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第109話 残骸

 ラウルたちが腰掛けへ座り直してから、しばらく誰も話さなかった。


 ガルムは大盾を脇へ立て、左手を開いたり閉じたりしている。セルマは荷袋の上へ杖を置き、岸へ向けていた顔を下ろした。二人の間に座ったラウルも、すぐに次の指示を出そうとはしなかった。


 エルディアスは手すりから少し離れたところで、開いた乗船路を見た。


 桟橋にはもう、人の列がない。ニルスとクラリスが入っていった建物の窓には明かりが残っているが、二人の姿は見えなかった。


 先に食料を分けるか。それとも、休んでいる間に船内へ戻る道だけ確かめておくか。エルディアスが荷袋へ手を伸ばしかけた時、足元の板が白く光った。


 初めは、灯具の光が揺れたのかと思った。


 だが、白い線は彼の靴の下を通り、板の継ぎ目を越えて広がっている。間を置かず、その線から光が立ち上がった。手すりへ伸ばしかけた指まで包まれ、船も、岸の明かりも、白さの向こうへ遠のいていく。


「エルさん?」


 ノンノの声がした。


 リュシアはもう、こちらへ向いていた。近づこうとしていた足が止まり、エルディアスの顔を見上げる。その向こうでラウルが立ち上がった。


「神託だ」


 ラウルが言った。エルディアスの瞳は、足元の紋と同じ白へ染まっていた。


 エルディアスにも、分かっていた。


 第二層の村を出る前にも、同じように白い光へ包まれた。今度も目を閉じることはできず、胸の奥へ、形を持たない何かが押し込まれてくる。


 声は聞こえなかった。


 言葉を一つずつ教えられるのでもない。何を告げなければならないのか、その意味だけが、最初からそこにある。自分で考えた覚えはないのに、分かっていないとも言えなかった。


 罪のある者。


 その者を守るための剣。


 守ることで、進めるようになる道。


 エルディアスは、その意味を言葉へ直そうとした。誰が罪を決めるのか、何をした者なのか、どこへ続く道なのか。その問いを向けても、新しく答えが来ることはない。渡された意味は、それ以上にも、それ以下にもならなかった。


 息を吸うと、胸の奥が重く軋んだ。


 光の外で、リュシアの口が動いた。声を掛けたのかもしれない。エルディアスは彼女へ意識を向けかけ、前にも、ここからは念話が届かなかったことを思い出した。


 今、言うべきことは一つだった。


 エルディアスは、押し込まれている意味を変えないよう、息を吐いた。


「罪ある者を守る剣が、道を開く」


 自分の声が、甲板へ響いた。


 言い終えたところで、胸へ掛かっていた重みが抜けた。白く染まっていた視界にリュシアの顔が戻り、そちらへ足を出そうとして、エルディアスは一度だけ膝を緩めた。


 リュシアが肘を支えた。


「立てますか」


「ああ。もう、終わった」


 自分の足で踏ん張ると、彼女の手も緩んだ。調査員が記録板へ何かを書いている。ノンノはエルディアスの顔と、光の消えた床を交互に見ていた。


 ラウルが、告げた言葉を確かめるように口を開いた。


「罪ある者を守る剣が、道を開く、か」


「今、届いたのはそれだけだ」


 エルディアスは答えた。


 誰を指すのか、今は分からない。船長を倒した時に使った自分の短剣か、リュシアの剣かと考えても、裏づけるものはなかった。


 リュシアは剣の柄へ目を落としたが、すぐに顔を上げた。


 その向こうで、岸の明かりが揺れた。


     ◇


 建物の窓にあった灯りが、一つずつ薄くなっていった。


 消されたのではなかった。明るさを保ったまま遠ざかり、建物の輪郭まで透けている。手すりの向こうへ見えていた桟橋も、板を繋いだ形を失い、黒い水面と区別がつかなくなった。


 ガルムが腰掛けから立ち上がった。セルマも荷袋を掴み、ラウルは全員を自分の近くへ呼んだ。


「離れるな。九人とも、ここへ」


 エルディアスはノンノへ手を伸ばした。ノンノが腕を取ると、その向こうでリュシアも調査員を傍へ寄せる。護衛の一人は肩へ巻いた布を押さえ、もう一人が背から荷を下ろしていた。


 岸だけでなく、甲板の灯具も薄れている。


 エルディアスは足元を見た。靴の下には、まだ板がある。だが、濡れてもいなかったその面へ、どこからか泥の匂いが混じった。


 河の水音が急に大きくなった。


 ノンノの手へ力が入る。エルディアスが握り返した時には、目の前の手すりが白い光へ紛れ、空も船も見分けられなくなっていた。


     ◇


 頬へ、ざらついたものが触れていた。


 エルディアスは息を吸い、泥と水と、湿った木の匂いで目を開けた。明るかった。夜の灯具ではなく、頭の上から陽の光が落ちている。


 片腕が身体の下へ入っていた。杖はすぐ傍にあり、もう片方の手には、ノンノの指が掛かっている。彼女も板の上へ横になり、耳を伏せたまま目を開けたところだった。


「……エルさん」


「動くな。先に足元を見る」


 エルディアスは肘を立てた。


 甲板が、斜めになっていた。


 操舵室で傾けられた床とは違う。板の継ぎ目へ泥が詰まり、手すりは途中で折れ、その向こうには、すぐ近くの建物の壁があった。壁の上半分は崩れ、裂けた船腹の鉄板が石積みへ食い込んでいる。


 船が、街へ乗り上げていた。


 エルディアスはノンノの手を離さず、傍にいる者を探した。少し上側でリュシアが身体を起こしている。すぐ後ろには調査員がいて、手すりの残ったところを掴みながら、自分の荷を引き寄せていた。


「リュシア」


「います。こちらは二人とも、動けます」


 返事を聞き、エルディアスは膝をついたまま周囲を見た。ラウルが傾斜の下側に立ち、座り込んだセルマへ手を貸している。ガルムは大盾を押さえ、板の割れたところから脚を抜いていた。


「二人、いるか!」


 ラウルが護衛へ呼びかけた。


 少し離れたところから返事が重なる。無傷の男が先に立ち、肩を傷めた方を支えてこちらへ寄せた。九人の顔が見えるところへ揃うと、ラウルは一人ずつ確かめ、ようやく息を吐いた。


 ノンノも身体を起こした。袋は肩から外れていたが、すぐ横の金具へ引っ掛かっている。留め具を確かめ、魔導書が中にあるのを見ると、それを抱えてエルディアスの傍へ寄った。


「さっきまで、夜でしたよね」


「ああ」


 エルディアスは、折れた手すりの向こうを見た。


 街が、壊れていた。


 船の下から伸びた通りには、泥が厚く溜まっている。家の戸は外れ、石壁の間に木材と荷箱が詰まり、その上へ破れた布や屋根の一部が引っ掛かっていた。立っている建物も、下の方だけ色が違う。水に浸かった跡が、人の背より高いところまで残っている。


 遠くへ目を向けても、無事な通りは見つからなかった。


 倒れた壁の間を、水がまだ流れていた。河へ戻ろうとしているのか、窪んだ場所から細く集まり、泥を削って進んでいる。そこへ折れた戸や桶が引っ掛かり、流れる向きを変えていた。


 ガルムが手すりの残ったところまで歩き、下を覗いた。


「……港じゃないぞ。ここ」


 船首は荷揚げ場を越え、倉庫らしい建物へ深く入り込んでいた。下の方で石が砕け、その奥へ長い船体が斜めに乗っている。後ろを振り向くと、船尾側だけはまだ河の方へ続いていた。


 巨大な煙突が、途中で折れていた。横倒しになった上部が屋根へ掛かり、黒く濡れた鉄の縁を陽が照らしている。上へ載っていたはずの操舵室も、一方の壁を失い、中が見えていた。


 あの大きな船の、残骸だった。


 ラウルは、泥の積もった通りを長く見た。


「ハディルなのか」


「船の大きさは、同じだ」


 エルディアスが答えると、セルマが岸壁の方を指した。


「階段があるわ。乗る前に、あそこを通ったでしょう。柱のところを曲がって……」


 指が途中で止まった。


 石の階段は半ばまで崩れ、荷物を下ろしていた広場には、太い木が根ごと倒れている。覚えている並びを探せば探すほど、その間にあったはずのものが足りなかった。


 エルディアスは、船へ乗る前の景色を思い浮かべた。


 荷を運ぶ者がいて、声を掛け合い、乗船路には長い列があった。あの時、見えていた街と、今見えている街は同じ形をしている。それなのに、そこへ満ちていた人の声がない。


 足元を灰色のものが通った。泥で毛の濡れた猫が、傾いた板の上を歩き、残った梁の陰へ入っていく。ノンノが耳を動かしてその姿を追ったが、呼び止める前に、リュシアが別の方へ顔を向けた。


 彼女は壊れた甲板の向こうを見ていた。


「今、声がしました」


 全員が口を閉じた。


 水音に混じって、短い、掠れた音が届いた。風で板が鳴った音ではない。リュシアは剣を鞘へ収めたまま、荷を足元へ置いた。


「下に、人がいます」


     ◇


 声は、客室へ下りる階段の方からしていた。


 入口の屋根が潰れ、戸枠が斜めになっている。リュシアは割れた板へ体重を掛けず、残った梁の上を選んで進んだ。エルディアスも杖を持ち直し、その後へ続く。


「一度に来るな。ラウル、上の者を頼む」


「分かった。中へ入るのは、足元を確かめてからだ」


 ラウルが答えた。


 リュシアは入口へ膝をつき、潰れた戸の下を覗いた。暗いところで、人の指が動いた。床へ手をついて起きようとしているが、途中で力が抜け、同じところへ崩れる。


「聞こえますか。助けに来ました」


 リュシアが声を掛けた。


 男が顔を向けた。唇が動いても声にはならず、浅い息だけが聞こえる。頭の上に斜めの梁があり、その下へ戸の一部が落ちていた。


 エルディアスは手を入れず、先に梁の掛かっている場所を見た。入口の両側へ土の支えを作り、上の重みを受ける。板が小さく鳴ったが、枠はそれ以上沈まなかった。


「支えた。手前の戸から退ける」


 リュシアが頷き、外れかけた戸へ手を掛けた。引きずって男へ落とさないよう、片側を持ち上げて外へ寄せる。エルディアスは露出した釘を風で横へ払い、二人が触れる場所から遠ざけた。


 男は胸を動かしていた。


 服には泥が固まり、髪にも細かな木屑が絡んでいる。船内で見た人々のように、きれいな上着で立ってはいなかった。それでも、目はリュシアを追っていた。


「動こうとしなくてよいです。どこが痛みますか」


 男はしばらく口を開閉し、ようやく喉から声を出した。


「脚が……」


 リュシアは視線を下へ移した。男の膝から先が、落ちた板の下へ入っている。無理に引かず、まず板がどこへ繋がっているかを確かめた。


 ラウルが無傷の護衛を連れてきた。


「上は揃えてある。何をすればいい」


「この方の脚へ板が掛かっています。私がこちらを支えますから、奥を一緒に上げていただけますか」


 リュシアが場所を示すと、二人が頷いた。エルディアスはさらに支えを足し、持ち上げた先で板が落ち直さないよう固める。


「上げます」


 男の肩へ、リュシアが腕を入れた。ラウルと護衛が板を持ち上げ、エルディアスが作った支えへ重みを渡す。男を急に引っ張らず、脚が離れたのを確かめてから、少しずつ手前へ移した。


 ノンノが、外套を抱えて来ていた。


「ここへ、広げればいいですか」


「はい。頭を置けるように、そちらを折ってください」


 リュシアが答える。


 男を乾いた場所へ横たえると、調査員も傍へ来た。荷から布を出し、ノンノと一緒に泥を避けて広げている。ガルムは左腕を庇いながら、右手で周囲の木片を退けていた。


 男が、エルディアスの袖へ指を掛けた。


「船は……」


「止まってる。今は、ここから動かない」


 エルディアスが答えた。


 男は顔を動かし、河の方を見ようとした。リュシアが肩へ触れ、急に起きないよう伝える。


「どこへ、着いた」


 掠れた声で尋ねた。


 ラウルが男の傍へ屈んだ。


「ハディルの港に見える。あんたは、この船の客か」


 男の指が、僅かに動いた。


「乗った。水が来て……まだ、降りてない」


 言い終える前に、咳が出た。リュシアは質問を止め、呼吸が戻るまで待った。男の手から力が抜けると、エルディアスも袖を引かず、そのままにした。


 まだ、降りていない。


 あの船に残っていた者なのかもしれなかった。あの長い夜のどこかで、この男も自分の帰る場所を選ばずにいたのだろうか。


 今ここで、確かめることはできない。


 男の胸は、動いている。


「エル、こちらを見ていただけますか」


 リュシアの声で、エルディアスは顔を上げた。彼女が布を当てている男の腕から、血が滲んでいた。


「ああ」


 エルディアスは杖を下げ、光を薄く流した。傷をすべて塞ごうとはしなかった。布で押さえているところへ力を添え、血が広がるのを抑える。リュシアはその間も、呼吸と顔色を見ていた。


 ラウルが、入口の方へ顔を向けた。


「まだ、いるのか」


「奥までは見えていません」


 リュシアが答えた。


「返事ができない方もいるかもしれません。呼びかけながら、確かめたいです」


 ガルムが右手で腰の斧を確かめた。


「邪魔な板は退ける。どこから触っていいか、先に言ってくれ」


「上の重みを見てからだ。むやみに切るな」


 エルディアスが言うと、ガルムは頷いた。


 セルマも杖を持ち直し、階段の奥へ小さな火を灯した。照らすための火だった。薄暗い通路の壁へ光が伸び、その下にある泥と、倒れた戸が見えてくる。


 奥で、また声がした。


     ◇


 次に見つかったのは、倒れた長椅子の陰にいた女だった。


 呼びかけへ目を開けたが、自分では起きられなかった。リュシアが傍へ屈むと、女はまず隣へ手を伸ばした。そこには小さな子供がいて、女の衣服を握っている。


「この子を、先に」


 女が言った。


 子供は目を閉じていたが、声を掛けると顔をしかめた。リュシアは胸が動いているのを確かめ、ノンノへ顔を向けた。


「ノンノ、そちらの荷を空けていただけますか。横になれる場所が、もう一つ要ります」


「はい。すぐに」


 ノンノは自分の袋を背負い直し、敷いていた布を寄せた。調査員も膝をつき、空けたところへ新しい布を広げる。子供を運んできたリュシアへ、女が何かを言いかけたが、息が続かなかった。


「お子さんも、ここへいます。見えるところへ来てもらいますから」


 リュシアが伝えた。


 ラウルと護衛が女を支え、隣へ移した。手が子供の肩へ届くと、女はようやく顔を戻し、目を閉じた。リュシアは眠ったのか、力が尽きたのかを見分けるように、しばらく傍から動かなかった。


 エルディアスは、その後ろで船内を見た。


 通路の途中では、頭上の板が大きく裂けていた。灯具も消え、壁にあったはずの案内は泥に埋まっている。食堂へ下りる扉は外れ、奥で卓が重なっていた。


 あれほど多くの者が過ごした場所は、声を掛けても、すぐに返事が戻るような場所ではなくなっていた。


 それでも、人はいる。


 一人を出せば、次の壁の陰に手が見えた。梁を退ければ、その下で顔を伏せていた者が息を吸った。誰も笑ってはいなかった。痛みを訴え、家族の名を呼び、何が起きたか分からずこちらを見ている。


 リュシアは、そのたびに傍へ屈んだ。


 名を尋ね、どこが痛むか聞き、返事ができない者には声を掛けながら、呼吸を確かめる。剣を振っていた時と同じように、次にすることを決めると迷わず動いた。


「エル、奥の梁を支えられますか。まだ、人がいます」


 彼女が言った。


「ああ。手前から順に作る」


 エルディアスは、足場を見た。火で焼くのでも、風でまとめて退けるのでもない。重なったものの、どこへ力が掛かっているかを確かめ、崩れない場所を一つずつ増やしていく。


 男を運んで戻ったラウルが、肩で息をしながら横へ立った。


「船の上だけでは、置く場所が足りなくなる」


「岸へ下ろせるところを探したい。まだ動かせない者もいる」


 エルディアスが答えた。


「ガルムと、こっちの護衛に見てもらう。船内は、俺が残る」


 ラウルは言ってから、通路の奥へ顔を向けた。


 そこではリュシアが、半分埋もれた戸の隙間へ声を掛けていた。返事を聞くために動きを止め、相手の声が弱いと分かると、さらに身体を低くする。


 エルディアスも杖を向けた。


 帰るために必要なことは、まだいくつもあった。塔までの道も、オアシスの転移紋も、王都へ戻す報告も、この先で考えなければならない。


 だが、今はここに人が残っている。


 リュシアが振り向いた。


「こちらです。声が、もう一度聞こえました」


 エルディアスは、その傍へ進んだ。


今日の過去投稿の修正はTypo修正なのでお気になさらずに…

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