閑話 3頁
今朝は、ラウルさんたちを見送りに行った。
窓が明るくなると、隣の寝台でもノンノが身体を起こした。まだ少し眠そうだったけれど、今日は支度をしながら手が止まることはなかった。昨夜のうちに出しておいた服を着て、魔導書を収めた袋を確かめ、私が戸を開ける頃には、もうそばへ来ていた。
帰ってきてから、何度かこの部屋で朝を迎えた。
窓の外を荷車が通り、階下から器を重ねる音がする。夜の間に閉じていた店が戸を開け、昨日はなかった荷が通りへ運び込まれていく。セレイスでは、私たちがいない間も、こうして一日が始まっていたのだろう。
あの船では、いつまで待っても朝にならなかった。
話を聞いて、食べて、休んで、また窓の外を見ても暗い。最初は長く感じるだけだと思っていたけれど、やがて、どれだけ待てばよいのかも分からなくなった。ここでは寝ている間にも空が明るくなり、出かける支度をする理由がある。今日は、間に合うように街門へ行かなければならなかった。
着いた時には、三人とも来ていた。
ガルムさんの大盾が馬車へ積まれ、セルマさんはパンの包みを持っていた。昨日、市場でガルムさんが買ったものだ。自分で持つように言っていたはずなのに、潰れないよう手元へ移しているところが、セルマさんらしかった。
御者が荷を収めている間、六人で話をした。戻る日はまだ決まっていない。二人の故郷へ着けば、待っている人がいる。その人たちへ話をするために、ラウルさんたちはセレイスを離れる。
昨日も、その話は聞いていた。
それでも、出発する馬車の前に立つと、もう少し何か話しておきたい気がした。何を伝え忘れているのかは分からず、荷を積み終える御者を見て、ようやく別れの挨拶をした。
ノンノは、馬車が門の外へ出てからも手を振っていた。三人が振り返り、やがて顔が分からなくなると、ゆっくりと腕を下ろした。
また一緒に食事をする約束はした。
いつになるかは分からないけれど、今度は、戻ってくる人たちを見送ったのだ。
門を離れる時、そこを間違えないようにしたかった。
あの船から降りていった人々にも、迎えがいた。こちらから呼んでも振り向かず、私たちには見せなかった顔で笑い、歩いていった。誰かと肩を並べる人も、待っていた相手へ駆け寄る人もいた。
あの笑顔まで、怖いものだったことにはしたくない。
ただ、私がそこへ行ってよいわけでもなかった。
死んだ人が、自分の人生の中から帰る場所を選ぶ。まだ生きている人にも、同じように選ばせる。船長は、その先に何が残っているかを一緒にしてしまう。これからも続くはずのものを終わらせて、それでも帰ると言っていた。
思い出すだけなら、私たちにもできる。懐かしいと思うことも、また会いたいと思うこともある。それを、その場所で終わってしまうことと、同じにされたくはなかった。
サイアクだと思う。
大事にしていたものを差し出せば、こちらが何でも受け入れると思われているところが、特に。
◇
ニルスさんとクラリスさんには、会えた。
二人がもう戻らないと、私は第二層で知っていた。村長さんから聞いた言葉も、赤いものだけが抜けていった後の顔も忘れていない。それでも、船に二人がいたとガルムさんから聞かされた時には、すぐに受け入れることができなかった。
いないはずだったからだ。
エルも同じだったと思う。船に乗った九人のうち、二人が死んだことを知っていたのは、私とエルだけだった。ラウルさんたちは、ようやく見つけた仲間へ会いに行こうとしていた。
あの時に、もっと強く止めるべきだったのかは、今も考える。
船の行先がセレイスだと聞いても、帰れるとは思えなかった。二人の姿を見たことも、おかしなことが起きているという理由にしかならない。それなのに乗った。乗ると決めた以上、私も、その判断を誰かのせいにはできない。
ただ、今になって、会わなければよかったとは思わない。
甲板の腰掛けに、五人が座っていた。
ラウルさんとガルムさんとセルマさん、その隣にニルスさんとクラリスさんがいた。五人で話し始めると、私が口を挟む必要はなかった。知っている宿、知っている依頼、私の知らないところで何度も交わしてきたらしい言い合い。途中から笑えるようになっても、それで話すことがなくなるわけではなかった。
二人が幸せだったのは、ああいう日々だったのだと思う。
特別な一度だけではなく、何度もあった食事や、仕事の後の時間。話をしている五人を見ていると、それを一つに決めなくてもよいのだと思えた。
私は、二人について知らないことがたくさんある。どんな依頼を一緒に受け、何度同じ宿へ泊まったのかも知らない。その全部を知らなくても、二人があの三人と過ごしてきたことは、少しだけ見せてもらえた。
別れる時、クラリスさんは笑っていた。ニルスさんも、迎えに来た人へ手を上げ、開いた戸の方へ歩いていった。
ガルムさんの手が、なかなか下りなかったことも覚えている。
二人が笑っていたからといって、残った三人がすぐに笑えるはずはない。ラウルさんは言葉を探し、セルマさんは目元へ手をやり、ガルムさんは言いたかったことを一度で全部は言えなかった。
それでも、話せた。
探してもいない相手へ言うはずだった言葉を、目の前にいる二人へ伝えられた。
先日、レナートへ二人のことを話した時、三人とも黙ってしまうことはなかった。声にしにくいところはあり、それぞれが少しずつ言い足した。もう、行方不明だという説明を重ねる必要はなかった。
私は横で聞いていた。
見送ったのは私も同じだ。それでも、あの別れをどう言葉にするかは、三人の話を待ちたかった。
◇
レナートには、船長との戦いについても話をした。
けれど、そこで話されなかったこともある。
エルが何を見せられたのか、私は知らない。
あの時、私に見えていたのは骨の船長と操舵室だけだった。剣へ骨の腕が当たり、ガルムさんの盾にも重みが掛かっていた。その向こうで、エルの動きが止まった。
呼んでも、返事がなかった。
念話なら、すぐに届くと思っていた。言葉を選んで話すより早く知らせられるし、周りの音に紛れて聞こえなくなることもない。戦っている間も、エルから次に動く場所が届き、私はそれに合わせて剣を使っていた。
だから、返事がないことに気を取られた。
もう一度呼ぼうとしたところで、エルの声が聞こえた。自分の家族を、相手の都合で使うなと告げていた。
大きな声ではなかった。怒鳴っていたなら、まだ分かりやすかったと思う。低く、抑えた声で、相手が何かを答えるのを待つこともなかった。
顔を見た時には、もう目が合わないという感じはなくなっていた。船長を見て、杖を持ち直し、私たちがいる場所を確かめていた。
その後で、私のオドが引かれた。
いつもなら先に届く一言がなく、黒い糸を通じて流れていく。私の方が思わず左手を見た。けれど、エルが何をしているのか分からなくなったわけではない。下がれと言われた時には、すぐに声が届いた。
次々に術式が組まれ、風も水も火も、同じものを相手にしているとは思えないほどの勢いで働いた。私たちが押さえていた腕も、戻っていた骨も、エルの術式の中では行き先を失っていく。前へ出ようとしても、私が剣を入れる場所はもうなかった。
黒い糸を通じてオドが流れていても、あれを組み、何をどこへ使うか決めていたのはエルだ。私に同じものが見えていたわけでも、同じことができるわけでもない。
最後に短剣を使ったところまで、エルの手元は乱れなかった。
それが、余計に覚えている理由なのだと思う。
いつものエルと違う声だった。私へ断ることを忘れるほどだった。それなのに、私たちを下がらせることや、倒す相手を見失うことはなかった。
家族に関わる何かを見せられたのだろう。
それ以上は、今も聞いていない。
一度だけ使える嘘を使ってまで話さなかったことがある。あの声を聞いたからといって、今なら尋ねてよいことになったとは思わなかった。
戦いが終わってから、エルはもう何も見えていないと答えた。私の顔を見て、先に言わずにオドを使ったことにも気づいた。
次は先に言ってほしいと、私は伝えた。
エルは頷いた。
その時には、それでよかった。
何を見せられたのかより、今、私の言葉へ答えているかを確かめたかった。私が知らないものまで全部話してもらわなくても、剣を持って隣へ戻ることはできる。
印象がよくない奴。
最初にそう思ったことは、今も変わらない。勝手に呪いを使ったし、自分で何とかできると思えば、こちらへ説明する前に動く。
ただ、私の知らない顔が一つあった。
それを知ったから、初めて会った時の私まで別のものになるわけではない。知らなかったことが、また一つ増えただけだ。
それでも、あの声は忘れないと思う。
◇
レナートの聞き取りでは、私たちが歩いてきた土地についても話があった。
ノンノが魔導書を見せている間、私たちは持ち帰った地図と、古い書物からの写しを見ていた。ハディルという名を、数千年前の街として読むのは、まだ難しかった。
私が布を替えた人は、その場にいた。桶へ水を汲んできた人がいて、食べ物を分け、動ける人へ手伝いを頼んだ。古い伝承の中にいると言われても、私にとっては、手当てを引き継いできた人たちだった。
昨日、ギルドでも救援のことを確かめた。
その先も含めた調査は、当面、王都の人たちが進めるという。私たちがすぐに戻る予定はない。持ち帰ったことを伝え、頼めるところへ頼んだ。それで全部が終わるわけではないけれど、私たちだけで続けなければならないことでもなかった。
塔を下りた先に、古代の世界が広がっているのかもしれない。そうだとしたら、勇者が魔王を倒すという文は、王国の初代国王を指しているのかもしれない。
私が勇者を選ぶ、という文も残っている。
レナートたちと、その二つを並べて考えた。答えは出なかったし、誰かを選ぶよう求められることもなかった。あの言葉が何を意味するのかは、これから調べる。
知りたいとは思う。私の名前が刻まれている以上、知らないまま誰かに任せておくこともできない。けれど、分からないうちに答えだけを決める必要はない。
船で渡された幸せも、石碑へ刻まれた勇者も、言葉だけなら簡単だった。その意味も分からないまま、これからの生き方まで任せる気にはなれない。
私はまだ、生きている。
昔のことを思い出す日も、帰りたいと思う場所もある。それでも、明日になれば食べたいものが変わるかもしれないし、知らなかった街へ行きたくなるかもしれない。今日より明日の方がよい日になると、決まっているわけではない。
それでも、明日になってから決めたいことがある。
その分まで、終わったことにされたくなかった。
今朝、見送りの後には、修道院へ挨拶に行こうと話した。留守にする前、また手伝うと伝えていたので、戻った顔を見せておきたかった。ノンノも一緒に行きたがり、前に手伝った時のことを覚えてもらえているか、気にしていた。
その前に、エルの買い物で店へ寄った。
荷袋を直す紐を、昨日は買い忘れたらしい。ノンノが自分の買った店を教え、三人で通りを曲がった。
私たちがそこへ行った時には、主人がまだ品物を軒へ出している途中だった。エルは束の中から一本を取り、ノンノは自分の袋を持ち上げて、先日替えたところを見せていた。私は買い物籠を抱えた人へ場所を空け、店の脇で二人を待った。
街門の方から、荷車の音がした。
ラウルさんたちの馬車も、もう街を離れ、街道を進んでいる頃だったのだろう。荷の間でパンを分けるのか、まだ早いとセルマさんが止めるのか、少しだけ想像した。ニルスさんたちの故郷へ着くまでには、そういう食事を何度もするはずだ。
話しにくいことを伝えるための旅でも、その間ずっと、話しにくいことだけを考えていなくてよいと思う。
旅の途中でノンノの渡した果物を食べて、セレイスに残った私たちを思い出すこともあるかもしれない。
私は、三人が戻ったら何を作ろうかと考えていた。
まだ決めるには早い。戻る頃に市場へ並んでいるものも、三人が食べたいものも、今とは違うかもしれない。帰ってきた時に聞けばいいのだと思い直したところで、ノンノが隣へ来た。エルの買い物も終わりそうだったので、二人で名前を呼んだ。
それからまた、三人で歩いた。
今は部屋へ戻り、今日のことを書いている。隣ではノンノが荷物を片づけている。魔導書の収まった袋を寝台の脇へ置く音がして、私は一度、筆を止めた。
初めは、私のものではない物語へ、名前だけを書き込まれてしまったと思った。第二層では、自分にも読めない頁があることを知った。
今度は、読み終えた頁へ帰っていく人たちを見送った。
ニルスさんとクラリスさんが、五人で過ごした日々を大切にしていたことは、忘れたくない。けれど、残った三人の日々まで、そこで終わったわけではない。
今日、あの馬車は出発した。
私たちもセレイスに残り、明日からすることを決めていく。手入れの要るものも、顔を見せたい相手もある。いつまでも荷を解かずに、次の遠征を待っている必要はない。
この頁を書き終えたら、ノンノに明日のことを聞いてみようと思う。




