第114話 修繕
修道院へ顔を出した翌朝、三人は宿の食堂で、遠征へ持っていった装備を広げていた。
朝食の客は少なくなり、入口に近い卓が片づけられている。女将に断って借りた端の席には、革へ使う油や、洗っても落ちなかった汚れの残る布が並んでいた。荷袋の簡単な修理は前夜に済ませ、今日は店で見てもらうものを分けている。
リュシアは留め革のほつれを確かめ、ノンノは腰の袋から魔導書を取り出した。
足元には、泥を落として乾かした靴が三足並んでいた。エルディアスのものは踵の外側が減り、リュシアのものには、爪先へ細い擦り傷が何本も入っている。ノンノは片方を持ち上げ、底と側面の継ぎ目へ指を当てた。
「ここ、少し開いてます」
見せられたところでは、縫い糸が一つ切れていた。今すぐ底が外れるほどではないが、押すと、乾いた革の間に細い隙間ができる。
「砂が入ってたのは、そこからかもしれんな」
「履き口からだと思って、何度も出してました」
「それもあるだろうけど、そっちも直しておこう」
リュシアが自分の靴と並べ、ノンノのものだけ先に忘れないよう、戸口へ向けて置いた。革へ擦り込む油の包みは、開くとほとんど残っていなかった。傷の手当てに使った布も、荷袋の中では小さくなっている。
エルディアスは、買い足すものを紙へ書いた。修理へ出すものとは別に並べると、遠征へ持っていった品のうち、使ったものと、ただ背負っていたものの違いが見えてきた。
ノンノは靴を下ろし、魔導書へ手を戻した。
銀灰色の角が袋の口へ触れたところで、ノンノの手が止まった。
「エルさん。本に鎖をつけることって、できるでしょうか」
エルディアスは書きかけの紙を置き、顔を上げた。
「本へ直接か?」
「穴を開けたりは、したくないです。でも、腰の帯とかに繋いでおければ、手から落ちても遠くへ行かないですよね」
ノンノは本を卓へ置いた。金属の表紙に刻まれた細い線が、窓から差す光を返している。姉から送られてきて以来、持ち歩いてきたものだった。扱いに慣れても、戦う時に両手を空けられるようになったわけではない。
「袋へしまっている間はよいですけど、使う時には出しますからね」
リュシアが言った。
「はい。急いで動いたり、ほかのものを掴んだりする時に、これをどうしようかと思うことがあって。袋へ戻すまで、手を離せませんから」
「腰へ繋ぐなら、使う時も手の邪魔にはなりにくいな」
「はい。手を使う時には袋へ入れて、使う時は繋いだまま出せれば、と思ったんです」
リュシアも帯の位置を確かめた。袋から本を抜き、前へ持ってくるところまで、ノンノに一度動いてもらう。腰へ繋ぐものが短すぎれば、胸の前で開くこともできない。
「長さも、合わせる必要がありますね」
「鎖だと、重いでしょうか」
「細いものなら、大した重さにはならん。先に、本を傷めずに留められるかだな」
ノンノは本の背と、角を交互に見ていた。表紙にも綴じにも意味があると、魔術ギルドで聞いている。付いている金具を勝手に外して、別のものへ替えるわけにもいかなかった。
「外側に、何かつけるしかないですよね」
「ああ。ザックへ聞いてみるか」
「ザックさん?」
「防具屋の店主だ。革と金具なら、あそこで相談できる」
リュシアは頷き、手元の包みを荷へ戻した。
「《錆びない鹿》ですね。私も、留め革を見てもらいたいところがあります」
「俺も寄るところがある」
エルディアスは短剣を鞘ごと卓へ置いた。
柄を持ち、刃を少し抜く。目に見える欠けや曲がりはない。だが、握り直すと、柄へ巻いた革の端が僅かに浮いた。道中でも押さえ直したところが、乾くにつれて硬くなっている。
「そちらも、直すんですか」
ノンノが尋ねた。
「研ぎも見てもらう。鞘の中へ、細かい砂も入った」
ノンノの目が、柄から刃へ移った。
「近くで見ても、普通の短剣ですね」
「普通の短剣だからな」
「いえ、その……船の時に使っていたのと、同じものですよね」
「同じだ」
リュシアも短剣へ目を向けた。飾りのない柄と、小さな鍔。鞘にも凝った模様はなく、普段は荷の紐を切る時にも使っている。
エルディアスは刃を戻し、腰へ収めた。
「そういうものも、手入れは要る」
ノンノは頷き、魔導書を抱え直した。
◇
《錆びない鹿》の戸を開けると、革を削る匂いがした。
壁には胸当てと腕当てが掛かり、その下の棚には、留め金や長さの違う帯が並べられている。奥で作業をしていたザックは顔を上げ、エルディアスとリュシアを見てから、ノンノへ目を移した。
「今日は三人か。どこを直すんだい」
「こちらの本を、持ち歩くためのものを相談したいんです」
リュシアが答え、ノンノへ場所を空けた。
「初めまして。ノンノ・ミーゴです」
「ザックだ。こいつらと一緒に動いてるのかい」
「はい。今は、一緒に依頼を受けています」
「そうか。では、その本を見せてもらおう」
ザックはリュシアの腰から肩へ目を向け、袖口で少し視線を止めた。
「そっちも、今日は見ていくかい。留め革だけじゃ済まなさそうだが」
「はい。ほつれたところと、袖の中をお願いしたいです。見た限りでは、銀糸は切れていないと思います」
「後で裏も見よう。先に、この子の相談を聞こうか」
ザックが作業台の上を空け、柔らかな革を敷いた。ノンノはそこへ魔導書を載せ、手を離しても身体から離れないようにしたいと説明した。
ザックはすぐには持ち上げず、表と裏を見せてもらってから、背の部分へ指を近づけた。
「こいつへ穴を開けるのは、なしだね」
「はい。表紙にも、意味があるそうなので」
「外さない、削らない、留め具も替えない。なら、本を入れる外側のものを作ることになる」
ザックは革の端切れを二枚出し、本の表と裏に沿わせた。中央を大きく空け、縁だけを囲むように指で線を引く。
「薄い革のカバーをつける。表紙の四隅を受けるようにして、開いても抜けないものだ。そのカバーに、鎖を繋ぐ金具をつければいい」
「本に、巻きつけるんですか」
「閉じたまま縛るんじゃないよ。開いて使えるようにする。見えなきゃ困るところは?」
「頁は、どこも開けられる方がいいです。表紙の、ここも」
ノンノは中央の模様を示し、その周囲を走る線へ指を移した。
「ここへ触れて使うこともあるので。あと、ひとりでに開く時があります」
ザックの手が止まった。
「先に聞いておいてよかったね」
そう言って、重ねた革の位置を変えた。表紙を押さえ込まず、背の動きへ余裕を残す。ノンノにゆっくり開いてもらい、内側へ革が張り出さない位置を確かめていった。
「少し外へ厚みが増える。それでも、今の袋へ入るかな」
ノンノは腰の袋を外し、作業台へ置いた。ザックは口の広さを確かめ、本と並べてから首を傾ける。
「入るかもしれないが、鎖も一緒にしまうなら、余裕が少ない。本を出す時に鎖だけ残って引っ掛かるのも面倒だ」
「袋も、替えた方がいいですか」
「大きい袋へ替えるだけじゃ、本が中で動く。本の厚みに合わせたものを作って、鎖を収める分だけ脇へ余裕をつけようか」
ザックは棚から薄い革の袋を出した。口を閉じるための差し込み革が一つだけあり、内側に仕切りはない。ノンノが手に取ると、店主は腰へ当てる位置を示した。
「こういう形だ。帯へ通して、歩くたびにぶら下がらないようにする。鎖の根元も帯側へ留めれば、袋の縫い目だけで本を受けずに済む」
ノンノは袋を当てたまま、椅子へ座った。膝を上げると、底が腿へ押される。
「少し、上がってきます」
「真横へ置くと、座る時にそうなる。こっちへ少しずらそう」
ザックに示され、ノンノは袋を横から僅かに後ろへ動かした。今度は座っても押し上がらず、右手も届く。立ち上がって本を抜く動きをすると、リュシアが背負い袋の肩紐を持ち、いつもの位置へ当てた。
「荷物を背負った時にも、当たらない方がいいですね」
「あまり後ろへ回すと、今度はそっちが困るわけだ」
ザックは頷き、ノンノに自分で位置を決めてもらった。椅子へ座り、立ち、身体を捻る。そのたびに袋を少し動かしていると、最初は遠慮していたノンノも、どこが当たるかをすぐに言うようになった。
「ここなら、歩く時も大丈夫だと思います」
「では、その位置で測る。鎖の長さは、次に本を持った時に合わせよう」
エルディアスは、作業台へ並んだ革を見ていた。腕へ結んで落とさないようにするだけなら、すぐに済んだだろう。だが、ノンノは本を使う時以外にも、荷を背負い、水を運び、食事の卓へ座る。
そのたびに邪魔になるものでは、身につけなくなる。
ザックが見積もりを書き、ノンノの前へ置いた。
「本のカバーと袋、それから鎖の留め具だ。鎖は使えるものを選んで合わせる。急ぎかい」
「すぐに遠出する予定はありません」
「なら、明日の昼を過ぎてから、もう一度来てくれ。仮に留めたところで合わせて、よければ仕上げる」
ノンノは見積もりを確かめ、財布を開いた。中の硬貨を一度数えてから、顔を上げる。
「お願いします」
「本は、持ち帰ってもよいのですね」
エルディアスが尋ねるより先に、リュシアが言った。
「寸法だけ取らせてくれればいい。仮に合わせる時に、本人と本があれば作れる。今日は持って帰ってくれ」
ザックは紙へ線を引き、本の厚みも書き留めた。ノンノはその作業が終わるまで待ち、魔導書を自分の手へ戻した。
本の寸法を取り終えると、ザックはノンノへ椅子を勧め、作業台をもう一度空けた。
リュシアは腰の剣を鞘ごと外し、エルディアスへ預けた。奥の衝立を借りてローブを脱ぎ、普段着の上へ外套を羽織って戻ってくる。青灰色の布が台へ広がると、肩へ掛けていた時には分からなかった擦れが、裾の折り目に沿って見えた。
ザックは袖を返し、左袖口から肩へ通る銀糸を確かめた。指先で途中の継ぎ目を押さえ、ほかの細い糸とは分けて追っていく。
「こっちは切れていないね。継ぎ目も、そのまま使える」
「替えなくても、大丈夫ですか」
「焼けてもいないものまで替える必要はない。こっちの布は直すけどね」
ザックが示したのは、袖口の内側だった。汗や汚れを落とすうちに薄くなり、縫い目の傍だけが毛羽立っている。リュシアは顔を寄せ、自分でも触れた。
「着ている時には、あまり分かりませんでした」
「着られなくなるより先に、こういうところが傷む。銀糸が無事でも、それを縫い留める布が破れたら困るだろう」
「はい。お願いします」
裾には、小さな当て布が要る箇所があった。大きく裂けてはいないが、屈んだ時に踏んだのか、擦れたところから糸が出ている。ザックは縫い目をほどく範囲へ印をつけ、肩の留め革も裏返した。
ノンノはその手元を見ていた。
「これが、動きやすくするものなんですね」
「それもある。だが、勝手に走ってくれるわけじゃないよ。動く本人がいて、それを助けるためのものだ」
ザックは答え、リュシアへ腕を上げるよう頼んだ。ローブの布を身体へ当て直し、左肩を前へ出した時にも、縫い継ぐ部分が張りすぎないかを見る。
リュシアは剣を振る時と同じように肘を動かした。エルディアスは預かっていた鞘を横へ寄せ、布がその金具に触れないようにする。
「背負い袋の紐も、ここへ当たります」
「なら、当てる布は薄く広くする。硬い端を作ると、そこへ重みが集まるからね」
ザックはそう言って、重ねていた革のうち厚いものを外した。
次にエルディアスの帯を見て、留め金の裏へ指を差し入れる。穴が一つ横へ伸びていたが、革そのものはまだ保っていた。
「普段は、ここで留めているのかい」
「ああ。荷が増える時には、一つずらす」
「では、そこは裏から補っておく。本の袋をつけるノンノの帯も、受け取る時に合わせよう。帯だけ古いまま引きちぎれたら、鎖をつけた意味がない」
ノンノは自分の帯へ目を落とし、頷いた。
預ける品を分け、ザックはそれぞれの見積もりを書いた。ローブの直しは本の袋と同じく、翌日の昼過ぎに合わせられるという。リュシアは仕上がりを確かめるまで動く依頼を控えることにし、作業台へ布を残した。
店を出る前に、ノンノが傷んだ靴を見せると、ザックは近くの靴直しの店を教えた。底を見てもらうなら、履いた本人が行った方がよいとのことだった。
「今日は、店をいくつも回ることになりますね」
リュシアが、エルディアスから返された剣を腰へ戻し、外套の前を直しながら言った。
「持って帰ったものが、それだけあるってことだろ」
エルディアスが答えると、ノンノは靴を包み直して、袋へ戻した。
◇
ドゥガンの工房では、荷車の金具を叩く音が通りまで響いていた。
戸の外で少し待つと、炉の前にいた灰色の髭のドワーフが、手の道具を置いた。短く編んだ髭を指の背で払ってから、三人を見る。
「今度は、何を持ってきた」
エルディアスは、腰の短剣を鞘ごと差し出した。
「刃と柄を見てほしい。研ぎ直しも頼む」
ドゥガンは短剣を抜き、戸口から入る光へ刃を向けた。切っ先から根元まで角度を変え、最後に柄へ右手を添えて確かめる。
「大きい欠けはない。ひびも、見えるところにはないな」
「ああ」
「ただ、ここは少し刃が鈍ってる。柄の巻きも緩い。鞘は、いつ砂を入れた」
「砂漠を歩いた」
ドゥガンは鞘の口を下へ向け、布の上で軽く叩いた。細かな砂が落ち、黒い布の上へ薄く広がる。
「残したまま抜き差しするな。刃にも鞘にも、よくない」
「掃除はした。奥へ残ってた分だ」
「なら、その奥を掃除する」
ドゥガンは鞘を脇へ置き、もう一度刃を見た。
「付与は通したか」
「光を通した」
「歪みはなさそうだ。柄を締め直し、巻き革を替える。刃は研ぐが、大きく削る必要はない」
ノンノは作業台から少し離れ、短剣を見ていた。ドゥガンはその視線に気づくと、刃を置いて顔を上げる。
「知り合いか」
「一緒に依頼を受けてる。ノンノだ」
エルディアスが紹介すると、ノンノが頭を下げた。
「ノンノ・ミーゴです。初めまして」
「ドゥガンだ。手は作業台へ出すなよ。触っていいものばかりじゃない」
「はい」
ノンノは頷き、台の縁からもう半歩離れた。
ドゥガンは短剣の柄へ巻かれた革を少し起こし、傷んだところを見た。
「握った時に動くのは、嫌だったろう」
「少しな」
「その少しを、そのままにするな。大きく動くようになってからじゃ遅い」
「だから、持ってきたんだ」
ドゥガンは短く鼻を鳴らした。
「これは預かる。明日なら渡せる。革の厚みは、今のままでいいか」
「ああ。太くしないでくれ」
ノンノが、鞘と短剣を見比べた。
「修理すれば、また同じように使えるんですね」
「柄が変わらんように直す。よくなったかどうかは、本人が握って決めることだ」
ドゥガンは答え、エルディアスへ向き直った。
「仕上げる前に一度持たせる。違うところがあれば、その時に言え」
「分かった」
エルディアスは代金を確かめ、リュシアへ目を向けた。
「これは、依頼の分でいいか」
「はい。今回も使いましたから。記録は、残しておきましょう」
リュシアが頷き、預かりの紙を受け取った。ノンノは二人のやり取りを聞いていたが、口を挟まず、自分の手にある本へ目を戻した。
リュシアも、自分の剣を差し出した。
「こちらも、見ていただけますか。刃を拭いた時には、ひびはありませんでした」
ドゥガンは受け取り、まず鞘から抜いた。以前ここで買った、付与を通すための剣だった。刀身へ光を滑らせる時の目つきが、短剣を見た時より細かく動く。
「何を通した」
リュシアは、戦いで使った付与を思い返し、火や風だけでなく、ほかの属性へ替えたことも伝えた。ドゥガンはその間、刃の根元と、細い鍛え跡の見える部分を順に確かめている。
「刃は保っている。研ぐ箇所はあるが、大きく落とさずに済むな」
「よかったです」
「よかったで済ませず、これからも見ろ。外から無事に見えて、触ると違いが分かることもある」
ドゥガンは布を当て、刃へ指を直接触れずに、どこを確かめたか示した。リュシアも傍へ寄り、前に説明されたところと比べながら頷く。
「柄はどうだ。前より握りにくくなっていないか」
「形は、このままで大丈夫です。ただ、ここが少し滑りました」
リュシアが左手で握り、指の当たるところを示した。革の表面が擦れ、一部分だけ艶が強くなっている。ドゥガンはその位置へ印をつけた。
「巻き直す。厚くしすぎないようにするが、受け取る時にお前が確かめろ」
「はい」
エルディアスは椅子の脇へ立てていた杖を取り、握りへ巻いた布をほどいた。細かな砂が折り目に残り、乾いた手の跡が見える。木に割れがないか確かめ、汚れを落としてから巻き直せば、こちらはまだ使えそうだった。
ノンノは、二本の刃が並んだ台を見ていた。片方には付与を通すための造りがあり、もう片方は、街の店でも見かける短剣だった。それぞれに確かめる場所が違い、どちらも持ち主へ握らせて仕上げるのだと分かると、自分の魔導書を袋へ収める手つきも少し慎重になった。
ドゥガンは短剣と鞘を、布ごと棚へ移した。
腰から短剣がなくなると、いつもあった重みが一つ減った。エルディアスは帯へ手を触れかけ、そのまま下ろす。
その動きを、リュシアが見ていた。
「落としたわけではありませんよ」
「分かってる」
「つい、確かめてしまいますね」
エルディアスは頷き、工房の戸へ向かった。背後でまた金属を打つ音が始まり、三人が通りへ出る頃には、元の調子へ戻っていた。
◇
靴直しの店は、細い通りの奥にあった。
入口の横には低い腰掛けがあり、客が片方だけ靴を脱いで、職人へ渡していた。三人はその作業が終わるのを待ち、持ってきた靴を並べた。店の中には削った革の端が落ち、壁際には、縫い針と底を打つための小さな槌が掛かっている。
職人はノンノの靴を返し、切れた縫い糸を指で示した。
「底そのものは使える。ここを縫い直しておこう。歩いていて、ほかに痛むところは?」
「踵の内側が、少し。長く歩いた時だけです」
「なら、履いてみてくれ」
ノンノが靴を履き、店の前を往復すると、職人は踵が浮くところを見た。中の布が擦れて薄くなり、歩くたびに足が僅かに動いている。
その部分を補ってもらうことになった。底の縫い直しだけならと思っていたノンノは、もう片方も同じように確かめてもらった。
「痛いほどじゃなかったので、そのまま歩いてました」
「歩けるのと、痛まないのとは別だよ。途中で何度も脱げる場所ばかりじゃないだろう」
職人に言われ、ノンノは頷いた。
エルディアスの靴は、減った踵を補う。リュシアのものは底よりも紐を受けるところが傷んでおり、そこへ新しい糸を通す必要があった。三人で履き替えに使う靴のことを確かめ、翌日まで預けられるものを分けた。
店を出る前に、ノンノは預けた靴をもう一度振り返った。
「こうして見てもらうと、ほかにも出てきますね」
「自分では見えにくいところもありますから」
リュシアが答えた。
「痛かった時に、教えてくれればよかったのに」
「休んだら治まったので。次に歩き始めた時には、もう忘れてました」
「次は、忘れる前に言えよ」
エルディアスが言うと、ノンノは頷き、それから彼の腰へ目を向けた。
「エルさんも、柄が緩かったのは少し前からですよね」
「ああ。だから、今直してる」
「わたしも、今直してます」
リュシアは二人を交互に見てから、口元へ手を当てた。エルディアスは言い足そうとしてやめ、次に寄る店の方へ歩き出した。
昼の食事を挟み、三人は布と、革へ使う油を買い足した。持ち帰った布のうち、まだ使えるものは洗って残し、手当てに使う新しい布は別に包んでもらう。
ノンノは店主が畳んだ布を受け取り、袋の底へ押し込む前に手を止めた。
「これは、上の方でしたね」
「はい。必要な時に、荷物を全部出さなくて済むように」
リュシアが答え、エルディアスも自分の袋の口を広げた。空いたところへ入るものを分け、荷の重さが一人へ寄らないようにして、三人は宿へ戻った。
◇
翌日の昼過ぎ、《錆びない鹿》の作業台には、本の形をした革のカバーが載っていた。
茶色い革が表と裏の縁を囲み、四隅を薄い受けで押さえるようになっている。背を包む部分には余裕があり、机へ置いて開くと、内側の革が頁へ被さらなかった。
ノンノが魔導書を入れる前に、ザックは寸法を合わせた板の包みをカバーから外した。
「縫い目と金具は、こいつで確かめてある。次は本へ合わせてみよう」
ノンノは頷き、銀灰色の本を差し込んだ。表紙を動かし、最後の頁まで開いてから、最初へ戻る。革が当たるところを指で押さえながら、どこかが引っ張られないか確かめた。
「ここも、ちゃんと開きます」
「閉じる時は?」
「大丈夫です。挟まってるところも、ありません」
ザックは頷き、カバーの脇にある金具へ細い鎖を繋いだ。輪が小さく、掌の上へまとめると、思っていたより嵩張らない。根元の留め具はノンノの帯へ付き、本を持って前へ出すと、鎖が腰から斜めに伸びた。
ノンノは立ったまま本を開いた。それから、両腕を少し前へ出す。鎖が張り、表紙の端が引かれた。
「このくらい、離して持つ時もあります」
「では、もう少し長くする。ただし、下へ落ちた時に床へつかないところまでだ」
ザックは鎖を替えて仮留めし、もう一度動いてもらった。ノンノが腰から本を抜くところをリュシアが見て、開いた時に鎖が腕の内側を通らないよう、留める向きを少し変える。
カバー側の金具は回るようになっていた。本を返して持ち直しても、鎖が何重にも捻れることはない。
ノンノは本を閉じ、両手で少し低いところへ下ろした。鎖が張る位置を確かめてから、片手を外す。もう片方の手をすぐ下へ添えたまま、重みを少しずつ鎖へ移した。
本は膝より上で止まった。
「……手を、離せます」
声へ出してから、ノンノは自分の空いた手を見た。すぐに本を持ち上げ、革が抜けていないか、角へ無理な力が掛かっていないか確かめる。
ザックも縫い目を見てから、腰へ戻すよう頼んだ。
新しい袋は、本にカバーをつけたままでも滑り込む。余った鎖は脇の隙間へ収まり、口を留める革も一本だけだった。閉じて歩いてみると、表紙も鎖も外へ揺れず、店の中には靴音だけが残った。
「食事の時も、これならそのままでいられますね」
ノンノは椅子へ腰を下ろし、卓へ身体を寄せた。袋の底が腿へ押されることはなく、椅子の背にも当たらない。立ち上がって床のものを拾い、荷を背負った時にも同じように確かめた。
最後に、本を使う時の反応を見せてもらうことになった。
ノンノが少量のオドを流すと、銀灰色の表紙へ淡い光が走った。ザックは作業を止め、指先を本から離す。表紙が持ち上がり、頁がめくられていくのを、横から目を細めて見ていた。
蝶が現れると、今度は身を少し引いた。
「……それが、精霊かい」
「はい。ニペクです」
ノンノが答えた。翅を開いたニペクが彼女の肩へ止まると、ザックはしばらく見て、それからカバーへ視線を戻した。
「勝手に開くとは聞いたが、ここまで動くとは思わなかったよ。革が邪魔をしていなくてよかった」
ノンノも表紙の根元を見た。ひとりでにめくられた頁は、いつもと同じところで止まっている。袋から出した時から、鎖は繋がったままだった。
「ありがとうございます。使えそうです」
「使っていて当たるところがあったら、また持っておいで。位置は、身体に合わせて少しずつ直せる」
ザックは仮留めを外し、決まった位置へ金具を留め直した。ノンノはニペクを戻してから本を袋へ収め、何度か自分の手で抜き差しした。
次に、リュシアのローブを合わせた。
袖口の内側には薄い布が入り、裾のほつれも留められていた。衝立の奥で着替えたリュシアは、店へ戻って左腕を動かした。肩を上げ、肘を曲げ、剣を握る高さへ掌を持ってくる。
「袖が、少し柔らかくなりました」
「硬くなったところをほどいて、縫い直したからね。引っ張られるところは?」
「ありません」
リュシアは答え、肩紐を掛けてみた。ザックが裏から当てた布は、紐の端へ触れても折れず、肩の動きに沿って沈む。腰の留め革も直され、外套を重ねても金具が当たらなかった。
エルディアスは補強された帯を受け取った。元の穴へ留め、短剣の鞘が戻る位置を確かめる。見た目にはほとんど変わらないが、引いた時に革が伸びる感じは減っていた。
代金を払い、リュシアが受け取りの紙を分けた。ノンノも自分の分をしまい、店を出る前にもう一度椅子へ座った。
それを見たザックが、少し笑う。
「気にならなくなるまでは、確かめたくなるものだよ」
ノンノは立ち上がり、袋へ手を当てて頷いた。
◇
ドゥガンは、二本の刃を別々の布へ載せて待っていた。
エルディアスの短剣は、刃の細かな曇りが取れていた。新しい巻き革は色が少し濃い。握ると、浮いていた端がなくなり、指を締めても表面が動かなかった。
ドゥガンはすぐに鞘へ戻さず、柄の感触を尋ねた。
「太くなっていないか」
「前と同じくらいだ。こっちの端が、少し指へ当たる」
エルディアスが示すと、ドゥガンは革の端を薄く落とし、押さえ直した。もう一度握ると、先ほどの引っ掛かりはなくなっている。
「これでいい」
短剣を鞘へ戻す。砂を噛んだような感触はなく、抜く時も、途中で擦れる音がしなかった。
リュシアも左手で自分の剣を持ち、工房の空いた場所でゆっくり振った。巻き直された柄は、指の付け根へ収まり、止めた時にも滑らない。強く握る前に何度か手を緩め、持ち直してから頷いた。
「大丈夫です。このままでお願いします」
ドゥガンは二人の返事を聞き、仕上げの箇所へ手を入れた。ノンノは作業台へ近づきすぎず、その手元を見ている。
磨かれた刃と新しく巻かれた革は、それぞれ見慣れた形に収まっていた。受け取った二人は、それぞれ腰へ収めた。
「今度は、腰を触ってもちゃんとありますね」
ノンノが言うと、エルディアスは鞘へ目を落とした。
「ああ。戻ってきた」
二本分の修理代を支払い、リュシアが預かりの紙を渡した。ドゥガンは受け取って確かめ、次の仕事へ向かった。
帰りには靴も受け取った。ノンノは直されたところを履き、店先を何度か歩いた。エルディアスとリュシアも、自分の足で底の当たり方を確かめる。見送りの日には三人とも同じ道を通っていたが、歩き出した足の感触は、それぞれ少し違っていた。
◇
宿へ戻ると、ノンノは魔導書の袋をつけたまま水を運んだ。
階段を上がり、桶を置いて、もう一度腰を確かめる。本は収まったままで、鎖も外へ垂れていない。身体を屈めても引っ掛からないことが分かると、今度は手を当てずに歩いてみた。
「もう、何度目だ」
エルディアスが言った。
「まだ、気になるんです。重さが変わったので」
「困るところがあるか」
「今は、ありません」
ノンノは答え、本を抜き出した。鎖の伸び方を目で追ってから開き、閉じて戻す。袋の口を留めると、両手をその前で広げた。
「持ってるのに、手は空いてるんですね」
「しまっている時は、前からそうだったろう」
「そうですけど。出している途中で手を空けても、もう下へ落ちないので」
リュシアが、洗った布を受け取ってほしいとノンノへ差し出した。ノンノは本を収めた袋へ一度だけ目を向け、それから両手で布を受け取る。
装備を部屋へ運び、買い足した布や油を荷へ戻した。リュシアとノンノが同じ部屋へ入ってから、エルディアスも自分の部屋へ戻った。
杖へ巻く布は、昨夜のうちに洗って乾かしてあった。指の当たる位置を確かめ、元より少しずつずらして巻いていく。布の下に砂の粒はなく、握ると、手の中へ素直に収まった。
荷物を片づけると、エルディアスは腰へ戻った短剣を一度抜き、鞘へ収めた。
隣の部屋の戸が開き、廊下から声がした。ノンノが、夕食へ下りる前に手を洗ってくると言っている。リュシアは戸を押さえ、エルディアスが出てくるのを待っていた。
エルディアスも部屋を出て、戸を閉めた。
階段を下りるノンノの腰では、茶色い革の袋が身体に沿っている。自分の腰には、いつもの短剣があった。三人は足音を重ね、食堂へ下りていった。
第四層の構想が全くまとまらないので間章が長くなります_(:3」∠)_




