第15話 朝食
神殿を出ると、エルディアスは広場を横切り、大通りとは反対の道へ入った。
朝のセレイスは、すでに仕事を始めている。荷車が石畳を軋ませ、港の方角からは荷を運ぶ人足たちの声が届いていた。表通りに並ぶ店も戸を開き始め、通行人の数は少しずつ増えている。
「店は任せてもいいですか。まだ、この街には詳しくありません」
「ああ」
エルディアスは普段使う店を避け、職人の住居と小さな工房が並ぶ通りを進んだ。リュシアは何も尋ねず、その隣を歩いている。
いくつか角を曲がった先に、軒の低い食堂があった。何度か前を通ったことはあるが、中へ入るのは初めてだった。店先に献立は出ておらず、薄れた木札に食事とだけ書かれている。
扉を開けると、店内には四つの卓があり、客は壁際に座る老人が一人だけだった。店主らしい女がエルディアスとリュシアへ順に目を向ける。
「朝の煮込みでいいかい」
「二つ頼む。パンも」
「卵は」
「つけてくれ」
店主はそれ以上何も聞かず、奥の鍋へ戻った。
二人は入口から離れた卓へ座った。リュシアは外套を脱いで椅子の背へ掛け、その下の青灰色のローブの裾をまとめると、椅子へ引っかからないよう膝の上へ載せる。階層主との戦闘で裂けた布には焦げ跡が残り、織り込まれた銀糸も一本、焼き切れていた。
運ばれてきたのは、白身魚と麦、刻んだ根菜を塩で煮たものだった。黒パンと茹で卵、それに薄い香草茶がついている。
白身魚の出汁が麦と根菜によく染みていた。味付けは素朴だったが、黒パンを浸して食べると、朝の空腹にはちょうどよかった。
煮込みが半分ほど減ったところで、リュシアが匙を置いた。
「先ほどの続きです」
「今度は、二人で決める話だったな」
「ええ」
リュシアは左手を卓の上へ置いた。薬指から伸びる黒い糸が、椀とパン籠の間を通り、エルディアスの左手へつながっている。
――まず、呪いが発動してから今までに起きたことを確認します。
――ここでは念話か。
――当然です。
店主は奥におり、壁際の老人もこちらを見てはいない。それでも、声に出して聞かせる理由はなかった。
――念話は、意識して送った時だけでしたね。
――ああ。
――勝手に私の心の声が聞こえたことはありますか。
――ない。お前は。
――ありません。先ほどの解呪で感じた熱を除けば、左手や黒い糸にも異変はありません。
――俺もない。呪痕も変わっていない。
リュシアは一度頷いた。
――少なくとも、これまで離れた範囲では心の声は漏れていないということですね。
――ああ。ただ、どこまで離れれば始まるのかは分からない。
――街の中でも起きるのか、街を離れるほどの距離が必要なのかも分かりません。聞こえ始めた後、どこまで伝わるのかも不明です。
――試してみるか。
リュシアは卓の上の黒い糸へ視線を落とした。
――今すぐ、意図して試す必要はないと思います。
――理由は。
――聞こえ始めた時、止められる保証がありません。距離を戻せば聞こえなくなるだろうと考えているだけです。
――確かに、そう説明されたわけじゃないな。
リッチ・クイーンが告げたのは、距離が離れれば互いの心の声が聞こえるということだけだった。どの程度の距離なのか、何が聞こえるのか、近づけば止まるのかまでは説明されていない。
そこまでは考えていなかった。分からないなら試せばいいと思っていたが、リュシアは始める前に、止められない可能性まで見ている。エルディアスは、その慎重さに少し感心した。
――必要もないのに、互いの考えが漏れる危険を冒すことはありません。
――分かった。
――今のところは、これまでどおり別々に行動します。
――俺もそのつもりだ。
近くにいれば、距離による問題だけは避けられる。しかし、そのために常に行動を共にするという案は、どちらからも出なかった。
――市内での行動まで、互いに報告する必要はないと思います。ただし、どちらかがセレイスを離れる場合は、決める前に話す。依頼であれば、受けた後ではなく受ける前です。
――断れない状態で伝えられても意味がないからな。
――ええ。心の声が聞こえ始めた場合は、すぐに念話で知らせる。その後、距離を戻して止まるか確かめます。
――止まらなかったら。
――その時に、改めて決めます。
――分かった。
――呪いに今までなかった変化が起きた場合も知らせてください。痛みでも、声でも、黒い糸の変化でもです。
――お前もな。
――もちろんです。
今の時点で決められることは、一通り決まった。
エルディアスは黒パンを一口かじったところで、まだ伝えていないことを思い出した。
――一つ、言ってなかった。
――何ですか。
――階層主と戦った時、お前のオドを借りた。
――ええ。
――あの量は普通じゃない。
リュシアの匙が止まった。
――ですが、私は魔法を使えません。
――知ってる。使えないのに、あれだけある。だから妙なんだ。
リュシアはしばらく黙り、卓の上へ視線を落とした。
――ほかの人にも分かるのでしょうか。
――いや。黒い糸を通して借りなければ、俺にも分からなかった。
リュシアは小さく息を吐いた。
――では、そのまま誰にも話さないでください。
――分かった。
それでもリュシアは顔を上げなかった。左手の指先が、卓の上でわずかに縮こまっている。
――魔法を使えないだけでも、エルフとしてまともに扱われないことはあります。そのうえ、使えもしないオドだけを人並み外れて抱えていると知られれば、なおさら腫れ物のように見られるでしょう。
――笑うような話じゃないだろ。
――笑われる方が、まだましかもしれません。
返す言葉がなかった。エルディアスにとっては妙な現象の一つでも、リュシアにとっては、これまで受けてきた扱いにつながる話なのだろう。
――誰にも言わない。
リュシアが顔を上げた。
――約束できますか。
――約束する。
しばらくエルディアスを見た後、リュシアは小さく頷いた。それから匙を取り直し、肉声へ戻す。
「エルは、セレイスを離れる予定がありますか」
「ない。ここを拠点にしているし、居心地もいい。移る理由もない」
「今回のことがなくても、ここに残っていたのですね」
「ああ。依頼で何日か外へ出ることはあるが、戻るのはここだ」
王墓脇のダンジョンも、信託も、死別契鎖も関係なく、セレイスはエルディアスが生活する街だった。
「お前は、どうしてセレイスへ来た」
「前の街で、グレンたちと同じ商隊護衛の依頼を受けました。薬草と染料を、セレイスの商会まで運ぶ仕事です」
「護衛の前から組んでいたのか」
「グレンたちは元から四人で組んでいました。前衛がもう一人必要だったので、私が誘われただけです」
「依頼が終われば、お前は抜ける予定だった」
「ええ」
「それが、ダンジョンが見つかって変わった」
「護衛の間に、互いの役割や動きはある程度分かっていましたから。知らない者を集め直すよりはよいだろうという話になり、私も探索に加わりました」
「護衛の後は、どうするつもりだった」
「ギルドで次の仕事を探すつもりでした。海路の護衛でも、別の街へ向かう商隊でも、条件が合えば受けていたと思います」
「セレイスに残るとは決めてなかったのか」
「ええ。港へ来れば、次の仕事を選べると思っていただけです」
セレイスには海路と陸路の双方から人と物が集まる。特定の土地に拠点を持たない冒険者が、次の行き先を探すにも都合のよい街だった。
「今はどうする」
「グレンたちの容体が落ち着くまでは残ります。長い付き合いではありませんが、同じ場所から生きて戻った人たちです。何も言わずに去るつもりはありません」
「ああ」
「信託のこともあります。神殿には、変化があれば知らせると答えました。王都から誰かが来れば、私にも話を聞くでしょう」
「すぐに街を出られる状況じゃないな」
「ええ。その先は、まだ決めません」
「少なくとも今は、二人ともセレイスにいる。それで十分だろ」
「私もそう思います」
すべてを決めたわけではない。いつかリュシアが街を離れる時、エルディアスが遠方の依頼を受ける時、距離の制約をどうするのかは分からない。だが、少なくとも今すぐ結論を出す必要はなかった。
二人が食べ終える頃には、壁際にいた老人も店を出ていた。店内には、奥で食器を洗う音と、通りを進む荷車の音だけが残っている。
それぞれが自分の分の代金を卓へ置くと、リュシアは膝の上にまとめていたローブを広げた。焦げた布から、焼き切れた銀糸の端が覗いている。
「この後は、《錆びない鹿》へ行きます」
「《錆びない鹿》へ?」
「ローブの修理です。後で弁償してくださいと言いました。覚えていますね」
「……覚えてる」
エルディアスは青灰色のローブへ目を落とした。《錆びない鹿》で見かけた時には、銀糸を織り込んだ布が人目を引くほど整っていた。今は肩から裾まで焦げと裂け目が残り、銀糸も一本、焼き切れている。
「どこまで俺が払うことになる」
「弁償という言葉の意味は知っていますか」
リュシアは、これまででいちばん綺麗に笑ってそう言うと、切れた銀糸を布の内側へ折り込み、外套を羽織って席を立った。




