第1話 撤退
「次はどっちだ!」
ガルトの声が、石壁にぶつかって返ってきた。
「左だ!」
エルディアスが答えた。走るたび、顔の左半分に残る痕が、揺れる灯りに浮かんでは沈む。さっきも言っただろう、と喉元まで出かかったが、飲み込んだ。言っている暇が惜しい。
ガルトは舌打ちしながら左へ折れた。その腕には、魔術師のミナが抱えられている。彼女はぐったりとしていた。杖はもう持っていない。額から血が流れ、閉じたまぶたが走る振動に合わせて小さく揺れていた。
初撃だった。
子牛ほどもある兎型魔獣が、通路の奥から跳ねてきた。見慣れた種類の魔獣だった。少なくとも、姿形だけなら。
だが、大きさが違った。速さが違った。威力が違った。
跳躍の瞬間を、誰も見切れなかった。白い塊が床を蹴ったと思った次には、後衛にいたミナが壁に叩きつけられていた。
回復役が、最初に落ちた。その時点で、エルディアス・ロウ・グレイヴェルは撤退を叫んだ。
一瞬、間があった。あまりに突然の出来事で思考が追いつかなかったのか。冒険者としての意地が、兎型魔獣一匹から逃げることを拒んだのか。
だが、その一瞬も命取りになる。それに気づいたロイは、歯を食いしばり、短くうなずいた。
「退く!」
それで、今、ミナはガルトの腕の中にいる。
ガルトは片腕でミナを抱え、もう片方の腕で壁に手をついた。大楯使いとして一番力のある男でなければ、意識のない人間を抱えてこの速度では走れなかった。
代わりに、ガルトの大楯は最後尾のロイが持っていた。剣士のロイには、大楯は重すぎた。
走る。振り返る。構える。衝撃を受ける。また走る。それだけで呼吸が乱れている。
「くっ――!」
背後で、大楯が鳴った。金属音ではない。鈍い、石を叩き割るような音だった。ロイの身体が前へ流れる。慣れていない大楯を、腕だけで受けたせいだ。
エルディアスはロイの背に手を当てた。浅く光を流す。傷を癒やすというより、痛みと痺れを散らす程度の治癒補助。エルディアスの光魔法では、それが限界だった。同時に、足元へ短く土の魔力を流す。
「踏め!」
ロイの足元の石床が、ほんのわずかに盛り上がった。踵がかかる。ロイは崩れかけた体勢を強引に戻した。
「助かる!」
「礼は後でいい。次が来る」
「分かってる!」
ロイは大楯を引きずるようにして走り出す。弓使いのセドは、そのさらに前を走っていた。顔色がない。
矢筒は途中で捨てた。弓も握ってはいるが、もう構えていない。構える気があるようにも見えなかった。それでいい、とエルディアスは思った。今のセドに撃たせても、当たらない。足を止めるだけ損だ。
「セド、前だけ見ろ!」
「見てるよ!」
「見てない。壁に寄るな。次の角で詰まる」
セドは慌てて中央へ戻った。直後、背後で兎型魔獣が跳ねた。ロイの大楯が鳴る。盾は受けたが、止めきれなかった。白い巨体は右へ流れ、石壁を蹴った。
石が爆ぜた。砕けた破片が勢いよく飛び、前を行くセドの右耳をかすめた。
「ひっ――」
「声を出すな。息が乱れる」
「無茶言うなよ!」
「無茶をしてる最中だ」
エルディアスは走りながら、後ろを見る。兎型魔獣は、四足で走っているわけではなかった。
跳ぶ前に、必ず後ろ脚を沈める。白い毛の下で筋肉が膨らみ、石床に爪が食い込む。そこからさらに、身体全体を縮めるように力をためる。
速い。
一度跳ねれば、見てからでは追えない。だが、次の跳躍までには間がいる。その間がなければ、とっくに追いつかれていた。
床。壁。天井近くの突起。それらを蹴って、通路の中を白い弾丸のように跳び回っている。
普通の兎型魔獣ではない。だが、別種でもない。それが嫌だった。知っている魔獣の形をしている。知っている動きの延長にある。だからこそ、判断を誤る。
「次の角を越えたら、崖だ!」
エルディアスが言った。
ガルトがまた叫ぶ。
「崖は足場が狭い! 追いつかれるぞ!」
「分かってる。飛び降りろ!」
「ふざけんな!」
「着地は風で補助する!」
エルディアスは前方を見た。石の通路が途切れている。そこから下へ、別の広間が見えた。高さは、街の建物で言えば四階ほど。普通に落ちれば、脚だけでは済まない。
正規の道は右へ回り込み、細い階段を下る。だが、それでは遅い。兎型魔獣は壁を蹴る。曲がり道も階段も、あれにとっては障害にならない。むしろ人間だけが遅れる。
崖に差しかかったガルトとセドの足が止まった。
「ここを飛び降りるのかよ!」
セドの声が裏返る。
「風魔法で着地を補助する」
追いついたエルディアスが、普通のことのように言った。
背後では、兎型魔獣が通路の奥で後ろ脚を沈めていた。また溜めている。一度跳ねれば、こちらの数十歩を一瞬で詰める。だが、その一跳びの前には、必ず力をためる間があった。
その間だけが、五人に残された猶予だった。
ガルトは顔を歪めた。
「ミナ抱えてんだぞ!」
「着地したら転がれ。抱えたまま踏ん張るな」
「できるか!」
「できなきゃ死ぬ!」
躊躇する二人に、ロイも追いついてしまった。ロイは一度だけ下を見た。それから、うなずいた。
「やるぞ」
「ロイ!」
セドが悲鳴じみた声を上げる。
「回り込んだら追いつかれる。飛ぶ」
ロイの声は荒い。だが、決まっていた。
エルディアスが指を払う。
風。
皆の周りに、下から押し上げるような気流が生まれる。
「まず風を乗せた。踏み切るな。落ちろ」
「注文が多いんだよ!」
「生き残るためだ。我慢しろ」
ガルトがミナを抱え直した。そして、通路の端から飛んだ。
いや、落ちた。
さらにエルディアスは指を払う。
風。
ガルトとミナの身体を、下から撫で上げるように魔力を流す。完全に浮かせるほどの力はない。そんな大魔法はエルディアスには使えない。ただ、落下の勢いを殺す。死にはしない程度に。
着地の瞬間、ガルトは足を踏ん張らなかった。言われた通り、肩から転がる。ミナを抱いた腕だけは離さない。鈍い音がした。だが、骨が折れる音ではない。
「次!」
エルディアスが叫ぶ。
セドは青ざめたまま足を止めかけた。
「セド!」
ロイが怒鳴る。
セドは目をつぶって飛んだ。
「目を閉じるな、馬鹿!」
エルディアスは風を送る。セドは情けない声を上げながら落ち、床に尻から転がった。
「いってえ!」
「動けるなら走れ!」
ロイが続く。大楯を抱えたままでは姿勢が悪い。エルディアスは風を下から当てるのではなく、横から押した。盾の重みで身体が前へ倒れすぎるのを防ぐ。ロイは着地と同時に膝をつき、すぐ立った。
最後にエルディアスが飛ぶ。落下中、背後を見た。兎型魔獣は、まだ崖端には来ていなかった。通路の途中で、また床を蹴ったところだった。白い巨体が、遅れて迫る。
エルディアスは着地した瞬間、膝を曲げて衝撃を逃がした。すぐに周囲を見る。
広間。低い天井。右側に折れた石柱。左側に崩れた壁。前方には出口へ続く通路。
先頭にセド。その少し後ろにガルトとミナ。さらに後ろにロイ。ロイの手には、大楯。
そこでようやく、兎型魔獣が崖端に現れた。白い巨体が、崖の上で止まる。一瞬だけ、逃げ切ったように見えた。
だが、違う。様子がおかしい。兎型魔獣は、すぐには飛び降りなかった。後ろ脚を深く沈め、崖の下を見下ろしている。
白い毛の下で、筋肉が膨らむ。ただ落ちるための溜めではない。狙っている。
エルディアスは兎型魔獣の視線を追った。見ているのは、エルディアスたち全員ではない。先頭にいるセドだ。
右の石柱。左の崩れ壁。出口へ向かう通路。兎型魔獣の沈み込んだ後ろ脚。それらが、エルディアスの頭の中で一本の線になった。
あれは、真っ直ぐには来ない。
「ロイ、盾を!」
ロイは迷わなかった。大楯をエルディアスの方へ押し出す。エルディアスは走りながらそれを受け取った。
重い。
腕が持っていかれる。まともに構えて受けるのは無理だ。
「セド、伏せろ!」
セドが振り返りかけた。その顔から、血の気が引く。
兎型魔獣は、崖から真っ直ぐには落ちてこなかった。通路の端から斜め下へ跳ね、途中で右の石柱を蹴った。そこからさらに左の崩れ壁を蹴り、角度を変える。
三角蹴り。落下速度も乗せた、ほとんど捨て身に近い蹴りに見えた。白い塊が、斜め前方からセドへ向かって飛んでくる。
当たれば、終わる。
エルディアスはセドの前に出た。だが、大楯を正面には構えなかった。
水。
盾の表面を薄く覆う。水膜が金属の面を滑らせる。
土。
盾の下端に魔力を通し、床との接点を作る。自分の腕ではなく、地面に重さを逃がす。
風。
白い塊の軌道へ、ほんの少しだけ横向きの流れを差し込む。強くはない。止めるほどではない。だが、真正面から受ける必要はない。逸らせばいい。
兎型魔獣が大楯にぶつかった。衝撃が来た。肩が外れそうになる。歯の奥が鳴る。だが、盾は潰れなかった。
水に覆われた盾面を、白い脚が滑った。土で傾けた盾が、衝撃を横へ逃がす。風が、ほんのわずかに軌道をずらす。
兎型魔獣は、盾を砕けなかった。自分の勢いも失えなかった。白い巨体が斜めに流れ、床へ叩きつけられる。骨の折れる音がした。今度は、魔獣のものだった。
土埃が収まると、後ろ両脚がありえない角度に曲がった兎型魔獣がいた。兎型魔獣は、それでも鳴いた。高く、短く、耳に刺さる声。すぐ横で腰を抜かしたセドが、動けずにいた。
兎型魔獣は前脚だけで身体を起こそうとする。折れた後ろ脚は使えない。だが、牙はある。首は動く。黒い目が、セドを見た。
「ひっ……」
セドの喉が引きつった。エルディアスは大楯を捨てた。腰の短剣を抜く。兎型魔獣が威嚇するように耳を伏せた。エルディアスは一歩で近づいた。
恐怖はあった。油断もしていない。ただ、ここで迷う理由がなかった。短剣を、首の付け根へ入れる。白い毛の下に刃が沈んだ。
兎型魔獣の身体が跳ねる。一度。二度。それから、動かなくなった。
広間に、荒い息だけが残った。セドはまだ床に座り込んでいた。ロイは大楯を拾い上げ、肩で息をした。ガルトはミナを抱えたまま、呆然とこちらを見ていた。
エルディアスは短剣を引き抜き、白い毛についた血を見た。それから、倒れた兎型魔獣の脚を見た。太い。大きい。速かった。
そして、まだ第一層の入口付近だ。
エルディアスは息を吐いた。
「割に合わないな」
誰も笑わなかった。エルディアスも笑っていなかった。彼は短剣を軽く振って血を落とし、倒れているミナの方を見た。
「ガルト、ミナを見せろ。息はあるか」
「ある。けど、意識が戻らねえ」
「なら急ぐ」
エルディアスは入口へ続く通路を見た。遠くに、外の光が見える。黒い入口の向こう。王墓脇の広場。白い石碑。
まだ何も刻まれていない、あの石碑。
エルディアスは大楯をロイの方へ押し戻した。
「立てるか」
ロイは荒い息のまま、うなずいた。
「……ああ」
「セド」
床に座り込んだままのセドが、びくりと肩を震わせた。
「走れるな」
「腰が……」
「抜けただけなら走れる」
「無茶言うなよ」
「無茶が終わるのは、外に出てからだ」
セドは泣きそうな顔で立ち上がった。ガルトがミナを抱え直す。ロイが大楯を構える。今度は誰も文句を言わなかった。
エルディアスは最後に、倒れた兎型魔獣を一度だけ見た。
一匹。
たった一匹。
その一匹で、パーティは半壊した。第一層の入口付近で。石碑が空白のままのダンジョンで。
「行こう」
エルディアスが言った。
五人は、外の光へ向かって走り出した。




