第13話 神殿
明けの鐘が鳴って間もなく、セレイス神殿から使いの神官が訪れた。
求められたのは、リュシアとの面会だった。信託を受けた者の状態を確かめたいという話だったが、都合のよい日時を尋ねる形は取らず、神官はすでにギルドの表へ荷馬車を待たせていた。
リュシアは神官の説明を聞き終えると、向かいの席にいたエルディアスへ顔を向けた。
「あなたも来てください」
「呼ばれているのはお前だけだ」
「分かっています。私が同行を求めます」
「神殿に用があるのか」
「あります」
リュシアは左手を膝の上へ置いた。薬指から伸びる黒い糸が、机の下を通ってエルディアスの左手へつながっている。
「解呪を頼みます」
続きは、声にならなかった。
――どこまで離れれば聞こえ始めるのかも、分かっていません。
意思を向けて交わす念話のことではない。距離を置いた時、本人の意思とは無関係に漏れ出す心の声だ。
――今、確かめる気はないか。
――ありません。
――俺もない。
エルディアスが立ち上がると、待っていた神官がわずかに眉を動かした。
「こちらの方もご一緒に?」
「私が頼みました」
神官の視線が、エルディアスの顔の左半分に残る呪痕から、腰の剣、左手へと移る。
「念のため、確認させてください。こちらの方は、すでにあなたが選ばれた方でしょうか」
「違います。まだ誰も選んでいません」
「承知しました」
神官はそれ以上を尋ねず、二人を荷馬車へ案内した。
神殿へ着くと、正面ではなく建物の脇にある扉から通された。理由の説明はなかったが、石碑へ刻まれた名がすでに街へ広まり始めている以上、リュシアを参拝者の前へ出すつもりがないことは分かる。
通された先は、表から見える白い礼拝堂とは趣が異なっていた。乾燥させた薬草を載せた棚、洗った包帯を掛けた縄、壁際に積まれた薪。石造りの廊下には、薬と薄い粥の匂いが混じっている。
町も建物も違う。それでも冷えた石壁と薬草の匂いは、人払いのダンジョンから戻ったあとに訪れた神殿を思い出させた。
左半身に残った呪痕を消すため、治癒と解呪を何度も受けた。術式の光が消えるたび、担当した神官は変わらない痕を見て首を振った。あの時の神官の顔は、もう覚えていない。
「こちらです」
案内された部屋には、中央に木の机と椅子が置かれていた。礼拝のための像や祭壇はなく、壁際の棚には診察用の術具と薬瓶が並んでいる。
机の向こうに座っていた白髪の老人が立ち上がった。胸元に銀の環を下げたほかは、神殿長という立場にしては質素な装いだった。
「リュシア・フェル・ノルディア殿。お越しいただき、ありがとうございます。セレイス神殿長のローデン・ハルムです」
「お招きにより参りました」
「どうぞ、お掛けください」
勧められた椅子は一脚だけだった。
リュシアが座り、エルディアスは壁際に立つ。神殿長は彼へ一度視線を向けたが、名を尋ねることも、椅子を用意させることもなかった。
「信託を受けたあとの記憶は、途切れずに残っていますか」
「はい」
「今も、何かを口にするよう強いられる感覚は?」
「ありません」
「誰かを探さなければならない。どこかへ向かわなければならない。そうした衝動もありませんか」
「今のところは」
神殿長は頷き、リュシアの手首へ指を添えた。脈を確かめ、瞳の動きを見る。続いて額へ掌をかざすと、淡い光が灯った。
光は頭から肩へ、胸元から両腕へと静かに流れた。負傷している箇所でわずかに乱れたものの、それ以外に目立った反応はない。
「痛みは?」
「傷以外にはありません」
神殿長はしばらく光の流れを追い、やがて術式を解いた。
「今のところ、信託による干渉が残っている様子はありません」
「今のところ」
「先のことまでは分かりません。特に、勇者を選ぶことに関わる衝動や確信が生じた場合は、ほかの方へ話す前に、まず神殿へお知らせください」
「まず、神殿へ?」
「あなたを不用意な混乱から守るためです」
「それは、お願いでしょうか」
神殿長は穏やかに微笑んだ。
「信託を受けた方へ、神殿が無理を強いることはありません。ただ、あなたの言葉一つで、誰かが勇者を名乗ることになる可能性があります。本人にそのつもりがなくても、周囲がそう扱うかもしれない。何が選定と見なされるか分からない以上、慎重であるべきでしょう」
「神殿へ相談してから選べ、ということですか」
「あなた一人へ背負わせるべきではない、と申し上げています」
優しい言葉だった。誰が代わりに背負うのかについては、語られなかった。
「今後、候補となり得る方の名を公の場で挙げることはお控えください。選んだと受け取られかねない約束や宣言も、避けた方がよいでしょう」
「何をすれば選んだことになるのか、神殿には分かっているのですか」
「分かっていません」
「分からないまま、私の言動を制限するのですね」
「分からないからこそです」
神殿長の表情は変わらなかった。
「取り返しのつかない選定が成立してからでは遅い。神殿はあなたを責めたいのではありません。あなたが利用されることを防ぎたいのです」
保護を理由に、選択肢を狭めていく。
リュシアは返事をせず、膝の上で指を組んだ。
「神殿では、石碑に刻まれた魔王を、何だと考えていますか」
「現時点では判断できません」
「昔語りに出てくる魔王と、同じものではないのですか」
「同じ名で呼ばれているというだけです。世に伝わる魔王は、魔獣や魔族を束ねる悪しき王として描かれています。しかし、石碑がその物語と同じ存在を指しているという根拠はありません」
「昔語りの魔王が、蘇るという意味では?」
「命あるものは死ねば戻りません。どれほど優れた治癒師でも、救えるのは命が残っている者だけです」
神殿長の声に迷いはなかった。
「最上位の魔法にも、死者を生者へ戻す術は存在しません。死霊が動くことも、不死者として残るものもありますが、生前の命を取り戻したわけではない」
「では、石碑の魔王が、過去に死んだ者そのものということはない」
「少なくとも、生き返った死者という意味ではありません」
「新しく魔王と呼ばれる者が現れる?」
「可能性の一つです」
神殿長は静かに答えた。
「特定の種族や生き物を指すのか、誰かへ与えられる名なのか、あるいは別の何かなのか。それも分かっていません」
死者は蘇らない。だから安心できるわけではなかった。過去の何者かが戻るのでなければ、これから何かが魔王になるという読み方が残る。
そして、その何かを倒す者を、自分が選ぶ。
「だから、私に勝手なことをさせたくないのですね」
リュシアが言うと、神殿長は微笑みを崩さなかった。
「あなたを危険から遠ざけたいだけです」
「分かりました」
リュシアは短く答えた。納得したとは言わなかった。
神殿長は机の上の記録を閉じた。
「本日の確認は以上です。今後、信託に関わる変化があれば、ほかへ伝える前に、まず神殿へお知らせください」
「その前に、こちらからお願いがあります」
「何でしょう」
「私にかかっている呪いを解いてください」
神殿長の視線が、リュシアの身体を改めて確かめるように動いた。
「呪いですか」
「私と、彼の二人に発動しています」
そこで初めて、神殿長は壁際のエルディアスを正面から見た。
「由来は分かっていますか」
「リッチ・クイーンの呪いだ」
エルディアスが答えると、神殿長の指が記録の上で止まった。扉のそばに控えていた神官も、わずかに息を呑む。
動揺を見せたのは一瞬だった。
「以前から、あなたに?」
「ああ。今までは発動していなかった。今回、こいつにもかかった」
「そうですか」
神殿長はリュシアへ向き直った。
「解呪を望まれるのですね」
「はい」
「承知しました。ご案内いたします」
効果や仕組みを尋ねることはなかった。解呪は、通常の呪いであれば、その名も働きも問わず消す術だ。
「二人とも対象にする必要があります」
「あなたの申告を前提に、そのように手配します」
神殿長はエルディアスを見る。
「あなたも解呪に同意しますか」
「昔、別の町の神殿でも試した。解けなかった」
「その時は、リュシア殿にも発動していましたか」
「いや」
「では、現在とは条件が異なります」
過去の処置をどこで受けたのか、誰が担当したのかを尋ねることはなかった。エルディアスの呪いそのものではなく、リュシアへ及んでいる影響だけを問題にしているらしい。
「同意しますか」
「する」
「承知しました」
神殿長は控えていた神官へ顔を向けた。
「奥の解呪室を開けてください。二名とも入れます」
神官が一礼して部屋を出る。しばらくして、廊下の奥から重い錠の外れる音が響いた。
エルディアスは、別の町で入った神殿の石室を思い出していた。冷えた床と、銀の術具。何度光を浴びても変わらなかった左半身の痕。
あの時と違うのは、今は一人ではないことと、呪いがもう眠っていないことだった。




