プロローグ
「見えてきた。あれがセレイスの街だよ」
御者台で手綱を握っていた父親が、幌の中へ声をかけた。少女はすぐに幌の隙間から顔を出した。
長い森道には、もううんざりしていた。何日も続いた湿った木々の匂いと、薄暗い枝の重なり。馬車の車輪が根に乗り上げるたびに体が跳ね、外には代わり映えのしない緑ばかりが流れていた。
けれど、それもようやく終わりだった。
広い丘陵の眼下に、港町が見えた。白い壁の家々。赤茶けた屋根。入り江に並ぶ帆柱。海面は朝の光を受けて細かくきらめき、遠くでは船の帆が小さく膨らんでいた。
「わあ……!」
少女は目を輝かせた。そのまま、しばらく街を見つめていた。それから幌の縁に手をかけ、少し身を乗り出した。
そのとき、ひときわ強い風が吹いた。
少女の帽子が飛んだ。
森を抜けたばかりの丘陵では、海からの風が少し乱暴になる。潮を含んだ風が草の穂を一斉になびかせ、馬車の幌を強く叩いた。
「おっと」
父親は手綱を引き、馬車を止めた。
小さな麦わら帽子は、丘の斜面を転がるように後ろへ飛んでいく。少女は一瞬だけそれを目で追い、それからぱっと幌の中へ戻った。
「リナ?」
母親が顔を上げたときには、少女はもう母親の前をすり抜け、馬車の後ろへ向かっていた。
「待ちなさい!」
母親が声を上げたときには、少女はもう後ろから飛び降りていた。背負った小袋が腰のあたりで跳ねる。細い靴が湿った草を踏み分ける。少女は両手で裾を押さえながら、風にさらわれた帽子を追いかけた。
「リナ、戻りなさい!」
母親の声が丘陵に響いた。返事はなかった。少女は帽子だけを見ていた。
風に奪われた帽子は、丘の下ではなく横へ流れていった。街へ向かう道から逸れ、古い石段のある方へ。そこには、王墓へ続く参道があった。
セレイスの北東にある低い丘。その上に、かつての王の墓陵は建てられている。王都の大霊廟ほど大きくはない。だが、海を望むその場所は古くから大切にされていて、石段の両脇には背の低い常緑樹が並び、ところどころに苔むした石灯籠が立っていた。
少女の帽子は、その石段の手前で一度跳ね、草の中へ落ちた。
「つかまえた!」
少女は息を弾ませながら、ようやく止まった帽子を拾い上げた。そして、顔を上げた。
石段の脇に、黒いものがあった。
最初は影かと思った。木々の枝が作る影。あるいは、石灯籠の裏に開いた窪み。だが違う。風が吹いているのに、その黒だけは揺れなかった。
それは入口だった。
岩肌に穿たれた穴のようでもあり、夜を板状に切り取って立てかけたようでもあった。奥行きは見えない。縁はぼやけているのに、輪郭だけは妙にはっきりしている。
黒い入口。
その横には、白い石碑が立っていた。文字は刻まれていない。ただ白い。雨に濡れた骨のように、草の緑の中で浮いて見えた。
少女は帽子を胸に抱いたまま、じっとそれを見つめた。
一歩、近づく。
黒い入口の奥から、音はしなかった。獣の唸りも、人の声も、風の通る音もない。ないのに、何かがそこにある気がした。
もう一歩、足が動いた。
少女は手を伸ばした。
その肩を、後ろから母親が掴んだ。
「リナ、離れなさい」
母親の声は、少女が今まで聞いたことのないものだった。怒っているのではない。ただ真剣で、何かひどく良くないことだけは、はっきりと分かった。
少女は引き戻され、そこでようやく自分が震えていることに気づいた。
父親も追いついた。彼は最初、娘が怪我をしたのだと思った。次に妻の顔を見て、ただ事ではないと知った。そして最後に、石段の脇の黒い入口を見た。
父親は息を呑んだ。
そこだけ、朝の光が届いていない。
港に出入りする商人として、見慣れない品には慣れているつもりだった。南方の香辛料。北から来る白い毛皮。島々の真珠。砂漠越えの青い硝子。
だが、石段の脇にある黒いものは、そのどれとも違っていた。品ではない。荷でもない。値など、つけられるはずもない。
「馬車へ」
ほとんど無意識に、その言葉が口をついて出た。一度息を吸ってから、ゆっくりと言った。
「すぐに戻るんだ」
「あなた」
「知らせなくては」
妻は頷き、娘を抱くようにして馬車へ戻った。父親はまだ、黒い入口から目を逸らさなかった。
また風が吹いた。草がなびく。石段の左右の木々がざわめく。
けれど、黒い入口の前だけは、風がそこで死んだかのように静かだった。
そこでようやく、父親は静かに踵を返した。馬車へ戻り、手綱を握り直すと、セレイスの街へ向けて馬を走らせた。
一切文字書きなどしたことないサラリーマンが設定思いついたので行き当たりばったりで文字にしてみただけ。AIなかったら無理です、ごめんなさい。書き溜め?なにそれ美味しいの?




