第112話 古史
翌朝、冒険者ギルドの奥へ通されると、卓には地図と帳面が並べられ、エルディアスたち六人の席が用意されていた。
中央にあるのは、調査員が道中につけていた記録だった。昨日、ギルドへ戻った時に渡したものだ。窓際でそれを読んでいたレナートが、戸の開く音に顔を上げる。
「よく戻ったな。昨日は休めたか」
「ああ。久しぶりにゆっくり眠れた」
エルディアスは答え、隣のノンノを紹介した。
「前に話したノンノだ」
「初めまして。ノンノ・ミーゴです」
ノンノが頭を下げると、レナートも帳面を置いて向き直った。
「レナートだ。王都からダンジョンの調査に来ている。よろしく頼む」
「よろしくお願いします」
「エルディアスから、精霊術の魔導書を持っていると聞いた。一度見せてもらいたいと思っていたんだ」
「はい。よかったら、今度お持ちします」
「頼む」
レナートは椅子を勧め、六人が座れるよう卓の手前を空けた。今日は誰も大きな荷を持っていない。洗った衣服にはまだ取れない汚れが残り、ガルムの左腕には新しい布が巻かれていた。ガルムは右手で椅子を引き、左腕を庇いながら腰を下ろす。
全員が席に着くと、レナートの隣にいた王都側の担当者が、卓の上の紙を六人へ向けた。昨日渡した必要品の一覧だった。食料、傷に使う布、運搬に使う道具。端には、帰りの道で補った注意が書き込まれている。
「先に、救援の手配について伝えたい」
「オアシスにいる班へ、運び出せる分をまとめるよう指示した。護衛と、怪我人の世話ができる者も組に入れる。経路を知る者が先に進み、後から荷を送る予定だ」
「俺たちが通った時より、道が悪くなっているかもしれない」
ラウルは卓の地図へ目を向けた。
「河へ近いところは、現地でもう一度見てくれ。上道の途中で崩れていた場所は、そこにある」
「確認させる。お前たちに、すぐ引き返して案内しろと言うつもりはない」
リュシアは一覧を手元へ寄せ、布の項目を確かめた。
「港の倉庫では、手当てに使うものを一か所へ集めています。動けない方を上の避難先へ運ぶにも、通りの片づけが必要でした。着いたら、まず倉庫にいる方へ声を掛けていただきたいです」
担当者が頷き、一覧の余白へその言葉を書き足した。ノンノも同じ紙を見ていたが、口を挟まず、記録へ収まるのを待っている。
救援についての確認が済むと、レナートは聞き取りに使う紙を手元へ寄せた。
「では、ハディルへ着いたところから聞かせてくれ。最初に見た街と、最後に見た街を、分けて話してほしい」
◇
ラウルが、夕暮れに門へ着いた時のことを話した。
門の前に長い列があった。並んでいる者は口数が少なかったが、街へ入れば人が多く、商いも行われていた。宿はどこも空いておらず、港では大勢が船へ乗り込んでいた。
ラウルは道中に描かれた見取り図を寄せ、門と港のおおよその位置を示す。レナートは途中で話を止めず、見聞きした順に紙へ書き留めた。
「船の行先は、セレイスだと言われた」
ラウルが続けたところで、担当者の手が止まった。
「ここへ帰る船だと?」
「ああ。俺たちも、おかしいとは思った。塔を通らず、あの河からどうやって来るのか。だが、係員は俺たちの知っている入口や転移紋の話を理解していなかった」
「航路は聞けなかったのか」
「納得できる説明はなかった。セレイスへ着くと聞いただけで、帰れると信じたわけじゃない」
ラウルはそこで言葉を切った。膝に置いていたガルムの右手が、少し動く。
「先に、仲間を見つけたんだ」
ガルムが言った。
「第二層で、行方が分からなくなった二人だ。ニルスとクラリス。そいつらが船へ乗るのを見た」
レナートは紙から目を上げた。ラウルも頷き、その視線を受ける。
「俺たちが乗ったのは、二人を確かめたかったからだ。最後は全員で話して決めた。乗船料を払って、九人とも船へ入った」
「二人とは、会えたのか」
「会えた」
答えたラウルの隣で、セルマが両手を重ねた。レナートは続きを急がせず、卓の向こうにいる三人を見ていた。
「ただ、最初は話が合わなかった。俺たちが尋ねていることへ返事をせず、以前、五人で過ごしていた頃の話をする。船長を倒した後には、こちらの言葉が通じた。その時に、自分たちは第二層の村で死んだと聞いた」
担当者が顔を上げた。ガルムはそちらを見ず、卓の木目へ目を落としたまま言葉を足した。
「連れて帰ろうとはした。けど、二人は降りていった。迎えに来た連中と、一緒にな」
「私たちは、見送ったの」
セルマの声は小さかったが、聞き返す必要はなかった。
「二人は笑っていたわ。私たちと話して、別れて、それから船を降りた。残骸の上で目が覚めた時には、もういなかった」
レナートは、すぐには記録へ戻らなかった。
「分かった。その二人についても、船で会い、本人たちから聞いたこととして残す」
ラウルが頷いた。
エルディアスは椅子の上で姿勢を直した。隣のリュシアも何も言わず、セルマが組んだ指を解くまで待っている。
あの甲板で交わした言葉を、一つずつここへ置き直す必要はなかった。それでも、二人を捜していた三人が、二人と別れて戻ったことは、今この部屋へ伝わった。
◇
船の上で会った人々については、六人がそれぞれ覚えていることを話した。
焼いたパンのことを話した男。繕い物をしていた女。昔の仲間たちの仕事を語ったハーゼン。誰もが、話し始めから死者に見えたわけではない。椅子へ座り、食べ物を分け、こちらの問いに答える、ごく普通の乗客だった。
「幸せだった時の話をすると、その人が降りる港へ着いた。そういうことか」
レナートが尋ねると、リュシアは首を振った。
「話しただけでは、降りませんでした。ハーゼンさんも、長くお話しされていましたから。思い出すことと、その場所へ帰ると決めることは、違うのだと思います」
「港へ着いてからも、残った者はいたな」
エルディアスが言った。
「降りた連中には、迎えがいた。こっちが呼んでも足を止めずに、笑って歩いていった。俺たちが乗るところを見た人数より、ずっと多かった」
「二度目に停まった時です」
リュシアが、開かれた記録へ目を向けながら答えた。
「戦で傷を負ったような方々と、衣服が濡れ、泥のついた方々が、次々に降りていきました。船へ乗る前に案内を受けた係員も、その中にいました」
「乗組員も、乗客として降りたのか」
「少なくとも、私たちが声を掛けた相手はそうでした。呼び止めても、こちらを見ませんでした」
ノンノは、卓の上に置かれた自分の手へ目を落とした。少しの間、何かを思い出すように黙り、指先を揃えてから口を開いた。
「皆さん、降りた先の人を見ていました」
顔を上げて言うと、レナートがこちらを向いた。
「わたしたちに返事をするより、そちらへ行きたいように見えました。怖がっていたり、嫌がっていたりする人は、いませんでした」
レナートはその言葉も書き留めた。
夜がいつまでも明けなかったこと。長く話し、休み、再び歩き回っても、窓の外が変わらなかったこと。異変を確かめるため操舵室へ向かい、船長の正体を知ったこと。
ノンノが猫を使役し、手袋を外すきっかけを作ったところでは、王都側の担当者が初めて彼女へ詳しく尋ねた。
「精霊が、アンデッドだと見抜いたのか」
「いいえ。猫に、引っ張ってもらっただけです。手袋の下に骨が見えたので、それで分かりました」
「使役した猫は、今も一緒か」
「ハディルに残っています。船の外へも出られましたし、食べ物をくれる人もいたので」
担当者は頷いた。レナートも使役の方法については深追いせず、船長との戦闘へ話を進めた。
ラウルは舵輪と船長の骨を繋いでいたものや、壊した骨が戻ったことを説明した。攻防の末にエルディアスが倒したところまで伝えると、ガルムが一度だけこちらを見る。
エルディアスはその視線に気づいたが、何も言わなかった。術式について聞かれた範囲で答え、家族の姿を見せられたことには触れなかった。
「その後に二人と別れて、それから神託か」
「ああ。船長を倒した直後じゃなかった」
レナートは順番を確かめ、宣言の写しを手元へ置いた。
「罪ある者を守る剣が、道を開く」
レナートが読み上げ、エルディアスが頷く。それを船の記録と重ねず、別の場所へ置いた。
「こちらは、次に調べる時の手がかりだな。今は、戻った時の話を先に聞く」
リュシアが、残骸の上で目を覚ました時の様子を伝えた。船内に残っていた人々には息があり、声を掛ければ反応した。街へ下りると、壊れた家々の間にも生存者がいた。船で出会った者すべてが死者だった、と考えることもできない。
「船を降りなかった方を、助け出しました。死んだ方が生き返ったのではありません。助けた時には、生きていました」
リュシアは言葉を区切り、聞く者の顔を見た。
レナートが頷く。
「その区別は残す。船に何が起きていたかを考えるにしても、そこを混ぜるわけにはいかない」
「幸せを選んだ者に、帰る場所はない」
ラウルが、卓へ置かれた別の写しを見た。
「俺たちの帰る場所と、あの人たちの帰る場所は、違っていたんだろうな」
誰もすぐには答えなかった。
船で話を聞いた時には、ただ懐かしい日の話だと思っていた。あの人々が何を選び、どこへ着いたのかを、ここで確かめることはできない。それでも、船に残った者を助け、降りていった者を連れ戻せなかったことは、九人の記憶に同じように残っていた。
◇
聞き取りが一段落すると、レナートは卓の端に置いてあった包みを開いた。
中から出てきたのは、何枚かの新しい紙だった。ただ、書かれた文章は、道中の記録と同じようには読めなかった。見慣れない綴りが残り、その脇へ小さく説明が添えられている。欄外には、書物の名と、抜き出した箇所が記されていた。
「今度は、こちらから伝える。先に帰還した四人が、ハディルという名を持ち帰った。その時から、街の記録を調べてもらっていた」
「俺たちが着く前からか」
ラウルが言った。
「ああ。王都の書庫にも照会を出した。すぐに見つかったわけではないが、古文書の写本や、後世にまとめられた歴史書から、関係しそうな箇所を集められた」
レナートは一枚を地図の横へ置いた。古い綴りの傍に、今の字でハディルと添えられている。エルディアスが読めたのは、まずその名だった。
「これは、古い交易の記録を引いた書物からの抜粋だ。砂漠を流れる大河のほとりに、荷の集まる港があったとされている」
「街の場所も分かるのか」
「正確な位置までは分からん。河の名も、周囲の地名も、今の地図へそのまま当てはめられない。ただ、砂漠と大河の港という関係は、お前たちの報告に合う」
エルディアスは、調査員の描いた河の線へ目を向けた。あの幅も、流れる音も、この数行には収まっていない。門から港までの道や、人の集まっていた建物についても、写しには何も書かれていなかった。
「昔にも、同じ名の街があったということか」
「ああ。名前だけなら、後の街が受け継いだとも考えられる。だが、こちらにもハディルが出てくる」
レナートはもう一枚を並べた。
「大洪水で失われた街として、伝承が残っている」
ガルムが、椅子の背から身体を離した。
「洪水も、か」
「そうだ。ただ、洪水を見た者が、その場で書いた記録ではない。後世に集められた話を、さらに写し伝えたものだ。いつ、どこまで水が上がったのかは、これでは分からん」
リュシアは持ち帰った記録をめくり、港の見取りへ目を落とした。こちらには倉庫と船の輪郭があり、壁に残っていた泥の高さも書かれている。隣へ置かれた伝承の抜粋には、それらに当たる記述はなかった。
「私たちが見た被害と、細かく比べられるわけではないのですね」
「ああ。港の造りも、あの船のことも書かれていない。今重なるのは、街の名と、大まかな地理、それから洪水だ。それを別々の手がかりとして調べている」
ラウルは写しへ顔を近づけたが、すぐにレナートへ目を戻した。
「元になった文書は、残っているのか」
「この抜粋の元になった写本はある。だが、その写本が引いている、さらに古い記録まで辿れるとは限らん。何度も写されてきたものだ。地名の読みや、書き写す時の違いも、確かめてもらっている」
「いつの街なんだ」
エルディアスが尋ねた。
レナートは一度、全員を見渡した。
「王国が成立する以前の交易を記したものに、その名がある。数千年前の街だ」
ガルムが口を閉じた。ノンノも顔を上げ、レナートを見たまま動かなくなった。
「そこまで昔なのか」
エルディアスは、紙の上の名へ目を戻した。
「ああ。ただ、洪水が起きた年まで分かったわけではない。後の時代の記述に古い話が混ざることもある。だから最初は、名前だけでお前たちの行き先と結びつけなかった」
レナートは港の見取り図と抜粋を、互いに隠れないよう並べ直した。
「だが、お前たちは、河沿いのハディルへ実際に行き、洪水の跡を見て帰ってきた。古い伝承にある街と、同じ場所かもしれない。その可能性を、もう無視はできん」
ノンノは、もう一度ハディルの名を見た。
街の人は、明日の水や、その先の食べ物を心配していた。倉庫の前では桶が並び、猫へ食べ物を置く者もいた。あれが、古い本に書かれた街なのだと言われても、すぐに同じものにはならなかった。
「昔、なくなった街なんですか」
「伝承では、大洪水によって失われたとされている」
「でも、わたしたちは、あそこで話していたんです。怪我をした人も、まだいます」
「分かっている」
レナートは、ノンノの前から紙を引き戻さなかった。
「あの人々が何者なのかは、まだ説明できない。古い記録と一致するからといって、お前たちが助けた相手を、ここで全員死者だと決めることもできない」
王都側の担当者が、救援品の一覧を手元へ寄せた。
「現地には、こちらの班もいる。彼らに確かめてもらうことは増えるが、荷を送る手配は進める。怪我人がいるという報告は、取り下げる理由がない」
ノンノが顔を上げた。リュシアも、卓の下で重ねていた手を緩める。
「お願いします」
担当者は短く頷き、連絡用の紙へ必要なことを書き加えた。
◇
「もう一つ、確かめたい」
レナートが言った。
「船が二度目に着いた港の名は、記録にあるか」
「ヴァルネスです」
リュシアが答えた。レナートは船でつけられた記録をめくり、その文字がある頁を開いた。
レナートは手元の束をめくり、一枚を抜いた。すぐに示すことはせず、書かれた名を確かめてから、卓の中央へ置く。
「その名も、古い戦記の写本に残っている。こちらは地名として出てくるだけで、街の様子まで分かるものではないがな」
ラウルの目が、紙へ移った。
「戦死した連中が、帰っていた街かもしれないと?」
「可能性はある。ただ、どの戦で死んだ者なのかを、お前たちは聞いていない。街の名が合うことと、その人々の来歴が分かることは、分ける必要がある」
「そこまでは、話してくれなかった」
セルマが答えた。
「皆、迎えの人へ行ってしまったもの」
レナートは頷いた。
「一つの名だけなら偶然とも考えられる。だが、二つの名が古い書物に残り、ハディルには大まかな地理と洪水の伝承まで重なる。調べる価値はある」
エルディアスは、卓へ広げられた地図を見た。
塔を中心に森が描かれ、村へ向かう線とは別に、砂漠へ至る線が伸びている。その先にオアシスがあり、街があり、河があった。自分たちは一つずつ歩いてきただけだが、繋げて見れば、塔からずいぶん遠くまで来ている。
「塔を下りた先が、昔の土地だと?」
「そう考える材料が出てきた」
レナートは答えた。
「ただし、過去そのものへ行ったのか、過去の土地をダンジョンが作っているのかは、まだ分からん。ハディルとヴァルネスが同じ時代の姿なのかも、今は決められない」
「船には、俺たちの仲間もいた」
ラウルが言った。
「二人が死んだのは、昔の話じゃない」
「ああ。あの船へ集まる者まで、一つの時代に揃っていたとは考えにくい。船で見たものと、陸で見たものを、全部同じ仕組みで説明できるとも限らん」
レナートは、船について書いた紙を地図の脇へ置いた。
街と船を切り離せば、分かるという話ではない。それでも、目の前にある記録を一つの答えへ押し込めようとはしていなかった。
リュシアが、森の方へ目を向けた。
「第二層の村も、同じ大地にありました」
「調べ直す必要はある。今までは、村の周囲や森を測ることが中心だった。これからは、暮らしている者がどんな地名や出来事を知っているかも、照合できる」
「村の人たちが、外へ出られなかったことも関係するのか」
エルディアスが尋ねた。
「まだ分からん。前に伝えたとおり、第二層に属する者だという考え方はできる。だが、過去に属しているから出られない、とまで言える材料はない」
レナートは、塔を示す印を指で押さえた。
「塔を下り、外へ出た時点で、広い土地があった。森から砂漠へ進んでも、大地は続いていた。オアシスを境に第三層と呼んできたが、その呼び分けだけで、土地まで別々に切れていると考えるべきではなさそうだ」
ラウルが地図へ目を向けた。
「層が変わったからといって、別の土地へ移ったわけじゃないかもしれないんだな」
「ああ。歩いて越えられるところと、紋で移るところがある。その先の土地を、どこまで一つとして扱えるかも調べる」
ノンノは、塔の周囲から河まで線を目で辿っていた。初めて森へ出た時には、空がどこまで続くのか尋ねていた。エルディアスはその時のことを思い出し、彼女と同じ線を辿った。街も河も見てきたのに、地図の空白はまだ広かった。
◇
エルディアスは、地図の脇に重ねられた黒碑の写しへ手を伸ばした。
一番上には、船で自分が告げた文がある。その下から、最初の三文が書かれた紙を引き出した。リュシアの名は、初めて石碑へ刻まれた時と同じ長さで、そこに収まっていた。
「勇者が魔王を倒す」
声へ出すと、レナートの視線が移った。
「この勇者は、魔王を倒した勇者のことなのか。王国の初代国王の」
紙を揃えていた担当者の手が止まった。
人族の勇者が魔王を倒し、王国を興した。その話なら、エルディアスも知っている。自分たちが歩いた大地の名前と、その物語を同じ卓へ置いて考えたことはなかった。
レナートは、しばらく写しを見た。
「その可能性は、調べる必要がある」
「同じ言い方だからか」
「それもある。だが、今までなら、これから現れる勇者が魔王を倒すという読み方が先に来た。過去の土地へ繋がっているなら、すでに知られている出来事を指している可能性も、考えなければならん」
担当者が腕を組み、黒碑の文へ目を落とした。
「初代国王を指すなら、過去の出来事を、どうやってこちらが成し遂げる」
「そこは、まだ答えられない。そもそも、これがこちらへ何を求める文なのかも、確定していない」
レナートは二文目を示した。
「それに、こちらがある」
リュシアは、紙を自分の方へ少し寄せた。
「リュシア・フェル・ノルディアが勇者を選ぶ」
彼女自身の声で読むと、室内が静かになった。
「歴史に残っている勇者だとしても、私が何を選ぶのかは、分からないままですね」
「ああ。お前が選ぶということが、何を意味するのかも調べることになる」
「初代国王を指すと、決まったわけではないのですね」
「決まっていない」
レナートは明確に答えた。
「名前も年代も示されていない。勇者という言葉だけで、あの人物だと断定はできん。ただ、王国が成立した頃の記録を調べる理由はできた」
リュシアは頷き、紙から手を離した。誰かの名を告げるよう求められることも、それを試すために候補を連れてこられることもなかった。
エルディアスはその手が膝へ戻るのを見てから、レナートへ尋ねた。
「どこまで分かってから、俺たちへ伝えるつもりだ」
「調査に関わることは、分かった範囲で伝える。お前たちに、何も知らないまま同じ道を歩かせても、比較にならん」
「それならいい」
「今の話も、仮説として報告へ入れる。初代国王の名が出たからといって、すでに本人を見つけたかのように扱わせるつもりはない」
王都側の担当者も頷いた。
「街の名が一致したことと、勇者についての推測は、分けて上げる。新しい宣言についても同じだ。次の調査は、準備を整えてから決める」
ラウルが背を椅子へ戻した。ガルムも左腕の布を直し、卓へ寄せていた身体を離す。ノンノは水の器を持ち上げ、冷めた水を少しずつ飲んだ。
聞き取りを始めた時より、卓の上に出ている紙は増えていた。
ハディルの港を描いた紙の隣に、洪水の伝承を抜き出した紙がある。ヴァルネスの名は、船で書き留めた頁と、古い戦記からの抜粋、その両方へ載っていた。まだ重ならないところの方が多い。それでも、別々だと思っていたものの間に、確かめるべき繋がりができている。
担当者が救援の連絡を確かめに席を立った。レナートは取り寄せる記録の名を書き足し、ラウルへ地図を示して、ハディルの港の位置をもう一度確かめている。
エルディアスは、リュシアの前に残った二文を見た。
――気になるか。
――はい。あちらで何があったのかも、この言葉が何を指しているのかも。
リュシアは紙へ視線を落としたまま答えた。それから、エルディアスを見る。
――でも、今すぐ誰かを選べと言われなくて、よかったです。
――分からないまま決めることじゃないからな。
リュシアは小さく頷いた。
窓の外から、人の呼ぶ声が届いた。通りを進む荷車の音が続き、室内では、ノンノが空になった器を卓の端へ寄せている。
エルディアスは、散らばった紙に器が触れないよう、一枚を持ち上げた。
そこには、塔からハディルまで、自分たちが歩いてきた道が描かれていた。
古い書物に残された名を、九人は歩いた先で耳にした。その名の街には人が暮らし、その先にも大地はあった。河は、地図に描かれた端を越えて続いている。
エルディアスは紙を卓へ戻し、レナートが開いた次の記録へ目を向けた。




