第14話 解呪
重い錠が外れ、控えの神官が解呪室の扉を内側へ押し開けた。
神殿長に促され、エルディアスとリュシアは室内へ入る。高窓が一つあるだけの、小さな石造りの部屋だった。礼拝堂にあった像や壁画はなく、白い壁と床にも装飾らしいものはない。床の中央には、細い溝で幾重もの円と文字が刻まれている。壁際には簡素な椅子や施術に使う器具が寄せられ、薄い埃除けの布が掛けられていた。
祈るための場所というより、作業場に見えた。
扉を開けた女神官は、先ほどまで神殿長の後ろに控えていた者だった。六十を越えているだろう。灰色の髪を後ろで束ね、白い法衣の袖を肘まで折り返している。胸元に下がる小さな聖印以外に装飾はなかった。
「彼女が当神殿で解呪を担当しています。私は立ち会いますが、診察と施術は任せます」
神殿長が告げると、女神官は二人へ軽く頭を下げた。それから壁際の布を外し、二脚の椅子を床の術式の内側へ運ぶ。
「こちらへお掛けください」
エルディアスとリュシアは並んで腰を下ろした。二人の左手薬指から伸びる黒い糸が、椅子の間で緩く垂れているように見えた。
女神官は手にした書板へ目を落とした。
「伺っているのは、リッチ・クイーンに由来する呪いであること。以前はそちらの方に未発動のまま残っており、此度リュシア殿にも及んだこと。そして、今回はお二人を対象として解呪を行う必要があることです。相違ありませんか」
「ない」
「ありません」
二人の返答を受け、女神官は書板へ短く記した。
「あなたは、持ち帰った後にも治療を試されているのですね」
「ああ。治癒術も、解呪も、神殿の儀式もな。全部駄目だった」
「その時点では発動していなかった」
「左半身に痕が残っていただけだ」
「今回は発動後、初めての解呪になると」
「そうだ」
女神官はエルディアスの左腕を示した。
「では、先に痕を確認します。籠手を外し、袖を上げてください」
エルディアスは左腕の籠手を外し、袖を肩近くまでまくり上げた。手の甲から腕へ、浅黒い火傷のような呪痕が続いている。痕は服の下では肩から胸、脇腹へ広がり、顔の左半分にも残っていた。
女神官は直接触れず、指二本分ほど離した位置へ手をかざした。指先に淡い白光がともり、呪痕に沿ってゆっくりと動く。
「普段、痛みはありますか」
「ない。たまに違和感がある程度だ」
「発動してから、違和感の強さや範囲に変化は」
「今のところはない」
女神官は呪痕と正常な皮膚の境目で手を止めた。
「皮膚が焼かれて死んでいるわけではありません。血もオドも通っています。傷が治らず残っているというより、皮膚そのものが別の状態へ変えられているように見えます」
「前に診た治癒師にも、似たようなことを言われた」
「では、今回も治癒術で消すのは難しいでしょう」
女神官は次に、リュシアへ左手を出すよう求めた。
リュシアが袖口を上げ、掌を差し出す。黒い糸は左手薬指から伸び、女神官の腕の近くを通ってエルディアスへ続いていた。
女神官は手の甲と掌、指の間まで順に確認したが、糸へ視線を向けることはなかった。
「外から確認できる痕はありませんね。痛みや痺れ、冷えはありますか」
「ありません」
「体調や身体能力に変化は」
「自覚できるものはありません」
「オドの流れに違和感はありますか」
「私は魔法を使えません。オドを意識したこともないので、変化があるかは分かりません」
「承知しました。これから使う術式は、身体やオドへ外から入り込んだ力を探すものです。あなた自身が持つオドの量を測るものではありません」
女神官は床に片膝をつき、二人の椅子を囲む溝へ聖油を一滴ずつ落としていった。透明な油が刻まれた線を走り、それぞれの足元に円を描く。
その作業を見ながら、リュシアが念話を送ってきた。
――エルディアス。
――何だ。
――念話のたびにエルディアスと呼ぶのは長いですね。
――呼ばなくても届くだろ。
――私には、どこから話し始めたのか区切りが必要です。
――好きにしろ。
――では、エルと呼びます。
――勝手に決めたな。
――嫌なのですか。
――別に。
――では、エル。以前と同じ結果になると思っていますか。
短く呼ばれたことにわずかな違和感はあったが、頭の中へ直接届く声には、その方が収まりがよかった。
――解けるとは思ってない。
――発動する前とは状態が違います。
――違うから、もう一度試してるんだろ。
――試すことには同意しているのに、結果だけは先に決めているのですね。
――前にも駄目だった。
――ですから、今回は今回の結果を確かめます。
女神官が立ち上がり、二人を順に見た。
「最初に行うのは診断術式です。解呪ではありません。呪いが身体やオドのどこに根を張っているかを調べます。痛み、吐き気、眩暈、急な寒気などがあれば、すぐに申告してください」
「分かりました」
リュシアが答える。
「あなたも」
「分かった」
女神官はそれで納得し、術式を受ける意思を一人ずつ確認した。二人の同意を得てから、床へ片手を置く。
溝を淡い白光が走った。
光は二人の足元を一周し、靴底から身体を包むようにゆっくりと立ち上がる。温度はない。水の中へ沈んでいくような重さだけが、足から胸へ昇ってきた。
エルディアスを包んだ光は左半身へ集まり、呪痕の上を何度も往復した。浅黒い痕が白光の下で濃く浮かび上がる。それでも、皮膚の奥から何かが現れることはなかった。
リュシアの身体を包んだ光も、肩から腕を下り、左手の指先まで調べていく。
黒い糸には何も起こらない。
光は糸の存在に気づかないまま、薬指の表面を滑り、再び腕へ戻っていった。
やがて術式が消えた。
「何か感じましたか」
「左半身が少し熱かった。それだけだ」
「私は何も」
女神官は床の術式を確認し、書板へ記録を加えた。
「あなたの痕からは、古い呪いの痕跡が検出されました。しかし、現在作用している術式や、外から剥がせる形の異物は見つかりません」
「リュシアには?」
「異質な力は検出できませんでした」
「呪いが掛かっていないという意味ですか」
リュシアが尋ねる。
「いいえ。お二人から呪いが及んだと申告されている以上、検出できないから存在しないとは判断しません。少なくとも、身体やオドに付着した異物としては捉えられなかったという意味です」
女神官は聖油を拭き取り、今度は二脚の椅子を一つの大きな円で囲む溝へ、新たな油を落としていった。
「次は低出力の解呪術式を使います。呪いを強引に剥がすのではなく、解呪の力に対してどのような反応を示すか確認するためのものです」
「前にも受けた術式か」
「おそらくは。ただし、以前は発動しておらず、施術を受けたのもあなただけだったのでしょう。今回はお二人を同じ術式の内側へ置きます」
「危険は」
「通常、この出力で身体を傷つけることはありません。ただし、未知の呪いです。異常を確認した時点で中止します」
女神官はリュシアへ向き直った。
「受けるかどうかは、ご自身で決めてください」
「受けます」
答えに迷いはなかった。
「反応が出たら、すぐ止めろ」
エルディアスが言うと、女神官は静かに彼を見る。
「施術中の判断は私が行います。お二人は、感じたことを隠さず伝えてください」
女神官は改めて二人の同意を取り、床の術式へ両手を置いた。
先ほどより細く、鋭い光が円を走った。白光は二人を囲む溝を一周し、エルディアスの左半身へ集まっていく。
呪痕の下が、内側から炙られたように熱を持った。
エルディアスが眉を寄せた直後、左手薬指から伸びる黒い糸が、張り詰めたように見えた。
呪痕へ集まった白光の一部が、エルディアスの腕を下って薬指へ流れる。そこから二人にしか分からない細い流れとなり、黒い糸を伝ってリュシアの左手へ向かった。
神殿長にも、女神官にも見えていない。
リュシアの薬指に、針を刺されたような熱が走った。
――エル。
――来たのか。
――左手に。薬指から手首へ流れています。
――止めさせろ。
――まだ軽い熱です。
――強くなってからじゃ遅い。
黒い糸を伝ってきた力が、リュシアの手首から腕へ上ろうとする。
女神官が顔を上げた。
「リュシア殿。何かありましたか」
指先のわずかな動きを見逃さなかったらしい。
「左手が熱くなりました」
「どこからですか」
「薬指から手首へ。今も少しずつ上がっています」
「痛みは」
「軽いものです」
女神官は即座に術式の出力を落とした。
エルディアスの呪痕へ集まっていた光が弱まり、それに合わせてリュシアの左手の熱も引いていく。黒い糸の張りが緩んで見えたところで、術式は完全に止められた。
女神官は先にリュシアの脈と左手を確認し、次にエルディアスの呪痕を調べた。どちらにも火傷や腫れは残っていない。
「もう一度、同じ出力で試せますか」
リュシアが尋ねる。
「試しません」
「反応は確認できました」
「確認できたからこそ、続ける必要がありません」
女神官は床に残った聖油を布で拭いながら答えた。
「あなたへ向けた解呪術式が、リュシア殿にも影響しました。出力を上げれば反応も強くなる可能性がありますが、それで呪いを解ける保証はありません」
「呪いの方は、何か変わりましたか」
「こちらから確認できる変化はありません」
リュシアは自分の左手を見た。
黒い糸にも変化はない。細くも薄くもならず、二人の薬指を結び続けている。
「今の術式でも、呪いの根や、お二人の間へ作用を伝えた経路は捉えられませんでした。見えないものへ力だけを流し続ければ、先に身体やオドを傷つけるおそれがあります」
「以前とは違う反応なのか」
エルディアスが尋ねた。
「以前の施術記録が手元にないため、厳密な比較はできません。ただ、当時はお一人への施術だったのでしょう。今回は、あなたへ向けた術式がリュシア殿にも影響しました。発動したことで状態が変わっている可能性は高いと思います」
「この神殿では解けない、ということですか」
リュシアが尋ねる。
女神官は少しだけ間を置いた。
「現時点では、安全に解く方法を見つけられませんでした」
「解く方法が存在しないと判断したわけではないのですね」
「そこまでは判断できません。解き方が分からないことと、解く方法が存在しないことは別です」
「分かりました」
リュシアは静かに答えた。
女神官は書板へ施術内容と結果を書き込み、使用した器具を片づけ始めた。
「本日行ったのは、診断術式と低出力の解呪術式です。呪いの根は捉えられず、あなたへ術式を集中させた際、リュシア殿の左手にも反応が現れました。今後、別の神殿や解呪師を訪ねる場合は、この反応を伝えてください」
「記録の写しをいただけますか」
「用意します」
「私とエルディアスに一部ずつ、お願いします」
「二部ですね。準備ができましたら、受付へ預けておきます」
女神官は二人の左手と脈をもう一度確認し、施術を終えた。
エルディアスは袖を戻し、籠手を着け直した。呪痕の熱はすでに引いている。黒い糸にも変化はなかった。
解けるとは思っていなかった。
呪いを与えたリッチ・クイーン自身が、死ぬまで切れないと言い切ったものだ。発動する前に試した治癒術も解呪も神殿の儀式も、痕一つ薄くできなかった。状態が変わったからといって、都合よく解けるようになるはずもない。
ただし、以前とは違うことも分かった。
自分へ向けられた解呪の力が、黒い糸を渡ってリュシアへ届いた。解呪しようとする行為そのものが、彼女を傷つける可能性がある。
部屋を出ると、治療棟の廊下には朝の光が差し込んでいた。高窓の外から、荷車の車輪や店の戸板を外す音、遠くで鳴く海鳥の声が聞こえてくる。
リュシアは受付で解呪の費用を支払おうとしたが、神官は今回は不要だと頑なに受け取らなかった。通常の施術なら料金が必要だとリュシアが重ねても譲らず、何度か押し問答をした末、リュシアは礼を述べて財布を収めた。
神殿長からは帰りの荷馬車も用意すると申し出があったが、リュシアは別の用事があると告げて丁重に辞退し、二人で神殿の裏口へ向かった。
「言った通りだっただろ」
エルディアスが口を開く。
「何がですか」
「解けない」
「今日分かったのは、この神殿では安全に解く方法を見つけられなかったということです」
「似たようなものだ」
「いいえ。解けないと決まったのではなく、今の方法では解けなかった。それに、以前にはなかった危険も分かりました。試した意味はあります」
一度の返答で言い切られ、エルディアスは口を閉じた。
「次はもっと強い反応が出るかもしれない」
「その可能性も含めて、次に何をするかは私も考えます」
「止めはするぞ」
「意見は聞きます。ただし、私の身体について、私を抜きに結論を出さないでください」
言葉は穏やかだったが、譲る余地はなかった。
リュシアは左手を持ち上げた。朝の光の中、黒い糸も一緒に浮かび上がる。
「あなたが以前に試して駄目だったからといって、私が何も確かめずに受け入れる理由にはなりません。今回は確かめました。ですから、解呪についてはこれで一度区切ります」
「ああ」
「返事が素直ですね」
「終わるならな」
リュシアはわずかに目を細め、再び歩き出した。神殿の裏口を抜けると、海から来た冷たい風が二人の間を通り過ぎる。
「エル」
声に出して呼ばれ、エルディアスは半歩遅れて振り返った。
リュシアが自分へ向けてその名を呼んだのは、これが初めてだった。
「念話だけじゃなかったのか」
「念話だけとは言っていません。嫌でないなら、これからもそう呼びます」
「好きにしろ」
「では、エル、朝食に付き合ってください。今後の話をしましょう」
「まだ話すのか」
「ええ。今度は、二人で決めます」
リュシアはそのまま先へ歩き出した。
黒い糸は切れなかった。
だが、糸に結ばれたまま何をするかまで、エルディアス一人で決めることは、もうできなかった。




