第110話 救援
戸の向こうから返ってきた声は、エルディアスたちが近づくと途切れた。
リュシアはすぐには戸へ手を掛けず、割れ目へ顔を寄せた。隙間の奥には、椅子の背と、泥にまみれた人の脚が見える。こちらへ返事をしようとしているのか、靴の先が僅かに動いた。
「聞こえています。今、戸を開けますから、そのまま待っていてください」
相手に届くよう少しだけ声を張り、リュシアはエルディアスへ場所を譲った。
戸枠の上へ、折れた梁が斜めに乗っていた。手前を無理に引けば、梁の片側が落ちる。エルディアスは下へ土の支えを作り、重みを受けてから、戸の外れた蝶番へ杖を向けた。
金具が床へ落ちた。
リュシアとラウルが左右を持ち、戸を少しずつ手前へ倒す。中には男が二人いた。一人は椅子へ背を預け、もう一人はその膝の傍で横になっている。
「こいつを、先に頼む」
座った方が言った。
「さっきまで、返事をしてたんだ」
リュシアが膝をついた。声を掛け、肩へ触れると、横になった男の眉が動く。胸も、浅く上下していた。
「息はしています。運ぶ場所を空けますから、あなたも一緒に出ましょう」
男は頷いたが、立ち上がろうとした脚に力が入らなかった。ラウルが脇へ腕を入れる。リュシアはもう一人の身体を確かめ、外で待つ護衛を呼んだ。
誰かを連れ出すたび、通路には人を置ける場所が少なくなっていった。
自分で歩ける者も、壁へ寄り掛かったまま動けない者もいる。身体を横にできる場所を求めて布をずらすと、隣の者の脚へ触れてしまう。ノンノは何度も荷を運び直し、通るための細い道だけは塞がないようにしていた。
エルディアスは甲板へ戻り、陽の当たる板の上を見た。
船は止まっている。だが、横たわった人々の下には、折れた梁と、石へ食い込んだ船体しかない。このまま全員をここへ置き続けるわけにはいかなかった。
「岸へ下りる道は」
戻ってきたガルムへ尋ねると、男は右手で船首側を示した。
「荷揚げ場の端なら、下りられる。船腹に建物の床が引っ掛かってる。そこを越えれば石段だ」
「人を抱えて通れるか」
「歩ける奴ならな。寝かせたまま運ぶには、途中が狭い」
ガルムと一緒に道を見てきた護衛が、折れた手すりの傍へ立った。
「下は平らだ。泥も、ここから見える通りほど深くない。倉庫の上がり口が残っている」
「そこまで道を作る。ガルムは、先に下で受けてくれ」
「分かった」
ガルムは左腕を動かしかけ、やめた。大盾は甲板へ残し、斧が脚へ当たらないよう、腰の位置を直した。
「右は使える。通れないところがあったら、声を掛ける」
◇
石段へ続く途中で、外れた鉄板が道を塞いでいた。
エルディアスは持ち上げず、下の木材との間へ土を詰め、傾いた面を止めた。その先へ低い足場を重ねると、一人ずつなら、足を滑らせず通れる幅になる。
ラウルは甲板にあった幅の広い板を確かめた。釘の残ったものを外し、護衛と二人で持ち上げる。
「これで、横にしたまま運ぶ。板は足りるか」
「一度に全員は無理だ。使ったら、戻してくれ」
エルディアスが答えた。
リュシアは先に運ぶ者を選んでいた。日差しを避けたい者、自分で歩けない者を、道が混む前に下ろす。呼びかけへはっきり答えられる者には、傍の者から離れず、次の合図まで座っているよう伝えた。
最初に助けた、脚を痛めた男が、周囲へ目を向けた。
「下へ、行くのか」
「はい。船の上より、身体を置ける場所があります」
リュシアが答える。
「石段を上がったところ……倉の前なら、広い」
男は息を継いでから、もう一度口を動かした。
「門の、鉄の柱が残ってる方だ。河へ下る道じゃない」
ラウルがそちらを見た。
「この辺りを知っているのか」
「荷役をしてた。毎日、来てたから」
男は船を見上げた。目の前の壊れ方を、初めてはっきり見たようだった。折れた煙突へ視線が止まり、その後は下へ戻らなくなった。
リュシアは質問を重ねず、男の顔へ影ができるよう布を寄せた。
「道が見つかりました。運ぶ時は、声を掛けます」
男は頷き、ようやく煙突から目を離した。
母子を運ぶ時、子供が目を開けた。
まだ声は出なかったが、傍の母親の手を探し、指を握った。ノンノが布を持ち直すと、子供の目がその耳へ向く。
「お母さんも、すぐ隣です。今は船から下りるだけですから」
ノンノは子供へ顔を近づけすぎず、聞こえるところで話した。
子供は指を離さなかった。母親も力を入れて握り返し、運ぶ者へ小さく頷く。
ラウルと護衛が板を持ち上げた。
ノンノは前へ回り、足場の上に落ちた綱を拾った。自分の荷は後でよかった。今、誰かが足を取られそうなものだけを、先に退けていく。
◇
岸へ下りると、船の上から見ていたより泥の匂いが強かった。
石段の下へ荷箱が重なり、その間に細かな木屑が溜まっている。濡れた紙が靴へ貼りつき、どこからか魚の腐ったような匂いもした。ガルムは運ばれてくる者の足元を見ながら、石段を上がる方向を示していた。
「ここを越えれば、置ける。右へ寄せてくれ」
倉庫の前には、石を敷いた広い場所が残っていた。
泥はあったが、流れてきた木材は入口の柱へ引っ掛かり、奥まで入り込んでいない。屋根の一部も残り、その下なら陽を避けられた。ガルムと護衛が先に木片を除け、乾いている布を広げている。
リュシアは運んだ者の身体を置き直し、呼吸と、巻いた布を確かめた。エルディアスも石段へ支えを足してから、戻ろうとした。
通りの向こうで、人の声がした。
「船から、出てきたのか!」
男が二人、泥の上を歩いてきていた。一人は肩へ布を巻き、もう一人は桶を提げている。どちらも濡れた服のままで、こちらへ近づく途中にも、足を置く場所を探していた。
ラウルが空の手を見せた。
「中に人がいる。今、運び出しているところだ。歩ける者だけではない」
桶を持った男が、広げた布の上を見た。そこで誰かに気づいたらしく、一度足を止めてから駆け寄る。
「生きてたのか。おい、分かるか」
横になっていた荷役の男が、目を開けた。
「……倉は」
「今はいい。喋るな」
男は桶を置き、膝をついた。肩へ布を巻いた方も、船を見上げ、裂けた船腹と、エルディアスの作った足場を見比べている。
「乗っていた人を、出せたのか」
「まだ全員ではない。二人とも、この街の者か」
ラウルが尋ねた。
「ここの倉を預かってる。こっちは、向こうの荷場の者だ」
桶を持ってきた男が答えた。
「上の道に、ほかにもいる。水が引いたから、下へ来てみたんだ。まさか、船から出てくるとは……」
「手を貸せる者はいるか。運ぶ人手が欲しい」
ラウルの言葉に、倉庫番は顔を上げた。
「ああ。呼んでくる。ここへ置くなら、奥も空けよう。戸は開くはずだ」
男は立ち上がり、相方へ桶を渡した。来た時よりも速く通りへ戻り、途中から誰かの名を呼んでいる。
エルディアスはその背を見送ってから、リュシアを見た。
彼女は呼吸の浅い女へ顔を近づけ、返事があるまで待っていた。新しく来た者が何を話していても、今見ている相手からは離れなかった。
◇
人手が増えると、船と岸の間を行き来する者を分けられた。
ラウルは船内へ残り、エルディアスとリュシアが確認した者を入口まで運ぶ。岸から来た者は、壊れた船へ一度に入らず、足場の外側で受け取った。空になった板が戻る頃には、次の一人を載せられるようになっている。
倉庫の前へも、少しずつ物が集まった。
戸を外して広げた板、上の道にあったという筵、濡れずに残っていた布。どれも数は足りなかったが、九人の外套だけを敷いていた時よりは、人を休ませる場所が増えた。
調査員は自分の荷から携行食を出し、ノンノへ渡した。
「食べられそうな方へ、少しずつ。数を確かめたいので、包みはここへ戻してください」
「分かりました」
ノンノは乾いたパンを手で小さく割った。固いままでは食べにくい者もいて、リュシアへ確かめてから、持っていた水で柔らかくする。
先ほどの子供は、母親の隣で身体を起こせるようになっていた。差し出された小片を見て、すぐには手を伸ばさない。
「お母さんの分も、あります」
ノンノが言うと、子供は隣を見た。母親が頷いてから、ようやく指で摘まむ。
調査員は空いた包みを畳み、残りの数を数えた。
エルディアスは、戻ってきた時にその手元を見た。自分たちが帰るための分まで使えば、今ここで食べるものは増える。だが、この人数を、次の食事まで支える量にはならなかった。
水の入った桶も、底が見え始めている。
「これは、どこから」
傍へいた倉庫番に尋ねると、男は上の通りを指した。
「水瓶が残っていた。ここより高いところだ。持ってこられた分だけだが」
「まだ、取りに行けるか」
「行ける。ただ、入れ物を増やさないとな」
男は周囲を見回した。壊れた箱や割れた壺はあっても、水を入れて運べるものは少ない。エルディアスは自分の空いた水袋を渡し、調査員にも残りの容器を確かめてもらった。
何をするにも、足りないものがあった。
だが、一つ足りないと分かるたび、動ける者が一人ずつ仕事を引き受けた。桶を探し、布を集め、足場へ詰まった泥を掻き出す。誰かを運べない者でも、戻ってくる道を空けることはできた。
ガルムは倉庫の戸の脇へ立ち、大きな木材を右腕で少しずつずらしていた。
「持つなら、こっちを頼む」
通りから来た男へ声を掛け、反対の端を持ってもらう。二人で引くと、床へ残っていた戸の下半分が外れ、人が通れる幅が広がった。
ガルムが左手を添えかけ、リュシアの声で止まった。
「そちらの腕は、休ませてください」
「分かってる。添えようとしただけだ」
「添えないと動かせないものなら、ほかの方を呼んでください」
ガルムは一度木材を見てから、傍の男へ頷いた。
「……もう一人、頼めるか」
男が隣へ声を掛ける。ガルムは持ち上げる側を譲り、通り道を指す方へ回った。
◇
船から下ろす最後の数人は、下の客室にいた。
エルディアスは階段の途中へ支えを作り、傾いた床で身体をずらさないよう、一段ずつ運ぶ場所を決めた。リュシアが頭側を支え、ラウルと護衛が重みを受ける。呼吸が聞こえにくくなるたび、途中で止まり、声を掛け直した。
ノンノは入口で待っていた。
人が通る間は道を空け、板が戻ると布を整える。船内へ入ろうとする者がいれば、まだ人を運んでいることを伝えた。
最後に出てきたラウルは、甲板へ腰を下ろした。
「ほかの部屋は」
「開けられたところは、全部見た。返事のあった場所にも、残っていない」
エルディアスが答えた。
「ただ、潰れて入れないところはある。船の下まで、誰もいないとは言えない」
「ああ。人を入れる前に、支え直そう」
ラウルは袖で額を拭った。二人の護衛にも休むよう伝え、自分の水袋を持ち上げる。空に近いことに気づくと、振るのをやめて膝へ戻した。
岸から、名を呼ぶ声がした。
エルディアスが下を見ると、運ばれた者へ女が駆け寄っていた。濡れた衣服のまま膝をつき、顔へ触れ、相手の目が開くと何度も頷く。
船の上で見た迎え方とは違った。
横たわった者は、自分で立って歩けない。迎えに来た女も笑おうとして、泣いている。言葉は途中で切れ、相手が息をするたび、胸へ当てた手が上下した。
それでも、名を呼ばれた男は目を開けていた。
ノンノも、手すりの向こうを見ていた。
「生きてるんですね」
小さな声だった。
「運んでいる時にも、分かっていたんですけど。……呼んでもらうと、ちゃんと見るんですね」
エルディアスは返事を急がず、下で重なった二人の手を見た。
「ああ。まだ、話せる」
ノンノは頷いた。自分が抱えていた布へ目を落とし、もう使わない分を畳む。すぐ下で水が跳ねると、耳がそちらを向き、それからもう一度、岸の二人へ戻った。
◇
荷役の男が少し長く話せるようになったのは、運び出しが一段落してからだった。
ラウルが傍へ座り、水を受け取るのを待った。リュシアは脚へ当てたものがずれないかを確かめ、男が自分から船を見たところで、エルディアスも膝を折った。
「ここは、ハディルで間違いないんだな」
「ああ。あの船も、ここの港にいた」
男は答えた。
「水が来た時に、乗ったのか」
「岸じゃ、もう荷を置くところまで浸かってた。船へ上がれば、ひとまず逃げられると思ったんだ」
男の手が、布の上で動いた。綱を掴む時のように指が曲がり、その後で握りがほどけた。
「上がった者は、ほかにもいた。乗船路が駄目になって、横から引き上げてもらった奴もいる。船を岸から離そうとしてたが、流れてきたものがぶつかって……」
そこで息を継ぎ、壊れた倉庫へ目を向ける。
「船が持ち上がった。綱が切れて、岸の上まで来た。その後は、よく覚えてない」
ラウルは甲板の高さを見上げた。
今でも巨大な船だった。これを石段の上まで押し上げ、建物へ食い込ませるだけの水が来たのだ。その水の跡は、周りの壁にも、残った柱にもあった。
「では、街は」
「この辺りは、みんな水の下だった」
男は言った。
「家へ戻れた奴が、どれだけいるか……」
それ以上を聞かず、リュシアが布を直した。男は目を閉じたが、肩へ触れると頷き、隣へ置いた水の方へ顔を向けた。
エルディアスは立ち上がった。
船へ乗る前、歩いてきた港の通りが見える。荷が並び、灯りの下へ人が集まっていた場所だ。今は泥と壊れたものしか残らず、見覚えのある柱が、その向こうで折れていた。
あの時には、もう、こうなっていたのか。
口には出さなかった。
ラウルも黙って立ち、同じ通りへ目を向けた。最初に門を通った時から、どこまでが自分たちの見た街だったのか。それを確かめるために歩き直している余裕は、今はなかった。
◇
倉庫番が戻った時には、後ろへ三人を連れていた。
一人は年を取った女で、濡れないよう包んだ布を抱えている。リュシアが横へ場所を空けると、女は横たわった者の顔を見て、脚を傷めた男の傍へ座った。
「怪我を見てくれる方ですか」
「長く、ここの者の手当てをしてる。道具は、残ったものしかないけどね」
女は布包みを開いた。リュシアはそれまでにしたことを短く伝え、女が頷いてから、傍の母子へ移った。
倉庫番が、ラウルへ顔を向けた。
「上の方に、人が集まってる。門へ近いところだ。あっちにも怪我人がいて、食べるものを分けてる」
「船へいた者を、そこへ運べるか」
「道が塞がってる。歩けるなら回れるが、このまま運ぶにはな」
男は、板に横になった人々を見た。
「ここへも、持ってこられるものは持ってくる。ただ、向こうも足りてはいない」
「助かる。今は、水と布が欲しい」
ラウルが答えた。
倉庫番たちが荷を下ろすと、再び呼び合う声が増えた。今度は自分たち九人だけではなく、街の者が名を確かめ、身内が来ていないか尋ねている。
ノンノは女の指示で布を取りに行き、戻ってきた時には、そのまま新しく運ばれた者の傍へ座った。肩の布が緩んだ護衛も、手伝いの男に結び直してもらっている。
リュシアは、母親へ子供の様子を尋ねていた。
子供は目を開け、小さなパンをもう一口食べている。母親がその口元を拭うと、袖へ手を伸ばし、指を引っ掛けた。
その手を、リュシアはしばらく見ていた。
それから立ち上がり、空いた板を運ぶ方へ回った。
◇
エルディアスとラウルは、倉庫の外へ出た。
倒れた壁の上を、陽が照らしている。河の流れはまだ速く、壊れた荷場の端へ当たるたび、濁った水が跳ねた。船の下から流れていた細い水も、そこへ集まっている。
「今ある食料で、ここを支え続けるのは無理だ」
ラウルが言った。
「ああ。包帯も、水を運ぶ容器も要る」
「近くの集落へ、人を出せるだろうか。俺たちが通ってきたところだ」
エルディアスは、街へ来る時に歩いた方角を見た。門の向こうがどうなっているかも、まだ確かめていない。
「道が残っていればな。あそこにも、この街のことは知らせた方がいい」
「塔の側へも、報告が要る」
「そこまで戻れば、人も物も頼める。ただ、運んでくるまでには、また道を通らないといけない」
ラウルは頷いた。
オアシスの転移紋へ行き、第二層へ戻り、塔を通る。その道を九人で引き返すだけなら、いずれはできる。だが、横になったままの者を連れ、壊れた街から食料も揃えずに出ることはできなかった。
「全員で動くことは、考えない方がよさそうだな」
「まずは、ここの者と話そう。誰が残っていて、どこまで自分たちで動けるか。助けを頼みに出るなら、その間も手当てを続けられるようにしてからだ」
エルディアスが答えると、ラウルは倉庫の中へ目を向けた。
船から下ろしてきた大盾は、ガルムの荷の傍へ置かれていた。本人は空の桶を受け取り、別の男へ渡している。セルマは火を使える場所を倉庫番と確かめ、リュシアは戻ってきた布を広げていた。
ラウルはそれを見てから、腰の剣へ手を添えた。
「頼みに行く者を決めるにしても、先に道だな」
「ああ。暗くなる前に、門まで通れるかは見ておきたい」
倉庫の中から、リュシアに呼ばれた。
「エル、水を置く場所を、少し低くできますか。桶が傾いてしまって」
エルディアスは振り向いた。床へ残った泥の上では、満たした桶が落ち着かず、水面が揺れている。
「今、行く」
土の術式で平らな面を作ると、桶が止まった。水を汲もうとしていた女が礼を言い、ノンノが空いた器をその横へ並べる。
ラウルは倉庫番へ歩いていった。
エルディアスも杖を下げ、次に運ばれる板を受けるため、入口の方へ向かった。




