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第106話 断舵

 リュシアの刃に、骨の指が巻きついた。


 船長は腕を引かなかった。剣を掴んだまま押し込み、リュシアの肘が曲がるのを待っている。斬り払おうとすれば、その分だけ刃が指の間へ食い込み、鍔の近くまで引き寄せられた。


 ガルムが盾を入れようとしたが、反対側にはラウルがいた。二人の間へ盾を押し込めば、先に動けなくなるのはこちらだった。


 ――引っ掛かってる。切り替える。


 エルディアスの念話とともに、剣へ残っていた火が消えた。代わりに、刃の腹を薄い水が伝う。鍔から先へ滑った水が指の間へ入り、剣を掴む骨と金属の接するところを濡らした。


 リュシアは力で引き抜こうとせず、手首を返した。骨の指に沿って刃を寝かせ、押されている向きへ少しだけ送る。噛み合っていたところがずれた瞬間、切っ先を下げて脇へ抜いた。


 指が、何もない場所を握った。


 ――今度は、風。


 水が剣先から落ちるより先に、刃に沿って風が流れた。リュシアはその勢いを手の中で受け、引き抜いた剣を下から返した。骨を断つためではなく、次に掴まれないよう腕ごと外へ流す。その剣の動きに合わせて、エルディアスが風の向きを変えた。


 長く伸びた腕が、窓際へ押しやられた。


 リュシアの足が内側へ入る。エルディアスは足場の欠片を払い、剣の風を止めて火を戻した。刃が肩口へ入った時には、もう赤い光が縁へ宿っていた。


 腕が落ち、黒い筋が焼け切れた。


 リュシアはそのまま軸へ切っ先を向けたが、船長の肋骨が起き上がり、狙っていた場所へ重なる。黒い塊へ届く前に刃が止まり、身体を退かなければ、反対の腕が来るところだった。


 エルディアスは火を切り、彼女の肩へ短く光を流した。


 ――右へ戻れ。次は受ける。


 リュシアは返事の代わりに足を引いた。踏み直した場所へ骨が振り下ろされる。剣へ今度は土の付与が入り、刃のたわみを抑えた。


 硬く受ければ、腕へ衝撃が戻る。リュシアは真正面から止めず、刃の向きを斜めに保ち、骨を横へ滑らせた。補強された剣が曲がらずに力を伝え、白い腕がガルムの盾の外へ落ちる。


 片手斧が、その肘へ入った。


 落ちた腕をエルディアスが風で離し、ガルムは盾を立て直した。リュシアも前へ残らず、ラウルの横へ戻っていた。


「今、火を消したのは、そっちへ回すためか」


 ラウルがエルディアスへ尋ねた。剣を受けている間に何が変わったかは、見えていたらしい。


「焼く前に掴まれた。抜く時と、受ける時じゃ、要るものが違う」


「切り替えるたび、よく合わせられるな」


 ラウルがリュシアを見る。彼女は剣を持ち直し、軸を覆った身体へ目を戻した。


「変わることが分かっていれば、使い方も変えられます」


 その短い返事の間に、刃の補強は切れていた。エルディアスは何も言わず、次に骨が伸びる場所を見ている。リュシアも彼へ確認せず、ガルムの盾が動く分だけ横を空けた。


     ◇


 ノンノは、二人の動きを追うのをやめ、船長の背中を見た。


 骨を斬るたび、そこから伸びた黒い束が張っている。胴体が軸へ被さった今も、背と舵輪の支柱の間には細い隙間があった。人の手は届きそうにないが、床近くは塞がれていない。


 調査員の外套の陰で、猫が頭を出した。


 ノンノはその顔を見てから、自分の袋を開けた。野営で使う細い綱が入っている。荷を縛るために残していた分で、巻いたものは掌に収まった。


「エルさん。あの隙間へ、綱を回せませんか」


 ノンノは綱を持ち上げ、船長の背を示した。


「後ろへ通して、両側から引けば、身体を起こせると思うんです。わたしたちが行けなくても、この子なら」


 エルディアスは猫を見て、次に隙間へ目を向けた。


「猫に引かせるのか」


「通すだけです。端を咥えて、向こうから出てきてもらいます。引くのは、わたしたちで」


 前で盾が鳴った。ガルムは片方の腕を受けているだけで、胴体を押し起こせずにいる。ラウルとリュシアも、両側を離れれば相手の指が後ろへ届いてしまう。


「通す道を空ける。まだ出すな」


 エルディアスは答え、ガルムへ声を掛けた。


「少しだけ、右へ押してくれ。背中へ綱を回す」


 ガルムは後ろを見ず、盾の位置を変えた。ラウルも船長の顔を自分へ向けるよう、剣で腕を押し上げる。エルディアスは床へ残った骨を風で払い、綱が通る場所へ引っ掛かりがないか確かめた。


 ノンノは魔導書を開いた。


「ニペク、この子に、綱の端を咥えさせて。あの支柱の手前を通って、向こうへ回ってきてほしいの」


 ニペクが肩を離れ、灰色の背へ鱗粉を落とした。猫は外套から出ると、ノンノが差し出した綱の端へ顔を寄せた。硬く結んだ先を咥え、床へ低く身を伏せる。


 ノンノは残りを床へほどき、綱が猫の脚へ絡まないようにした。伸ばす先を目で追いながら、精霊へ声を落とす。


「背中の下へ。黒いものには触らずに、空いてるところを通って」


 猫がガルムの脚の外側を抜けた。


 エルディアスはその先へ薄い風を通し、骨の欠片を脇へ寄せた。船長の顔はラウルへ向き、右手はリュシアの剣へ押さえられている。猫はその下を通り、胴体と支柱の間へ入った。


 綱の動きが、一度止まった。


 ノンノは引かなかった。先へ送る分を少し緩め、隙間の反対側を見て待つ。灰色の頭が出た時には、思わず息を吐いた。


「そちらで、端を受け取ってください」


 無傷の護衛が膝をつき、猫から綱を受け取った。ノンノはすぐにニペクを呼び戻し、使役を解く。猫は傍にあった外套の陰へ走り込み、もう綱には触らなかった。


 護衛が綱を少し引くと、船長の背の下で輪が狭まった。


 背へ渡った黒い束より手前、骨の胴体へ綱が掛かっている。結び目を作るために手を入れる必要はなく、両端を引けば、支柱へ押しつけていた身体を起こせそうだった。


「ノンノ、こっちを渡してくれ」


 ガルムが盾を引いた。ラウルが代わりに前へ入り、リュシアは伸びた腕の向きを外へ変える。ガルムは盾を靴の脇へ立て、斧を腰へ戻してから、綱を受け取った。


「巻き込まれるから、横へ避けていろ。綱にも足を乗せるな」


 ノンノが退く。ガルムは両端を揃え、腰を落として引いた。


 骨の身体が、僅かに浮いた。


     ◇


 船長の背と軸の間へ、初めて広い隙間ができた。


 黒い束はまだ切れていない。新しい腕を作り直す動きも続いている。それでも、身体を押し起こす役目を綱が引き受けた分だけ、リュシアの剣が自由になった。


 ――腕を斬った後、下へ入れます。


 ――風を掛ける。抜けたら火へ変える。


 剣に沿って、空気が流れ始めた。リュシアは長く伸びた右腕を上へ打ち、切っ先を下げずに身体の内側へ入る。受けている時間を短くするため、肩より先へ剣を出し、風の力で腕を外へ押し離した。


 次の一歩で、刃の縁が赤くなった。


 黒い束へ剣が入る。焼けた筋が切れ、ガルムの引いていた綱から、一瞬重みが抜けた。だが、束の奥にはまだ繋がりが残っていた。


 リュシアは剣を返した。


 エルディアスは、その動きに合わせて火を切った。切れたところへ水を流し、刃へまとわりつこうとした筋を横へ逃がす。濡れた刃が黒いものの間を滑り、彼女は肩を大きく引かずに刃を抜き取った。


 その時、軸の奥から太い筋が跳ねた。


 リュシアの手首へ巻きつこうとしていた。エルディアスは剣から水を切り、彼女の腕へ風を添えた。手首を捻った向きへ力が乗り、黒いものは袖へ触れる寸前で外れた。


 ラウルが、その根元を斬った。


 ガルムは綱を放さず、もう一度腰へ引きつける。船長の胴体が軸へ戻りきらず、剥がした金具の奥が見える状態で止まった。


「このまま、もたせるぞ」


「綱を押さえてくれ。身体の方は、盾で受けられるか」


 エルディアスが尋ねると、ガルムは護衛へ端を渡した。巻き直した綱を足元へ引き、靴と体重で緩まないよう保たせる。自分は大盾を持ち上げ、起きた胸へ当てた。


 肩を傷めた護衛も後ろから綱の緩みを押さえたが、腕で引き合おうとはしなかった。巻いたところが抜けないよう見ているだけで、今は十分だった。


 ノンノは綱を通した場所を見つめていた。


 猫はもう、調査員の外套の下へ戻っている。自分が前へ行ったわけでも、骨を斬ったわけでもない。それでも、さっきまで閉じていた隙間に、今はリュシアの剣が届いていた。


「通せたな」


 エルディアスが低く言った。


「はい。あの子が、ちゃんと咥えてくれました」


「助かった。そこからは離れていろ」


 ノンノは頷いて、綱の残りを足元から除けた。


 リュシアは剣を低く構えている。腕を受ける時には、また土の補強が刃を支え、骨が流れたところで消えた。エルディアスが次の火を送ると、彼女はそれを宿した剣先を、黒い束の奥へ向けた。


 ガルムの盾が、下から身体を押した。


 ラウルが反対の腕を止める。


 黒い塊は、もう肋骨の陰に隠れていなかった。エルディアスはそこへ杖を向け、リュシアの剣と重ならない角度から火を通そうとした。


 その手前に、明かりが灯った。


 操舵室の灯具ではなかった。開きかけた戸の奥から、暖かな色が漏れていた。


     ◇


 開いた戸の奥から、家の匂いがした。


 焦げた板と濡れた布の匂いが消え、エルディアスの視界から操舵室が抜け落ちた。握っていた杖の感触は残っているのに、その先へ向けていた黒い塊も、剥がれた金具も見えない。目の前には、よく知っている戸口があった。取っ手の位置も、縁についた小さな傷も、覚えているものと同じだった。


 内側から明かりが漏れている。その中で、家族が顔を上げた。


「帰ってきたの」


 声まで、同じだった。


 エルディアスの指が止まった。組みかけていた火の術式がほどけ、左手薬指から引き入れていたオドの流れも途切れる。目の前へ現れた顔を認めた、その一瞬だけは、何をするために杖を向けていたのかさえ意識から消えた。


 リュシアが呼んだことにも、気づかなかった。


 戸の奥で椅子が引かれ、卓の前に一人分の場所が空く。そこに誰が座るのかを確かめる必要などなかった。家の中にあるものの並びも、椅子を引いた手も、こちらへ向けられた顔も、忘れたことはない。


 遠い昔のことだから、もう、あまり憶えていない。


 あの夜、リュシアにはそう言った。家族について尋ねられた時、考えるより先に出た言葉だった。たった一度だけ許されていた嘘を、そんなことに使った。


 だが、忘れていないことと、戻りたいことは違った。


 戸口を見た瞬間の空白が埋まると、そこから先は驚くほどはっきりしていた。エルディアスは明かりの中の顔を見たまま、自分が今どこに立っているかを思い出した。ここは故郷ではない。河に停まった船の操舵室で、仲間が骨の腕を押さえ、自分が狙うための隙間を作っている。


「ここへ、お帰りになればよいのです」


 船長の声が、家の中へ重なった。


「もう一度、皆さんと。幸せだった時へ」


 家族の一人が、空いた椅子の背へ手を掛けた。柔らかな表情で、座るように促している。その顔の動きを見た時、エルディアスの中で、驚きの残りまで冷えた。


 自分はもう、ここへ戻らないと決めている。


 今この場で、ようやくそう思えたのではない。長い時間をかけて考え、迷うところは迷い、その上で決めてきたことだった。リュシアへ話さなかったからといって、自分の中でも答えが出ていなかったわけではない。


 それを、何も知らないものが戸ごと引き出し、椅子を一つ空ければ済むように並べている。


 エルディアスは、ゆっくり息を吐いた。戸の奥の顔が、まだこちらへ笑いかけている。こちらの望む言葉を言わせれば、何かが変わるとでも思っているのだろう。


「ここでおしまいになされば、先のことに悩まれる必要はなくなります。これまでの中から、お選びください」


 船長は穏やかに続けた。


 生きている者にも、その人生をここで終わったものとして選ばせる。残っている先の時間を捨てさせて、それを帰ると呼んでいた。そんなものを幸せだと思う理由は、エルディアスには一つもなかった。


 戸の向こうへは進まず、杖も下ろさなかった。握る指に余計な力は入っていない。顔の向こうでこれを動かしているものへ目を据え、声を低く落とした。


「俺の家族を、お前の都合で使うな」


 明かりが薄れた。戸口の向こうから焦げた木の匂いが戻り、白い骨と、踏ん張ったガルムの盾が見える。リュシアの剣は伸びた腕を外へ押し、ラウルも反対の手を止めていた。


 幻が現れる前と、ほとんど同じ位置だった。


     ◇


 リュシアは、エルディアスの杖先から消えた火を見ていた。


 ほんの一瞬、彼は船長を見ていなかった。目は開いているのに、目の前で腕が動いたことにも、ガルムの盾が鳴ったことにも反応がない。


 ――エル。


 返事はなかった。


 リュシアは剣の角度を変え、こちらへ戻ろうとする骨を押し上げた。もう一度呼ぼうとしたところで、エルディアスの声が聞こえた。


 いつもより低く、短い言葉だった。声を張ってはいない。それなのに、刃と骨の擦れる音の間から、最後まで一語も聞き落とせなかった。語尾を強めることもなく、言い終えた後には、相手の返事を待つ間さえなかった。


 リュシアは彼の顔を見た。


 さっきまで焦点の合っていなかった目が、船長の顔へ据わっていた。唇は薄く結ばれ、顎が僅かに下がっている。骨の腕が剣を押すたびにこちらへ目を配っていた男が、今はその顔から視線を外さなかった。


 何が見えていたのか、リュシアには分からない。彼女に見えるのは骨の船長と、薄暗い操舵室だけだった。


 左手薬指から、オドが引かれた。


 一度途切れていた流れが繋がり、そのまま太くなる。いつもなら先に届く、借りるぞという一言はなかった。リュシアは思わず左手を見て、すぐに彼へ目を戻した。


 エルディアスは息を整え、杖を持ち直していた。握った手首を軽く返し、仲間のいる位置を一度確かめる。その動きは、先ほどまでと変わらなかった。


 だが、再び船長へ向いた目と、つい今しがた耳へ届いた声が、リュシアに次の呼びかけをためらわせた。


 ――エル、こちらは。


 ――二人を連れて下がれ。


 返事は、今度はすぐに来た。


 彼女が問い直す前に、足元で風が動いた。剣へ当たる骨の腕が、内側から持ち上がる。リュシアが押し返していた力はそのまま横へ流れ、ガルムの盾に掛かっていた重みも、急に減った。


 ――左へ。ラウルたちも。


 念話の声にも、先ほどの低さが残っていた。言葉は短く、行く方向だけを告げて切れた。


 リュシアは剣を引き、ガルムの肩へ右手を添えた。


「下がってください。ラウルさんも。綱は、もう放して」


「だが、今離れたら――」


 ラウルは言いかけて、エルディアスを見た。


 杖先へ集まっていたものが、今までとは違った。大きな光が膨らんだわけではない。むしろ輪郭は小さく、細く絞られている。だが、そのすぐ傍にいたリュシアには、左手から引かれていくオドと、それを受け取る術式の密度が分かった。


 エルディアスは、自分たちの退いた場所を一度だけ確かめた。ガルムの盾、ラウルの剣、その後ろにいる五人。誰がどこに立っているかを見終えると、視線はもう船長へ戻っていた。


 船長が顎を動かしかけたが、エルディアスの口元は緩まなかった。切り返す言葉を用意する様子もなく、杖先の向きだけが、わずかに定まった。


 リュシアは剣を下げず、ガルムを連れてもう一歩退いた。エルディアスから届いたのは、追わなくていいという短い念話だけだった。


 船長の両手が、舵輪へ戻ろうとする。


 エルディアスは、杖を持ち上げた。


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