
「今だ!」
騎士二人が根を盾で挟み、槍兵が根元を突き崩した。巻きつかれていた騎士が引き抜かれ、後方へ運ばれる。脚は不自然な方向へ曲がっていたが、意識はある。
治癒役がすぐに添え木を当てる。
「扉の前まで下げます!」
「駄目だ。中央後方へ置け」
指揮官が命じた。
扉は開かない。騎士は歯を食いしばりながら、治癒役に支えられて後方へ移された。
「俺は残る」
「戦わなくていい。死ぬな」
指揮官はそれだけ告げ、前へ向き直った。
階層主の三つの目は、再びリュシアを追っている。
彼女は枝腕の内側へ入り、胸部を浅く斬っては離れていた。前回の戦いで核の位置を知っている。だが、最初から深く踏み込めば、周囲の攻撃が彼女を巻き込む。だから樹皮へ火種を残し、王都の魔導士と弓手が攻撃できる箇所を少しずつ広げていた。
――胸の右側。前より樹皮が厚いです。
――左から開けろ。三歩先で止まれ。
――根が二本来ます。
エルディアスは返事の代わりに、右側の床へ土を起こした。リュシアを追っていた一本目の根が土の段差へ乗り上げ、わずかに軌道を変える。二本目は彼女が身を沈めてかわした。
念話を使い始めた頃は、互いの言葉が重なることもあった。考えたことをどこまで送るか、声に出すべき情報と二人だけで済ませる指示をどう分けるかも定まっていなかった。
一週間近く経った今は、必要な言葉だけが短く行き来する。リュシアが敵の動きを伝え、エルディアスが進路を決める。あるいはエルディアスが術式を置く場所を告げ、リュシアが使えるかどうかを返す。確認のために視線を合わせる必要さえなくなり始めていた。
――今です。
エルディアスは傷の位置へ光を置いた。
「胸の光を狙え!」
弓手が一斉に矢を放った。風に押された矢が光の周囲へ集まり、裂けた樹皮へ突き刺さる。騎士たちは枝腕を盾で受け止め、槍兵が根を床へ縫い止めた。
王都の魔導士たちが術式を完成させる。
エルディアスには組めないほど複雑な火が、三人の間で一つに束ねられていた。威力だけなら、彼がいくら中級術式へオドを注いでも届かない。
――離れます。
リュシアは術式が完成する前に射線から外れ始めていた。
「遊撃、離れろ!」
指揮官が命じた時には、彼女はすでに火の届かない位置へ抜けている。
束ねられた火が傷口へ撃ち込まれた。爆発は外へ広がらず、裂けた樹皮の内側を焼く。黒い樹液が噴き出し、階層主が大きくのけぞった。
灰色の核が、一瞬だけ見えた。
「核が露出した!」
「まだ浅い!」
エルディアスは光を消さず、核の位置を追わせる。再生しようとする樹皮の縁へ火種を置き、閉じる速度を遅らせた。
階層主が咆哮する。
床一面の根が持ち上がり、前衛と後衛を分断するように壁を作った。黒い火が幹の奥で膨れ、三つの目が別々の方向を向く。
――前と同じです。全周から来ます。
「全周攻撃が来る!」
リュシアの声が広間へ響く。
「盾は外へ向けろ! 後衛は伏せろ!」
指揮官の命令で隊列が円形へ変わる。騎士と盾役が外側を囲み、その内側へ弓手、魔導士、治癒役が入った。動けない騎士も中央へ運び込まれる。
訓練された動きだった。
だが、根の壁が二か所で円陣の完成を妨げている。
「左を崩す! 右は残せ!」
エルディアスは左側の根の下へ土を盛り上げ、根同士の間を押し広げた。槍兵が隙間へ刃を入れ、魔導士の火が切断面を焼く。右側の根はあえて残し、黒い火を受ける遮蔽に使う。
風を円陣の上へ流し、飛んでくる根の欠片を外側へ逸らす。床には水を残し、熱と粉塵を抑える。外側の盾へ光を薄くまとわせ、視界を失わないよう補った。
階層主の攻撃が放たれた。
枝腕、根の槍、黒い火、尖った木片が、四方から円陣へ殺到する。
盾が鳴り、土の畝が砕け、魔導士の防壁が震えた。一本の根が盾の間を抜ける。
――左後ろ。
――見えています。
リュシアが横から根を斬り払い、切断面へエルディアスの火が重なる。王都の騎士が別の根を押さえ、冒険者の槍使いがその上から突き崩した。
誰か一人の力ではない。
盾が止め、槍が押さえ、弓が目を潰し、魔導士が焼き、治癒役が倒れかけた者を戻す。リュシアが階層主の意識と攻撃を引きつけ、エルディアスが空いた隙間を術式で繋いでいく。
円陣は崩れなかった。
エルディアスは左手薬指から伸びる黒い糸へ意識を向ける。
糸の向こうにあるリュシアのオドは、前回と変わらず深かった。以前のように強引に引けば、また流量を誤る。エルディアスが術式の入口だけを開くと、リュシアの側から必要な分が流れ始めた。
熱を持たない力が左手薬指から入り、枯れかけていた術式を満たす。
周囲の誰にも、その流れは見えていない。
エルディアスは受け取ったオドを火、風、土、光へ分けた。術式そのものは変わらない。扱えるのは、今も中級までだ。理解できない構造を、力の量だけで上級へ変えることはできない。
それでも、消費を恐れて術式を切る必要がなくなった。
必要な場所へ、必要な術式を置き続けられる。
――次で止まります。
リュシアが階層主の根の動きを伝える。
「攻撃が止まる! 前へ出る準備を!」
エルディアスが全体へ叫ぶ。
指揮官は即座に剣を上げた。
「聞いたな! 外周攻撃が止まり次第、盾列を戻す! 槍は胸部を開け! 弓は残った目を潰せ!」
階層主の枝腕が止まり、根が一瞬だけ床へ沈む。
「今だ!」
盾役が前へ出た。
弓手の矢が風に乗り、まだ開いていた二つの目へ集中する。一つが潰れ、階層主の狙いが大きくぶれた。騎士たちが枝腕を左右から盾で挟み、槍兵が胸の裂け目へ穂先を突き入れる。
リュシアが正面から走った。
――右から二本。足場を上げる。
――高さは。
――一段で足りる。
エルディアスは光で踏む位置を示し、その下へ土を一段だけ起こした。リュシアは盛り上がった床を迷わず踏み、槍兵の肩越しに跳ぶ。風は跳躍をわずかに伸ばし、着地の勢いだけを殺した。
二本の根が右側から迫る。
――上を取ります。
リュシアは空中で身体を捻った。一本目の根を剣の腹で押し下げ、二本目を足元へ通す。そのまま胸部へ着地し、火を宿した刃を横へ走らせた。
周囲の騎士たちから、短い声が上がる。
土の足場が起きた時には、リュシアはすでにそこへ足を運んでいた。根が伸びる前に回避へ入り、着地した瞬間には剣へ火が通っている。どちらかが相手に合わせているのではない。二人の動きが、初めから一つの手順として組み上がっているように見えた。
「見事だな」
枝腕を押さえていた冒険者が、思わず漏らす。
リュシアの剣が、胸の裂け目を縦へ走った。
樹皮が開き、灰色の核が露出する。
「核だ!」
槍兵が穂先を突き込む。表面にひびが入ったが、核は砕けない。階層主が胸を閉じようとし、枝腕を押さえていた騎士たちの足が滑った。
「閉じさせるな!」
エルディアスの声を受け、リュシアは剣を横へ差し込み、樹皮の片側を押さえた。細い刃が軋む。
――剣が持ちません。
――あと少しだ。火を傷へ移す。
エルディアスは剣を包んでいた火を薄くし、刃を焼かないまま傷の内側へ流した。残していた火種が繋がり、再生しようとする黒い樹液を焼く。
「今なら通ります!」
リュシアが全体へ知らせる。
王都の魔導士が、先ほどの火術を再び組み始めた。
「時間を作れ!」
指揮官自身が前へ出た。枝腕を受けていた騎士の隣へ入り、盾を押し上げる。冒険者の盾役が反対側から支え、槍兵が核のひびを広げる。
リュシアだけでは、核を砕けない。
エルディアスだけでも届かない。
だが、二人が開いた場所へ、二十四人分の攻撃を通すことはできる。
「完成します!」
「全員、射線を空けろ!」
――離れろ。
――はい。
リュシアが剣を引き、身を沈める。槍兵たちも左右へ離れ、盾役が枝腕を外へ押し開いた。
束ねられた火が、露出した核へ直撃する。
灰色の表面に走っていたひびが、一気に広がった。階層主が悲鳴のような咆哮を上げ、胸を閉じるより早く、指揮官の槍がひびの中心へ突き込まれる。
「押せ!」
周囲の騎士が槍の柄へ手を重ねた。
核が砕けた。
三つの目から光が消え、階層主の巨体が内側から崩れ始める。枝腕は床へ落ち、部屋を覆っていた根が黒い灰へ変わった。リュシアの剣から火が消え、盾を押していた騎士たちが荒い息を吐く。
誰もすぐには武器を下ろさなかった。
灰が完全に動かなくなってから、指揮官が広間を見回す。
「生存確認!」
返事が順番に上がった。骨折した騎士を含め、二十四名全員が生きている。火傷や裂傷を負った者はいたが、治癒役が処置できる範囲だった。
床に積もった黒い灰が、円形模様の溝へ吸い込まれていく。風もないのに灰は細い筋となって流れ、やがて黒は消え、石の奥から滲み出すような淡い金色の光へ変わった。
部屋の奥の壁が、音もなく左右へ割れる。その向こうに、縦長の白い光が現れた。
「転送門だ。負傷者から通せ」
前回と同じだった。骨折した騎士を乗せた担架が、治癒役と二人の兵に運ばれて最初に光をくぐる。残る者も順に転送門へ入り、次の瞬間には黒い入口の前へ戻っていた。
黒い入口の周囲では、帰還を待っていた兵と王都の職員が動き出した。骨折した騎士を乗せた担架は、そのまま治療所へ運ばれる。残る者が転送門を通り終えるまで人数を数える声が続き、二十四名全員の帰還が確認されると、張りつめていた空気がわずかに緩んだ。
黒い入口前に詰めていた記録係は、全員の帰還と、治療所へ運ばれた者が一名であることだけを書き留めた。詳しい負傷と装備の確認は、宿営地へ戻ってから行われる。
指揮官は血の付いた槍を兵へ預け、エルディアスを見た。
「主攻には数えないと言ったな」
「間違ってない」
「そうか」
指揮官は戦場から戻った者たちへ目を向けた。
「確かに、お前一人が倒した敵ではない」
「全員で倒した」
「だから、補助役という記載だけでは足りん」
それ以上の言葉はなかった。
だが、近くにいた王都の魔導士たちは、もうエルディアスの術式階級だけを見てはいなかった。床へ根を誘導した土の位置、矢を集めた風、盾列を維持した水と光、攻撃を通すために残された火。それぞれがどの瞬間に必要だったのかを、戦いの順序ごと思い返しているようだった。
リュシアへ向けられる視線も増えていた。
以前の討伐者であり、今回も階層主の攻撃を引きつけながら、王都の部隊が攻撃できる場所を作った。何より、エルディアスとの連携は、戦場にいた誰の目にも強く残っている。
合図を出してから動くのでは遅い場面で、二人は迷わず同時に動いた。リュシアの進路へ先回りして足場が生まれ、必要な瞬間に付与が届き、彼女が退く時には射線が開いている。
呪いによって遠くから付与術が届くことは、王都の報告書に残っている。だが、それを読んでいるのは査察隊の一部だけで、この場にいる者の大半は知らない。
知っていたとしても、それだけであの連携すべてを説明できるわけではなかった。互いの能力と動きを理解し、戦場で使いこなしている。周囲の者たちは、そう受け取った。
「隊列を組み直せ。宿営地で負傷と装備を確認した後、ギルドへ移動する。戦闘記録の聞き取りが終わるまで、今回の依頼は完了ではない」
指揮官の命令で、動ける者たちが再び組ごとに並び始めた。腕を裂かれた槍兵も、火傷を負った右列の兵も、自分の足で列へ戻っていく。
討伐が終わっても、好きに帰ることは許されない。帰還した人数、負傷の程度、装備の損耗、誰がどの命令を受け、どこで隊列を離れたか。戦闘のすべてが記録へ変えられ、その記録を基に、次に進む者が選ばれる。
黒い入口の前には、すでに次の入場者を確認する職員が立っていた。第一層へ向かう冒険者の許可証を調べ、階層主区画へ近づく者の名を帳面へ記している。討伐から戻った者たちの脇を、資材を積んだ荷車が通り過ぎていった。
未知だった通路には番号が振られ、階層主戦には人数と手順が定められた。負傷も帰還も評価の材料となり、誰を第二層へ送るかまで王都が決めようとしている。
第一層は、王都の管理下に置かれた。
だが、その先にあるものまで、従ったわけではない。




