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第107話 圧倒

 エルディアスが杖を上げた時、船長の両手はまだ舵輪へ届いていなかった。


 右はリュシアに外へ流され、左はラウルの剣に止められていた。その二人が退いたため、黒い筋が縮み、指先が握りへ向かって戻る。先ほどまでなら、エルディアスはそこへ風を当て、もう一度前へ入るための隙間を作っていた。


 今は、その隙間を誰かに使わせるつもりはなかった。


 両腕の内側で、空気が白く曇った。


 音がしたのは、その後だった。


 伸びた骨が左右へ折れ、関節だけでなく、繋がった長い骨まで砕ける。ガルムが斧を入れ、ラウルが雷を落とし、ようやく落としていた腕が、一度に二本とも身体から離れていた。


 風で逸らしたのではなかった。左右から向きを変えた力を、骨の細いところへ重ね、逃げる先をなくして潰している。砕けたものが飛ぶ方向まで揃えられ、欠片はどちらも、舵輪へ引き戻すには遠い側へ落ちようとしていた。


 破片が床へ触れるより早く、細い水の流れが落下先へ入った。同じ水は船長の足元を通り、軸の下まで届いている。エルディアスはその流れを残し、次の火を走らせた。


 細い、白さの混じる火だった。袖口と指の間を結んでいた黒い筋へ触れ、そのまま焼き切る。骨の表まで赤くなったのに、炎は上着へも床へも広がらず、焼くべきものの先で消えていた。


 セルマは、思わず杖を身体へ寄せた。


 出した火の大きさでいえば、自分が先ほど使ったものと変わらない。だが、その内側へ押し込まれている力が違った。黒い筋を焦がし、縮れさせ、ようやく断っていたところが、触れた瞬間に失われている。


 一つひとつの術式は、分かった。


 分かるからこそ、そこから出ている威力を、見間違いにすることができなかった。


     ◇


 左手薬指から流れ込むオドを、エルディアスは止めなかった。


 使っているのは、どれも覚えた中級の術式だった。風を押し出し、水を動かし、狙った場所へ火を灯す。その組み方は、普段と変わっていない。


 上級の術式は、理解できなかった。書かれたものを読んでも、どう組み合わせれば成立するのか分からず、自分で形にすることができない。流れ込むオドがどれほど増えても、分からない構造を完成させられるようにはならなかった。


 今、手元へ組んでいるものに、その理解は必要なかった。


 使い慣れた風へ、普段より多くの力を送る。火は範囲を広げず、狭く保ったところへ密度を増す。骨を落とす一度で切らず、再生する場所を焼く間も、別の術式を続ける。


 風を重ねて骨を潰し、開いた隙間へ火を通す。筋を寄せるために水を使い、炎の進む向きを風で絞る。どこを狙えば次に何が動くかは、ここまでの攻防で見ていた。新しい仕組みを作らなくても、使えるものを置く順番と場所は決められる。


 中級の術式へ、普段の自分では賄えない量のオドが入っていた。


 狭く絞った火の威力も、向きを重ねた風の圧も、すでに通常の中級のものではなかった。受け止める場所だけで見れば上級の一撃に匹敵し、それを構え直す間も与えず続ければ、単発の上級術式より大きな損傷が残る。


 普段のオドでは、最初の一組を放つことさえ躊躇しただろう。その先を残せなくなると分かっていたからだ。だが、今は左手から入る流れが途切れない。


 リュシアへ断っていないことは、意識にも上らなかった。


 冷静さを失ったわけではなかった。誰がどこにいるかも、どこまで壊せば足場を保てるかも、見えている。杖を持つ手に余計な力はなく、息も乱れていない。


 ただ、目の前のものへ、これ以上好きに動く余地を与えるつもりがなかった。


 その判断を、ためらわず術式へ移していた。


     ◇


 船長の肩口が動いた。


 新しい骨を伸ばすための黒いものが、袖の内側へ集まる。その動きは、すでに何度も見た。エルディアスは骨が形を取るのを待たず、足元へ通していた水を背の束に沿って引き上げた。肩口へ届いた流れが、集まりかけた筋の間へ入り、外へ開かせる。


 次の火が、内側を焼いた。


 上着の肩が落ち、骨は形にならなかった。


 同時に、床の欠片が跳ね始めていた。だが、その下には、落ちる前から水があった。引き戻すために筋を張るほど、水の上へ細い黒が浮く。エルディアスは低い風を横へ通し、白いものだけを外へ流した。欠片と胴体の間に、焼くべき筋が引き伸ばされた。


 火が、その浮いたものだけを舐めた。


 炎を追った水が赤くなった板を冷まし、立ち上がった湯気まで前へ引かれていく。後ろへ流れる熱はなく、欠片を避けるために動く必要もなかった。


 ガルムは盾を構えたまま、足を止めた。


 守るものがなかった。自分たちへ届く前に骨は流され、床から来るものも、頭上を越えるものも、同じ間に失われている。斧を上げようとした右手は、そのまま柄を握っているだけになった。


 ラウルも、剣を動かせなかった。


 助けに入る場所を探した時には、そこを塞いでいた骨がなくなっている。次の術式がどこへ来るかを読もうとした時には、もうその働きが終わっていた。


「……おい」


 誰へ向けたのか、自分でも分からない声だった。


 エルディアスは振り向かなかった。仲間の位置は見ている。後ろへ飛ぶものがないよう土の低い壁を一枚立てたところで、意識はすべて前へ戻っていた。


 エルディアスは、杖を動かす間に自分の身体へも付与を通していた。


 先に掛けたのは光だった。受け続けた緊張で硬くなった脚を緩め、肩から手首までの動きを整える。呼吸を一つ吐いたところで、その上へ風を重ねた。靴が床を蹴る向きと身体を送る向きを揃え、剣を持った者の前を抜ける一歩だけに力を乗せる。


 リュシアは、彼の踵が浮くところを見た。その次には、もうガルムの前へ出ていた。通り過ぎたところの湯気が、遅れて細く引かれた。


 足を速めただけでは、骨と金具の散った床を進めない。光で整えた身体へ風の力を渡し、杖を振る腕とは別に、自分の動きも止めず繋いでいた。


 リュシアは剣を持つ手を動かしかけた。


 普段なら、前へ出るのは自分だ。彼が術式を使う場所を守り、作ってもらった隙間へ剣を入れる。そうして二人で敵の前へ立つ。


 だが、今は入れなかった。


 エルディアスが進む場所は、足を置くより先に空いていた。骨を落とす風の向きも、火を通す場所も、彼自身の身体が入る分まで計算されている。剣を差し込めば、その方が邪魔になる。


 左手から、オドが引かれていく。


 それを使っている男の背中を、リュシアはただ見ていた。


     ◇


 船長の顔の前へ、闇が下りた。


 厚い壁ではなく、見通すための隙間だけを塞ぐ、薄い幕だった。顔を向ける先にも同じ闇があり、こちらを見るためには身体ごと横へ動かなければならない。船長の片足が、そのために床を掻いた。


 靴の下で、土が鳴った。


 仲間の前へ低い壁を作った時、その先にも土を通してあった。船長の足元と、軸の左右だ。エルディアスが形を起こすと、足首が床へ留められ、身体を折って逃れようとした肋骨の下へ、二本の支えが伸びた。


 横へは動けず、上からは見通せない。船長は黒い塊を守るため、さらに背を曲げた。その力で、肋骨は支えへ深く押しつけられ、背中の束だけが長く張った。


 黒い束が、背中で張った。


 エルディアスは水を差し入れた。焼けた表と、その内側から伸びようとするものを分け、風で左右へ引き開く。


 次の火は、一つの細い線になった。


 束が、断たれた。


 さっきまでなら、焼いたところへ新しい筋が出ていた。だが、今はその奥まで火が通り、伸びるより先に失われる。身体を作り直すための道も、欠片を引き戻すための道も、一度に途切れていた。


 船長の身体が、舵輪から落ちた。


 ノンノは息を吸った。


 何かを知らせるためではなかった。床の骨が動けば声を上げようと身構えていたのに、見えたものが次の瞬間にはなくなり、呼びかける言葉が間に合わなかった。


 耳には、先ほどまで自分が聞き分けていた音が届かない。ガルムの盾を叩く音も、剣で骨を受ける音も消え、細い火の鳴る音と、短く空気の裂ける音ばかりになっていた。


 ノンノは魔導書を抱き直し、無意識に一歩退いた。


 その前を、エルディアスは歩いていた。


 杖を左へ持ち替えながら、次の一歩へ風を送る。大きく身体を揺らさず進むのに、足が床を離れるたび距離が縮み、空いた右手はもう腰へ下りていた。誰かが何かを言うために息を吸った、その間に、エルディアスは軸の前へ入っていた。


 抜いたのは、普段から差している短剣だった。


 食料の包みを開き、細い縄を切り、必要なら獣の解体にも使う。特別な刃ではなく、手に馴染んだだけの短剣だった。


 鞘を離れた刃へ、白い光が細く宿った。エルディアスはそれを刀身全体へ膨らませず、切っ先から刃の縁までに留めた。長く振り合うつもりはない。一度触れる間だけ、動く黒いものを止められればよかった。


 黒い塊の周りで、最後の筋が膨れた。


 最初に軸の下へ通した水が、残っていた。黒い筋が集まれば、その間を外から探す必要はない。エルディアスは流れを反対向きに押し返し、筋を内側から開かせた。表へできていた小さな傷には、足元を止めた土の続きから、細い楔が入り込む。


 固まった黒いものが、内側から開いた。


 短剣の切っ先が、そこへ入った。


 切っ先へ触れた黒いものが、光の中で縮んだ。まだ伸びようとしていた筋も、刃を巻いて押し返す形を作れない。身体を作り直すための力が、そこだけ途切れた。


 エルディアスは右手を低く返し、残った繋がりを刃へ乗せた。同時に、自分の腰と前腕へ掛けていた風を、短く同じ向きへ送る。踏み込んだ重みが手首で止まらず、刃の通る線へ重なった。


 光を帯びた短剣が、根元まで走った。


 黒い塊が、二つに分かれた。


     ◇


 風が止まった。


 床へ落ちた骨が一度だけ板を叩き、それきり動かなくなる。作りかけの腕も、反った背骨も、そのまま上着の中へ崩れた。頭骨が横へ傾いても、顎はもう開かなかった。


 エルディアスは、短剣を引き抜いた姿勢で止まった。


 目だけを動かし、背中の束と床の欠片と、軸の下を順に確かめる。戻るものがないと分かってから、杖先を下げた。残っていた火が消え、白い湯気が薄れていく。


 リュシアたちが退いてから、まだ数えるほどの呼吸しか過ぎていなかった。


 その間、誰も一度も剣を振っていない。


 ガルムは盾を上げたまま、足元の骨を見ていた。自分たちが押し返し、切り落とし、作り直されるたびに受け直していたものが、もう動かない。


 何かをしなければと思ったまま、終わっていた。


 ラウルは剣を下げられず、エルディアスの通ってきた床を見た。濡れた線が、離れた腕と肩口と軸の下を結んでいる。土が盛り上がった場所は、味方の前と、船長の足元と、身体を折った時に肋骨が当たったところだった。


 腕を戻そうとすれば、引き伸ばされた筋を焼かれる。新しく作れば、同じ水の道から内側を開かれる。見える方へ逃れようと動けば足が留まり、最後のものを守ろうと伏せれば、背中の繋がりが張る。


 どれも船長が動いた後に合わせたように見えた。だが、そのための水も土も、最初の攻撃の続きで、すでにそこへ置かれていた。


 エルディアスが短剣を抜いた時には、もう骨の身体へ戻る道はなかった。最後の刃を塞ぐために集めたものさえ、内側へ通った水に押し開かれている。


 ラウルは、黒い塊から目を離した。エルディアスは止まった刃の光を切り、いつもの短剣へ戻していた。あの一振りだけを避ければ、まだ戦えたというものではなかった。両腕が砕けたところから、船長が動く先は、終わる場所へしか繋がっていなかった。


 リュシアへの付与が強く働くところは、これまでにも何度も見ていた。今度はその剣が届くより先に、エルディアス自身が前へ出て、終わらせている。攻撃を繋ぎ、退路を塞ぎ、自分の踏み込みへまで術式を掛ける。その一つひとつを、あの短い間に一人で扱っていた。


 ラウルは短剣を収めようとする男を見た。便利な術式を幾つも使う、対応の早い魔術師。これまではそう思っていたが、その見方では、今の光景を説明しきれなかった。


「……終わったのか」


 ようやく出た声は、低かった。


 エルディアスは黒い塊をもう一度見た。


「動いてない」


「それは、見えてる」


 ガルムは続けようとして、口を閉じた。盾を下ろしてよいと身体が納得するまで、少し掛かった。下端を床へ置いた途端、左腕に溜まった痛みが戻り、指を持ち手から外した。


 セルマは杖先を見下ろしていた。


「同じ火の術式だったわよね」


「ああ」


「……あんな威力、出るものなの」


 答えを求めるというより、見たものを言葉へ直そうとしている声だった。エルディアスは短剣の刃を見て、袋から布を出した。


「狙う場所は見えてた。そこへ絞って、火を強くした」


 セルマは顔を上げた。そう言われれば、何をしたかは分かる。だが、あの威力の火を狭いところへ保ち、風や水と入れ替えながら使えるかといえば、自分にはできなかった。骨の表は赤くなるほど焼かれていたのに、すぐ下の板には焦げ跡が細く残っているだけだった。


 彼女は杖を持つ自分の手を握り直した。リュシアへ火を送るところばかり見て、その後ろにいる魔術師の腕を、分かったつもりになっていた。


 エルディアスは、刃の付け根へ残った黒いものを拭った。刃こぼれはない。いつもの短剣を鞘へ戻し、そこで初めてリュシアを見た。


 彼女は、もう傍へ来ていた。


 ――もう、何も見えていませんか。


 ――ああ。


 リュシアは彼の目を見てから、左手へ視線を落とした。エルディアスも同じところを見た。オドを引き入れる流れは、もう止めている。だが、一度も断らずに使ったことへ、今になって気づいた。


 ――借りた。


 ――分かっています。


 返事は早かった。


 ――何も言わなかったな。


 ――はい。


 エルディアスは一度目を伏せた。


 ――悪かった。


 リュシアは船長の骨へ顔を向け、それから戻した。


 ――次は、先に言ってください。何かあったのかと思いました。


 ――ああ。


 何を見たのかは聞かれなかった。エルディアスも家族については話さず、杖を持つ手を下げた。怒りは残っている。だが、向ける相手はもう床で動かなくなっていた。


     ◇


 背後で戸が鳴った。


 楔へ押しつけられていた戸が外へ開き、上がってきた階段が見えた。暗い板壁は消えている。夜の空気が入り、天井へ溜まっていた煙を、少しずつ外へ運び始めた。


「出られる。甲板へ戻れるぞ」


 護衛の声で、ようやく全員が動いた。ラウルが九人を確かめ、肩へ布を巻いた男に、腕を動かせるかと尋ねる。調査員は抱えていた記録板を下ろしかけ、まだ骨の残る床を見て、もう一度持ち直した。


 外套から猫が顔を出した。調査員が引っ掛かった爪を外すと、膝を伝って床へ下り、戸口の手前で座り込む。


 ノンノも歩き出したが、エルディアスの傍で足を止めた。


「エルさん」


「怪我は」


「してません。あの、さっき……」


 言いかけて、彼の顔を見た。エルディアスはいつものように返事を待っている。声も目も、ノンノへ向ける時には変わっていなかった。それが分かると、何を聞きたかったのか、うまく続かなくなる。


「……下に、戻るんですよね」


「ああ。まだ、終わってないことがある」


 ノンノは小さく頷き、調査員のところへ戻った。


 エルディアスは窓の向こうを見た。港の灯りも、その奥の街並みも残っている。船長を倒しても夜は明けず、岸壁には、もう下りていく人の列がなかった。


 階段の下には、まだ二人がいる。


 ラウルも同じ方を見ていた。剣を収める手が一度止まり、それからゆっくり鞘へ押し込まれる。ガルムが大盾を抱え直し、セルマは落ちた荷袋を拾った。


「ニルスたちのところへ、戻ろう」


 その声に、エルディアスは頷いた。


 皆が戸口へ動き始めても、リュシアは傍に残っていた。先へ行くよう促さず、幻についても尋ねない。エルディアスが足を出すと、それに合わせて隣を歩き始めた。


 開いた戸の向こうから、河の水音が聞こえていた。


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